緑の帽子屋と寮母さんの話
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恋する帽子屋は安らぎたい
ふわり、するり、と緩やかに優しく髪を梳かされる感覚。幼い頃、母親が上手く寝付けない我が子をあやす為、いい子いい子と愛おしげに頭を撫でてくれた記憶を思い出しながら、俺はゆっくりと重たい目蓋を押し上げた。
赤い、苺──みたいな瞳と、ぱちり、目が合う。その瞳をゆるゆる細めて愛し子を見つめるように微笑む女性の姿は、夢のように綺麗だった。
「もう起きちゃったの? おはよう」
そんな甘くて柔らかな綿飴を思わせる声が、寝惚けた俺の耳をくすぐる。
「アイ、さん……?」
ふわふわ、仕切りに頭を撫でてくれている手の持ち主は、オンボロ寮の寮母である彼女だと理解する。異世界から迷い込んでしまった、不思議な女性。今は学園の雑用係、臨時職員として働いている。──俺の、好きなひと。
じゃあ、ここはオンボロ寮、か。俺はいつの間にか眼鏡を外していたようで、かなり視界がボヤけているけど……天井を見るに談話室、俺が横たわっているのはソファーの上だろうか。しかし、眠る俺の頭を包むこの柔らかさは、ソファーやクッションの感触じゃない。ひとの、体温を感じる。まさか、いま俺が枕がわりにしているものは、彼女の柔らかな太ももの上、なのか? いったいどういう状況だ、これは。何故こんな至近距離で、彼女にこうも甘やかされているのか、よくわかっていない。慣れた筈の現状把握が、上手く、出来ない。
でも、その優しい指先、手のひらの温もりが、あまりにも心地良くて……また、すぐ、眠りの奥へ、夢の世界へ、真っ逆さま、落ちそうに、なる──……
「もう少し、寝ていても大丈夫だよ。お夕飯の時間にはまだ早いから、ね?」
「で、も……」
このまま甘えてしまいたい気持ちで負けそうになるが、駄目だ、起きなければ。彼女の言葉によるとそろそろ夕食の時間帯なのに、開催が近い"なんでもない日"のパーティーの準備はろくに進んでいない。ただ何もせず眠るなんて状況が不安で、手の掛かる寮生たちが女王様の怒りに触れていないか心配で。休んでいる暇なんか、無い。
どうにか眠気に抵抗するも、彼女の指先がそっと目蓋の幕を下ろすように、俺の目元を撫でるものだから。また、視界は暗闇に閉じて、意識が遠退いていく。
「今日はもう、しっかり者の副寮長さんも、皆の頼れるお兄さんもお休みですよ。クローバー君」
監督生ちゃんが代わりに、ローズハート君のお手伝いをしてくれているから、安心して。大丈夫。
その言葉は、確かに、信頼出来た。あの子なら、女王様お気に入りの特別な
じゃあ、良いのだろうか。このまま、幸福な平穏に、甘えてしまっても──。
ただ、やはりこの状況がいまいち理解出来ない。俺は夢現の間を心地良く浮遊しながらも、何がどうしてこうなったのか、必死に今日の出来事を思い返していた。
♣︎♣︎♣︎
今日は朝から少し、いや、正直かなり、精神的にも肉体的にも酷く疲労感に苛まれていた自覚はある。
ここ数日。学園生活にある程度慣れてきたせいだろうか、それとも期末テストを終えてホリデーが近いから浮かれているのか、ヤンチャな新1年生たちがやたら問題ばかりを起こす為、副寮長の俺はほとほと手を焼いていた。何か起こる度に女王様の怒りが爆発しそうになるから甘いお菓子で宥めたり、宥め切れず首を跳ねられてしまった寮生の後始末までやって、挙句"なんでもない日"のパーティーの準備が重なり、ウィンターホリデーまでに片付けたい書類仕事はどんどんと積まれていく一方で、それから、……ああ、もう、思い返す事すら疲れるが、とにかく、色々と忙しい。
こんなにも疲労感を溜め込んでしまっている時は、どうしても、あの優しい聖母のような微笑みが脳裏に浮かぶ。
(……最近、寮母さんと会えてないな)
期末テストを無事に"普通"の成績で終えてからしばらく、彼女と顔を合わせるどころか学園内ですれ違う事すら無かった。先日、ウチの寮生たちのせいでオンボロ寮を不当な契約の担保に取られてしまい、数日だけサバナクロー寮の臨時寮母になっていたらしいが……なんとかオンボロ寮を取り戻してからの彼女は、今日を何事もなく過ごせているだろうか。
