緑の帽子屋と寮母さんの話
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幸せの魔法は抹茶色
幼い頃から、不思議な夢をよく見ていた。
まるでお伽話のような、剣と魔法のファンタジーが存在する世界で、私はいろんな国々を自由に大冒険するのだ。
美しい妖精たちが住み着く花園へ歓迎されたり、深海に存在する人魚たちの暮らす街へ迷い込んだり、夢の中らしい幻想的な世界を歩むこともあれば。地平線さえ定まらない広大な砂漠を彷徨ったり、永遠に止むことを知らないような吹雪の中で山を越えたりと、生死の境が見える厳しい道のりもあった。
その行く先々で、たくさんの出会いを重ねた。自分を夜の眷属だなんて語る、どこかの国の騎士団長らしい美青年。陸の食べ物を分けてあげたら懐いてくれて、海の世界をあちこち案内してくれた双子の人魚君たち。空飛ぶ絨毯を捕まえたお礼に、魔法で砂漠に雨を降らせてくれた、太陽みたいな男の子。雪山で遭難しかけたところを親切に助けてくれた、真っ白な狼耳が可愛らしい獣人の兄妹など──。
夢の中の世界は、時々恐ろしい目に合う事もあったけれど、それ以上に素敵な自由が広がっていて、とても、とっても楽しかった。
きっと、それは「つらい現実世界から逃げ出したい」という、幼き私の願いが夢の中で形になったものだろう──そう思っていた。
しかし、成長して中学生にもなってしまうと、さすがに同じ世界の、でも違う国々の、不思議な夢を頻繁に見ることが不安で。〝アリス症候群〟そんな精神疾患を疑ってみたりもした。でも、現実の生活には何ら支障なかった。具合を悪くしたこともない。幻覚を見るような事もない。本当にただ夢を見ている、それだけだった。
高校生になってからも、私は相変わらず、不思議な夢を見る。
その日、初めて訪れた国には、辺り一面に色とりどりの薔薇が咲き誇る、美しい夜景が広がっていた。
「わあっ、きれい!」
思わず感動の声を溢れさせてしまうほどの景色。夜空が眩むくらいの鮮やかさ。西洋の異国情緒溢れる家々の壁や屋根、石畳の道路に電灯、その全てに薔薇の蔓が絡まり、立派な花を咲かせている。定番の赤や白、桃、黄色はもちろんのこと、あまり見たことのない青や黒の薔薇も時折見かけた。凄いなあ。この街では何か、花を飾るお祭りでもやっているのだろうか。
しかし景色の華やかさに比べて、辺りは怖いくらいに静まり返っている。街は既に寝静まっているようで、人の気配は感じられず、家の明かりが付いている数も少ない。もう随分と夜更けの時間帯らしかった。
「うふふ」
なんだか、ちょっぴり悪いコトをしているみたいで、楽しいかも。こっそり夜中に家を抜け出した、不良少女の気分。時にはひとり、夜のお散歩も悪くはない。こうも美しい街なら、どれだけ眺めていたって飽きないだろうから。
私は跳ねるような足取りで、薔薇の夜道をルンルンと当てもなく進んだ。
「う、うぅ……」
その瞬間、ビクッと肩も跳ね上がった。ぞわり、嫌な予感が冷たく背筋を走り抜ける。
しばらく歩いた先で、微かにひとの声が聞こえたからだ。ま、まさか、苦しそうな幽霊の唸り声──かと思いきや。
「ひっく……ぐすっ……」
違う、泣いてる、子供の泣き声だ。いや、まだこれも幽霊が啜り泣く声という可能性はあるけれど、相手が子供であれば幽霊だろうと何だろうと関係ない。どこに居るんだろう? 私は声を頼りに足を早めた。
薔薇のアーチが歓迎するレンガ道を抜けると、そこは小さな公園だった。遊具は滑り台がひとつ、ブランコがふたつ、子供たち数人でボール遊びの出来そうな広場が少し、後は真ん中にひときわ目立つ噴水がある程度のささやかな公園。
あっ、見つけた。噴水の縁をベンチ代わりにして、膝を抱えて丸くなりながら泣いている、小学生ぐらいの男の子が居た。
近付く私の足音を聞いたのだろう、抹茶色をした小さな頭がバッと上がる。涙でいっぱい潤んだ瞳が、驚いた様子で私を捉えた。
「だ……誰っ!?」
