単発まとめ
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かわいいひと
これはいったい、どういう状況なのでしょうか。
白練色の髪で片目を隠した美しい男性と、私は向かい合わせのソファーに机を挟んで腰掛けて、ただ、じぃっと、見つめ合っている。いや、見つめ合えてはいない、私が彼に一方的にひたすら見つめられている。頭のてっぺんから足の先まで、じろりじろりと。時々目線が重なるけれど、こちらをその視線だけで刺し貫き、心の奥底まで見抜かれそうな強い緋色に怯んで、私の方が焦ってふいと目を逸らしてしまう。
ああ、どのぐらい時間が経ったのだろう。実際は数分しか経っていないのかもしれないが、私にはもう、途方も無い緊張の時が何時間も続いているように感じられる。私は自分の額に、嫌な汗が滲むのを感じた。
「あ、あの……」
声をかければパチリと目が合うので、恐らく私の声が聞こえていないわけではない。でも、私はさっき確かにはっきりと自己紹介した筈なのに、彼は何の返事もくれないのだ。ご機嫌が悪いのかな、知らぬ間に私が何か怒らせるようなことをしたのかもしれない、会話してくれない原因を勝手に色々考えたりしたけど、彼は無言のおまけに無表情で、上手く感情が読み取れない。それに、あんなにも綺麗な夕焼けみたいな瞳、まるで人ならざる者のように神秘的なお顔でずっと見つめられていては、し、心臓が、保たない、もはやどきどきし過ぎて胸が痛いくらいだ。私は特別整った顔もしていないし、恥ずかしくて仕方がない。さっきからずっと机を見下ろして、自分の前髪を整え直してばかりの私である。きっと今の私の顔、赤いんだろうなあ。
本当にどうして、こんな状況に陥っているのだろう……?
これと言って取り柄もないごく普通の高校生であった筈の私には、どうやら錬金術師──その中でも特殊な、文豪を転生させる能力──の才があるらしく、帝都の大学へ無事進学すると同時に、この帝国図書館で見習いの特務司書として勤めることになった。大学生活と司書仕事に錬金術のお勉強の両立はなかなか大変で、とても忙しいけれど、目にする何もかも物珍しくて新鮮な、充実した毎日を過ごしている。
さて、そんな司書見習いである私は、ここの第壱特務司書さんに「昨日、新しい文豪を転生させることに成功したから、早速ご挨拶してほしい」との事で、司書室にやってきたのだが。我が師とも言えるその女性は、先程館長に呼び出されて、助手の織田作先生と共に席を外してしまっている。つまり、それからずっと私は初対面の転生文豪さんとふたりきりで、この状況という事だ。
「うぅ……」
師匠、早く戻ってきてください。
あまりの緊張と羞恥と心細さで、じんわり目頭が熱くなってくる。滲む涙を隠したくて軽く目元をこすったら、急にガタンッと机が揺れて、驚いて顔を上げた。そうしたら、少しだけ無表情を崩して、困ったように眉を下げている、慌てた彼の顔が映った。そんな表情を出来る人だったのかと、またびっくりして唖然と言葉を失う。
「すみません、泣かせるつもりは……」
なかったのです、けれど……。小さく小さくなっていく、申し訳無さそうな弱々しい声に、今度は私が慌ててしまう。
「え、あ、いや、大丈夫です! 泣いてないですよ、ちょっと目にゴミが入っただけで」
「そう、ですか」
顔はすっかり元の無表情に戻ってしまったけど、その声はとても安心したような優しい音だった。私もほっと安心する。今の反応から見て、決して怖い人では無いみたいだ。
