審神者と仄々生活
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風邪と恋煩い
第七話
検非違使との戦いに明け暮れること早一ヶ月。
敵はやたら固いし槍の攻撃がチクチク鬱陶しいしで、最初はなかなかに苦戦していたのだけど。あの手強い敵の刀装には遠戦が有効だと気付いてからは、随分戦闘も楽になって。気付いたら第一部隊の面々は皆、練度の限界に達していて。俺の率いる第二部隊の面々も驚きの練度に成長していた。
しかし、あまりにも見つからない虎徹の二振りに、俺たちも主も赤疲労でぐったり戦場を回る日々。もしかして時の政府の情報は嘘なんじゃないかと、虎徹なんて最初から居なかったのでは?なんて、疑いすら持ち始めた頃である。
俺たちはようやく、今まで見た事もない刀剣を、検非違使戦後に発見した。
「……え、あれ、何これ」
「うーん、短刀に長さは近いけど、たぶん小脇差じゃないのかな……?」
俺の手に持ったそれを、安定は信じられないと言う顔で見つめていた。藤四郎の脇差でも、青江や国広でも無い。こ、これは──!
「あ、あるじ! あるじー!!」
俺は大慌てで紙製式神を使って、本丸で待つ主に報告しようとした。が、返事が無い。あれ?
「主? ねえ、主ってばー」
『……』
「もしかして、寝てる?」
不審げに眉を寄せる安定に、まさか主に限って居眠りなんてそんな……と思いつつ、そういえば今朝起こしに行った時、具合が悪そうに青白い顔をしていたのを思い出す。大丈夫かな。出陣前に声を掛けた時は、大丈夫ですよって笑っていたけど。不安で何度も何度も呼びかけていると、ようやく。
『……ハッ!』
主の、今起きましたーって言わんばかりの声が聞こえて、ちょっと安心した。けど、本当に居眠りしてたのね……。
『す、すみません! 私としたことが、うっかり寝落ちて……!? ど、どうしました!? 皆、無事ですか!』
姿は見えないのに、声だけで慌てまくってる事がよく分かる。俺は安定と主をからかうようにけらけら笑いながら、大丈夫だよーと明るく返した。
「第二部隊は全員投石兵のおかげで無傷だから。それよりも、新しい刀剣を発見したんだよ、主!」
『え……ほ、本当ですか……!?』
「うん! 今すぐ帰還するから待っててね」
主の嬉しそうな声は俺たちも嬉しくさせてくれる。早く帰って、こいつも実体化してもらおう。
皆、大喜びするに違いない。特に蜂須賀なんて、兄弟とやっとの再会に感動で泣いちゃうんじゃないの?
式神の転移機能ですぐにお屋敷へ帰還した。隊員たちと解散してから、安定と一緒に主の待つ本丸へ、少し早歩きに向かう。
開けっ放しの襖から顔を覗かせると、いつものように顔布を付けた主が、既に蜂須賀虎徹と一緒に待ち構えてくれていた。ただいまー! そう安定と声を揃えれば、主はおかえりなさいと優しく出迎えてくれる。
「ごめんなさいね、いつもなら玄関先で皆をお迎えしたかったのだけど……今日はなんだか調子が悪くて」
「主、大丈夫? 今日はこの後ゆっくり休んだ方が良いんじゃないかな」
心配そうな安定に、少し動き辛いだけですから大丈夫、と顔布越しに微笑む主。……本当に大丈夫かなあ。声もなんだか、いつもより少し掠れて聞こえるような気がする。
俺は主の隣でそわそわしている蜂須賀を見兼ねて、早速、戦場で見つけてきた刀剣を主に差し出した。
主はそっとそれを受け取って、久しぶりに刀剣男士を実体化させる為、目を閉じて精神集中し始める──。
そして、本丸部屋が一瞬カッと眩しい光に包まれた後。
「俺は浦島虎徹! ヘイ! 俺と竜宮城へ行ってみない? 行き方わかんないけど!」
浦島虎徹と名乗った脇差の少年男士。明るい金髪に爽やかな青の着物を大胆にはだけさせ、その肩に小さな亀を乗せて、真っ白な歯を輝かせる眩しい笑顔が印象的だ。
彼は紛れも無い本物の、真作の虎徹の一振り。主御用達のサニーぺディアによると、彼の名前の由来は、その刀身に浦島太郎の像が彫られているからだって。へえー、ちょっと見てみたいかも。
「えーっと、俺を呼んでくれたのは、お姉さん? 俺の、あるじさん……?」
「はい。初めまして、浦島虎徹。ずっとあなたを探していたんですよ、あなたのお兄さんも一緒に」
「……兄ちゃん?」
浦島の目線が、蜂須賀へと向けられる。途端、ぱああ! とその目をますます輝かせたかと思えば。
「わあ! 蜂須賀兄ちゃんだあー!!」
大喜びで自分のお兄さんに飛びついて行った。突然の事に、これには流石の蜂須賀も驚いて混乱しているみたいで、思わず笑ってしまった。
「こ、こら、浦島! 俺もお前に会えて嬉しいけど、いきなり抱きつかれたら驚いてしまうだろう?」
「えっへへへー! ごめん、ごめん! まさか蜂須賀兄ちゃんに会えるなんて思ってもみなかったから、俺嬉しくて。玉手箱貰った時より嬉しいかも! 貰った事ないんだけど!!」
「全く、浦島は仕方ないなあ……」
「……あれ、兄ちゃん泣いてる?」
「な、泣いてなんかないよ!」
いや、泣いてる泣いてる。ぼろぼろ泣いてる。蜂須賀のやつ、本当に嬉しそう。
こんな姿見せられちゃうと、頑張って見つけ出した甲斐あったなあって、俺たちの気分も報われるよ。
「ふふ……良かった……」
主もすごく嬉しそうだ。でも、なんか、ゆらゆら──してる?
「あと、もう一振りで、虎徹の兄弟も揃いますね…また、頑張らな、きゃ……」
そう途切れ途切れに呟いたかと思えば、主の身体がゆっくりと前のめりに床へ沈んでいった。
……え?
「あ、あるじ!? どうしたの、ねえ、主!」
以前にも、主が刀剣男士の実体化の後に気を失って倒れた事がある。三日月宗近を鍛刀した時だ。でも、これは違う、驚き過ぎて気を失ったとか可愛いものじゃない。
畳にぐったりと倒れ伏した主は、苦しそうな浅い呼吸を繰り返していて、首元に手を当てたら酷く熱かった。それに、げほげほと辛そうな咳が、出てる。
一瞬で頭の中に過去の嫌な記憶が蘇る。けど、俺はもうただの振るわれるだけの刀剣じゃない。
「安定、布団出して!」
「う、うんっ」
「蜂須賀は浦島と一緒に、薬研呼んできてくれる……?!」
「あ、ああ、わかった!」
俺は主を横向きに抱き上げて、その小さく脆い身体と、人間のか弱さを改めて実感してしまった。
ねえ、あるじ、大丈夫……だよね……?