ギュッと眉間に皺を寄せて目つき鋭く警戒する姿は、失礼かもしれないけど、怯える子犬のように見えてしまう。ビックリしたせいか、涙は引っ込んだみたい。必死に目を凝らす様子から、もしかして目が悪いのだろうかと察した。
「えーっと、こんばんは」
これ以上は怖がらせないように、そっと歩み寄って挨拶をする。ある程度近付けば、こちらの顔がようやく見えたようで、蜂蜜色の瞳を何度か瞬きさせた後「……知らないひとだ」とぼそり呟く。でも、更に小さな音で「こんばんは」と挨拶を返してくれた。ふふ、良い子だなあ。
「お隣、座ってもいいかしら」
「…………どうぞ」
「あらあら、そんなに警戒しないで、お姉さんは怪しい者じゃありませんよ」
「余計、怪しいんだけど……変なひとだな……」
こちらを怪訝そうに睨みながらも、男の子がその場から離れることはなかった。
「こんな夜遅くに、ひとりで居たら危ないよ」
「お姉さんこそ」
「私は大丈夫、目が覚めたらすぐお布団の中だから」
「えぇ……?」
「ふふん、お姉さんはね、夜にこっそりお散歩するのが好きなの。深い夜の間、夢を見ている間だけ、私は自由にいろんな世界を冒険することが出来るから」
まったく何を言っているのかわからない、という困った顔をする男の子。ずり、と少しだけ距離を取られてしまった。あらら。
「きみは、どうしたの? ぼくも夜のお散歩中?」
明らかに不信がられているけれど、男の子は変わらず返事だけしてくれる。ゆっくりと首を左右に振った。
「──家出、したんだ」
うん、なるほど、確かにそんな風貌ね。しわくちゃのパジャマ姿に、泥んこの運動靴は不釣り合いだ。
「俺は、悪い子だから」
どうして、とこちらが問う前に。彼はまるで神様に懺悔する罪人のような面持ちで、ゆっくりとそう告げた。
「まあ、意外とやんちゃさんなのね。どんなイタズラをしてしまったの?」
「……いつも、家の中でひとりぼっち、寂しそうにしてる子が、いたから。いっしょに外で遊ぼうって、誘って、」
「うんうん」
「ケーキを食べた」
「え?」
「俺んち、ケーキ屋さんだから。ちょっとだけ、自慢したかった。ともだちに、喜んで欲しかったんだ。でも、よそのウチではそれが、悪いコトだった、みたい」
「……ほんとうに、それだけ?」
「うん」
今度は私の頭がぐるぐると混乱する。何を言っているのか、まったく理解出来なかった。
彼の行動に悪気があったとは思えないが、その家庭内で「外遊びは危険な行為」「ケーキは毒の塊」という認識だったらしい。友達の母親はヒステリックに声を荒らげて「陽が沈んで夕飯の時間を過ぎても、ずっと、ずっと怒ってた」との事。おやつの時間が昼食後だと想定して、ざっくり計算で約5時間ぐらい、だろうか。
まだ小学生ぐらいの子供が、良かれと思って行動した優しさを、どうして、そこまで──。
「おれが、わるいんだ。俺のせいで、父さんや母さんまで、いっぱい怒られて……ともだちを、たくさん泣かせて、傷付けた……だいすきなケーキも、悪い物だって、言われて……ぐすっ、もう俺は、ウチに居たらダメだと、思った、から……うっ、うぅーーッ」
また、膝を抱えて泣き始めてしまった男の子。根深く植え付けられた罪の意識から、親に守られた幸せな空間に自分がいることさえ許せなくなるほど、怖かったのだろう。通りすがりの見知らぬ私に、罪の告白をしなければ耐えられないぐらい、苦しかったのか。
私はそろりと手を伸ばして、ぽんぽん、彼の頭を撫でた。初対面でもこんな大胆に行動出来てしまうのは、きっと夢の中だから。おお、髪の毛ふわふわだ。ほんとうに子犬を撫でているような気分、晴れた日の芝生を思わせる感触が愛おしく感じられる。
男の子は当然、いきなりの行動に驚いて再び顔を上げた。でも、大きな瞳で黙ってこちらを見つめるばかりで、拒否する言葉もなく、嫌がる素振りさえ見せない。真っ赤に泣き腫らした顔のまま、固まっている。私の行動が予想外過ぎて、反応に困っているのかも。
私は構わず、もう片方の手も伸ばして、彼の瞳からぼろぼろ溢れ続ける涙を拭う。ここは、私の夢の中である筈なのに。指先を伝う滴はあったかい。
