緑の帽子屋と寮母さんの話
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優しい掌に恋をする
ある平穏な休日のことだった。
真面目で可愛い後輩の監督生と、ハーツラビュル寮の新一年生のヤンチャ坊主たちに頼み込まれて、オンボロ寮の談話室を借りた勉強会が行われる事となってしまった。臨時講師は俺と、リドルである。ケイトも彼らに声を掛けられていたが「ごっめーん! 今度の日曜日は軽音部の集まりがあるから☆」とか言って逃げた、腹立たしいウインクと共に。
せっかくパーティーの予定も何もない自由な日曜日が丸々潰される、というのは正直複雑で。最初は少し面倒だなあと思いつつも、リドルがやたら乗り気だったから、ついでに俺も適当に課題を進める計画を立てて、結局のところ参加した。不真面目な態度を取るグリムや一年坊主たちに、すぐ怒ってユニーク魔法を使おうとするリドルを宥めるのは大変だったが。まあ、でも。飲み込みの早い監督生を教えることは楽しかったし、来週提出の課題までも全て片付いたし、おかげさまで得な出来事もあった。
「みんな〜、お勉強会おつかれさまです。そろそろひと段落ついたかしら?」
綿あめのようにフワフワした甘い女性の声がして、男子全員一斉に顔を上げる。
「あっ、寮母さん!」
監督生が桃薔薇の咲いたようなパァッと明るい笑顔でそのひとを呼べば、いつの間にかエースとデュースが陣取る大きなソファの背後に居た、使用人姿の麗しい女性──オンボロ寮の寮母であるアイさんは柔らかに微笑んだ。
「あまり根の詰め過ぎも良くないから、少し休憩にしませんか。フルーツたっぷりのゼリーがあるから、おやつにしましょう?」
「えっ、良いんすか!? やった、食べたいっす!」
「僕もぜひ、頂きたいです!」
無邪気な瞳をキラキラさせて即反応するエースとデュースに、寮母さんは嬉しそうな笑みを浮かべて「じゃあ少し待っていてね。追加の飲み物も持って来るから」との言葉を残し、キッチンへ姿を消した。時計を確認すると、もうすぐ3時になりそうな時間だった。軽食にはちょうどいい頃合いで、声を掛けるタイミングも完璧とは恐れ入る。
寮母さんが立ち去った後、エースが「あぁ〜ッ」なんてわざとらしい溜め息を吐きながら、勉強道具の散乱した机の上へ伸びた。
「ここの寮母さん、マジで美人だよなぁ! ユウとグリムが羨ましい〜ッ」
「大人の女性の魅力というか、包容力に溢れているというか、素敵なひとだよな」
デュースまでうっとりした顔で、そんなことを言い出すとは、驚いたな。
彼らと机を挟んで向かい側、そして監督生の隣を独占しているリドルは何か察したのか、その表情がムッと不機嫌になった。
「……キミたち、まさかとは思うけれど、今日の勉強会を企画したのは寮母さんに会いたかったから──なんて、邪な理由じゃないだろうね?」
「そっ! そんな訳ないじゃないですかァ、やだな、寮長ったらー!!」
いきなり慌て出したエースの反応を見るに、多分コイツは寮母さん目当てであると確信した。デュースは不思議そうに首を傾げていたので、純粋に勉強を教えてほしかっただけだろう。
更にグリムが「エースなんかじゃアイとは絶対釣り合わねえんだゾ」とか言い出すから、談話室はまた大騒ぎだ。
(ま……俺も、エースの気持ちがわからないでもないけどなあ)
この男子校では数少ない、本当に指で数えられる程しかいない女性という存在は、それだけで若い男子校生たちの興味や憧れの的になるもので。しかも、この学園の女性という存在の半分は、ゴーストか肖像画である。(※監督生も本当は可愛い女の子だが、いちおう男と偽って学園に通っている為、この場合はカウントしない事とする)オマケにこの年頃の男にとって、自分たちよりも年上の女性は、非常に魅力的な存在に映るものだ。
監督生と同じく異世界からこの学園へ迷い込んでしまったという、不運な境遇でも折れず真っ直ぐ健気に生きる、そのひとは、確かに──。
「綺麗なひと、だよな」
ぽろ、と思わず溢れてしまった言葉。周囲が一斉に沈黙した為、俺は瞬間的に不味いと察し、すぐ己の口を塞いだ。完全なる無意識だった。