***
「38.5度……熱がちいっと高いが、ただの風邪だな」
布団の上で横たわる主の額に手を当てて、体温計片手に、白衣姿の薬研はそう呟いた。
ずっと診察を見守っていた俺と安定は、安堵にほっと胸を撫で下ろす。そっか、まだ風邪でよかった。もっと酷い病気だったら、俺たちの手には負えない。……病は、斬れないから。
しかし、診察の為とはいえ、気を失っている主に無断で顔布を外してしまったけど、あるじ…目を覚ました後で気にしてしまわないかな。薬研は主の素顔を見ても全く動じていないみたいだけど。
「ここんとこ、ずっと働き詰めだったろ。それで疲労が溜まって、身体の免疫力が落ちて……。恐らく一昨日の審神者会議に出た時、うっかり風邪を貰って来ちまったんだな」
俺たち刀剣にはしっかり休めって気にかける癖に、自分が倒れてどうすんだ、この主は。呆れたようにそう言った薬研だけど、その苦笑を浮かべる表情から、彼も心底主を心配していたんだとわかる。
「そんな状態で無理して刀剣男士の実体化なんてすりゃあ、限界が来て気ぃ失うのも仕方ねえや」
「風邪なら、ちゃんと、すぐに治るよね? 薬研……」
不安で泣いてしまいそうな安定に、薬研はゆっくり休ませてやれば大丈夫だ、と笑って励ましてくれた。
その後は薬研と相談して、主が風邪を治して本調子に戻るまでは遠征や出陣を中止。時の政府にも申請を出して絶対に主を休ませて無理させない事。他の刀剣達にもそれを知らせ、しばらくは内番を中心に静かな日々を過ごす事に決めた。
審神者の体調不良には、僅かだけど俺たち刀剣男士にも影響がある。付喪神を使役する審神者の霊力が弱まれば、その付喪神も弱体化してしまうのは当然であり仕方無い事だ。
「んじゃ、俺っちは報告に行って来るな。皆、大将のこと心配してるから、少しは安心させてやんねえと」
「うん……申し訳ないけど、頼むね。俺たちは主を診てるから……」
「おう、そっちこそ頼むぜ。目が覚めたら教えてくれ、食事を持ってくる」
薬研が救急箱片手に去っていくのを見送ってから、俺は小さく息を吐いた。赤い顔で寝苦しそうに横たわる主を見つめる。まだしばらく目を覚ましそうにはない。
突然、隣からぱちゃぱちゃと水音が聞こえたから何かと思って目を向ければ、単に安定が氷水を溜めた桶で手拭いを濡らしているだけだった。水気をぎゅっと絞った手拭いを、そっと主の額の上に乗せれば、ほんの少しその表情が和らいだような、気がする。
安定はそのまま冷えた手で主の頬に触れながら、ぽつぽつと話し出した。
「……あの、さ……変な話だって笑って欲しいんだけどさ、」
「なに」
「僕……この人とは、ずっと、一緒に居られるような気がしてたんだ」
何その話、全然笑えないよ。
俺だって、どこかでそう思ってた。いや、思いたかったのかな。ずっと大事にしますね、って、この人のそんな言葉を鵜呑みにして。
「でも、そんなこと有り得ないんだよね。必ずどこかで終わりが来るって、一度味わった筈なのになぁ……」
ずっと永遠には一緒に居られない。俺たちは刀剣で、主は人間だから、時を過ごす長さが蝉と亀の寿命ほど違う。きっと、この人は言葉通りに俺たちをずっと大切にしてくれる。でも、それは永遠じゃないって、限りあるものだって、理解してた筈なのに。
こうやって病気で弱ってしまう様を見せられては、人間というのは俺たちより遥かに脆く儚いものだと、改めて知らされる。
「もしもこの戦いが終わったら、僕たちはどうなるのかな」
「……さあ、ね」
もしも主が……なんて例え話でも言えないから、戦いに置き換えたのだろうけど、同じ事。最後の時がどうなるかなんて、その時にしかわからないよ。でも。
「俺は、最後まで主と一緒に居たいよ。永遠は望まないし、限りある命でずっと愛してくれるって、言ってくれた人だから。……ずっと一緒に、この人の為の刀剣で居るよ」
安定はようやくこちらを向いたかと思えば、大きな目を細めて笑った。笑い話にして欲しい、とか言っといてお前が笑うのかよ。なんて心の中で悪態付きつつ、俺もつられるように微笑む。
「僕も同意見、かな」
こんな優しくて尊い人に、永遠を強請るなんて残酷過ぎるだろう。俺たちは限りある命を持った人間だから、この人が好きなんだ。
……でも、わがままを一つ言うなら、出来れば長生きしてほしい、なんて。
「あーもー暗い話終ーわり! 主が起きた時にこんな雰囲気じゃ心配させちゃうでしょ!」
「うん、そうだね。というか清光声でかいよ、病人が寝てるんだから静かにして」
「お前が凹んでるから元気付けてやろうと思ったのに酷い……。もう、俺たちの調子狂っちゃうから、早く目を覚ましてよね、あるじ」
***
主が目を覚ましたのは、すっかり日も暮れた夕飯時の時間だった。
「あれ……私、どうして……」
まったく今の自分の状況が理解できていないらしい。ぼんやりと寝起きの赤い瞳が、ようやく俺たちの方を向いた。そこで主に、あなたは風邪で体調が悪いのに無理をした結果倒れたのだ、と伝える。
それを聞いてすぐに、主は体を起こそうと身動ぐも、熱で怠いのか起き上がれない様子。俺はそっと主の背中と肩に手を回して、体を抱き起こした。こうして弱った主のお世話が出来る瞬間、俺は人間の体を与えて貰えて良かったと思う。
「もう……本当にびっくりしたんだからね、主のばか……ただの風邪でよかったよ」
主に抱き着いたまま悪態を吐くも、耳元に弱ったか細い声で「ごめんなさいね、ありがとう」なんて言われてしまったら、主が目を覚ましたら目一杯お説教してやろうと思ってたのに、そんな考え全部吹き飛んでしまった。
主から体を離した途端、まるで入れ替わるように安定が主に抱き着いた。相手が病人であるにも関わらず、主が掠れ声で困惑しているのも無視して、ぼろぼろ泣き始める安定。
「やすさだちゃん?」
「なんで、そうやって無理するの……主のばか、主なんて嫌いだ……」
「あぁ、ごめんなさい、安定ちゃん……でも、私は、こんな風に心配して泣いてくれるあなたが大好きですよ」
「だったら、ぐすっ、無理なんてしないで、お願いだから……僕たちを大切にしてくれるみたいに、自分の事も大事にして……」
泣きじゃくりながら訴える安定の願いに、主は返事をくれなかった。でも、その赤い瞳が、涙で潤んでいるのがはっきり見えたから、大丈夫、きっと俺たちの想いは伝わってる。
「俺たちみたいな刀の主は、長生きしてくれなきゃ、やだよ」
俺もそう願いを伝えたら、主はようやく「はい」と返事をしてくれた。
「私はそう簡単に居なくなったりしませんよ。大丈夫です」
俺たちを安心させようとするその微笑に、ほんの少しだけ翳りが見えたような気がしたのは、どうしてだろう。
……信じるからね、主。
安定もやっと泣き止んだ頃、主が目を覚ました事を聞いて、薬研だけでなく、本丸中の刀剣たちが続々と順々に主の見舞いへやってきた。
皆、ずっと主が心配だったんだ。やっぱり主は皆から愛されてるんだね、さっすが俺の主! なんて、微笑ましいその様子を鼻高々に眺めていたら、安定に「なんでお前が誇らしげなんだよ」ってツッコまれてしまった。
そんな賑やかな中でも、浦島虎徹が号泣しながら飛び込んできた時は驚いたなあ。自分のせいで主が倒れたんだって、わんわん泣いてた。付き添ってた蜂須賀も申し訳なさと罪悪感で主と顔を合わせ辛そうだったけど、主に「これは単なる私の失態です。こんな風邪なんて早く治してしまいますから、また虎徹の兄弟探し頑張りましょうね」って逆に励まされていて、二人とも安心したみたい。
