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800字SSまとめ

 

  【今日だけ特別】



 俺の恋人は、淑やかで丁寧なひとだ。
 細やかな気配りが出来て、扱う言葉も鳴らす音も優しいお姉さんは、雑に他人を呼び捨てる事さえしない。
 教師陣に限らず、年下の生徒たちにさえ、ファミリーネームと敬称を添えて呼び掛けるのだ。彼女が他人をファーストネームで呼ぶ事はとても珍しい、きっとオンボロ寮に二人きりの生徒たちぐらいだろう。
 苗字ではなく、名前で呼ぶ事。それは彼女にとって、親しみと愛情が込められた"特別"を表すものである──と、気が付いたのは、晴れて交際を始めた最近の話だった。
「寮母さん」
「なあに、トレイ君」
「ん、ふふ……いや、なんでもない」
 ついこの間までは、よそよそしく「クローバー君」と呼ばれていたのに。今はちゃんと、俺の名前を呼んでくれる。それだけで、こうも幸せな気持ちに満たされるとは、知らなかった。
「えーっ、その顔は絶対なんでもある顔ですよ。なにか、嬉しいことでもあったの?」
「あー……はは、ほんと、なんでもないんだ。さっきみたいに、寮母さんから名前を呼んでもらえるだけでも、嬉しいなあと思って……」
 恐らく、俺は余程だらしない顔をしていたんだろう。アッサリ勘付かれてしまったので、渋々白状した。
 彼女は驚きに目を丸くした後、その頬をじんわりと熟した苺色で染め上げる。照れ臭そうに眉尻を下げて、でも愛おしいものを恍惚と見る瞳を細めながら「可愛い子」そう小さく声を落とした。
「じゃあ、もっとたくさん、いっぱい呼んであげる」
 何かイイコトを思い付いた、とでも言わんばかりに「今日だけ特別だから、ね?」なんて、にこにこ機嫌良く笑う。何度聞いたか忘れた言葉に、甘やかな期待で胸の奥が波打った。
 すると突然、俺の肩へ添えた手を支えに、えいっと背伸びをする彼女。ほんの一瞬、俺の耳元に桃色の唇を近付けて、秘密の話を教える幼子みたいにコッソリと囁いた。
「──すきだよ、トレイ」
 完全なる不意打ちだった。全身の血が沸騰して、ぼふんと煙でも噴き出したような、酷い熱に襲われる。
「おッ、れも、寮母さんのこと、好きです、が……!?」
 反射的に口から滑り出した声はみっともなく裏返っていたし、最後とか謎の疑問形になってしまった。恥ずかしい。ダサ過ぎる。いっそ首を刎ねられたいほど、最悪の気分だ。
 しかし、そんな格好悪い反応を見せても、彼女は楽しそうにクスクス笑っていた。まったく、このひとも結構、悪戯好きだよな……。
「ありがとう、嬉しいよ。でも、トレイだけ敬語にさん付けのままなんて、ずるい。そこはちゃんと、いっしょのお揃いにしてほしいなあ?」
「そっ、それは、ちょっと、難易度が高くないか……。あんまり年下をいじめるのは、よくないと思うぞ」
「もう、普段は大人として見て欲しがる癖に、こんな時だけ子供ぶるんだから」
 もはや、ぐうの音も出ない。何にも言い返せないでいる俺を、彼女はいつものように「いい子いい子」と頭を撫でながら甘やかす。比喩ではなく蕩けそうだと思った。
「ふふっ、照れ屋さんのトレイも可愛いね」
 これは、まずいな。想像以上に駄目だ、良い意味で。名前を敬称なく呼ばれるだけで、こんなにも心臓が跳ね回るものか。恥ずかしくて堪らないけど、ニヤける表情を我慢も出来なかった。
 いつか、もっと気軽に。お互いの名前を呼び捨てさえ出来る関係になりたい、と夢見ていたが──。どうやら、まだまだ子供の俺には、早かったらしい。





2021.03.23公開
(Twitterでフォロワーさんから台詞ネタ提供頂いた作品です。ありがとうございました)
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