緑の帽子屋と寮母さんの話
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帽子屋は良い子のフリをする
マジフト大会を目前にしておきながら、ウッカリ階段から足を踏み外して(本当に不注意だったのか違和感はあるけれど)右足を派手に痛めてしまった俺は、自室のベッドで安静に過ごす事を余儀なくされていた。しばらくの間は松葉杖生活だ。
割と落ち込まない訳でもないが、俺以上に落ち込んであからさまなほど元気のないリドルや、わざわざ見舞いに来てくれた監督生が「先輩に怪我させた犯人は絶対とっちめてきますから!!」と誰よりも怒ってくれたことを思い出せば、ほんの少し、沈んだ気持ちも楽になる。オマケに、あのグリムが見舞いの品にツナ缶をくれるとは思わなかった、意外なもんだ。けれど、可愛い後輩たちに懐かれることは決して嫌な気分じゃない。
しかし、正直言って怪我人は暇だった。さっきまで見舞いに来てくれた友人と後輩たちも退散してしまって、シーンと静かになった寮内の自室はやけに寂しく感じられる。今日は一日しっかりと休むよう言われているが、足以外は健康体そのものであるから眠る気にもなれない。どうしたもんかな、ケイトから借りた雑誌でも読むかなあ、と貰ったツナ缶相手にぼんやり睨めっこしていた時。
コンコン、控えめなノック音に驚く。また監督生たちだろうか、何か聞き忘れたことでもあったのか? と思いきや、扉の向こうから聞こえたのは「クローバー君」フワフワの綿飴を思わせる甘い女性の声。どきんと心臓が今までにないほど高鳴った。この、声は。
「──アイ、さん?」
「はい、オンボロ寮のアイです。クルーウェル先生から、クローバー君が怪我をしたって聞いて、心配で、お見舞いに来てしまったのだけど……入っても大丈夫かしら?」
ある日の勉強会をきっかけに、彼女に対して芽生えたばかりの特別な感情を自覚してしまってからは、久しぶりに声を聞いた気がする。出来れば、今の弱っている自分を見せたくはないけれど、同時に会いに来てくれた嬉しさが勝って、頭の中がぐるぐると回る複雑な心境だった。彼女は俺のことなんて、他の生徒と同じような"年下の可愛い男の子"としか見ていないだろうに、酷く意識してしまう自分が恥ずかしくて情けない。どくどくと速まる心音を落ち着かせたくて胸元を撫でるも、当然、効果はない。
いくら心の準備が出来ていなくても、彼女をずっと扉の前で待ち惚けさせる訳には、いつまでも返事をしない訳にはいかず、俺はいちど深呼吸をしてから「どうぞ」と返した。普通を心掛けたつもりだが、若干、声が裏返った。
「入るね、失礼します」
不安げな小さな声と共に、ゆっくり恐る恐る扉が開かれる。彼女は、割と元気そうな様子でベッドの上で上体を起こしている俺に、ほっと安心の微笑を浮かべるが。俺の右足に大袈裟にも嵌められたギプスを見たのだろう、すぐにその表情は痛々しく歪んだ。
「良かったら、そこの椅子使ってください」
「うん、ありがとう」
普段は勉強机とセットで使っている椅子を指さした。仕事着であるクラシカルなメイド服をふんわりなびかせて、コツコツ、と遠慮がちに俺のベッドの近くまで来る。椅子をベッドのそばへ寄せて、彼女が腰掛けた。手を伸ばせば触れ合える距離に、彼女がいる。どきん、どきん、妙な緊張感が高まる。今の俺は上手く笑顔を作れているのか、不安だ。
「ええっと、わざわざ、ありがとうございます。ご心配をおかけしてます」
「ううん、こちらこそごめんね、何の連絡もなく押しかけてしまって。……思っていたよりも、重傷そう、ね」
「いや、これは大袈裟なだけですよ。見た目ほど大したことありませんから」