彼女のふわふわとした綿飴を思わせる甘い声が恋しくて、俺の頭を撫でてくれる柔らかな手のひらの感触が懐かしく感じるほど、胸の奥が苦しい。こんなにも彼女への想いを深めている自分が、もはや笑えてくる。俺は色恋沙汰にここまで溺れるような人間ではない、なんて高を括っていたんだが。彼女と出会ったせいで、とんでもなく厄介な感情を知ってしまった。どんなに大人ぶった振る舞いをしようとも、自分はまだ恋を覚えたばかりの子供である事を、日々思い知らされている。ああ、彼女にここ数日の頑張りを褒めてほしい。俺より一回りも小さくて可愛らしい手で、頭を撫でてほしい。良い子だね、って微笑みかけられたい。……会いたい、なあ。
しかし、前述の通り俺は忙しくしていて、自ら彼女の居るオンボロ寮へ会いに行く暇すらなかった。
少しぐらい、休んでしまおうか。彼女の大好きなレアチーズケーキでも作って「うっかり作り過ぎたから」なんてバレバレの嘘をついて、会いに行ってしまおうか──なんて、つい考えてしまったけど、駄目だ。"なんでもない日"のパーティーに向けたケーキ作りが最優先だろう。個人的な趣味としてのお菓子作りにかける時間も、材料もないんだよなあ、今は。思わず、はあーっ、と深い溜息を吐き出した。
ウィンターホリデー前までには、いちどで良いから、美しい彼女のクラシカルな使用人姿を見ることは叶うだろうか……。
そんな事を頭の片隅で考えながら、また慌ただしい1日は過ぎて。
放課後。俺はサイエンス部の活動の一環として(ほぼ俺の趣味みたいなものだけど)植物園の一角を借りて育てている、イチゴの様子を見に行った。
植物園は授業中でもなければ大体いつでも、人の気配が少なくて静かだ。ようやくひとり穏やかに、誰の邪魔もされず何の面倒事にも巻き込まれず、ほっと一息つけそうだな。まあ、早々に水やりを終えたら、寮へ戻ってパーティーの準備に勤しまなければならないが──。
赤く色をつけ始めたイチゴたちの成長を見て密かに喜んでいた、その時である。
「こーら、じっとしてて。そうモゾモゾされたら、変なとこ引っ掻いちゃうでしょう?」
甘やかで優しい声が、ひっそりと耳に届いてきた。この声は──寮母さん?
一瞬、彼女に会いたいあまり聞こえた俺の幻聴かと思うくらい、小さな声だったが。クスクスとお淑やかに笑う声も聞こえるから、間違いなくこの植物園に居るのだろう。
ちょうど水やりも終わったので、愛用しているジョウロを片付けてから、声のする方へ足を向ける。天井までその葉先が届きそうなほど背を伸ばした木々の間の向こうを、物音ひとつ立てずにそっと覗き込んだ。
そこで見た光景に、俺は思わず驚きで「は」と短く荒い息を吐き出してしまった。植物園内で生育している中でも一際巨体で太い幹を持つ木の根元で、寮母さんだけがそこに座って居たのなら、こんなにも驚きはしなかっただろうが──。
「うぅ、動くなって言われても、くすぐったくて……ふはっ、笑っちまう〜!」
サバナクロー寮、2年生のラギー・ブッチの声。彼は植物園のど真ん中で無防備にもその身を横たわらせていて。大きな獣耳がピンと伸びる頭を、なんと、寮母さんのふにふに柔らかそうな太ももの上に寝かせていたのだ。わかりやすく一言で説明するならば、いわゆる"膝枕"というヤツである。ラギーは彼女の楽しげな視線からは背を向けているものの、恥ずかしそうに頬を赤らめて、とても心地良さそうだった。
どうやら、耳かきまでご堪能中らしい。細い竹棒の先にくっ付いた白綿で、大きな獣耳をフサフサ擽られて「ひゃあ〜ッ、もう勘弁してほしいっス!」と身を捩っているが、ニヤついたその顔は満更嫌でもなさそうだった。
胸の奥が、じくり、と黒く焦がされるような感覚に襲われた。
「はい、おしまい。お姉さんの趣味に付き合ってくれてありがとう、ブッチ君」
ぽんぽん、と彼女に肩を叩かれた事を合図に、我慢の限界だったらしいラギーは勢いよく起き上がる。水遊びをした子犬のようにブルブルと頭を振る彼を、寮母さんは面白そうに笑っていた。また、じくじくと胸の奥が痛んだ。
「耳かきが趣味とか、アンタも変わってるッスねえ。まっ、うンまい手作りドーナツのお礼がこんな事だなんて、寧ろ得した気分ッスけど。シシッ」
彼女にそんな趣味があったことすら、俺は知らなかったのに。ラギーの親しげな接し方を見るに、彼女はサバナクロー寮の臨時寮母をしている間で、彼らと随分仲を深めたらしい。
羨ましくて、腹立たしい。どろり、と黒く濁った感情で、心の中を全て塗り潰された気分だ。幼い子供のような苛立ちに、奥歯をぎりりと強く噛んでしまう。