驚いたと言えば、そうそう、あの大倶利伽羅も主の見舞いにやってきたんだよ。庭から摘んできたらしい、小さな薄紫色の野花を持ってね。「早く治せ」なんて、ぶっきらぼうにそれだけ言って、すぐに出て行ってしまったけど、主はその手に押し付けられた見舞いの花を眺めながら、顔布越しにとても嬉しそうだった。
粟田口派の兄弟刀達が、鳴狐や一期一振まで巻き込んで押し寄せてきた時も驚いたけどね。前田が「生姜は風邪によく効くそうですよ」と生姜茶を持ってきてくれたのは有難かったのに、秋田や五虎退が泣いちゃうわ、鯰尾が主の布団に忍び込もうとするわで、病人の部屋とは思えないほどの大賑わい。宥めたり止めるこっちが一苦労だったよ。
刀剣達の見舞い時間も落ち着いた頃、薬研がまた体温計片手に主の具合を見に来てくれた。
「お! 熱は大分下がってきてるな、気分はどうだ大将。飯は食えそうか」
「はい、皆のおかげで風邪の怠さなんて吹き飛んでしまいましたよ」
「そりゃあ何よりだ。さっきは騒がしくしちまって悪い事をしたと思ってたが、大将には良い薬だったみてえだな」
人の病は気から生まれるもの、とも言うらしく、嬉しい気持ちや笑顔でいる事が、医者の出す薬なんかより遥かに効果的な良薬になることもあるんだって。
しかし、主はそれだけじゃないのだと、薬研に言葉を続ける。
「清光ちゃんと安定ちゃんがずっと私の事を看てくれるので、とっても安心するんですよ」
薬研の驚いた紫の目が俺たちを見つめて、フッと微笑んだ。やれやれ、とどこか呆れるように。
「……本当、愛されてんなあ」
それは俺たちに向けて言ったのか、主に向けて言ったのか、はたまた両方か。
少し妬けるな、なんてからかうように笑う薬研。そんな彼に主は「薬研ちゃんという優秀なお医者さまも居てくれますからね」とお礼を込めて、薬研の頭を撫でていた。
照れ臭そうに頬を掻く薬研を、今度は俺たちがニヤニヤとからかってやるのだった。
***
その日の深夜、俺は寝苦しさに唸りながら目が覚めた。
看病の為、主の寝室で主が寝静まったのを見届けてから、俺も壁を背に眠りについた……のが、良くなかったのかな。背中痛いし、首も痛い。
安定は泣き疲れたせいなのか、座ったまま寝ていても、全く目を覚ます気配はない。爆睡してる。
ふと気がついた。主が寝ていた筈の布団の上に、その主の姿が、ない。
「……あるじ?」
いったいどこへ。慌てて立ち上がってすぐ、開いた襖の隙間に彼女の後ろ姿を見つけた。ほっと安堵に胸を撫で下ろす。なんだ、縁側の方に居たのか。
俺は痛む背中を摩りながら寝室を出て、縁側に腰掛けて庭を眺める主の隣へと歩み寄った。
足音にこちらを振り返った顔は、顔布をしていない素顔の主だった。
「おはよう、主。……って、起きるにはちょっと早過ぎじゃない? 三日月さんでもまだ起きて来ないよ」
空は少し白んでいるものの、夜中と言うには明るいが、明方と言うにはまだ暗い。
「昼間あんなに眠ってしまいましたから、あまり眠れなくて……」
「まあ、仕方ないか。でも今のあなたは病人なんだから、風邪悪化させる前に布団に戻ってよ。ほら、せめて毛布羽織って」
自分が羽織っていた毛布をさっと主の身体に包んでから、左隣にストンと腰掛けた。主の赤い瞳がじっとこちらを見つめて、ふふ、と弾むような笑い声と共に緩く細まる。
「ありがとう、清光」
熱で赤い頬と相まって溶けるような微笑みに、どくんと心の臓が跳ね上がった。
どーいたしまして、と少し雑に返事をしながら、じわじわ熱くなる顔を見せたくなくて主からそっぽを向いてしまう。
ああ、まただ。何故かわからないんだけど、最近になって、俺の心臓なんだか可笑しいんだ。主の一挙一動で、さっきみたいに心臓が跳ねたり、どきどきと鼓動が速くなったりして、決して嫌な気分ではないけど、原因不明の変化が不思議で仕方が無い。
特に、主に素顔で笑みを見せられると弱い。可愛くて、綺麗で、そのまま触れたくなって、ぎゅーって抱き締めたくなる。でも、それを実際にしてはいけないような気がして、気恥ずかしくて出来ない。……ちょっと前まで、平気で主にべたべたくっついてたのに、何でだろう。
俺も何かの病気なのかな。そもそも刀の付喪神が病を患ったりするの? 今度、薬研にでも聞いてみるべきだろうか。
「ねえ、清光ちゃん」
「……なあに?」
悶々と考え事をしていたら、主の呼びかけに反応するのが少し遅れてしまった。顔を向けなおして、主の赤い瞳を見つめ返す。それはやけに真剣な色をしていて、相変わらず綺麗な赤だった。
「今後、もう一振りの虎徹を無事に手に入れる事が出来たなら。またあなたに、第一部隊の隊長をお願いしたいと思っています」
「え、俺が隊長?」
純粋に驚いてしまった。
そりゃあ最初の頃はよく第一部隊の隊長を任される事はあった。でも、今の俺の中心となる仕事は、近侍として主の身の回りを手助けする事。第二部隊を率いて新たな刀剣探しへ戦場に出向く事はあっても、第一部隊を任されるのは随分と久し振りだ。
どうしてと聞く前に、先日の審神者会議で政府から新たな合戦場への出陣任務が言い渡されたのだと、教えてくれた。それでも、俺が隊長に選ばれる理由が、まだわからない。
「俺で良いの?」
「清光ちゃんにしか頼めません。でも……」
俺を選んでくれたのは嬉しい。けど、主は何故か口籠って俯いて、ちゃんと理由を教えてはくれない。
「あるじ……?」
今度こそ、どうしてなの、と声を掛けながら、そっと主の頬に触れた。熱も微熱まで下がったとはいえ、まだ結構熱いね。
主はまだ俯いたまま、ぽつぽつと理由を話し始めた。
その新たな合戦場では、狭い町中や室内での夜戦が主となるらしい。よって、その身が大振りである大太刀や薙刀などの刀剣には不利な戦場となっている。逆に言えば、狭い場所でも身動きが取れて足も速く夜目も効く、脇差や短刀、また打刀の刀剣が活躍出来る戦場なのだそうだ。
だから、近侍として信頼出来て、皆を率いる実力も練度も十分にあるとして、俺を隊長に、そして安定を副隊長に任命したいと。俺たち二振りを中心に、夜戦特化の第一部隊を編成したい。主はそう言ってくれた。
俺としては喜ばしい事なのに、ようやく顔を上げた主は、何故か酷く悲痛の表情を浮かべていた。
「──合戦場の名は、池田屋の記憶。あなたの過去に直接関わる記憶です」
池田屋。そのたった一言だけで、沖田君と戦ったあの時を、自身の最後を、一瞬で思い出した。
現代でも歴史に名高い有名な池田屋事件が起こったあの日、俺は沖田君と共にそこで戦っていた。彼の手で浪士達を何人も次から次へと叩き斬った。……俺自身も、そこで折れてしまったが。それ以降の記憶は、俺には無い。
沖田総司の刀剣としての俺は、そこで死んだのだから。
「審神者として、私は加州清光と大和守安定の二振りを信頼しています。間違いなく無事に任務を遂行してくれるでしょう」
主の瞳が泣きそうに潤んでいる。
「でも、私個人としては、二人をその記憶に送りたくない。私は、あなた達を苦しめたいわけじゃないのに……」
彼女の頬に触れていた手に、主の両手がぎゅっと重なる。主が震えた声で言った。もしかしたらあなたを失ってしまうのではないか、前の主を見たら気が変わってしまうのではないか、……怖いのだと、主は泣いた。
なんだか、主と、あなたと初めて出会った日の事を思い出すよ。初めての出陣でボロボロの重傷で帰って来た俺を、主は優しく慰めて直してくれたよね。
まるで、あの時とは逆の立場だ。そんな事を思いながら、俺は主の頭を自分の胸元へ引き寄せるように、ぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だよ、あるじ」
俺の腕の中で震える彼女はとても小さくて、か弱くて、──愛おしく思えた。