「でも、この怪我のせいでマジフト大会には出られるかわからないって、今年は見学になってしまうかもって、クルーウェル先生も悲しんでいらっしゃったから」
彼女がそれを知っていた事と、まさかのクルーウェル先生まで自分を心配してくれていた事に、俺はとても驚いて目を見開いた。確かにあの先生はサイエンス部の顧問であるし、入学してから何かとお世話になっているが、なんというか、失礼とは思うけど、誰かひとりの生徒を特別心配するようなイメージが無かった。
「クローバー君、ハーツラビュル寮の代表選手の候補だったんでしょう? とても、残念ね。私もきみの格好良い姿、見たかったな」
当事者の俺よりもシュンと落ち込み俯いてしまう彼女。どうしてその事を知っていたんだろうと疑問に思ったが、よく考えれば彼女は雑用係とは言え、ナイトレイブンカレッジの職員のひとりだ。当然、学園の一大イベントである寮対抗マジカルシフト大会について、また有力な選手候補の生徒に関しても、しっかり説明を受けている筈だろう。
俺は周りの後輩たちからどれだけ兄貴分のように慕われようとも、まだまだ大人たちに心配や世話をかけてしまう、学生の子供なのだと実感する。しかし、それも何だか嫌ではなかった。ひとから可愛がられるなんて、柄じゃないし、背中がくすぐったくなるけれど。純粋に嬉しいと思うし、頼れる年上の存在は安心感があった。
「俺も、たまには寮母さんに格好良く活躍してるところ、見てほしかったです」
いつも可愛い可愛いと言われてばかりだから、なんて苦笑すれば、彼女は驚いた顔を上げて。すぐにクスクスと微笑んだ。
「大丈夫。クローバー君はいつでも格好良い、素敵な男の子だよ」
へ、と間の抜けた声が出た。
「魔法を使いながらお料理している後ろ姿なんて、魔法の使えない私には、とても幻想的で素敵に見えるの。真剣な横顔も格好良いし。熱くなるのは苦手、なんて言いながら飛行術の授業も頑張ってる姿とか。あ、錬金術や部活の時、眼鏡を外してゴーグルと白衣を身に付けるでしょう。よく似合ってて、格好良いよ」
すらすらと呪文でも唱えるように紡がれる数々の褒め言葉。俺はもはや、酷く熱の上がり始めた頬を片手で押さえながら、照れ臭さに俯くしかなかった。
「……意外と、俺のこと、見てくれてるんです、ね」
「ふふ、お仕事中に偶然見掛けただけだよ。でも、頑張り屋さんな子には特別、惹かれてしまうから」
ぽふぽふ、と頭に温かな感触が降ってきて。ああ、彼女が俺の頭を撫でてくれているのだろうと理解する。
「そして、お友達想いで優しい、周りをよく見て行動できる賢い子。今回の怪我だって、お友達の、ローズハート君を守ろうとした結果でしょう。そんな咄嗟の状況判断が出来てしまうところも、お友達のためならその身を投げ出せてしまえるような愛情深いところも、心から凄いと思う。ただ、やっぱり、お友達を大切にするくらい、自分のことも大切にしてほしいけれど、ね」
ちらりと覗き込むように彼女の方を見る。心の底から俺を案じて揺れる、赤い瞳と目が合った。
「きみが傷付いて悲しむひとたちも、いるんだよ」
するり、彼女の優しい手が離れていってしまい、寂しさで心の奥が冷える。
「ごめんね、少しお説教っぽくなっちゃったかしら」
「いや、そんなことは。ありがとう、ございます」
「ううん、お姉さんには心配するくらいしか出来ないもの。しばらくは怪我人らしくゆっくり休んで、困ったらいつでもお姉さんを頼ってね。いつもユウちゃんたちがお世話になってるし、クローバー君のためになんでもしちゃうよ」
トン、と自身の柔らかそうな胸元を軽く叩いて、ニコニコ笑って見せる彼女。
