愛郷の詩人と不思議な猫の話
夢主設定
帝國図書館の看板猫通称・猫のお嬢さん
室生犀星に飼われている黒猫
温和で人懐っこい性格
杏色のリボンが特徴
家庭的でお料理上手な良妻
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猫と見る夢
作家、室生犀星は猫を飼い始めた。美しい雌の黒猫である。
琥珀色の目を穏やかに光らせて、飼い主のそばを片時も離れず寄り添う。離れようとすれば家でも外でも関係なく必死に後を追い、挙句職場にまでも着いて行ってしまう。随分と寂しがりで人懐っこい猫だ。
あまりにも甘え上手な為、元から野良猫だったとは到底思えず。まさかとても可愛がられていた飼い猫だったのに、事情があって捨てられてしまったのか? はたまた、うっかり逃げ出してしまった迷い猫? と、色々な想像上の心配が脳内を駆け巡ったが、猫は「にゃあ」としか話さないから結局全て謎のまま。自分を一身に慕って甘えてくる姿を見ていると「まあいいか」俺が責任持って世話してやればいいや、そう愛くるしい後頭部を撫でてしまう。首輪の代わりに、自分と揃いの杏色のリボンまで与えてしまって。
それの元が"何"であったかなど、作家は当然知る由もない。
「おまえは不思議な子だなあ。猫なのに、まるで俺の嫁さんみたいにどこまでも後を着いてきて」
「にゃあ」
「人の言葉も理解しているみたいに返事をするし、いや、実際理解しているのだろうな。おまえは賢い子だもの」
「にゃう」
「時々おまえを見ていると、黒猫の如く美しい女性が俺の隣に座っているような、可笑しな錯覚すらしてしまうよ」
「……にゃあん」
作家は自分で吐き出した冗談を笑いながら、指先でくいくいと黒猫の顎下を撫でる。猫は心地よさそうに目を細めてごろごろ喉を鳴らした。そんな仕草がもう可愛くて堪らない。
室生犀星という作家は、生前から有名な猫好きで、今生でもそれは勿論変わらなかった。図書館の庭を勝手に占拠して、たくさんの野良猫たちに餌付けをして可愛がっている程である。この黒猫に対して、不思議と女の肌に触れるような熱っぽさを感じてしまうのも、きっと自分があまりに猫を好きなせいだろうと考えた。こんなに綺麗な猫を見たのは二度目の人生でも初めてだから、とも思った。
「かわいいなあ」
嗚呼、と熱のこもった声が溢れる。作家の声に反応してまた「にゃあ」と鳴く黒猫は、彼の腕にぐりぐり小さな額を摺り寄せてきた。「うれしいです先生」とでも言っているかのように。
まだ同居を始めて間もないと言うのに、作家と黒猫の仲は既に深いものとなっていた。それはもう二魂一対の親友にまで、単なる飼い主とペットの関係を超えて「夫婦のようだね」などと微笑まれてしまう程だった。常日頃から仲睦まじく行動を共にしていれば、そうも見えてしまうのだろう。作家はそれが嫌ではなく、寧ろ喜ばしいくらいで、自慢気に「かわいい嫁さんだろう?」と笑っていた。黒猫も幸せそうに「にゃあおん」と鳴いた。
そんな夢現なことを、安易に口に出していたせいなのだろう。
「先生、先生」
ある日、作家はとうとう、幻覚まで見え始めるようになった。ああ、幻聴も。
「もう朝ですよ、起きてください」
作家の枕元で正座をしている、まるで"黒猫の如く美しい女性"が、彼の顔を覗き込むように見下ろして「お仕事に遅刻してしまいますよ」なんて微笑んでいる。
「くろ……?」
何故かその女性を見て寝惚けた頭に浮かんだのは、愛する飼い猫の名前だった。