わかってはいるつもりだった。何も、俺だけが頭を撫でられたり、優しい褒め言葉を貰っている訳ではない。彼女は、そういうひとだ。この学園の生徒たちを分け隔てなく可愛がって、相手が獣人属だろうと妖精族だろうと、自分より背の高い上級生でも関係なく"年下の可愛い男の子"として見て接するような、ナイトレイブンカレッジの職員としては非常に珍しい、真正の"誰にでも優しいひと"なんだから。俺が怪我をした時に見舞いへ来てくれたことも、ラギーにお菓子を与えたり膝枕してやったりすることも、あのひとにとっては、何も特別なことじゃないんだろう。"優しい大人"である彼女にとっては、もはや当たり前なんだ。わかっているつもりでも、受け入れられるかどうかは別問題だった。
その優しさや笑顔が、俺だけに向けられるものであれば良いのに、なんて。贅沢なことを願ってしまうほど、俺はあのひとに恐ろしいほど執着していたことを自覚した。付き合うどころか恋愛対象にすら見られていない、ただ片想いしているだけの男が、こんなにも醜く嫉妬してしまうなんて、笑い話にも出来ないな。
この温かな光景を見ていられなくて、余計なことをしでかさない前に、もう逃げ出してしまおうかと思った、が。
「さ、次はキングスカラー君の番だよ。おいで」
ニコニコと無邪気な笑顔を遠くへ向けた彼女。その目線の先を追えば、サバナクローの寮長である3年生のレオナ・キングスカラーが、肘をついて横向きに寝転がっていた。ここが彼のお気に入りのサボり場であることは知っていたけど、また日がな一日ここで寝てたのか? 俺と同じ3年生だが、その実は二浪していて既に成人も迎えた某国の王子サマとは思えないほど、堕落した姿である。……そんな彼も、寮母さんにとっては"年下の可愛い男の子"らしい。
まるで警戒心の強い野良猫を絆そうとするかのように、おいでおいで、と柔らかな微笑を浮かべて手招きする彼女。一方のレオナはほんの少し片目を開いたものの、あからさまに面倒臭そうな様子で機嫌悪く眉間のシワを寄せている。
「あぁ? 何で俺まで──」
しかし、その鋭い緑色した瞳が俺の方を向いて、バチリと目が合ってしまった。随分前から気配は察していたのだろう、レオナはわざとらしいほどニタリと妖しく笑った。あっ、まずい、本能的にそう察する。
「……いや、気が変わった。俺も思う存分、可愛がってもらおうか。ただし、その甘い匂いにつられて、ウッカリ噛み付かれても構わないってんなら、なァ?」
アイツ、寮母さんではなくて俺の方を見て言ってやがる。こんなわかりやすい挑発、普段の自分なら苦笑いでも浮かべてやり過ごせていただろう、けど──。
「寮母さん!」
俺は咄嗟に木々の間を抜けて、彼女の目の前へと飛び出していた。
「あら、クローバー君?」
きょとん、と苺みたいな赤い目を丸くした彼女が、真っ直ぐに俺を見上げる。それだけで、黒く染まった感情の少し溶けたような気がするとか、俺はなんて簡単な男なんだろう。
ああ、しかし、どうしたものだろう。本当に咄嗟で、何の考えも無しに飛び出してしまった。俺はぐるぐると回る頭を必死で働かせて、にこり、とりあえずの笑顔でその場を取り繕う。恐らく黙り込んだ時間は1秒にも満たないだろう。
「こんなところに居たんですね、寮母さんのこと探してたんですよ」
「え、私を?」
「はい。クルーウェル先生が、何か頼みたいことがあるらしくて。俺も詳しくは内容を知りませんが、職員室で待ってらっしゃいますよ」
平気な顔で、嘘を吐いた。
「フッ、やっぱりまだ青臭いガキだな」
レオナの鼻で笑うような声に恥ずかしくなるけれど、無視をする。ラギーにまで何か勘付かれたようで「おやおや、寮母さんもお忙しそうで大変ッスねー?」なんて、意味深な笑顔をニヤニヤと俺に向けていた。
「そっか、呼びに来てくれてありがとう。じゃあ、私は職員室へ行かないと。またね、ブッチ君、キングスカラー君」
肝心の寮母さんは、俺の嘘に一切気付いていないようで。俺の言葉を信じ切ってスッとすぐに立ち上がり、ふたりに向かって笑顔でひらひら手を振る彼女を見ていたら。少しばかり、ちくりとした罪悪感に苛まれる。
慌てた様子でクラシカルなメイド服の裾をふんわりと翻して、植物園の出入り口へ向かう彼女の後を、俺もそっと追い掛けた。背後から聞こえてくる「面白いモン見ちゃいましたねえ」「ハッ、普段の胡散臭え真面目チャンぶった面よりは、マシな顔だったな」なんて、ケラケラ笑う声に見送られながら。
植物園を出てすぐ校舎の方へ足を向けた彼女を、俺はまた声を張って呼び止めた。
「寮母さんっ、あの……」