なんでも──という言葉に一瞬、男子校生らしい邪な考えが頭を過ぎるも、こんな優しさのかたまりみたいなひとに何を考えているんだ!? と、心の中で己を叱責する。ぶんぶん首を振って馬鹿な妄想を振り払った。俺の奇怪な行動に「大丈夫?」と彼女がまた不安げになってしまう。大丈夫です、と我ながら弱々しい声で返した。
不意に彼女は「あれ?」と声を上げる。俺の手にずっと握られていた、缶詰の存在を今更気付いたらしい。
「クローバー君、それって、ツナ缶?」
「ん、ああ……グリムのやつが、お見舞いの品だってくれたんですよ。意外でした」
寮母さんが来る前に、ほとんど入れ違いで友人や後輩たちが見舞いに来てくれた話をした。その時の俺の表情はたぶん、嬉しくてニヤけていたと思う。
「あなたの見守るオンボロ寮の生徒たちは、ふたりとも良い子ですね」
「そうでしょう、自慢の子たちだよ。ね、そのツナ缶、私に預けてもらっても良いかな」
何をするつもりか察せなかったが、どうぞ、と特に深く考えず彼女の手に缶詰を渡した。
「まだ少しお夕飯には早いけれど、お腹は空いてる?」
「え? そうですね、今日はバタバタしてお茶会も出来ていませんし、割と空いてます」
「じゃあ、このツナ缶でご飯を作ったら食べてくれるかしら」
缶詰を顔の近くへ寄せて、こてん、と首を傾げた彼女。甘えるような上目遣いで眉を下げたその表情に、ぎゅ、と心臓が締まって息も詰まる。俺はすぐに頷いた。
「ぜひ、頂きたいです」
彼女の手料理の美味さは既に知っているし、出来れば毎日のように食べたいと思っている。俺には願ってもない提案だった。
「よかった。それじゃあ、寮の台所を借りるね」
「あ、道、わかりますか。俺が案内を──」
「こら、怪我人は大人しくしてなさい」
いつものお節介な癖で怪我をしていることも忘れて立ち上がろうとした俺は、寮母さんの華奢な指先でツンと額を押さえられて「めっ」なんて叱られてしまった。怒る言葉すら甘ったるいとは、このひとは比喩表現じゃなくて本当に砂糖菓子で出来ているのかもしれない、とか馬鹿な思考に溶ける。
「大丈夫だよ、お仕事で何度もここへは訪れているし。困ったら置き時計の紳士やポット夫人に道を聞くから、雑誌でも読んでゆっくりしていて。ね?」
良い子だから、と今度はぽんぽん軽く頭を撫でられた。その子供扱いに恥ずかしくなるが、嬉しくもなって複雑な気持ちだ。
彼女がひらひらと笑顔で手を振って俺の部屋から出て行ったことを、廊下の向こうの足音も聞いてしっかり確認した後。
俺はずるずると上半身を沈み込ませるようにベッドへ横たわる。両手で顔を覆って、はああ、と人生最大に深い溜息を吐き出した。
「あー……好きだ……」
二度目の溜息に混じって、自分でも吐き出すつもりのなかった言葉も一緒に漏れた気がするけど、聞かなかったことにする。
想像以上にあのひとの存在が自分の中で大きくなっていたこと、その蕩けそうな甘さに心の底まで飲み込まれていたことを、すっかり自覚してしまって。
彼女の甘い香りや移動されたままの椅子など、俺の部屋に残されていった彼女の居た気配で頭がいっぱいで、もう雑誌なんて読めそうもない。
♣︎♣︎♣︎
だんだんと若い感情も落ち着いてきて、横になったままボンヤリとスマートフォンの画面を見ていた。若者に絶大な人気を誇るSNS、マジカメアプリに、友人たちからの俺の身を案ずるコメントが届いていたので、有難いなと心温めながら返信していたら、コンコン──と控えめなノック音が響く。俺はハッとして、すぐさまスマホをベッドに放り、上半身を起こした。
いつの間にか窓の外が随分暗くなっていることに気付く。どうぞ、と数十分前と同じ言葉をかけた。扉が開かれた途端、ふわ、と美味しそうなチーズの焦げた香りに鼻をくすぐられた。
「お待たせしました、お夕飯できたよ」