「えっ、トレイ先輩、ガチトーンじゃん」
先程まではしゃいでいたエースが、酷く冷静な声で驚いている。が、すぐに楽しそうな悪戯小僧の顔になった。
「へえー? ふうん、ほっほー? 先輩、意外とああいう大人の女性が好みなんすねえー??」
「いや、ごく客観的な意見だ。そんな深い意味は、」
しかし、変に誤魔化せば誤魔化すほど肯定の意味と捉えられてしまうようで。おいやめろ、デュースまでニヤニヤするな。リドルもそんな微笑ましげな顔を向けないでくれ、居た堪れない。
極め付けのトドメは「トレイ先輩もちゃんとお年頃なんですね、なんか安心しました!」という監督生の純粋無垢な発言で、それはいったいどういう意味か今すぐ問い質したかったが──。
「楽しそうなお話中ごめんなさいね、飲み物とおやつ持ってきましたよ」
今度はタイミング悪く寮母さんが戻ってきてしまった為、それ以上この話については何にも言い返せなかった。
「いえいえ、ナイスタイミングですよ。ちょうど、オンボロ寮の寮母さんは優しくて綺麗で羨ましいなあ、って皆と話してたんで!」
「えぇっ、ほんとう? ふふ、冗談でも嬉しいなあ。ありがとう、トラッポラ君。けど、お姉さんをそんなに煽てたって何も出ないよ〜?」
「いやいや、本当ですって! ──ねえ、トレイ先輩♪」
ぱちり、と寮母さんの視線が俺に向いた。余計な話をしたせいだろう、彼女と目が合っただけで心臓が酷く喧しくなる。が、なんとか必死に口を引きつらせて笑みを作ってみせた。
「……そう、だな。俺も親切で良い寮母さんだと思うよ」
エースの奴め、明日のマジフト練習は厳しく鍛え直してやるからな。
若干、平穏と掛け離れたトラブルはあったものの、その後は何事もなく勉強会を終えた。
しかし、気が付けば外はすっかり暗闇で、寮母さんから「良ければお夕飯も食べて行きませんか」と誘われた為、俺たち4人はもう少し長居させてもらう事になった。3時の軽食まで頂いてしまったというのに、あまりにも親切過ぎやしないかと彼女が心配になるほどである。
この地域では珍しい和食料理を美味しく頂いた後、これからトランプでもやろうと盛り上がる一年生たちと幼馴染みを他所に、俺はひとり静かに席を立った。皆には気付かれないように、そっとキッチンへ向かう。
洗い場でぶくぶくと泡塗れになっている白いエプロン姿の背中に、小さく声を掛けた。
「寮母さん、俺も手伝います」
振り返った彼女はとても驚いていたけれど、すぐにまた柔らかく微笑んで。
「あら、クローバー君。きみはお客様なんだから、座っていて良いのよ?」
「いや、それじゃ俺の気が済まないので。こんな遅くまで居座った挙句、美味しい夕食までご馳走になってしまったから。お礼と言うには足りないけど、少しくらい手伝わせてください」
ここまで世話を掛けられっぱなしで何もせず黙って帰るのは、さすがに申し訳なかった。彼女と少し二人きりで話をしてみたかった、なんて邪な理由は一切ない。
それじゃあ洗い終わった食器を拭いてほしいと頼まれたので、近くにあった布巾を手に取って、彼女の隣に並んだ。オンボロ寮のキッチンは古い上に狭い為、寮母さんと腕が触れ合いそうな距離感が、胸の奥をざわつかせる。
「きっと、きみは近い将来、素敵な旦那さんになるのでしょうね。お姉さんが保証しちゃいますよ」
「ははっ、それは光栄だ」
「お料理上手で面倒見も良くて、こんな風に女性の気遣いも出来るなんて。かっこいいよ。学生さんにしては随分大人っぽいし、ここが男子校じゃなくて共学なら、さぞモテモテだったでしょうに。勿体ないなあ」
まだ学生の身分である俺のことなど、全く恋愛対象として見ていないから出て来る言葉だろう。それはそれで、何だか複雑な気持ちになるけれど。まあ、褒められて悪い気はしない。
「あー、なんというか、そこまで褒められると、さすがに照れますね。ありがとうございます。それで、褒め上手な寮母さんはいったいどんなケーキをご所望ですか」
「もう。ケーキ目当てで褒めてる訳じゃありません、ただの本心よ? 好きなケーキはレアチーズケーキだけど」
「ふはっ、やっぱりケーキ目当てじゃないですか」