どうしたの? と彼女はこちらへ身体ごと振り返り、白いエプロンが舞う。まるで疑うという言葉を知らないかのように純真な瞳で見つめられると、やはり、自分の子供っぽい感情に背を押されたみっともない行動が、酷く恥ずかしくて申し訳なかった。
「……すみません。さっきの話は、ぜんぶ、嘘です」
え、と驚きに吐き出された彼女の短い声は、微かに戸惑い震えていた。
「クルーウェル先生の頼み事なんて何にも聞いてませんし、寮母さんのことを探していた訳でもない。俺は偶然、あの場に居合わせただけで、……」
こんな悪い子の一面を見せてしまった俺に、彼女からどんな感情を向けられてしまうか怖くて、彼女の顔を見ていられなくて、視線は逃げるように足元へ下がってしまう。
しかし、彼女自身から香る砂糖菓子のような甘い匂いがふわりと近付いて。足元の石畳しか映っていない視界に、彼女の小ぶりな足が入り込む。強く握り締めていた手に、彼女の優しい指先が触れて。大袈裟なほど心臓が高鳴り、ビクッと肩が跳ね上がった。
「どうして、そんな嘘をついたの?」
怒るでも呆れるでもない、穏やかな問い掛けの声。不安ながらも、俺はゆっくりと顔を上げる。彼女は少し困ったように眉を寄せて、口元を優しく緩ませていた。
「……その、」
これはもう、正直に話すしかないのだろう。じわじわと顔に熱が集中し始める。
「寮母さんに、甘やかしてもらっているラギーたちが、羨ましくて、つい……」
熱くなる顔を片手で覆い隠しながら、殆どヤケになって吐き出した。ぽかんと目を丸くしている彼女に「ごめんなさい」と、改めて謝罪の言葉を述べる。
彼女は数秒の間を空けた後、その戸惑っていた表情を途端に破顔させて、ふふっ、と堪え切れぬように笑い出した。まさかの反応で、今度は俺が驚いて目を見開いた。
「クローバー君ったら、可愛いのね」
思ってもみなかった言葉に「は?」と気の抜けた声が溢れる。くだらない嘘を怒られる覚悟だったのに、寧ろ、そんな、か、可愛いって、どういうことだ。
「こんなお姉さん相手にヤキモチだなんて、ちょっと照れ臭いけど、嬉しくなっちゃうなあ」
寂しかったんだね、なんて、いつものように手を伸ばして優しく頭を撫でてくるものだから、俺はすっかり拍子抜けで脱力してしまった。
「……怒らないん、ですか?」
「うーん、正直に答えて謝ってくれた子を、怒ったりなんて出来ないよ。これぐらいは、可愛い嘘で許してあげられるもの。でも、二度目はメッしちゃうから。勝手に誰かの名前を語ったり、ひとを困らせるような嘘、ついちゃだめだよ? 後々、クローバー君自身が困っちゃうからね」
「は、い……」
「もう、そんなに落ち込まないで? きちんと反省しているんでしょう。ほら、いい子いい子」
ああ、もう、このひとは本当に。その叱る口調すら甘やかで、まるでとろとろに湯煎したチョコレートの如く溶けてしまいそう、なんて馬鹿なことを考えた。
同じ女性でも、幼子が良かれと思って行った好意に対して、ヒステリックに声を荒げて怒り狂うような"
「クローバー君はお兄ちゃんだものね。普段いっぱい色んなことを我慢している分、誰かに甘えたくなる時だってあるんでしょう」
ほら、親御さんが生まれて間もない下の子ばかり構ってしまうから、上の子は色々と我慢させられて寂しい思いをして、ヤキモチ妬いちゃう……とか、よくある話だから。──と、彼女は微笑ましげに俺を見つめて赤い瞳を細めた。
いや、うーん、あからさまに子供っぽい言動をしてしまった自覚は、確かにあるけど。俺の向けた感情は、そんな可愛らしいものとは酷く掛け離れているような、真っ黒に淀んで目も当てられない、醜く歪んだ独占欲だと思う。でも、今の俺には、そんなことまで白状してしまえる度胸がなかった。彼女にとって、俺はまだ"年下の可愛い男の子"の内のひとりでしか、ないんだから。うんともすんとも、答えられない。
それに、今こうして、彼女が俺だけを見つめて微笑みかけてくれること、頭をめいっぱい撫でてくれることが、嬉しくて。先程までとは打って変わって、可笑しなほど温かな気持ちで心が満たされている自分が居た。その柔い手のひらひとつで、こうも簡単に感情をコロコロと変えられてしまうくらい、俺は、このひとが好きでどうしようもないらしい。
「まだ、落ち込んでる?」
黙りこくっていた俺を、彼女が心配そうに顔を近付けて覗き込んでくる。彼女の鼻先が俺の口元まで届きそうな距離に、どきどきと心臓を高鳴らせてしまった。
「あっ、いや……」
嘘をつく為の言葉なら、こうも悩んだりはしないのに。あなたの優しさを独り占め出来たようで嬉しくなっていた、なんて、本当のことを口にすることは、どうしてこんなにも難しいんだろう。