ごめんね、遅くなっちゃって。そう微笑みながら部屋に戻ってきてくれた彼女の手には、チーズの香りの元であろう食事を乗せた木製の盆が抱えられている。
「最新式のオーブントースターの使い方がわからなくて、ちょっと手間取って時間かかっちゃった」
機械操作はあまり得意じゃないらしく、ベッド横の椅子に座りながら苦笑する彼女。盆の上を覗き込んでみたら、その想像以上の豪華さに「おお」なんて自然と感嘆の声が溢れた。
ころころ皿に転がる丸く揚げられたフライドポテトと、大きなトマトが主張するサラダ付き。隅に添えられたガラスの小皿には、デザートのリンゴまで詰まっている。アイスティーには曲がるストローが刺さっているところに、彼女の優しい気遣いを感じた。そして、カリカリに焦げたチーズの美味そうなメインは。
「グラタン、ですか?」
「ううん、ドリアだよ。ツナとほうれん草が入ってるの」
薔薇の王国出身の俺には食べ慣れていない料理だ。グラタンの下にピラフなどの米飯を敷いて焼いた、極東の小さな島国で生まれた洋食の一種、だったかな。
とりあえず飲み物どうぞ、と手渡されたアイスティーでひんやりと喉を潤して、うっかり溢さないよう勉強机の上へ置いた。
「すごいですね、どれも美味そうだ」
「育ち盛りの男の子ならいっぱい食べてくれるかな、って、つい楽しくなっちゃったの。あ、食費はちゃんと学園長持ちだから、安心してね」
彼女はニンマリと口元だけで笑みを作った。悪い顔だ。初めて見たその表情も、やはり可愛らしいなんて。
「じゃあ遠慮なく、いただきますね」
「うん、たくさん食べてね」
盆ごと食事を渡してくれるかと思いきや、彼女はスプーンを手に持って、ツナとほうれん草のドリアを解し始めた。ふーふー、と熱々のドリアを冷ますために息を吹きかける。そこまで見てすぐ察した。
「はい、あーん」
ひとくちで食べやすい量のドリアを乗せたスプーンが俺の口元に差し出され、にこ、と聖母の如き微笑みが向けられる。
予想通りとは言え、まさか、この歳になって幼子のような扱いを受けるとは。羞恥心と甘えたい気持ちがバチバチとせめぎ合った。
「あの、寮母さん? 俺、足を怪我しただけですから、手は使えるので、自分で食べられますよ?」
今回は羞恥心の方が勝った、が。
「もう。こういう時は素直に甘えるものだよ、クローバー君?」
「こ、子供じゃあるまいし、」
「18歳なんてまだまだ子供です」
彼女の方は、とても不満げにムッと拗ねた顔をして、ちっとも折れる気配がない。結局、俺の羞恥心の方が折れて、その甘さに流されてしまった。
思い切って、差し出されたスプーンにかぶりつく。あわよくば彼女の料理を参考に新しいレシピを増やしたかったが、もう得意の調味料当てなんて出来そうもない。とりあえず滑らかに蕩ける濃いめのホワイトソースと、ツナがよく合っていることはわかる。美味い。
「美味しい、です」
「ほんと? きみのお口に合ってよかった」
しかし今度はフォークで、付け合わせのフライドポテトを差し出されて。あっ、これ、全部食べ終わるまでずっと「あーん♡」され続けるやつだな、と気付く。それは、俺の心臓が持つのか、とても不安である。
やはり5回目ぐらいから照れ臭さが限界で耐え切れなくなったため、食べ難いから、という理由で彼女の膝から盆を奪った。もう出来立てのドリア並みに頬が熱い気がする。
「あまり俺で遊ばないでもらえますか」
「ふふっ、ごめんね。照れてる姿も可愛らしいから、つい」
くすくすと楽しそうに笑っている彼女は、小悪魔的な一面もあったのかと意外で驚いた。今日は寮母さんに心の中を掻き乱されっぱなしだ。
一方的にからかわれるだけでは癪なので、今度は俺が、彼女にドリアの乗ったスプーンを差し出した。「えっ」とあからさまに動揺して、頬がほんの少し桃色に染まる彼女。その困惑した表情にぞくりと若い悪戯心が刺激されて、自然と悪い笑みでニヤける。
