短い話まとめ
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なんでもない日のおはよう
ひんやりと肩を震わせる晩秋の肌寒さから逃れるべく、私は朝の暖かな日差しを浴びようと、白く真新しいカーテンを思いっきり開いた。寝室全体を明るく照らす陽光に見下ろされながら、んーっと両手を組んで伸びをする。
天気予報通りの、晴々とした秋空だ。今日は特にこれと言った予定は立ててないけれど、良い休日が過ごせそう。せっかくだし、彼をお散歩にでも誘ってみようかな。そんなことをまだぼんやり寝惚けた頭で考えていたら。後ろの方で、ぎしり、とベッドの軋む音がした。
愛する彼の起き出した気配を察して、私はすぐに振り返ろうとしたけれど。その前に素早く逞しい両腕が伸びてきて、ぎゅう、と背後から抱き竦められてしまった。
「おはよう、俺の可愛いシュガー」
トレイ君の甘く蕩けた声はどきんとしたけど、珍しい呼び掛けがなんとも可愛くて、可笑しくて。思わず、ふふ、と声を上げて笑ってしまった。
「なあに、その変な呼び方」
「はは、ちょっと気障が過ぎたか? 甘くて白いお砂糖のようなお前には、よく似合う、良い例えだと思ったんだけどなあ」
ちょっぴり照れ臭そうにわざとらしい苦笑いを浮かべる彼。まるで母猫を求める子猫みたいな、私の頭頂部にすりすりと頬を寄せる姿が、目の前の窓ガラス越しによく見える。
「私の旦那様は甘えたさんね」
「まあな。久々に何の予定もない休日なんだ、もう少しのんびりしても良いんじゃないか」
「でも、せっかくの良いお天気だよ。ささっと朝ご飯食べて、お散歩でもしない? 最近、街外れに紅茶の専門店が出来たんだって、見に行きたいなあ」
「んー……とても魅力的な提案ではあるんだが、俺は可愛い妻のアイさんとまだゴロゴロしていたいなあ」
「わ、あっ、ちょっと、」
せっかく開けたカーテンをシャッと閉められてしまったかと思えば、彼の片腕に抱かれたまま、ぐるんとベッドの方へ方向転換させられてしまう。うわ、力が強い。パティシエという職業柄すっかり鍛えられている、がっちり筋肉のついた男性の腕で捕らわれてしまったら、もう抵抗なんてしようとも思えない。
そのまま二人揃って飛び込むように、ぼふんっ、と勢いよくベッドの上へ戻されてしまった。
私はくしゃくしゃのシーツにうつ伏せたまま、隣の彼に顔だけ向けて、少しムッと口を尖らせて見せるけど。彼も同じようにうつ伏せでこちらへ顔を向けて、楽しそうに、悪戯っ子の顔でニヤニヤ笑っている。
「……もう、悪い子」
「今更だなあ、そういうところも惚れた癖に」
「否定はしません」
今日の夫はたくさん甘えたい気分らしいから、仕方ない。妻として、めいっぱい甘やかしてあげなきゃ、ね。
私はごろんと寝返りを打ち、横向きに身体ごと彼の方を向いて「おいで」そう言いながら両腕を広げて見せた。とろん、とマスタード色の瞳を愛おしげに蕩かせて、彼は当然の如く私の細い腕の中へ収まってくれる。一切の遠慮も恥じらいもなく、私の胸に埋もれる彼の頭を、よしよし、いい子いい子、と撫でた。
嗚呼、可愛い。大人になったら、結婚をしたら、余計に甘えてもらえなくなるのでは、と寂しい想像をしていたけれど。実際、夫と妻の関係になったら、家族なのだから何を我慢する必要があるのか、と言わんばかりに彼は自ら甘えてくれるようになった。そんな素直さを得た彼が、ますます愛おしくて堪らない。
「学生さんの頃のきみはどうしても甘え下手で、いつも、綺麗なお顔をリンゴみたいに赤くして恥ずかしがっていたのにね」
「それは、まあ、仕方ないだろ。あの頃はふたりきりで居られる時間も少なくて、周りの視線ばかり気になってしまうような……今よりも複雑な年頃の、お子様だったからなあ」
ほんの数年前のことを懐かしみながら、くすくす、小さく笑い合った。
「今の方がよっぽどお子様みたいだけど、」
「俺をこんな風にしたのは、お前だろう? 責任持って、一生かけて、甘やかしてくれないと困るぞ」
「もちろん、そのつもりだから安心してね。私の可愛いハニーちゃん」
寝癖が付いた短いアイビーグリーンの髪越しに、彼の額へ「ちゅっ」なんてわざと音を立てて口付ける。彼の、髪の隙間から見える耳が、じんわり赤く染まっていく様を見た。
「……これは、思ってたより恥ずかしいな」
「あら、最初に言い出したのはトレイ君でしょ」
私の胸の中へ、赤い顔を隠すようにますます埋もれてしまう彼。自分がふざけて気障な事を口に出すのは平気だけど、仕返しされると弱いみたいだ。学生さんの頃と同じくらい照れてしまって、もう、やっぱり、いつまで経っても可愛い子だね、きみは。
そんな愛しい彼を撫でて甘やかしていたら、不意に、とある事を思い出した。あ。
「──そういえば、今日は……」
確か、いい夫婦の日、じゃなかったかな。
元の世界で親しまれていた、語呂合わせで付けられた記念日。結婚している男女が、日頃の感謝の気持ちを伝えたり、愛情を確かめ合う特別な日……だった筈。
こちらの世界でも、私の故郷とよく似た極東の小さな島国では、もしかしたら同じ記念日があるのかもしれない──けれど、全く別世界の薔薇の王国で生まれ育った彼は、当然、そんなもの知らないだろう。
「どうした? 今日は何の予定も、特別な記念日でも無かった筈だが、」
「……うん、やっぱり"何でもない日"だった。私の勘違いだよ、ふふ、ごめんね」
「何でもないって言う割には、随分と楽しそうに笑うじゃないか。やっぱり、何か嬉しい祝い事でもあるのか?」
「んふふ、何でもないよ。本当」
今日も当たり前に、あなたとの愛を確かめ合える、普通の日だよ。
だって、そうしておかないと、私たちには毎日が"いい夫婦の日"になってしまうから──なんて、ね。
2020.11.22公開