「……それじゃあ、クローバー君? キングスカラー君の代わりに、私の趣味に付き合ってくれないかな」
何にも答えられないでいる俺を、彼女は叱られた直後の子供みたいに相当落ち込んでしまったと判断したらしい。
「趣味、って──」
「私ね、ひとの耳かきしてあげるのが好きなの。変な趣味って思われるかもしれないけど、元の世界で家政婦さんしていた時は、雇い先で小さなお子さん相手に、よくやってあげてたんだ。とっても気持ち良い、って評判だったんだよ?」
ラギーも言っていたが、本当に耳かきを個人的な趣味の一環として好んでいるのか。彼のあの大きな獣耳には、くすぐったくて仕方ない様子だったけど。正直、先程の光景を酷く羨んでしまった俺にとっては、あまりにも魅力的な提案だった。即「お願いします」と頷きたいところではあった、が──。
今日はまだ、やらなければならないことが残っている。"なんでもない日"のパーティーの準備を進めなくてはいけないし、余裕があれば溜まった書類仕事を少しでも減らしたいと思っていた。でも。
「駄目、かな?」
赤い瞳を不安げにうるうると潤ませて、お願い、と強請るような声を出されては。
「……こちらこそ、お願いします」
そんなの、断れる男が居るわけないだろう。
結局、やるべきことを放ったらかしにしたまま、彼女のお言葉に甘え切ってオンボロ寮まで着いて行ってしまった。
いや、でも、これはくだらない嘘で彼女を困らせたお詫びのようなものだし、耳かきなんてそう時間は食わない筈だし、ここ数日の忙しさを思えば少しぐらい休息とご褒美を得ても良いだろう。誰に言い訳するでもなく、俺はそんなことを自分に言い聞かせていた。
本当に耳かきが趣味のひとつであるらしい彼女は、なんだかやけにご機嫌だ。談話室まで案内された俺は、どうぞ、と彼女に促されるままソファーへ腰掛けた。
「じゃあ、準備してくるから寛いで待っててね。あ、ブレザーとベストは預かるよ。寝転がるから、シワが付いたら困るでしょう。何なら、ネクタイも外して首まわり楽にして良いよ」
「えっと、じゃあ、お願いしますね」
言われたように身を軽くして、彼女に制服の上着とネクタイを預けた。実はこういうキッチリとした窮屈な格好は苦手だから有り難い。Yシャツのボタンも2つ目まで外してしまって、ふう、と息を吐いたところで、彼女のやたら熱っぽい視線に気がついた。
「寮母さん?」
どうかしましたか、と首を傾げて問い掛ければ、彼女はビクーッと面白いくらい肩を跳ね上げて。
「えっ、あッ、な、何にも見てないから! じゃあ、少しだけ、待ってて」
俺の預けた上着を勢い余ってギュッと抱き締めながら、何故か慌てて逃げるウサギのように談話室を出て行ってしまった。
ええっと、何だったんだろう、今の反応は。彼女の視線はどうも、俺の顔よりは少し下を、首まわり、喉仏や鎖骨の周辺をじぃっと見ていたような……いや、気のせい、か。俺の男を主張する部分を目にして、少しは異性であることを意識してくれたんだろうか? なんて期待してみたが、さすがに自惚れ過ぎだなあ、と苦笑する。
ソファーへ座り込んで、しばらく。スマートフォンを取り出して、友人のケイトに『諸事情でオンボロ寮へ来ているから少し帰りが遅れる』ことを念の為に伝えておいた。返信を待っている間に、寮母さんが「お待たせー」と甘い声を弾ませながら戻ってきたので、すぐにスマホは近くの机の上へ伏せた。
耳かきをひとにしてもらった覚えなんて、本当に小さい頃、母親の温かな手の感触ぐらいしか思い出せない。いつの間にか耳かきなんて自分で勝手にやるようになっていたし、ふと耳の中で違和感を覚えた時に軽く行う程度だった。……だから、彼女が用意してきた道具の数々、見慣れた竹製の耳かきや綿棒以外にも、適温に濡らしたタオル、ベビーオイルなど。それが果たして"普通"の用意なのかどうか、判断のしようがない。でも、ひとの耳かきを好んでやっている、という言葉は本当なんだろうと思った。
「さっきはお外だったから、ブッチ君に私の満足いくほどの耳かきはしてあげられなかったけど。クローバー君にはしっかり堪能してもらうからね」
「はは、お手柔らかに頼みます」
ふふん、と妙に張り切った様子の彼女はいつものお姉さんらしい姿とはまた違って、幼気に見えた。可愛い、な。