いつも朝日が昇って飼い主の起床時間になると、目覚まし時計よりも先に、作家の頬をピンク色した肉球でぷにぷに、なかなか起きて来ないと紙やすりのような舌でざりざり、などして起こしてくれるのが、賢い愛猫のくろである。だから、こうして優しく声をかけて、細い指先で自分の頬を撫でてくれる手の正体は、うちのくろに違いないだろう。きっと自分はまだ夢を見ているのだろう。作家はそう思った。
「おはようございます、先生」
今日も日向ぼっこが捗りそうな良い天気ですよ、と伝えてくる鳴き声が耳に心地良い。
猫の華奢な手は彼の頬から額、頭へとするする移動して、短い癖っ毛をふわふわ整えるように撫で始めた。せっかく開いた瞼がまたゆっくり沈んでいく。ああ、もう少し、この夢の中に浸っていたくなる。
「……おはよう。まだ、眠っていたいな、あと5分」
「もう、先生ったら。いけませんわ、せっかく朝ごはんをご用意したのに」
確かに先程からずっと、布団の中からでもわかるぐらい、魚の焼けた美味しそうな香りが漂ってきている。
「ね、だからはやく起きてください。卵焼きがとても綺麗に焼けたのですよ。それに今日の鮭は絶対美味しいって、おばさまからのお墨付きです。あっ、それから、お味噌汁の味見もしてほしいわ、先生。猫舌にはつらいのです」
はやく、はやくおきて、と急かす彼女に、わかった、わかったよ、と根負けしてのろのろ身体を起こした。飼い主がきちんと起きたので安心して「それではお支度をしてきますね」と猫は嬉しそうに、台所の方へ姿を消した。作家はまだ重たい体で布団を畳んで、緩んだ寝間着の帯を締め直しながら、その後を追う。
自室を出てすぐの広間には、もうすっかりお支度が済んでいた。猫の言葉通り、卵焼きはふわふわで美しい薄黄一色の姿を見せつけており、鮭の切り身も皮までばっちり焦げのお化粧をして綺麗に焼けている。ほうれん草のおひたしと、大根の漬物まで炬燵の上に並んで、昨日まで握り飯ひとつで済ませることもあった朝が、嘘のように豪華だった。あとは炊きたての白米と味噌汁が並べば、完璧な朝食風景と言えよう。
しかし、広間の向こうの台所では、猫が味噌汁を作った鍋の前でそわそわしていた。さっき味見をしてほしい、なんて言っていたか。心細そうな眼差しに歩み寄ると、すぐさま小皿を差し出される。それに少量注がれた合わせの味噌汁をずずり飲み干した。
「うん、大丈夫だ。うまいぞ」
「ほんとう? 味が薄かったり濃かったりしませんかしら、ほんとにおいしい?」
「嘘なんて言わないさ。ちゃんと俺の好きな味だよ」
「……よかった、先生のお口に合って。いつかあなたの故郷の味を、再現して差し上げたいから」
琥珀のような猫目が幸福そうに細まった。賢いだけでなく、なんとしおらしい良妻兼猫であろう。作家はつい堪らなくなって、猫の華奢な丸みを持った顎へ手を伸ばして擽ってしまう。ごろごろ、猫は喉を鳴らした。
さて戯れも程々に。早速、味噌汁を準備していたふたつの椀に注いで、ふたりぶんのお米もよそって広間へ持って行き、ひとりといっぴきは炬燵の中に隣り合って収まる。主食と汁物が並び、完璧となった豪華な朝食を前に、いただきます、と両手を合わせて声を揃えた。
「確かに今日の鮭は特別うまいな」
「うん、とってもおいしい! さすがはおばさまです、お魚の目利きに関しては私も敵いませんわ」
「ところでその、おばさま、って近所の人か? いつの間にかこの辺りの人たちとも仲良くなっていたんだな。おまえが人懐っこい子なのはわかっているけど、飼い主に内緒で外へ出歩いていたのは、あまり感心しないな。心配するだろう」