ようやく緊張の糸が解れた私は改めて、彼に言葉をかける。
「あの、先生? お名前を、聞いてもよろしいでしょうか」
その言葉に、彼はようやく何かハッと気がつくような素振りを見せた。また申し訳無さそうに僅かだけ眉を下げて、頬が少し赤く染まる。本当に微かな変化なのだけど、何だかとても恥ずかしそうだった。
「あぁ……すみません……目を合わせれば、挨拶が済んだかと」
なるほど、随分変わった人なんだな……。「こういう時に利一が付き添ってくれると助かるのですが」とぼそり呟いたことから、あの先生とは随分仲が良いのだろうと察する。
「川端康成です」
「えっ」
「どうされました?」
「川端さん、なんですか。あの『伊豆の踊子』や『雪国』を書かれて、ノーベル文学賞まで受賞したって」
「よく、ご存知なのですね」
「はい。見習いとして、先生方のことをお勉強している真っ最中なので! わあ、そうなんですね、ちょうど『伊豆の踊子』を先日読み終えたばかりでして、何だか凄く嬉しいです。私、あのお話好きなんです!」
川端先生はどこか眩しそうに目を細め、また「そうですか」とだけ呟くと、襟巻きを掴み上げて顔の半分隠して俯いてしまった。それでも構わず、私はつい興奮して、お話を読んだ感想や自分なりに感じた事を、畏れ多くも大作家先生本人の前でべらべらと喋ってしまって。
「──というシーンが特に好きで、あ、それから、踊子が主人公の為に──」
拙い言葉でも、彼が黙って感想を聞いてくれることは嬉しくて、ついつい喋り過ぎてしまって。
「最後なんて本当──……って、わああ!? せ、先生ごめんなさい、私みたいなものが、何を偉そうに語っているんでしょうかね、ごめんなさいっ」
夢中になっている内にいつの間にか、先生は両手で襟巻きを伸ばして、ぴょんとふたつ跳ねた癖毛まで覆い隠してしまっていた。今度こそ本当に機嫌を損ねてしまったのではないかと、大慌てで必死に謝れば、彼は黙ったまま、襟巻きを戻して整えて、その赤く染まった無表情でじっと私を見つめ直す。どきんとした。
「……ありがとうございます。あなたのような、熱心な読者がまだ居てくれるというのは、どうにも、嬉しいものですね」
「わ、私以外にも、川端先生のお話が大好きな方は、たくさんたくさん居ますよ。私なんて、そういう人たちに比べたらまだまだ。ですから、これからいっぱい色んなお話を読んで、お勉強します。えーっと、なので、これからもよろしくお願いしま、す?」
何だか上手く言葉がまとめられなくて、可笑しな自己紹介の続きになってしまった。えへへ、と恥ずかしさを誤魔化すように苦笑する私を見て、川端先生の口元がほんの少し緩んだように見えたのは、私の都合の良い見間違いだろうか。
「あなたは、まるで、」
先生は何かを言いかけて、ぎゅっと口を噤んだ。続きが気になって、何ですか?と問い掛ければ、いえ、なんでもありません、と首を振り、それから一言だけ答えた。
「かわいいひとですね」
やっと落ち着いたかと思った心臓が再びどきんどきん跳ねて、頬だけでなく全身がカッと熱くなる。沸騰したヤカンみたいに、ぷしゅーっと湯気が出そうなくらい。
あまりにも言われ慣れていない言葉過ぎて、うー、とか、あー、とか唸るだけで、私は何の返事も出来ずにただ、両手で熱々の顔を隠した。震えた声で「ありがとうございます」と捻り出すことしか出来なかった。
いきなりこんなことを言われて、落ちない女性が果たして居るのだろうか?