「俺はあなたの、自慢の愛刀なんでしょう? 大丈夫、絶対に折れたりなんてしないから。ちゃんとあなたのところに、皆揃って帰ってくるって、約束する」
主は俺たちを道具としてじゃなく、この身に宿った心まで大切にしてくれる。だから、その優し過ぎる気遣いのせいで、自分の心まで傷付けてしまうんだ。
「もっと俺を信じてよ」
例えどんなにボロボロの重傷を負ってしまっても、あなたは俺を愛してくれる。何度でも手入れして、おかえりなさい、帰って来てくれてよかった、そう喜んでくれるんでしょう。
審神者とそれに仕える刀剣としてじゃなくて、もっと俺の事を、今あなたを抱き締めてる俺を信じてほしい。過去は過去でしか無いんだから、俺は今のあなたを誰より大切にしたいと思ってるんだよ。
「うっ、ぐすっ……きよみつ……」
「もー、俺の主さまは泣き虫だね。それとも病気で弱ってるだけ?」
「ふ、ふふ、そうかもしれませんね、弱気になってしまっているのかも」
「いくらでも泣いていーよ。泣き止むまで、俺がこうして慰めてあげるから」
「ありがとう……あなたは本当に、優しい神様ですね……」
そんな事ない、だって本心は、主が俺の為に泣いてくれてる事を喜んでいるのだから。主が俺を想って心を痛めている事に、嬉しいと感じている。我ながら、酷い神様だよね。
俺はしばらくの間、泣き続ける主の背中を摩りながら、大丈夫と優しい言葉を繰り返した。
「……あれ、主? 寝ちゃったの?」
その内ぐすぐす泣き声が聞こえなくなってしまったから、泣き止んだのかと顔を覗き込んだら、主はそのまま眠りに落ちてしまっていた。安心、してくれたのかな。
もう、仕方のない主さまだなあ。布団に運んであげるべきなのだろうけど、まだ少しだけ主をこの腕に抱いていたい。この感情の理由も意味も、自分ではよくわからないけど、
「大好きだよ」
本当はか弱くて泣き虫なあなたを、最後の時まで支え守りたいと思う気持ちは、きっと悪い病気では無いはずだ。
***
「薬研ー、ちょっと俺のコト診察してくれない?」
主の風邪もすっかり治った頃。俺は数日振りの虎徹探しへ出陣するその前に、粟田口派短刀の一室へ訪れて、そう言った。
「……はあ?」
同室の乱藤四郎の髪を結っている最中だった薬研藤四郎は、眼鏡の奥の目を怪訝そうに細めて「何言ってんだ?」と首を傾げた。内番の準備中に申し訳ないけど、少しお邪魔するね。
「加州さん、どっか具合悪いの?」
髪を結って貰い終わった乱が、少し心配そうに俺の顔を覗き込む。「まさか主の風邪移っちゃったんじゃ」と慌てる乱を、薬研が「それはあり得ねえ」と素早く宥めた。やはり刀剣は病などかかる筈ないのかな。
とりあえず座るよう薬研に促されたので、素直に彼の目の前へ胡座をかいて座り込む。薬研はじろじろと俺を観察し始める、が、見た目はいつも通り可愛く着飾った俺だ。顔色が悪い訳でもないし、どこか怪我をした訳でもない。怪我だったら手入れして貰いに主のところへ行くもん。
「どこも調子が悪そうには見えないんだが……前にも言ったが、俺たち刀剣は病に無縁だ。変なもん食って腹ぁ壊すとかなら別だが、風邪が移ったりはしてねえ筈だぞ」
「うん、風邪では無いと思う。実はここ最近、心臓の調子が可笑しいんだ」
「……心臓? 痛むのか?」
俺は胸の少し左を片手で押さえながら、薬研に今までの不思議な症状について、なるべく細かく説明した。
突然どくんと心臓が跳ね上がったり、どきどきと心拍が早くなったり、きゅっと締め付けられたように苦しくなったり……。そのどの症状も、主が関係して起こるのだ。
いつ頃からかハッキリ覚えてはいないが、主の素顔を初めて見てしまった時からだと思う。
「大将が原因で起こる症状か……病気は病気でも、そりゃあ心の問題かもしれねえな」
「心の病気ってこと?」
薬研にもよくわからないみたいだ。そもそも、主を見ていて俺のような症状になったことは無いというし、他の刀剣からもそんな症状は聞かないそうだ。
「ね、ねえ、それってさ!」
薬研の隣で一緒に話を聞いてくれていた乱が、何故か嬉々とした表情で声を上げた。ずいっと俺に近付いてきた顔はキラキラ目が輝いている。
「恋の病ってやつじゃないの?」
…こいの、病?
「冬を乗り越えられずに死んでしまった、あの池の鯉?」
「違うよ! 加州さん仮にも川の下の子でしょう?! ベタなボケかまさないでよもー!」
「え、あー! そっちの恋!?」
俺が恋の病を患っている?
それも、主に対して?
だんだんと自分の体が熱を持っていくのを感じた。頬が熱い。予想外の事実を知って、知られてしまった羞恥のせいなのか。
「待って、俺、刀剣だよ?」
戸惑う俺に、乱は恋にそんな事関係ないよ、と少女のように笑った。
「僕たちだって刀剣だけど、主のこと大好きだよ。でも、加州さんのような症状にはなった事ないし、僕も実際の恋愛なんて感情は理解し難いけど……主に褒めてもらったり頭を撫でてもらえるとさ、心がぽかぽかあったかくなるよね。もしも僕が人の子で、お母さんが居たらこんな感じなのかなー、って思うよ」
「ああ、わかるぜ。大将は俺たちをただの道具じゃなくて、大切な自分の子供みたいに接してくれるからなあ。俺たちにとってのあの人は母親みたいなもんだが、……加州の兄貴みたいに、物を超えて人に近い感情が生まれても、可笑しくはないんじゃないか?」
薬研まで、その感情は良い変化であっても悪い病気ではないだろうと、笑ってくれた。
「……そっか」
あの人の事を、俺はただ、俺を大切にしてくれる主だから、大好きなんだと思ってた。それこそ、彼らが言う母親みたいに。
でも、今は違うと断言出来る。
俺はあの人を異性として見てしまっている。仕えるべき主としてじゃなくて、たった一人の女性として、あの人を守りたいって。ずっとそばに、隣に居たいと想っているんだ。
あの人の笑顔が何より可愛く見えるのも、些細な行動や言葉で心臓が煩くなるのも、時々もやもやと黒い感情が滲んでしまうのも、恋の病ってやつが原因だったらしい。
「俺、自分が理解してる以上に、主のこと大好きだったみたい」
何でだろう。恋だと言われた途端、妙にそれを納得してしまって、凄くすっきりした。
「あー、よかった。変な病気とか風邪じゃなくて! お邪魔しちゃってごめんね、薬研」
「恋の病ってやつの方が、風邪なんかより余程厄介な気がするけどな」
「僕は加州さんのこと応援しちゃうよ!」
「へへ、乱もありがとー」
お礼に今日のおやつは二人に半分こして分けてあげよう。
「内番よろしくね」「そっちも検非違使に気を付けて」と別れの会話を交わした後、俺は廊下を一目散に走り出した。既に主や第二部隊の隊員達が待っているであろう、玄関先へ向かって。
長谷部辺りに見られたら怒鳴られそうだけど、知った事か。今の俺は自分の気持ちにちゃんと気付けたおかげで、とっても気分が良いんだ。
「あーるーじー!」
案の定、玄関の前で安定と一緒に俺を待ってくれていた主。俺はその後ろ姿に、思いっきり飛び付くのだった。
「ひゃわあ! き、清光ちゃん!?」
「あるじー! 俺、あなたのこと大好きだからね。世界でいっちばん好きー!」
「あら、まあ、突然どうしたのですか? 嬉しいですけど、びっくりしてしまいますよ、もう……ふふ」
「いや、冗談なんかじゃなくて、俺は本気だよ?」
「はい、ありがとうございます」
……今はまだこの関係で我慢するけど、いつか、この気持ちがあなたにちゃんと伝わるまで何度でも好きって言うよ。
主に一番愛されてる刀剣じゃなくて、あなたを誰より愛せる恋人になりたい。最後の時まで、ずっと。
だーかーら!