「どうされたんですか、ほら、口を開けてください」
「わ、私は良いの。ちゃんと味見はしたし、食べ慣れてるから、」
「まあ、そう言わずに。美味しいものは誰かと一緒に共有したいじゃないですか」
ね? とニッコリ笑って見せれば、彼女はそれ以上断る理由を見つけられたかったようで。渋々、恥ずかしそうに横髪をするり指先で掻き上げながら、ドリアをひとくち頬張った。
「……うん、美味しいね、さすが私」
照れ臭さを隠すためにふざけた口調で苦笑する彼女は、あまりにも可愛くて。つい意地の悪い行動をしてしまったことに、少し、罪悪感を覚えた。
色んな意味で熱くなってきたため、アイスティーをもうひとくち飲んで熱を流し込んだ、その時。
ドタンッ、と扉の近くから大きな音が響いてきた。驚いて、寮母さんと共に扉の方へ目線を向ければ。
「あっ」
「やば、バレた」
何故か、扉の隙間からはみ出て積み重なっているリドルとケイトの姿があった。恐らく、ケイトが扉の下にしゃがみ込み、その上からリドルが顔を出して、俺の部屋をふたりでこっそり覗いていたんだろう。しかし、うっかりバランスを崩して床に倒れ込んだ、と。
「覗き見とは随分良い趣味をしてるな、お前ら」
まさかリドルまで、と呆れながら声を掛ければ、初々しく顔を真っ赤に染め上げて「いや、違うんだ、これは、あの、」と必死に言い訳しようと慌てる幼馴染みの姿を見るに。食べさせ合いしているくだりを一部始終見られていたんだな、と察する。ケイトなんて「ごめん、ごめん♪」とちっとも悪びれる様子も無くニヤニヤ笑っているから、さすがに恥ずかしくて痛む頭を押さえた。
「扉ノックしても返事ないし、完全にふたりきりの世界に入り込んでて、さすがのけーくんでも、ちょっと話しかけ辛い雰囲気だったからさ〜」
「だからって、黙って覗くなよ……。まあ、怒る気力もわかないから良いけど、それで、ふたり揃ってどうした?」
「うん、ちょっとね。それにしても、トレイくんばっかり美味しそうなもの食べててずるくなーい!?」
妙にケイトの制服が砂だらけなのが気になったが、立ち上がってすぐ寮母さんへ元気いっぱい絡む明るさを見て、今はあまり言及しないでおくことにした。
「あら、ダイヤモンド君とローズハート君も、お腹空いてる?」
「けーくんお腹ぺこぺこです! もお色々と酷い目にあったばっかりだしぃ、オレも寮母さんの手料理食べたい!」
ぐいぐいと寮母さんに迫るケイトの後ろで、リドルも遠慮がちに「ボクも頂きたいです」と小さく告げた。
リドルはやはり、年上の女性、という存在にはどうしても萎縮してしまうのだろうか。今の彼から厳格な寮長の凛とした姿は失われ、そこには人見知りの幼い男の子が居た。それでも彼女というひとが、少し世話焼きが過ぎるだけの優しい大人であると理解しているから、きちんと自分の気持ちを言えたのだろう。良い変化だ、と親心にも似た感情に胸を温める。
寮母さんもリドルには必要以上に距離を詰めたり触れたりしない、適切な距離感で「ちょうどよかった」と柔らかく微笑むだけだ。
「実はもうふたりぶんのドリアが余ってたの、きみたちが食べてくれるなら嬉しいな。今から焼いてくるから、少しお話でもして待っててくれる?」
やった、楽しみー! なんて、わざとらしいほど大喜びするケイト。すぐに部屋を出て行こうとする彼女を、突然リドルが「あの!」と声を張って引き留めた。
「ボクにも、なにか、お手伝い出来ることは、ありません、か、」
途切れ途切れの、辿々しい言葉。それは本当にあのリドルの口から出て来た言葉なのかと、その場に居た全員が驚いた。