それから三十分程、師匠と助手さんは帰って来なくて、これ以上何も話せない沈黙が続いて、でも、居心地は結構、悪くなかった。そりゃあその間もずっと見つめられて、どきどきしっぱなしではあったけれど、何も話さなくても心地いい時間というのを、私はその時初めて味わったのだった。
***
「川端先生ー!」
そんな出会い方をして、しばらく。私はあれから、川端先生と同じ時間を多く過ごすようになった。まあ、ほとんど私がしつこく付きまとっているようなものなんだけど。
転生した先生方の本で読めない漢字や、時代背景がよくわからなくて理解の難しいところを教えてもらったり。図書館の隅でふたり黙って読書に耽ったり。学校での出来事や、その日のお勉強で学んだ錬金術など、他愛ない日常を話しに行ったり。先生は相変わらず口数少なくて、私の話を聞きながらずっと何も言わず黙っていることもあるけど、別に何も気にならなかった。少しずつ、彼の細かい表情の変化や、僅かに首を振ったり傾げたり、こちらの言葉に反応してくれていることには気付いたので。意外と興味深そうに私の話を聞いてくれるから、それが凄く楽しいのだ。
今日も夕方のお勉強会が終わった後、私は補修室帰りであろう先生を見つけて呼び止めて、また本を読んでいてわからないところがあるので教えてくださいと頼み、休憩室へ連れ出した。本当は先生とお話したかっただけでしかないけど。たぶん彼も、それをわかってくれているような気がした。
「それでこの間おすすめしてもらった、徳田先生のご本を読んでいるのですけど……」
「難しいですか」
「う、ちょっとだけ」
「それはあの先生がよく仰る、作品の密度の為でしょうね。ゆっくり、ゆっくり、先生と同じ早さで歩くように、読み進めると良いですよ。一度に全てを理解しようとはせず、ところどころ、繰り返し読んでみるのも良いでしょう」
徳田先生のお話をする時、彼は普段より饒舌になる。生前とても絶賛なされた、大好きな作家さんなのだと最近知った。菊池先生や横光先生のことをお話する時もそうだ。嬉しそうに誰か親しい人の話をする川端先生の横顔は、失礼ながら、無邪気な子供のように可愛いとすら思ってしまって、私をも嬉しくさせるのだ。彼の新しい表情を垣間見るたび、心がぽかぽかと温かく跳ねる。きゅーんとする。
ふふ、とちょっぴり声を出して笑ってしまったせいか、先生は照れ臭そうに僅かに眉を寄せた。他の人には、何の表情も変わっていないように見えるかもしれないけど。
なるほど、ゆっくりかあ。色んな先生のお話をたくさん読みたいからって、焦って読んでたのが良くなかったんだろう。今日はじっくりと、徳田先生のご本を楽しもう──そう思いながら、手に持った文庫本をぺらぺら捲っていると、不意に強い視線を感じた。
これは恐らく、じぃっと、川端先生があの夕焼けみたいな瞳で私を一心に見つめているに違いない。ちらりと目線を先生に向ければ、やはりバッチリ目が合った。彼の凝視癖、こればかりはどうにも慣れることが出来ず、未だに熱心に見つめられ続けるとどきどきして、顔を覆い隠したくなるほど恥ずかしくなるのだ。なんかこう、身体の隅々、寧ろ内側まで、今こうしてどきどきしていることさえ見抜かれているような気がして、恥ずかしい。
「夢子さん」
「ひゃッ、は、はい?」
突然名前を呼ばれたせいでびっくりして、一瞬声が裏返ってしまった。あれ、思えば名前で呼ばれたのは、初めてじゃなかろうか。というか、先生から呼び掛けられた記憶がほとんど無い、あっても「すみません」とか「あの」とかそんな感じで。初めましての時、私が名乗ったことを覚えていてくれたのかと、ちゃんと聞いていたのかと、もはや意外だった。
「髪……」
「えっ、髪? あ、あー! 今日は朝からすっごく暑かったんで、ポニーテールにしてみたんですよ」
何を見ていたかと思えば、私の普段と違う髪型が気になっていただけらしい。そういえば、先生の前で髪を結んだ姿は見せたことなかったっけ。
もふもふと触って揺らして見せれば、ぬっ、と彼の手が伸びてきて、そのまま私のポニーテールに触れた。驚いて石のように身が固まる。
「朝、お見掛けした時から、可愛らしいと思っていました。犬の尻尾のようで」
犬。ポニーテールって、確か小型の馬の尻尾に見えるから、その名前なんじゃなかったっけ。いや、まあ確かに、私はそこまで髪が長くないから、犬の尻尾くらいに見えるのかもしれないけど。しかし川端先生は言葉の通り、まるで動物を愛でるかの如く、私の髪の毛をふさふさ撫でているのだ。その満足げに緩んだ微笑を見せられては、恥ずかしいからやめてくださいなんて言えるわけもなく、私はそのままじっと固まっているしかなかった。
「あなたの髪は、美しいですね」
その一言が限界でした。ぷしゅ、と頭のてっぺんから煙が立ちそうなほどに顔が熱い。恥ずかしさのあまり心臓が破裂しそうな予感に、私は慌ててその場から立ち上がった。
「の、喉乾きましたね!?」
「いえ、別に」
「お茶淹れてきます!」
「そこに自販機、ありますけれど」
「あったかい淹れたてのお茶が飲みたいなあ!! 食堂行ってきます! 待っててくださいね!」
「? はい」
私の明らかに不審な挙動にも、先生は少し首を傾げるだけで、さすがに彼の目でもこの心臓の高鳴りを見抜かれているわけではないのだと、安心したような、残念でもあるような変な気持ちだった。
一旦この高鳴りを落ち着かせなくてはどうしようもないと、逃げるように食堂へ向かいながら、ただひとつ、心の底から言えることは。
(今朝、ポニーテールにしようと思い立った私、ありがとう……!!)