この先何があっても、あなたのそばを離れたりなんて、絶対にしてあげないんだからね。
2025.03.12公開
第七話
検非違使との戦いに明け暮れること早一ヶ月。
敵はやたら固いし槍の攻撃がチクチク鬱陶しいしで、最初はなかなかに苦戦していたのだけど。あの手強い敵の刀装には遠戦が有効だと気付いてからは、随分戦闘も楽になって。気付いたら第一部隊の面々は皆、練度の限界に達していて。俺の率いる第二部隊の面々も驚きの練度に成長していた。
しかし、あまりにも見つからない虎徹の二振りに、俺たちも主も赤疲労でぐったり戦場を回る日々。もしかして時の政府の情報は嘘なんじゃないかと、虎徹なんて最初から居なかったのでは?なんて、疑いすら持ち始めた頃である。
俺たちはようやく、今まで見た事もない刀剣を、検非違使戦後に発見した。
「……え、あれ、何これ」
「うーん、短刀に長さは近いけど、たぶん小脇差じゃないのかな……?」
俺の手に持ったそれを、安定は信じられないと言う顔で見つめていた。藤四郎の脇差でも、青江や国広でも無い。こ、これは──!
「あ、あるじ! あるじー!!」
俺は大慌てで紙製式神を使って、本丸で待つ主に報告しようとした。が、返事が無い。あれ?
「主? ねえ、主ってばー」
『……』
「もしかして、寝てる?」
不審げに眉を寄せる安定に、まさか主に限って居眠りなんてそんな……と思いつつ、そういえば今朝起こしに行った時、具合が悪そうに青白い顔をしていたのを思い出す。大丈夫かな。出陣前に声を掛けた時は、大丈夫ですよって笑っていたけど。不安で何度も何度も呼びかけていると、ようやく。
『……ハッ!』
主の、今起きましたーって言わんばかりの声が聞こえて、ちょっと安心した。けど、本当に居眠りしてたのね……。
『す、すみません! 私としたことが、うっかり寝落ちて……!? ど、どうしました!? 皆、無事ですか!』
姿は見えないのに、声だけで慌てまくってる事がよく分かる。俺は安定と主をからかうようにけらけら笑いながら、大丈夫だよーと明るく返した。
「第二部隊は全員投石兵のおかげで無傷だから。それよりも、新しい刀剣を発見したんだよ、主!」
『え……ほ、本当ですか……!?』
「うん! 今すぐ帰還するから待っててね」
主の嬉しそうな声は俺たちも嬉しくさせてくれる。早く帰って、こいつも実体化してもらおう。
皆、大喜びするに違いない。特に蜂須賀なんて、兄弟とやっとの再会に感動で泣いちゃうんじゃないの?
式神の転移機能ですぐにお屋敷へ帰還した。隊員たちと解散してから、安定と一緒に主の待つ本丸へ、少し早歩きに向かう。
開けっ放しの襖から顔を覗かせると、いつものように顔布を付けた主が、既に蜂須賀虎徹と一緒に待ち構えてくれていた。ただいまー! そう安定と声を揃えれば、主はおかえりなさいと優しく出迎えてくれる。
「ごめんなさいね、いつもなら玄関先で皆をお迎えしたかったのだけど……今日はなんだか調子が悪くて」
「主、大丈夫? 今日はこの後ゆっくり休んだ方が良いんじゃないかな」
心配そうな安定に、少し動き辛いだけですから大丈夫、と顔布越しに微笑む主。……本当に大丈夫かなあ。声もなんだか、いつもより少し掠れて聞こえるような気がする。
俺は主の隣でそわそわしている蜂須賀を見兼ねて、早速、戦場で見つけてきた刀剣を主に差し出した。
主はそっとそれを受け取って、久しぶりに刀剣男士を実体化させる為、目を閉じて精神集中し始める──。
そして、本丸部屋が一瞬カッと眩しい光に包まれた後。
「俺は浦島虎徹! ヘイ! 俺と竜宮城へ行ってみない? 行き方わかんないけど!」
浦島虎徹と名乗った脇差の少年男士。明るい金髪に爽やかな青の着物を大胆にはだけさせ、その肩に小さな亀を乗せて、真っ白な歯を輝かせる眩しい笑顔が印象的だ。
彼は紛れも無い本物の、真作の虎徹の一振り。主御用達のサニーぺディアによると、彼の名前の由来は、その刀身に浦島太郎の像が彫られているからだって。へえー、ちょっと見てみたいかも。
「えーっと、俺を呼んでくれたのは、お姉さん? 俺の、あるじさん……?」
「はい。初めまして、浦島虎徹。ずっとあなたを探していたんですよ、あなたのお兄さんも一緒に」
「……兄ちゃん?」
浦島の目線が、蜂須賀へと向けられる。途端、ぱああ! とその目をますます輝かせたかと思えば。
「わあ! 蜂須賀兄ちゃんだあー!!」
大喜びで自分のお兄さんに飛びついて行った。突然の事に、これには流石の蜂須賀も驚いて混乱しているみたいで、思わず笑ってしまった。
「こ、こら、浦島! 俺もお前に会えて嬉しいけど、いきなり抱きつかれたら驚いてしまうだろう?」
「えっへへへー! ごめん、ごめん! まさか蜂須賀兄ちゃんに会えるなんて思ってもみなかったから、俺嬉しくて。玉手箱貰った時より嬉しいかも! 貰った事ないんだけど!!」
「全く、浦島は仕方ないなあ……」
「……あれ、兄ちゃん泣いてる?」
「な、泣いてなんかないよ!」
いや、泣いてる泣いてる。ぼろぼろ泣いてる。蜂須賀のやつ、本当に嬉しそう。
こんな姿見せられちゃうと、頑張って見つけ出した甲斐あったなあって、俺たちの気分も報われるよ。
「ふふ……良かった……」
主もすごく嬉しそうだ。でも、なんか、ゆらゆら──してる?
「あと、もう一振りで、虎徹の兄弟も揃いますね…また、頑張らな、きゃ……」
そう途切れ途切れに呟いたかと思えば、主の身体がゆっくりと前のめりに床へ沈んでいった。
……え?
「あ、あるじ!? どうしたの、ねえ、主!」
以前にも、主が刀剣男士の実体化の後に気を失って倒れた事がある。三日月宗近を鍛刀した時だ。でも、これは違う、驚き過ぎて気を失ったとか可愛いものじゃない。
畳にぐったりと倒れ伏した主は、苦しそうな浅い呼吸を繰り返していて、首元に手を当てたら酷く熱かった。それに、げほげほと辛そうな咳が、出てる。
一瞬で頭の中に過去の嫌な記憶が蘇る。けど、俺はもうただの振るわれるだけの刀剣じゃない。
「安定、布団出して!」
「う、うんっ」
「蜂須賀は浦島と一緒に、薬研呼んできてくれる……?!」
「あ、ああ、わかった!」
俺は主を横向きに抱き上げて、その小さく脆い身体と、人間のか弱さを改めて実感してしまった。
ねえ、あるじ、大丈夫……だよね……?