「あ、ううん、それは、ごめんなさい先生。でもせっかくだから、猫の目線であちこちを見て回りたくて。それに先生が眠ってらっしゃる夜は、退屈で仕方ないのです」
「夜だなんて余計に危ないじゃないか」
「猫は夜行性の生き物ですから、それも仕方ないのですよ、先生。大丈夫、この辺りのひとたちはみんな親切で優しい方々ばかりですもの」
「そりゃあこんなに美しい猫には誰だって優しくするよ。まったく、誰かにそのうち連れ去られやしないか、心配だなあ。と言っても、俺が寝ている間にまた出掛けてしまうんだろうね、おまえは」
「私の飼い主さまは心配性ですね。何があろうと、きちんとあなたの元へ帰りますから、ご安心なさって。あっ、そんなに心配してくださるなら、今度ご一緒にお出掛けしてくれます?」
「夜の散歩か。良いなあ、この時期は夜桜も楽しめるかもしれない。近々、月がよく見える晴れの日にでも、一緒に出掛けようか」
「わあっ、うれしい! わかりました、先生がご一緒してくださるなら、その日以外の夜はお外に出ません。先生と初めての逢引ですね」
「逢引って、おまえ、随分古臭い言い方をするなあ。今時はデート、とか言うもんじゃないのか?」
「夜にひっそりとふたりでお出掛けするんですもの、逢引でしょう? 古臭い言葉の方がどきどきしますわ」
「物好きな猫だなあ。おまえが楽しいのなら、どちらでもいいか」
「……あっ、だけど、お買い物ぐらいは、行ってもいいですよね? きちんとお日様が出ている内に行きますから」
「出掛ける前に声を掛けてくれるなら良いよ。買い物も一緒に行こう」
「よかった。お魚屋さんのおばさまに、また明日も来ますって言っちゃったから」
「ん、もしかしてあの近所の魚屋? おばさまなんて居たっけ、いつも店長のおじさんとその息子さんが二人で……」
「やだ、先生ったら。いらっしゃるでしょう、いつもおじさまの傍で。青い座布団に足を全部畳んでまあるくなってるおばさま、白黒のブチ模様で鍵尻尾が素敵なおばさまですよ」
「ああ、なるほど……猫のおばさまか」
魚屋の気が良い親子に大層可愛がられて美味い魚をたらふく食べてきたせいだろう、まあるく肉を付けてふてぶてしい顔した老猫の姿を思い出して、作家は笑ってしまった。魚の目利きにも優れている訳だ、何せおばさまは魚屋で十年以上暮らす家猫なのだから。人間の客には全くの無愛想だが、同じ猫の客には親切らしい。
という事は、彼女の言う近所のひとたちとはつまり、近所の猫たちのことなのだろう。しかし、そうなれば余計に、飼い主の心配の種は尽きない。
「いくら近所の人、いや猫たちが優しくても、気を付けてくれよ。特にこの時期は、な。ほら、おまえもわかっていると思うけど、そろそろ発情期が、痛ッ!?」
炬燵の中で、作家の右膝は猫の前足の爪にざっくり引っ掻かれた。数日前しっかり爪切りしてやった筈なのに、強烈な一撃だった。
「お食事中にそんなお話はよしてください、先生! もう! えっち!!」
「俺は飼い主として純粋に心配しているだけなんだが、悪かった、悪かったよ。だけど冗談でも何でもなく、時期的に気を付けないと。この間だって、出勤途中に野良の雄猫がちょろちょろ寄ってきていたじゃないか。俺が居て、追い払ったからいいものを」
「先生以外の男など少しも興味はございません、ご心配は不要です!」
「こっちに興味は無くても、向こうは興味津々なんだよ。おまえは美人だからね。浮気の心配はしていないけど、万が一にも隙をつかれる危険性だって、」