廊下を早歩きしながら、私は胸の前で小さくガッツポーズをした。
さて、気持ちも落ち着いたし、早く先生のところに戻ろう。熱い緑茶を淹れた急須を湯呑みふたつと並べて盆に乗せて、ふふーん、なんて少しご機嫌に食堂の扉を肩で押し開けた。ら、ちょうど扉の向こうに居たらしい誰かとぶつかりそうになって、わあっと声が上がる。
「す、すみません!」
「うおっ、と、大丈夫か?」
自然に私の肩を支えて受け止めてくれたその人は、川端先生の恩人である、菊池寛先生だった。
「あ、菊池先生か」
「おい何だその薄い反応は」
川端が相手の時と反応違い過ぎだろ、なんてわざとらしく口を尖らせる先生を前に、ちょっと気まずく苦笑う。お盆をひっくり返さなかったことに安堵しつつ、先生にありがとうございますとお礼を言ったら、素直でよろしいと褒められた。
菊池先生は私が図書館で働き始めて以来、館内の紹介や司書の仕事について簡単なサポートなど、助手のように何かとお世話をしてくれる先生で、私にとってはお父さんみたいな人、って印象なのだ。
「これから早めにお夕飯ですか?」
「いいや、ちょっと川端を探していたんだが、」
「川端先生なら、さっきまで休憩室で一緒にお話していましたよ。私が一旦逃げ、じゃなくて、熱いお茶が飲みたくなったので淹れに来ただけで……あ、良かったら、菊池先生も一緒にお茶します? 湯呑みもうひとつ取ってきますよ」
「んー、あー、そうか。いや、嬉しい誘いだが、やめておく。せっかくの楽しいひとときを邪魔しちゃあ悪いからな。あいつ、とんでもなく不機嫌になるだろうし」
「えー? 川端先生がそんなわけ、喜ぶと思いますけど」
「良いって、良いって。特に急ぎの用でもないからな、また後で」
何故か酷く焦ったように断られてしまって、ちょっと残念。ところで、と菊池先生はどこか心配そうに言葉を続ける。
「あんた、川端と随分仲良くしてくれているが、何か困っていることはないか?」
「困っていること、ですか?」
「ほら、あいつの言語感覚は新し過ぎて、俺でもついていけない時があるからなあ」
「うーん、まあ、たまに、先生の言葉は難しい時がありますけど、なんとなく言いたいことはわかりますし。大丈夫ですよ、そのくらい私が彼の言葉を学んでいけばいいことです。川端先生は優しくて、いい人ですから。困ることなんてありませんよ」
「……そうか、いい人か」
「はい! とっても、いい人です。たくさんご迷惑かけて困らせているのは、きっと私の方ですよ。それなのにいつも嫌がらず相手して下さって、有難いです」
「ふっ、大丈夫だ、あいつも困ってなんかいない。あいつは寡黙だからわかりにくいが、案外、あんたと一緒に過ごせる時間を気に入ってるみたいだぞ。俺にあんたのこと、よく話して聞かせてくれるくらいだからな?」
えぇー? ほんとですかあ? と軽く疑えば、菊池先生は本当だってと笑うけれど、実際のところは本人に聞いたわけじゃないからわからない、でも本当に本当だったら嬉しいな。ニヤけてしまう。
「おっ、そういや今日は随分可愛い髪型にしてるな。よく似合ってるじゃないか」
「ふふー、ありがとうございます」
菊池先生が私のポニーテールの毛先をさらりと撫でて褒めてくれた。さっき川端先生にも可愛いって褒めてもらえたんです! と嬉しくなって報告すれば、そうかそうか、と笑って聞いてもくれる。菊池先生もいい人だ、やっぱりお父さんみたいだなあ。……なーんて、和んでいたら。