彼女は俺の隣へストンと腰掛けて、白いエプロン越しでもそのむっちりした肉感が伝わる柔らかそうな太ももを「さあ、どうぞ」なんて無防備に差し出した。ドキッ、と心臓が飛び上がるけど、ああ、そうだ、耳かきには膝枕もセットだった。俺は戸惑いながらも、眼鏡を外してスマホの隣に放って、恐る恐る、彼女の太ももの上へ頭を寄せる。彼女の顔には背を向け、ずしりと横たわった。
それは思っていた以上に、心地良かった。ひとの程良い体温、包み込まれるような柔いももの感触に、清潔な洗濯物の洗剤の香りが、彼女自身の砂糖菓子みたいな甘い匂いと相まって──なんというか、とても、落ち着いてしまう。自然に、ほう、と口から空気が溢れ出て、緊張で強張っていた全身の力が抜ける。
「あ、ごめんね、仰向けになってくれるかな」
彼女の言葉にハッと我に返った。危ない。ここにきて溜め込んでいた疲れがドッと出たのだろうか、一瞬で夢の世界へ意識を飛ばしてしまうところだった。
ハイと素直に返答して、身体を仰向けに動かした。眼鏡が無いので視界はボヤけてしまっているけど、愛おしげに俺を見下ろす彼女の赤い瞳は確認出来て、途端、ぶわっと全身の毛が逆立つような急な恥ずかしさに襲われる。しかし。
「うん、良い子」
優しい言葉と、甘い声。すっかり虜になってしまった、その手のひらでよしよし頭を撫でられてしまうと、俺はもう年相応の羞恥心も忘れて、幼い子供に戻ったかのような気分に落ちる。彼女の手で促されるように、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「……きれい、だなあ」
うっとり、蕩けたような声を聞いた気がした。
「それじゃあ、まずはホットタオルでお耳を拭いてあげるね」
「え、あ、はい……」
また、気のせい、だろうか?
何か言いましたか、と聞き返す暇もなく、片耳をじんわりと心地良い熱で包まれた。ホットタオルを当てられて、彼女の手がやわやわと軽くマッサージしてくれている。耳の裏側から、耳朶、溝の間、穴の周辺まで細かく丁寧に揉み込まれた。
耳のマッサージがこんなにも気持ち良いとは知らなかった、それとも、彼女がテクニシャンなのだろうか。
「クローバー君、最近とっても忙しそうにしていたから、疲れているんでしょう」
「……え?」
何故バレているのかと、動揺した。そんな俺の感情の機敏も、触れ合う頭と太ももから伝わってしまうのだろうか。くすくす、と小さな笑い声が降って来る。
「最近はあんまり直接お話も出来なかったけど、授業の合間や部活動の最中で見かけるたび、笑った顔が少し疲れているように見えて、心配してたんだ」
「そんなに、わかりやすく疲れ切ってましたか、俺……」
「うーん、察しの良い子はなんとなく見抜いていたかもしれないね。だから、あんまり無理しちゃ良くないよ」
「無理、なんて、」
「周りのひとはきみが思っているより、きみの頑張りをよく見ているし、知っているからね」
目を閉じてしまったから彼女の表情はわからないが、きっと慈愛に満ちた表情をしているんだろう。
「こうやって甘えたい時はお姉さんも居るし、いつでもオンボロ寮へ遊びに来てくれて良いんだよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
その優しさが、誰にでも向けられるものであることをわかっていても、やっぱり、どうしようもなく嬉しくて。どんどん、このひとを好きになってしまう気持ちは、止められそうになかった。
反対の耳にも入念なマッサージをしてくれた後は、ここからが本番ですよ、と再び体勢を横向きに変えられた。今度は彼女の薄いお腹側に顔を向けて、右の耳を上にする。彼女の、甘い匂いがよりいっそう近くなって、頭がくらくらした。
「これから耳かきを少しずつ入れていくから、じっとしててね」
耳マッサージの時点ですっかり骨抜きにされた俺は、もはや好きにしてくださいという心持ちである。
先だけ緩く曲がった細い竹の感触が、そぉっと耳の入り口にかかる。かり、かり、とまだ浅い部分を引っ掻く音がした。くすぐったいけど気持ち良い、なんだか、たまらない感覚だ。細かく出入りを繰り返しながら、すり、すーっ、と集めた耳垢を外へ掻き出していく。そのひとかき、ひとかきが優しくて丁寧で。ああ、駄目だ。眠く、なってしまう。
彼女が耳かきを趣味であり特技とする理由も、実際にやってもらうことで、妙に納得してしまった。こんなに繊細で心地良さを与えてくれる行為、他人を優しく気遣えるこのひとにはピッタリの趣味だろう。
「大丈夫? 痛くない?」
「ん、う……は、い……大丈夫、です。気持ちいい……」