彼が、どうしてそんなことを言い出したのか。幼馴染みの恥ずかしい姿を見て居た堪れなくなったのかもしれないし、年上の女性に対する苦手意識を克服したいのかもしれないし、彼女の母性的な愛情に惹かれる部分があるのかもしれない。ただこれだけはわかる、彼は必死に自分を変えようとしているのだ、そう思った。
「ありがとう、ローズハート君も優しい子ね。さすがにふたりぶんのドリアをひとりで持ってくるのは大変かな、って思ってたから助かります」
「いえ、こちらこそ食事を振る舞ってもらうのですから、これくらい当然の行動ですよ」
徐々に普段の凛とした姿を取り戻したリドルは、それじゃあ行ってくる、と俺たちへ軽くアイコンタクトして、寮母さんと共に部屋を出て行った。
へえ、とケイトから感心の声が溢れる。
「ほんと、努力家だよね、リドルくんって」
「ああ。彼女に少しでも年上女性に対する恐怖心を和らげてもらって、この調子で母親とも上手く話せたら、良いんだが……」
そう簡単に行く問題ではない、と解っていても、どうか平穏に話が運ぶことを願わずには居られなかった。
ふたりの足音が聞こえなくなったところで、さて、と先程まで寮母さんの腰掛けていた椅子にケイトが座った。俺は食事を進めながら彼の話に耳を傾ける。
「今日はあまり犯人についての収穫は無かったね。でも、良い情報提供者になってくれそうな子は見つけたし、明日には少し進展が見込めそうかも」
「そうか、砂だらけになった甲斐はあったらしいな」
「もー、ほんと散々だった、トレイくんが居てくれたら少しは楽できたのに」
「仕方ないだろう、今の俺は"怪我人"なんだから」
「……ほんとは軽い捻挫の癖に。まるで骨折でもしたぐらい、大袈裟にしちゃって」
「これも作戦の内だって言った筈だぞ」
「わかってるよ、敵を欺くにはまず味方から。トレイくんが"重傷"だって、嫌になるくらいオレくんたちで噂広めてきたから安心して」
「まあ正直、寮母さんや監督生たちに酷く心配をかけさせてしまっていることは、心苦しいが……」
「ウッソだあ、ちょっと得したぐらいに思ってるでしょ」
「おっと、バレたか。でも嘘はついていないぞ?」
誰にも実際の怪我の具合を話していないだけで、例えそれが数日で治るような(大会出場にはほぼ支障の無い)軽傷であっても、怪我人であることに変わりはないのだから。
ハーツラビュル寮の副寮長が大怪我をしたとなれば、寮生たちも改めて気を引き締めるだろう。二度とリドルが狙われることも無い筈だ、もう警戒されている同じターゲットを狙うことは犯人にとってリスクが高い。これもマジフト大会に向けた、大切な作戦だ。
普段穏やかとか温厚とか言われがちな俺も、まあ人並みに怒りの感情を持ち合わせているので。
「どこの寮生の仕業だか知らないが、この恨みはしっかりと試合で晴らさせてもらわないとなァ」
あのひとが思っているほど、俺はそこまで"良い子"じゃないから、な?
「うっわあ、出たよトレイくんのゲス顔。その表情、あんまり寮母さんには見せない方が良いよ〜?」
「はは、そうだな、気をつける」
今はまだ、あのひとに可愛がってもらえる年下の男の子で居たい。が──。
いつか、彼女の特別なひとりになりたいと願ってしまうのは、欲張りが過ぎるだろうか。
まあ、しかし、マジフト大会当日。連続傷害事件の犯人だったサバナクロー寮をしっかり試合で痛め付けて、清々しい心地になった後。
怪我の件をわざと大袈裟に知らせていたことについて、寮母さんから「もうっ、本当に心配していたんだからね!?」とプンプン可愛らしい効果音が付きそうなくらいに、とてつもなく叱られたんだが。
そんな姿も良い思い出になったなんて、彼女に言ったら、また怒られてしまうかな。
2020.07.06公開