「……先生も、私に少しくらいは、そういう興味を持ってくださっています?」
「ん!? ……あー、どう、だろうな」
今、作家の隣にいるのは、こちらから恥ずかしそうに目線をそらして、大きめに切り分けた卵焼きを食んでいる女性。まだ二十代前半ぐらいの、いや十代だと言われても納得しそうな程、瑞々しい姿をしている。箸を支える細くて白い指先、物を咥える艶っぽい唇、物を飲み込んで上下する喉の動きにさえ、どきんとした。彼女は本来、ただの猫であるはずなのに。やはり、ひとりの美味しそうな女に見えるのだ。こうして幻を見る前から、この美しい猫に惹かれていたことも事実。
作家は自身こそ発情期かと疑いたくなる昂りを抑えるように、自ら太ももをぎりりと抓って痛みで誤魔化した。気を取り直すも、顔が赤いので実に情けない。
「……とにかく! 出掛けたい時は必ず俺に声を掛ける、温かい時期は絶対ひとりで出歩かないこと、約束出来るな?」
「はあい、気を付けます……。先生こそ、逢引のお約束、忘れないでくださいね」
「忘れるもんか。今日の夜すぐにだって行きたいよ、このまま夜まで晴れてくれると良いな」
「まあっ、それは楽しみです。きっと晴れますわ、私がたくさんお庭を走り回っておきますから。先生はどこかの時間で少し仮眠をとっておいてくださいね」
猫が走り回ると日和になる。そんなことわざもあるらしいが、意図的に走り回って効果は出るのだろうか。ちなみに、気象学的な根拠は何もない。
けれど、ごちそうさまでした、と揃えた声の高さや、食器洗いの間もご機嫌な猫の後ろ姿を眺めていると、それだけで作家の心は晴れやかだった。
こうして彼女と顔を合わせて語らうことは、なんとなく懐かしい気分でもあった。
「さあ、そろそろ図書館へ向かうとするか。おいで、くろ」
「はい、本日もお供しますわ、先生」
朝食を済ませた後は、寝間着から杏色した和服に着替えてきっちり身を整え、愛猫の毛並みも専用ブラシで整えてやった。
貴重品を懐へしまって、本を二冊抱える。一冊は転生文豪である自身の魂が宿った、武器とも呼べる詩集。もう一冊は今の愛猫を拾った時に同じく拾った、表紙に黒い猫がいっぴき描かれているだけの白い本であった。中身も全くの白紙というその本を、作家は毎日持ち歩いている。この本を忘れて出ようとすると、何故だか猫が悲しそうな目をしてにゃあにゃあ鳴くからだ。「置いていかないで」と。なんとなくであるが、この本は猫にとって、酷く重要なものであるような気がした。
そうして借りている部屋を出て、寮の階段を降りていくと、出入り口の向こうで親友の姿が見えた。木陰でぼんやり雲ひとつない空を眺めている親友に、作家は「おーい」と手を振り声を掛ける。
「おはよう、朔!」
「おはよう、今日はご機嫌だね、犀」
「これだけ天気が良いんだ。機嫌好くしていなきゃ、せっかくのお日様に悪いよ。そういう朔も、なんだか嬉しそうだな」
「うん。昨夜は良い詩が書けたんだ、図書館へ着いたら白秋先生に見てもらおうと思っていて。犀にも読んでほしいな」
「勿論、楽しみだ」
会話の途中、作家の傍に並ぶ黒猫を見た。親友は一瞬驚き目を見開いたが、すぐにゆるりとその藍色を細めて微笑む。
「くろちゃんも、おはよう。君は今日も変わらずきれいだね」
犀の愛情を感じるよ。そう言って、黒猫の頭を指先でさすりさすり撫でた。
褒められたのは飼い猫の方なのに、何故か作家が自慢気に胸を張る。
「当然だろう?俺の嫁さんなんだから」
にゃーん。
黒猫は笑ってひと声鳴いてみせた。
2017.04.04公開
2018.04.02加筆修正