「ふふ、眠くなっちゃったね。寝ても良いよ、終わったら起こしてあげる」
彼女の甘やかな声にも、耳の中をふわふわとくすぐられて。その心地良さは中毒的で溺れるかのようだ。こんな幸福感は、初めての経験で。
これは、もう、寝落ちるな──という方が、無理、だろ……。
♣︎♣︎♣︎
目が覚めたら何故か寮母さんに膝枕されて、いつの間にかどろどろに甘やかされている──という、この状況に陥るまでの、一部始終を完璧に思い出した俺は。
ぶわわッ、と忘れかけていた羞恥心が一気に湧き上がって、両手で自分の顔を覆い隠した。しっかり綺麗にしてもらったのであろう耳まで、燃えるように熱い。
「ど、どうしたの?」
「……すみません。急に、自分の行動を思い返したら、恥ずかしくなって、しまって、」
しどろもどろに答える俺を見下ろして、彼女はふふっと楽し気な笑い声を降らせた。
「クローバー君もお年頃だものね」
そんなことを言いながらも、相変わらず撫でる手は止めない彼女である。
本当に俺の実年齢をわかっているんだろうか。このひとには出会ってからずっと、エレメンタリースクールぐらいの子供を可愛がるように扱われている気がする。……まあ、そんな対応に甘え切ってしまう、俺も俺なんだが。
「ごめんね、耳かきが終わったら起こしてあげる約束だったけど。あんまりにも気持ちよさそうに寝てるから、つい、起こせなかったの。お姉さんも、きみに嘘ついちゃったね」
「いえ、そんな。甘えてしまったのは俺の方なんだから、謝らないでください。ところで、どのくらい寝てたんですか、俺……」
「うーん、2時間ぐらいかな?」
「2時間!?」
それはもう驚いて、覆い隠していた両手を退かした。ぼやけた視界の向こうで、彼女がニコニコ笑っていることだけは確認出来る。
「今日はもう遅いから、ウチでお夕飯食べてお泊りして行って? ユウちゃんもグリムちゃんも大歓迎で喜んでいたし、ローズハート君から外泊許可も貰っているから、大丈夫だよ」
「えッ!? 俺が寝ている間に、そこまで勝手に話が進んで……何から何まで、申し訳ないです、本当に……。その、足とか、痛くないですか」
「このくらい平気だよ。ゴーストさんたちとお話したり、本を読んだりして、特に退屈もしていないから、気にしないでね」
そうは言われても、やはり長時間の世話をかけさせた申し訳なさは拭えなかった。今度また、パーティーの準備などの忙しさが落ち着いたら、彼女の好きなレアチーズケーキでも差し入れさせてもらおう。
もう完全に目は覚めてしまったので、名残惜しい気持ちはあるが、彼女の太ももの上から頭を退かして起き上がった。結構な時間ずっと同じ体勢で固まってしまった身体を、ンーッ、と胸を張ったり腕を上げたりして伸ばす。ふう、と一息吐いてから、机の上に放っていた眼鏡をかけた。
「ありがとうございました、寮母さん。おかげでよく休めましたよ」
「もう少し、甘えたさんで居てくれても良かったのに。ふふ、どういたしまして」
すっきりした頭で寮母さんの方を向いて、素直に感謝の言葉を述べた。柔らかに微笑み返してくれる彼女。しかし、眼鏡をかけて視界をハッキリさせたことで気が付いたけど、その頬や耳の先がほんのり赤く色付いていて。あまり見慣れないその色に、あれ、と俺は目を見張った。
「顔、赤いですよ? 大丈夫ですか」
彼女の方こそ、ここ最近の忙しさによる疲れで具合を悪くしてしまったのではないかと、純粋に心配した言葉である。が、それはどうやら杞憂だったようで。
「だっ、だいじょうぶ! これはっ、あの、なんでもないから。ちょっと、部屋が暑いのかな、あはは」
珍しく慌てた様子で裏返った声、あからさまな作り笑い、余計に赤みを増した頬。
彼女はたぶん、俺とは正反対で、嘘をつくことが苦手なんだろう。というか、下手だ。
空調設備がきちんと整っていないオンボロ寮で、ウィンターホリデーを間近に控えたこの時期に、肌寒さを感じる事はあっても暑さを感じたりしないだろう。それは周囲の熱気のせいでも、体調不良による熱のせいでもない、ただ──くすぐったい恥ずかしさ、胸を鳴らすような照れ臭さによる、赤色だ。
どきん、と期待に高鳴る胸を押さえた。
ああ、きっと、数々の違和感は気のせいじゃなかった。薄着になった俺をじぃっと見ていた時も、眼鏡を外した素顔の俺を見下ろして「きれい」なんて呟いたことも。たぶん、おそらく、馬鹿みたいに自惚れても良いのなら、少しは、俺のことを異性として意識してくれたんだろうか?