うふふ、と笑い方までお淑やかなそのひとに少し目を奪われながら。他愛もない会話をした。
俺の実家がケーキ屋であること、弟や妹の可愛いエピソードに、彼女が元の世界では家政婦をしていたことや、オンボロ寮の庭に花を植え始めた話など。
そうこう会話を弾ませている内に、いつの間にか洗い場で山になっていた洗い物が片付いていた。
「手際が良いから、すぐ終わったね。ありがとう、助かっちゃった。クローバー君はほんとうに良い子ね」
久しぶりに夢中になっていた。もう少し話していたかった、なんて思う。
「いいえ、このくらい全然……」
洗い場で手を軽く濯いだ後、借りたタオルで手を拭きながら彼女の方を向く。すると突然、寮母さんの華奢な手がこちらへ伸びてきて、ぽふぽふ、と俺の頭を撫でた。
驚きのあまり、咄嗟の声すら出なかった。ピシリ、石化の呪いでもかけられたかのように固まる。必死で絞り出した声は、うー、とか、あー、とか、随分情けないものだった。顔が、いや全身の体温がじわじわ上がっている感じがする。
しかし俺が思考停止しているその間も、目の前の女性はにこにこ嬉しそうに笑いながら、平気で俺の短い髪をくしゃくしゃと優しく指先で遊んだりなどするものだから──。
「寮母、さん。あの、これはどういう、」
「頑張り屋さんはいい子いい子って、褒めてあげるのが当たり前でしょう?」
「な、なるほど?」
ちっとも成る程じゃなかった。俺はこのひとから見て、いったい何歳の男児に見えているんだろうか。
ここで一旦、自分の名誉(?)の為、是非とも言い訳をさせてもらいたい。他人に頭を撫でられる、なんて行為に俺は慣れていない。俺が誰かの頭を撫でてやることはあっても、俺が誰かに頭を撫でられる──という行為は、あまりにも久しぶり過ぎたのだ。物心ついた時には既に弟や妹たちに囲まれていて、両親に撫でられた記憶も随分と古い。そもそも18歳の男子校生に、結構な高身長を自負している俺の頭にそう軽々手を伸ばすような人など、間違いなく彼女以外いないだろう。
ましてや家族でもない、自分より年上の女性から幼子のように可愛がられる、なんて──。ああ、もう、とにかく、その。
「は、恥ずかしいんです、けど、」
「あっ、ごめんなさいね。気安く触れたりなんてして、嫌だったかしら……?」
「い、いいえ、」
──正直、嫌ではなかった。
だから、つい、彼女の手の存在が遠退くと、寂しくなって。自分で恥ずかしいと言った癖に。気が付けば、離れようとした彼女の右腕を掴んで、引き止めていた。
「クローバー君?」
当然だけど、今度は彼女が目を丸くして驚いている。
ちら、と談話室の方へ目線を向けた。トランプ遊びでわいわいと盛り上がっており、誰ひとりとしてキッチンに居る俺たちを気にしていないことを確認する。そうして、彼女へ視線を戻す。
やはりどうしようもない羞恥心に「あの、」と声は小さくなってしまうが、半ばヤケクソで途切れ途切れの言葉を吐いた。
「もう少しだけ、撫でて、くれないか」
言い切ってから、すぐ後悔した。慌てて彼女の腕から手を離して、真っ赤に染まっているだろう自分の顔を、その手で半分隠した。心臓の奥が痛い。何を言ってるんだ、俺は。
けれど彼女は何を嫌がることもなく、やはり当たり前のように手を伸ばす。甘えたがりの幼子をあやす様に、いい子いい子、なんて唱えながら再び俺の頭を撫でてくれた。きゅ、と胸の奥底が甘く締め付けられた、気がした。
「なんか、今更だけど申し訳ない、です」
取ってつけたような敬語、それでも彼女は聖母の如く微笑む。
「皆の優しいお兄さんだって、たまには甘えたさんになっても良いんじゃないかしら」
「……アイさんだけですよ、俺をこうも甘やかしてくれるのは」
「ふふ、お姉さんだけの特権ね」
いくら大人のフリをしていたって、俺も所詮はまだ青臭い子供なのだ、と自覚する。本当に、男子校生なんて、馬鹿で、単純で、どうしようもない──こんな簡単なことで、ひとを好きになってしまうのだから。その優しい手に本気で惚れてしまったなんて、後輩たちに知られたら、きっとまた笑われるんだろうな。
今度オンボロ寮へお邪魔する時は必ず、レアチーズケーキを差し入れようと、心に決めた。
2020.06.24公開