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800字SSまとめ

 

  【桜の国】



 もういちど、桜が見たい。
 それはハネムーンの旅行先に迷っていた最中、おずおずと呟かれた、愛する妻の言葉だった。

 薔薇の王国から飛行機で半日かけて辿り着いた先は、極東の小さな島国。独特の生食文化や和菓子については俺もよく知っている彼の国は、別名"サクラの国"とも称されるほど、年中あちこちで桜の花が美しく舞い散る様を見られるらしい。
 この国特有の"和"という風雅を感じさせる旅館に、七日連泊の予約を押さえた。森林へ訪れたような香りがする畳の部屋に荷物を置いて、長旅の疲れを備え付けの露天風呂で癒してから、どうにもヒラヒラのフワフワで慣れない浴衣を妻に着付けてもらう。夕食の時間まで余裕があるから、少し外を散歩しようか、という話になった。
 からんころん、先ほど購入したばかりの下駄を軽やかに鳴らしながら、異国の温泉街を歩く。彼女の案内で、赤い橋の目立つ川の方へと連れられる。俺は、そこで思わず、息を呑んだ。
「これは、っ……すごいな……!」
 川沿いにずらっと並んだ桜の木々、落ちる花びらが水面を薄いピンク色で埋め尽くす様は、美しいなんて言葉を忘れてしまうほどの絶景である。
 橋の真ん中で桜色のトンネルを見上げながら、わあ、と子供みたいな声を零す俺の隣で、妻は嬉しそうに声を弾ませていた。
「ふふっ、きれいでしょう? いつか、トレイ君とね、私の故郷にもあったような桜並木を、一緒に見たかったんだ」
 彼女の故郷は、この島国ではない。数年前、不運にも異世界から迷い込んでしまった、このひとの故郷は──ツイステッドワンダーランドには、存在しない。だが、極東の海に浮かぶ桜の国は、彼女の故郷と恐ろしく酷似しているらしい。
 やはり、元の世界が恋しくて、郷愁に駆られているのだろうか。俺の隣で桜を見上げる彼女は、随分と遠くを見つめているような気がした。
 びゅう、と強い風が吹き抜ける。彼女を取り囲むように、桜の花びらが舞った。途端、ぞわりと背筋が震えたのは、水辺に佇む肌寒さのせいか、それとも──……。
「トレイ、どうしたの?」
 心配そうな音に呼び掛けられて、ハッと我に返る。俺はいつの間にか、もはや無意識で、妻の手首を逃さぬように掴んでいた。
「あ……いや、その……何と言えば良いか、わからないんだが、」
 この奇妙な焦燥感は、いったい何だろう。舞い散る桜に紛れる妻は、どこかへ、消えてしまいそうに見えたのだ。
「桜に、さらわれるかと、思った」
 我ながら、可笑しなことを言った自覚はある。でも、本当にそんな恐怖で震えてしまったから。
 彼女は、元の世界へ帰る事を望まなかった。俺と添い遂げる道を選んでくれた。……決して、どこにも行かないと、約束をしてくれたのに。心から信じてやれない、未だに不安を感じてしまう自分が、何とも情けない。
 さすがに、予想外の発言だったのだろう。キョトンと目を丸くしていた彼女だったが、すぐ「あはは」と声を上げて晴れやかに破顔する。
「もう、トレイ君は心配性だね。大丈夫だよ。この世界なら本当に、ひとをさらっちゃう桜の妖精さんとか、居るのかもしれないけれど──」
 掴まれていない方の手で、彼女はそっと俺の頬に触れる。自分の頬を桜色に染めながら、にこ、と微笑んだ。
「例え、さらわれたとしても。私のこと、"奪いに来て"くれるんでしょう? 魔法使いさん」
 嗚呼、そんなこと、言った記憶が鮮明にある。それは俺が学生の頃、職員という立場や歳の差、そして異世界なる壁で思い悩む彼女へ、愛を告白する時に約束をした言葉だった。
 数年前の若い台詞に、今度は自分自身が励まされるとは、まったく笑ってしまう。
「……もちろん、奪いに行くさ。どんな汚い手を使おうとも、強引に世界を歪ませようとも、な」
「まあ、悪い顔!」
 ニンマリと笑う俺を見上げて、彼女は柔やかに安心してくれたようだ。今度は彼女が、俺の手首をぐいっと掴み上げる。
「ほらほら、変なこと考えてないで、めいっぱいサクラの国を楽しみましょう! せっかくのハネムーンだもの、満喫しなくっちゃ、ね?」
「ん、その通りだな。……ありがとう」
「トレイ君、スミレの砂糖漬け好きでしょう? 桜の蜂蜜漬けとか、気に入るかもしれないね」
「おっ、それは興味あるな、楽しみだ。この辺にも売ってるかな」
「よーし、探しに行こっか!」
 善は急げとはしゃぐ妻にグイグイ両腕を引かれて「後ろ向いて歩いちゃ危ないぞ」なんて笑い混じりに注意しながら、俺は。
 この七日間が、穏やかで幸福な思い出になることを、密かに確信するのだった──。





2021.03.28公開
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