***
「38.5度……熱がちいっと高いが、ただの風邪だな」
布団の上で横たわる主の額に手を当てて、体温計片手に、白衣姿の薬研はそう呟いた。
ずっと診察を見守っていた俺と安定は、安堵にほっと胸を撫で下ろす。そっか、まだ風邪でよかった。もっと酷い病気だったら、俺たちの手には負えない。……病は、斬れないから。
しかし、診察の為とはいえ、気を失っている主に無断で顔布を外してしまったけど、あるじ…目を覚ました後で気にしてしまわないかな。薬研は主の素顔を見ても全く動じていないみたいだけど。
「ここんとこ、ずっと働き詰めだったろ。それで疲労が溜まって、身体の免疫力が落ちて……。恐らく一昨日の審神者会議に出た時、うっかり風邪を貰って来ちまったんだな」
俺たち刀剣にはしっかり休めって気にかける癖に、自分が倒れてどうすんだ、この主は。呆れたようにそう言った薬研だけど、その苦笑を浮かべる表情から、彼も心底主を心配していたんだとわかる。
「そんな状態で無理して刀剣男士の実体化なんてすりゃあ、限界が来て気ぃ失うのも仕方ねえや」
「風邪なら、ちゃんと、すぐに治るよね? 薬研……」
不安で泣いてしまいそうな安定に、薬研はゆっくり休ませてやれば大丈夫だ、と笑って励ましてくれた。
その後は薬研と相談して、主が風邪を治して本調子に戻るまでは遠征や出陣を中止。時の政府にも申請を出して絶対に主を休ませて無理させない事。他の刀剣達にもそれを知らせ、しばらくは内番を中心に静かな日々を過ごす事に決めた。
審神者の体調不良には、僅かだけど俺たち刀剣男士にも影響がある。付喪神を使役する審神者の霊力が弱まれば、その付喪神も弱体化してしまうのは当然であり仕方無い事だ。
「んじゃ、俺っちは報告に行って来るな。皆、大将のこと心配してるから、少しは安心させてやんねえと」
「うん……申し訳ないけど、頼むね。俺たちは主を診てるから……」
「おう、そっちこそ頼むぜ。目が覚めたら教えてくれ、食事を持ってくる」
薬研が救急箱片手に去っていくのを見送ってから、俺は小さく息を吐いた。赤い顔で寝苦しそうに横たわる主を見つめる。まだしばらく目を覚ましそうにはない。
突然、隣からぱちゃぱちゃと水音が聞こえたから何かと思って目を向ければ、単に安定が氷水を溜めた桶で手拭いを濡らしているだけだった。水気をぎゅっと絞った手拭いを、そっと主の額の上に乗せれば、ほんの少しその表情が和らいだような、気がする。
安定はそのまま冷えた手で主の頬に触れながら、ぽつぽつと話し出した。
「……あの、さ……変な話だって笑って欲しいんだけどさ、」
「なに」
「僕……この人とは、ずっと、一緒に居られるような気がしてたんだ」
何その話、全然笑えないよ。
俺だって、どこかでそう思ってた。いや、思いたかったのかな。ずっと大事にしますね、って、この人のそんな言葉を鵜呑みにして。
「でも、そんなこと有り得ないんだよね。必ずどこかで終わりが来るって、一度味わった筈なのになぁ……」
ずっと永遠には一緒に居られない。俺たちは刀剣で、主は人間だから、時を過ごす長さが蝉と亀の寿命ほど違う。きっと、この人は言葉通りに俺たちをずっと大切にしてくれる。でも、それは永遠じゃないって、限りあるものだって、理解してた筈なのに。
こうやって病気で弱ってしまう様を見せられては、人間というのは俺たちより遥かに脆く儚いものだと、改めて知らされる。
「もしもこの戦いが終わったら、僕たちはどうなるのかな」
「……さあ、ね」
もしも主が……なんて例え話でも言えないから、戦いに置き換えたのだろうけど、同じ事。最後の時がどうなるかなんて、その時にしかわからないよ。でも。
「俺は、最後まで主と一緒に居たいよ。永遠は望まないし、限りある命でずっと愛してくれるって、言ってくれた人だから。……ずっと一緒に、この人の為の刀剣で居るよ」
安定はようやくこちらを向いたかと思えば、大きな目を細めて笑った。笑い話にして欲しい、とか言っといてお前が笑うのかよ。なんて心の中で悪態付きつつ、俺もつられるように微笑む。
「僕も同意見、かな」
こんな優しくて尊い人に、永遠を強請るなんて残酷過ぎるだろう。俺たちは限りある命を持った人間だから、この人が好きなんだ。
……でも、わがままを一つ言うなら、出来れば長生きしてほしい、なんて。
「あーもー暗い話終ーわり! 主が起きた時にこんな雰囲気じゃ心配させちゃうでしょ!」
「うん、そうだね。というか清光声でかいよ、病人が寝てるんだから静かにして」
「お前が凹んでるから元気付けてやろうと思ったのに酷い……。もう、俺たちの調子狂っちゃうから、早く目を覚ましてよね、あるじ」
***
主が目を覚ましたのは、すっかり日も暮れた夕飯時の時間だった。
「あれ……私、どうして……」
まったく今の自分の状況が理解できていないらしい。ぼんやりと寝起きの赤い瞳が、ようやく俺たちの方を向いた。そこで主に、あなたは風邪で体調が悪いのに無理をした結果倒れたのだ、と伝える。
それを聞いてすぐに、主は体を起こそうと身動ぐも、熱で怠いのか起き上がれない様子。俺はそっと主の背中と肩に手を回して、体を抱き起こした。こうして弱った主のお世話が出来る瞬間、俺は人間の体を与えて貰えて良かったと思う。
「もう……本当にびっくりしたんだからね、主のばか……ただの風邪でよかったよ」
主に抱き着いたまま悪態を吐くも、耳元に弱ったか細い声で「ごめんなさいね、ありがとう」なんて言われてしまったら、主が目を覚ましたら目一杯お説教してやろうと思ってたのに、そんな考え全部吹き飛んでしまった。
主から体を離した途端、まるで入れ替わるように安定が主に抱き着いた。相手が病人であるにも関わらず、主が掠れ声で困惑しているのも無視して、ぼろぼろ泣き始める安定。
「やすさだちゃん?」
「なんで、そうやって無理するの……主のばか、主なんて嫌いだ……」
「あぁ、ごめんなさい、安定ちゃん……でも、私は、こんな風に心配して泣いてくれるあなたが大好きですよ」
「だったら、ぐすっ、無理なんてしないで、お願いだから……僕たちを大切にしてくれるみたいに、自分の事も大事にして……」
泣きじゃくりながら訴える安定の願いに、主は返事をくれなかった。でも、その赤い瞳が、涙で潤んでいるのがはっきり見えたから、大丈夫、きっと俺たちの想いは伝わってる。
「俺たちみたいな刀の主は、長生きしてくれなきゃ、やだよ」
俺もそう願いを伝えたら、主はようやく「はい」と返事をしてくれた。
「私はそう簡単に居なくなったりしませんよ。大丈夫です」
俺たちを安心させようとするその微笑に、ほんの少しだけ翳りが見えたような気がしたのは、どうしてだろう。
……信じるからね、主。
安定もやっと泣き止んだ頃、主が目を覚ました事を聞いて、薬研だけでなく、本丸中の刀剣たちが続々と順々に主の見舞いへやってきた。
皆、ずっと主が心配だったんだ。やっぱり主は皆から愛されてるんだね、さっすが俺の主! なんて、微笑ましいその様子を鼻高々に眺めていたら、安定に「なんでお前が誇らしげなんだよ」ってツッコまれてしまった。
そんな賑やかな中でも、浦島虎徹が号泣しながら飛び込んできた時は驚いたなあ。自分のせいで主が倒れたんだって、わんわん泣いてた。付き添ってた蜂須賀も申し訳なさと罪悪感で主と顔を合わせ辛そうだったけど、主に「これは単なる私の失態です。こんな風邪なんて早く治してしまいますから、また虎徹の兄弟探し頑張りましょうね」って逆に励まされていて、二人とも安心したみたい。