突然、身に刺さるような痛い視線を感じた。恐る恐る、視線の元を辿れば、無表情の(いつもそう見えると言われればそうなんだけど、いつにも増して感情が消え失せた)川端先生が、じっとりこちらを凝視していた。その妙に恐ろしい迫力と無言の圧力に、ひぇっ、と声にならない怯えた声が溢れる。だけど菊池先生はそんな彼のあからさまにご機嫌斜めな様子を気にもせず、やたら明るい声で「よう川端」なんて話しかけている。
「菊池先生……」
「ほら見ろ、やっぱり不機嫌になっただろ。しかしなあ川端、男の嫉妬は見苦しいらしいぞー?」
「嫉妬など、していません。彼女の戻りが遅いので、どうしたのかと様子を伺いに来ただけです。ただ、恋仲でもない女性の髪に軽々しく触れるのは、如何なものかと」
刺々しく冷やかな声でそう言われても「かわいい愛娘と戯れていただけなんだがなあ」と菊池先生は寧ろ面白そうにニヤニヤ笑い返していた。あれ、でも、さっき川端先生、思いっきり犬の毛でも撫でるように、恋仲でもない私の髪をふさふさ触っていたような……?
「行きますよ」
「え、あ、はいっ」
川端先生は私の持っていたお盆を奪い、元来た道をくるりと振り返って、不機嫌なままスタスタ歩いて行ってしまった。私も慌てて後を追いかける。
それより、菊池先生は川端先生に用事があって探していた筈では?このまま立ち去って良いのかな、と不安になって後ろを振り返ったが、彼は「気にすんな」とでも言いたげにひらひら手を振っていて。遠くなるその顔は、やれやれと呆れてはいるものの、何だか子供の成長を微笑ましく見守る親のように優しいものだった。
有難いけど申し訳なくて、私はごめんなさいの意を込めて頭を下げてから、改めてだんまりな枯葉色の背中に向き直る。
「川端先生、どうしたんですか、そんなに怒るなんて珍しい……」
「怒ってなどいません」
「えぇ……」
これ絶対原因わからないけど怒ってるよなあ、と内心思いつつ、それ以上の追求はやめることにした。でも、何故か不機嫌そうな後ろ姿も珍しくて可愛らしくて、私はやっぱり、彼の色んな表情、感情を知るたびに、嬉しくなってしまう。
そんなことを考えていたら急に、川端先生が足を止めたので、ぽすっ、と彼の背中に軽くぶつかってしまった。咄嗟に謝りながら離れる。彼は少し間を空けてから、小さく声を吐き出した。
「どうか、あなたの黒絹が如きその髪を、私以外の男に野放しで触れさせることは、やめてください」
「えっと、それはどうして、ですか?」
「……どうしても、です」
そう言うと、彼はまたこちらを振り返りもせずにスタスタ歩き出してしまう。白練色の髪の隙間から、ちらりちらり、赤く染まった耳を見せながら。
もしかして、菊池先生の言う通り、本当に嫉妬──してくれていたのかな。私の髪に触れた菊池先生に、自分の恩人にすら妬くほど、まさか、そんな。嗚呼、そう気付いたら、ますます、嬉しくなってしまって、私ちっともいい娘じゃないや。
なんて、かわいいひとだろう。せっかくだから明日もポニーテールにして、川端先生のところへお話しにいこうかな。今からもう既にそんなことを考えながら、私はにこにこと黙って、襟巻きがひらひらと揺れる静かな背中を追いかけるのだった。
2017.07.18公開
2018.04.13加筆修正
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