800字SSまとめ
【雪景色】
ここ連日しんしんと降り続いた雪は、オンボロ寮の寂れた庭も真っ白に染め上げていた。
昨晩焼いたブラウニーをケーキ箱へ詰め込んで、密かに甘やかな好意を寄せている女性──寮母さんにお裾分けしたくて、オンボロ寮へとやって来た俺の足取りは軽やかだ。また、美味しそうに食べてもらえるだろうか。そんな想像に俺はだらしなく顔を緩ませた。
「あっ──」
真っ白な庭、陽に照らされてキラキラと反射する雪の上、ぽつんと佇む人影を見つけた。
寮母さん──そう声をかけようとして、何故か、言葉が詰まる。ただ、ぼんやりと立ち尽くして寒空を見上げる横顔は、とても美しいのに寂しげで。普段の仕事着ではなく白いロングコート姿である事が相まって、その雪と同化してしまいそうな姿は、目が離せないほど綺麗なのに。……ひどく、恐ろしく見えた。
そのまま、雪景色の中へ消えてしまいそうで──。
「ッ、寮母さん!」
彼女を引き止めるように叫び、俺は言い知れない焦燥感で背を押されるが如く、雪の上を走り出していた。驚いた顔でこちらを振り向く彼女の手を必死で掴み取る。その氷みたいな冷たさがゾッと背筋を震わせた。
「クローバー君? どうしたの、そんなに慌てて」
普段通り優しく甘やかな声で呼び掛けられて、はっ、と我に返る。驚きで丸くなった瞳にじっと見上げられて、走ったせいではない心臓の高鳴りに、恥ずかしいほど頬の熱さを感じた。
「いや、その……」
頭が上手く回らず、いつものように咄嗟の言葉が出てこない。しかし、まさか、あなたが何処かへ消えてしまいそうに見えて引き留めた、なんて言えるものか。
「……手袋もマフラーもしていないから、寒そうだと思って、心配しました」
俺は得意の嘘を吐き、無理に口元を吊り上げた。上手く笑えた自信はないが、彼女は困ったように微笑む。
「ああ、本当ね。私ったらウッカリして忘れちゃった」
なんとなく、彼女の笑顔もぎこちなく見えた。手がこんなに冷たいと言う事は、暫く長い間、この寒空の下に立ち尽くしていたんじゃないだろうか。どうして、と聞き出す勇気はない。
代わりに、俺は自分のマフラーを外して、無言で彼女の首に巻いてやる。わっ、とまた驚かれたけど無視をした。真っ白な雪景色の恐ろしいほど似合う彼女に、黒い洋墨のような色をしたマフラーは似合わない、が。
「風邪、引かないように気をつけてくださいね」
「……うん、ありがとう」
今度は黒いマフラーの奥で、柔く微笑んでくれた。
「ところで、クローバー君は何のご用事だったの?」
その問い掛けに、アッと当初の目的を思い出して、手元に何も持っていない事を今更気が付いた。
慌てて振り向くと、雪の上に無惨な姿で転がるケーキ箱を見つけて。走り出した時に、つい投げ捨ててしまったんだとすぐ理解した。
「あー、ブラウニーを作り過ぎたからお裾分けに来たんだが、すみません、落っことしたみたいで、たぶん、中身ぐちゃぐちゃだな……」
「ふふ、きみでもそんな可愛いドジをする事があるのね。大丈夫、美味しく頂きますよ、ありがとう。あったかい紅茶を淹れるから、一緒にお茶しよっか」
「はい、是非」
雪の上に放ってしまったケーキ箱を拾い上げ、オンボロ寮へ戻ろうと背を向けた彼女の後を追った。
嗚呼、マフラーなんて柔らかい物じゃなくて、もっと頑丈な鎖で、縛ってしまえたら良い。彼女が、何処へも行ってしまわないように──。そんな事を考えてしまう俺は、心の中にどろり滲む黒い泥のような嫌悪感を覚えながら(……こんな考え、まるで
2021.01.22公開