驚いたと言えば、そうそう、あの大倶利伽羅も主の見舞いにやってきたんだよ。庭から摘んできたらしい、小さな薄紫色の野花を持ってね。「早く治せ」なんて、ぶっきらぼうにそれだけ言って、すぐに出て行ってしまったけど、主はその手に押し付けられた見舞いの花を眺めながら、顔布越しにとても嬉しそうだった。
粟田口派の兄弟刀達が、鳴狐や一期一振まで巻き込んで押し寄せてきた時も驚いたけどね。前田が「生姜は風邪によく効くそうですよ」と生姜茶を持ってきてくれたのは有難かったのに、秋田や五虎退が泣いちゃうわ、鯰尾が主の布団に忍び込もうとするわで、病人の部屋とは思えないほどの大賑わい。宥めたり止めるこっちが一苦労だったよ。
刀剣達の見舞い時間も落ち着いた頃、薬研がまた体温計片手に主の具合を見に来てくれた。
「お! 熱は大分下がってきてるな、気分はどうだ大将。飯は食えそうか」
「はい、皆のおかげで風邪の怠さなんて吹き飛んでしまいましたよ」
「そりゃあ何よりだ。さっきは騒がしくしちまって悪い事をしたと思ってたが、大将には良い薬だったみてえだな」
人の病は気から生まれるもの、とも言うらしく、嬉しい気持ちや笑顔でいる事が、医者の出す薬なんかより遥かに効果的な良薬になることもあるんだって。
しかし、主はそれだけじゃないのだと、薬研に言葉を続ける。
「清光ちゃんと安定ちゃんがずっと私の事を看てくれるので、とっても安心するんですよ」
薬研の驚いた紫の目が俺たちを見つめて、フッと微笑んだ。やれやれ、とどこか呆れるように。
「……本当、愛されてんなあ」
それは俺たちに向けて言ったのか、主に向けて言ったのか、はたまた両方か。
少し妬けるな、なんてからかうように笑う薬研。そんな彼に主は「薬研ちゃんという優秀なお医者さまも居てくれますからね」とお礼を込めて、薬研の頭を撫でていた。
照れ臭そうに頬を掻く薬研を、今度は俺たちがニヤニヤとからかってやるのだった。
***
その日の深夜、俺は寝苦しさに唸りながら目が覚めた。
看病の為、主の寝室で主が寝静まったのを見届けてから、俺も壁を背に眠りについた……のが、良くなかったのかな。背中痛いし、首も痛い。
安定は泣き疲れたせいなのか、座ったまま寝ていても、全く目を覚ます気配はない。爆睡してる。
ふと気がついた。主が寝ていた筈の布団の上に、その主の姿が、ない。
「……あるじ?」
いったいどこへ。慌てて立ち上がってすぐ、開いた襖の隙間に彼女の後ろ姿を見つけた。ほっと安堵に胸を撫で下ろす。なんだ、縁側の方に居たのか。
俺は痛む背中を摩りながら寝室を出て、縁側に腰掛けて庭を眺める主の隣へと歩み寄った。
足音にこちらを振り返った顔は、顔布をしていない素顔の主だった。
「おはよう、主。……って、起きるにはちょっと早過ぎじゃない? 三日月さんでもまだ起きて来ないよ」
空は少し白んでいるものの、夜中と言うには明るいが、明方と言うにはまだ暗い。
「昼間あんなに眠ってしまいましたから、あまり眠れなくて……」
「まあ、仕方ないか。でも今のあなたは病人なんだから、風邪悪化させる前に布団に戻ってよ。ほら、せめて毛布羽織って」
自分が羽織っていた毛布をさっと主の身体に包んでから、左隣にストンと腰掛けた。主の赤い瞳がじっとこちらを見つめて、ふふ、と弾むような笑い声と共に緩く細まる。
「ありがとう、清光」
熱で赤い頬と相まって溶けるような微笑みに、どくんと心の臓が跳ね上がった。
どーいたしまして、と少し雑に返事をしながら、じわじわ熱くなる顔を見せたくなくて主からそっぽを向いてしまう。
ああ、まただ。何故かわからないんだけど、最近になって、俺の心臓なんだか可笑しいんだ。主の一挙一動で、さっきみたいに心臓が跳ねたり、どきどきと鼓動が速くなったりして、決して嫌な気分ではないけど、原因不明の変化が不思議で仕方が無い。
特に、主に素顔で笑みを見せられると弱い。可愛くて、綺麗で、そのまま触れたくなって、ぎゅーって抱き締めたくなる。でも、それを実際にしてはいけないような気がして、気恥ずかしくて出来ない。……ちょっと前まで、平気で主にべたべたくっついてたのに、何でだろう。
俺も何かの病気なのかな。そもそも刀の付喪神が病を患ったりするの? 今度、薬研にでも聞いてみるべきだろうか。
「ねえ、清光ちゃん」
「……なあに?」
悶々と考え事をしていたら、主の呼びかけに反応するのが少し遅れてしまった。顔を向けなおして、主の赤い瞳を見つめ返す。それはやけに真剣な色をしていて、相変わらず綺麗な赤だった。
「今後、もう一振りの虎徹を無事に手に入れる事が出来たなら。またあなたに、第一部隊の隊長をお願いしたいと思っています」
「え、俺が隊長?」
純粋に驚いてしまった。
そりゃあ最初の頃はよく第一部隊の隊長を任される事はあった。でも、今の俺の中心となる仕事は、近侍として主の身の回りを手助けする事。第二部隊を率いて新たな刀剣探しへ戦場に出向く事はあっても、第一部隊を任されるのは随分と久し振りだ。
どうしてと聞く前に、先日の審神者会議で政府から新たな合戦場への出陣任務が言い渡されたのだと、教えてくれた。それでも、俺が隊長に選ばれる理由が、まだわからない。
「俺で良いの?」
「清光ちゃんにしか頼めません。でも……」
俺を選んでくれたのは嬉しい。けど、主は何故か口籠って俯いて、ちゃんと理由を教えてはくれない。
「あるじ……?」
今度こそ、どうしてなの、と声を掛けながら、そっと主の頬に触れた。熱も微熱まで下がったとはいえ、まだ結構熱いね。
主はまだ俯いたまま、ぽつぽつと理由を話し始めた。
その新たな合戦場では、狭い町中や室内での夜戦が主となるらしい。よって、その身が大振りである大太刀や薙刀などの刀剣には不利な戦場となっている。逆に言えば、狭い場所でも身動きが取れて足も速く夜目も効く、脇差や短刀、また打刀の刀剣が活躍出来る戦場なのだそうだ。
だから、近侍として信頼出来て、皆を率いる実力も練度も十分にあるとして、俺を隊長に、そして安定を副隊長に任命したいと。俺たち二振りを中心に、夜戦特化の第一部隊を編成したい。主はそう言ってくれた。
俺としては喜ばしい事なのに、ようやく顔を上げた主は、何故か酷く悲痛の表情を浮かべていた。
「──合戦場の名は、池田屋の記憶。あなたの過去に直接関わる記憶です」
池田屋。そのたった一言だけで、沖田君と戦ったあの時を、自身の最後を、一瞬で思い出した。
現代でも歴史に名高い有名な池田屋事件が起こったあの日、俺は沖田君と共にそこで戦っていた。彼の手で浪士達を何人も次から次へと叩き斬った。……俺自身も、そこで折れてしまったが。それ以降の記憶は、俺には無い。
沖田総司の刀剣としての俺は、そこで死んだのだから。
「審神者として、私は加州清光と大和守安定の二振りを信頼しています。間違いなく無事に任務を遂行してくれるでしょう」
主の瞳が泣きそうに潤んでいる。
「でも、私個人としては、二人をその記憶に送りたくない。私は、あなた達を苦しめたいわけじゃないのに……」
彼女の頬に触れていた手に、主の両手がぎゅっと重なる。主が震えた声で言った。もしかしたらあなたを失ってしまうのではないか、前の主を見たら気が変わってしまうのではないか、……怖いのだと、主は泣いた。
なんだか、主と、あなたと初めて出会った日の事を思い出すよ。初めての出陣でボロボロの重傷で帰って来た俺を、主は優しく慰めて直してくれたよね。
まるで、あの時とは逆の立場だ。そんな事を思いながら、俺は主の頭を自分の胸元へ引き寄せるように、ぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だよ、あるじ」
俺の腕の中で震える彼女はとても小さくて、か弱くて、──愛おしく思えた。