「私、そろそろお夕飯の支度するね」
恥ずかしさを誤魔化すように勢いよく立ち上がった彼女だったが。
「──あ、わっ、」
彼女も俺の為に長時間、同じ姿勢で座り続けて膝を貸していたのだ。急に伸ばされた足はぐらりとバランスを崩して、目の前の机に向かって前のめりで倒れ込みそうになった彼女を、俺は咄嗟に立ち上がりながら抱き止めた。
「うお、っと! だ、大丈夫か?」
彼女の小さな身体を、背後からギュッとお腹に手を回して抱き寄せるような体勢。上からひょっこりと彼女の顔を覗き込んでみたら。そこには、いつものお姉さんは居なくて、顔を真っ赤に染め上げて照れる少女が居た。
「あ、ありがとう……」
こちらを少しも見上げようとはしないけど、消え入りそうなほど細く小さな声だけが届いた。
想像以上に柔らかで細い身体と、あまりにも距離が近い、から。とくん、とくん、と血の巡りの早まる音が、自分の心音なのか、彼女の心音なのか、もうわからなくなってしまった。
俺もこの状況が耐えられなくなって、そっと彼女の身体から腕を離す。彼女はハッと我に帰った様子で俺から距離を取った。
「じゃあ、クローバー君は、ゆっくりしてて良いから、ね」
やはり俺の方には一切顔を向けようとはせず、また、遅刻したウサギが焦って逃げ出すように談話室を出て行ってしまう。あんな可愛らしい反応は、初めて見てしまったものだから。俺はしばらく放心して立ち尽くしていたが、ここで後を追わなくてどうするんだと、どこぞの迷子の如く慌てて足を動かした。
夕食の支度をする、との言葉通り、彼女はキッチンに逃げていて。まるで熟れた林檎のように顔を赤く染め上げていた彼女へ、再度、距離を詰める。
「俺も手伝いますよ」
「えっと、嬉しい申し出だけど、せっかくお休みの為にオンボロ寮に居てもらってるんだから、大丈夫だよ?」
いつものお姉さんらしい表情を取り戻し始めた彼女へ、俺はにこりと笑いかけた。
「俺が、あなたのそばに出来る限り居たいだけですから、どうか手伝わせてください」
あなたにもっと、好ましい異性として意識してもらいたい、そんな下心を含めた行動なんだから。
「……ほんとに優しいね、きみは」
「そうでもないですよ。実は、大好きなアイさんのこと独り占め出来て嬉しいなあ、とか思ってますし」
「もう、クローバー君ったら。あんまりお姉さんのこと、からかわないで」
「はは、からかっているつもりはないんだが。困ったなあ」
どうも、俺が本気で好意を寄せているとは思ってもらえなかった様子だが、また赤みの増した頬を見るに満更嫌がられてはいないのだろう。
そうも初心で可愛い反応を見せられてしまったら。熱くなるのは苦手、なんて、もう言ってられないんだ。幼子のように拙くて醜い嫉妬で、心の内を掻き乱されてしまうほどに、彼女のことを好きだと自覚してしまったから。こうも本気になった以上は、どんな手を使ってでも絶対にあなたを口説き落としてみせる。
まずは、嘘や冗談ではなく本当の愛であることを伝えられるように、頑張るとしようか。
2020.09.17公開