「俺はあなたの、自慢の愛刀なんでしょう? 大丈夫、絶対に折れたりなんてしないから。ちゃんとあなたのところに、皆揃って帰ってくるって、約束する」
主は俺たちを道具としてじゃなく、この身に宿った心まで大切にしてくれる。だから、その優し過ぎる気遣いのせいで、自分の心まで傷付けてしまうんだ。
「もっと俺を信じてよ」
例えどんなにボロボロの重傷を負ってしまっても、あなたは俺を愛してくれる。何度でも手入れして、おかえりなさい、帰って来てくれてよかった、そう喜んでくれるんでしょう。
審神者とそれに仕える刀剣としてじゃなくて、もっと俺の事を、今あなたを抱き締めてる俺を信じてほしい。過去は過去でしか無いんだから、俺は今のあなたを誰より大切にしたいと思ってるんだよ。
「うっ、ぐすっ……きよみつ……」
「もー、俺の主さまは泣き虫だね。それとも病気で弱ってるだけ?」
「ふ、ふふ、そうかもしれませんね、弱気になってしまっているのかも」
「いくらでも泣いていーよ。泣き止むまで、俺がこうして慰めてあげるから」
「ありがとう……あなたは本当に、優しい神様ですね……」
そんな事ない、だって本心は、主が俺の為に泣いてくれてる事を喜んでいるのだから。主が俺を想って心を痛めている事に、嬉しいと感じている。我ながら、酷い神様だよね。
俺はしばらくの間、泣き続ける主の背中を摩りながら、大丈夫と優しい言葉を繰り返した。
「……あれ、主? 寝ちゃったの?」
その内ぐすぐす泣き声が聞こえなくなってしまったから、泣き止んだのかと顔を覗き込んだら、主はそのまま眠りに落ちてしまっていた。安心、してくれたのかな。
もう、仕方のない主さまだなあ。布団に運んであげるべきなのだろうけど、まだ少しだけ主をこの腕に抱いていたい。この感情の理由も意味も、自分ではよくわからないけど、
「大好きだよ」
本当はか弱くて泣き虫なあなたを、最後の時まで支え守りたいと思う気持ちは、きっと悪い病気では無いはずだ。
***
「薬研ー、ちょっと俺のコト診察してくれない?」
主の風邪もすっかり治った頃。俺は数日振りの虎徹探しへ出陣するその前に、粟田口派短刀の一室へ訪れて、そう言った。
「……はあ?」
同室の乱藤四郎の髪を結っている最中だった薬研藤四郎は、眼鏡の奥の目を怪訝そうに細めて「何言ってんだ?」と首を傾げた。内番の準備中に申し訳ないけど、少しお邪魔するね。
「加州さん、どっか具合悪いの?」
髪を結って貰い終わった乱が、少し心配そうに俺の顔を覗き込む。「まさか主の風邪移っちゃったんじゃ」と慌てる乱を、薬研が「それはあり得ねえ」と素早く宥めた。やはり刀剣は病などかかる筈ないのかな。
とりあえず座るよう薬研に促されたので、素直に彼の目の前へ胡座をかいて座り込む。薬研はじろじろと俺を観察し始める、が、見た目はいつも通り可愛く着飾った俺だ。顔色が悪い訳でもないし、どこか怪我をした訳でもない。怪我だったら手入れして貰いに主のところへ行くもん。
「どこも調子が悪そうには見えないんだが……前にも言ったが、俺たち刀剣は病に無縁だ。変なもん食って腹ぁ壊すとかなら別だが、風邪が移ったりはしてねえ筈だぞ」
「うん、風邪では無いと思う。実はここ最近、心臓の調子が可笑しいんだ」
「……心臓? 痛むのか?」
俺は胸の少し左を片手で押さえながら、薬研に今までの不思議な症状について、なるべく細かく説明した。
突然どくんと心臓が跳ね上がったり、どきどきと心拍が早くなったり、きゅっと締め付けられたように苦しくなったり……。そのどの症状も、主が関係して起こるのだ。
いつ頃からかハッキリ覚えてはいないが、主の素顔を初めて見てしまった時からだと思う。
「大将が原因で起こる症状か……病気は病気でも、そりゃあ心の問題かもしれねえな」
「心の病気ってこと?」
薬研にもよくわからないみたいだ。そもそも、主を見ていて俺のような症状になったことは無いというし、他の刀剣からもそんな症状は聞かないそうだ。
「ね、ねえ、それってさ!」
薬研の隣で一緒に話を聞いてくれていた乱が、何故か嬉々とした表情で声を上げた。ずいっと俺に近付いてきた顔はキラキラ目が輝いている。
「恋の病ってやつじゃないの?」
…こいの、病?
「冬を乗り越えられずに死んでしまった、あの池の鯉?」
「違うよ! 加州さん仮にも川の下の子でしょう?! ベタなボケかまさないでよもー!」
「え、あー! そっちの恋!?」
俺が恋の病を患っている?
それも、主に対して?
だんだんと自分の体が熱を持っていくのを感じた。頬が熱い。予想外の事実を知って、知られてしまった羞恥のせいなのか。
「待って、俺、刀剣だよ?」
戸惑う俺に、乱は恋にそんな事関係ないよ、と少女のように笑った。
「僕たちだって刀剣だけど、主のこと大好きだよ。でも、加州さんのような症状にはなった事ないし、僕も実際の恋愛なんて感情は理解し難いけど……主に褒めてもらったり頭を撫でてもらえるとさ、心がぽかぽかあったかくなるよね。もしも僕が人の子で、お母さんが居たらこんな感じなのかなー、って思うよ」
「ああ、わかるぜ。大将は俺たちをただの道具じゃなくて、大切な自分の子供みたいに接してくれるからなあ。俺たちにとってのあの人は母親みたいなもんだが、……加州の兄貴みたいに、物を超えて人に近い感情が生まれても、可笑しくはないんじゃないか?」
薬研まで、その感情は良い変化であっても悪い病気ではないだろうと、笑ってくれた。
「……そっか」
あの人の事を、俺はただ、俺を大切にしてくれる主だから、大好きなんだと思ってた。それこそ、彼らが言う母親みたいに。
でも、今は違うと断言出来る。
俺はあの人を異性として見てしまっている。仕えるべき主としてじゃなくて、たった一人の女性として、あの人を守りたいって。ずっとそばに、隣に居たいと想っているんだ。
あの人の笑顔が何より可愛く見えるのも、些細な行動や言葉で心臓が煩くなるのも、時々もやもやと黒い感情が滲んでしまうのも、恋の病ってやつが原因だったらしい。
「俺、自分が理解してる以上に、主のこと大好きだったみたい」
何でだろう。恋だと言われた途端、妙にそれを納得してしまって、凄くすっきりした。
「あー、よかった。変な病気とか風邪じゃなくて! お邪魔しちゃってごめんね、薬研」
「恋の病ってやつの方が、風邪なんかより余程厄介な気がするけどな」
「僕は加州さんのこと応援しちゃうよ!」
「へへ、乱もありがとー」
お礼に今日のおやつは二人に半分こして分けてあげよう。
「内番よろしくね」「そっちも検非違使に気を付けて」と別れの会話を交わした後、俺は廊下を一目散に走り出した。既に主や第二部隊の隊員達が待っているであろう、玄関先へ向かって。
長谷部辺りに見られたら怒鳴られそうだけど、知った事か。今の俺は自分の気持ちにちゃんと気付けたおかげで、とっても気分が良いんだ。
「あーるーじー!」
案の定、玄関の前で安定と一緒に俺を待ってくれていた主。俺はその後ろ姿に、思いっきり飛び付くのだった。
「ひゃわあ! き、清光ちゃん!?」
「あるじー! 俺、あなたのこと大好きだからね。世界でいっちばん好きー!」
「あら、まあ、突然どうしたのですか? 嬉しいですけど、びっくりしてしまいますよ、もう……ふふ」
「いや、冗談なんかじゃなくて、俺は本気だよ?」
「はい、ありがとうございます」
……今はまだこの関係で我慢するけど、いつか、この気持ちがあなたにちゃんと伝わるまで何度でも好きって言うよ。
主に一番愛されてる刀剣じゃなくて、あなたを誰より愛せる恋人になりたい。最後の時まで、ずっと。
だーかーら!
この先何があっても、あなたのそばを離れたりなんて、絶対にしてあげないんだからね。
2025.03.12公開