「きみはやさしい子なんだね」
理解出来ない大人の行動について悩んでも仕方がない、今はこの子の傷付いた心に寄り添ってあげたい、そう思った。
「だいすきなひとたちを、誰も傷付けたくなくて、誰も悪者にしたくないから、代わりに自分を〝悪い子〟にしようとしてるんだね」
嘘偽りない、私が彼に抱いた印象をそのまま告げる。友達ともっと仲良くなりたかっただけの、優しい子。よく周りを見て他人のために行動できる賢い子、だけど、だからこそ、他人の顔色に敏感で少し傷つきやすい子なのだろうとも、思う。
「よしよし、いいこいいこ……」
でも、こんな幼子をあやす言い方でしか、慰めてあげられない自分が情けなかった。男の子の表情がグッと険しくなる。
「ちがう、違うッ、おれは──! 俺がっ、余計なことをしなければ、良かったのに!!」
そう泣き叫ぶ彼の言葉は、たぶん、恐ろしい大人によって心の奥深い所へ突き刺された言葉なのだろう。あまりにも切っ先が鋭くて、胸が裂かれるように痛くなった。
仕方ありません。こうなったら最終手段だ。
「じゃあ、お姉さんも〝悪いコト〟しちゃおうかな」
私は一旦、彼の頭を撫でる手を止める。ごそごそと寝間着のポケットに忍ばせていた秘密兵器を掴んで、赤い鼻を鳴らしている彼の目の前へと差し出した。
「ジャジャーン! これ、なーんだ?」
「えっと……眼鏡、忘れちゃったから見えない」
「あ、そうなの? いつもは眼鏡をかけてるのね、ごめんね。抹茶ミルク味の飴ちゃんだよ」
「まっちゃみるく」
「うん。ほろ苦いけどやさしい抹茶味と、濃厚な甘いミルク味が相性ばっちりで、おいしいの。私のお気に入り、ひとつ分けてあげる。こわーい大人には内緒ですよ」
白地に緑色の茶葉模様が可愛いラッピングをされた飴玉。夢の中の私は何故か、いつもポケットに色んな味の飴ちゃんを忍ばせているのだ。寝付く前の私は決して、そんな物を寝間着に入れた覚えは無いのだけど、不思議。こういう何でもアリ感は、まさに夢っぽい。
「知らない大人にたくさん怒られて、恐ろしかったでしょう。いっぱい泣いて、疲れちゃったよね。よく耐えたね、えらい、えらいよ。でも、あんまり自分を傷付けちゃうのは、やめよう? きみをだいすきなひとたちが、悲しくなってしまうから……」
少し強引ながらも、戸惑う彼の小さな手を取って、その掌へ甘い毒をコロンと転がした。
「私もね、きみと同じで甘いお菓子がだいすきなの。悪い毒なんかじゃない、幸せをくれる魔法の食べ物だと思っているよ」
私は再び、よしよし、と男の子の頭を撫でる。
「これできみが少しでも、幸せな気持ちを取り戻してくれたらいいな」
うーん、どうかな、作戦失敗かも。やっぱり見知らぬひとからお菓子を貰ったって、困っちゃうよね。
掌を転がる飴玉を見つめたまま、黙り込んでしまった男の子を前に、これ以上どうしたものかと考え込んでいたら。彼はこちらには顔を見せず、でも耳を真っ赤に染め上げて、ただ一言「あ……ありが、と……」夜風にかき消されそうなほど小さな声で、そう言ってくれた。まあ、かわいい。
男の子は恐る恐るといった様子で、ゆっくり慎重に飴の包み紙をほどいていく。白と緑の毬みたいな小さい一粒を、思い切ってパクッと頬張った。かろかろと口の中で飴が跳ね回る音が聞こえる。
すると、彼はパッと弾けるように顔をあげて、キラキラ輝く眩しい蜂蜜色で私を見つめた。
「んん、わっ、おいしい!」
あらあら、とっても喜んでくれたみたい。私は安心して、ほーっと胸を撫で下ろした。
「ふふ、気に入ってもらえて良かった。あ、でも食べ終わった後にはちゃーんと、歯磨きするように! ね?」
「うんっ、寝る前の歯磨きはぜったい忘れないよ」
「おー、えらいね、いいこいいこ」
もういちど同じ言葉を唱えたが、今度は拒否されることもなかった。寧ろ「へへ」と照れ臭そうに笑い返してくれるではないか。子供らしい愛くるしさに、きゅんと胸が高鳴る。
「いつかきっと、ううん、必ず、きみの優しさを喜んで答えてくれるひとに出会えるから。大丈夫だよ」
優しい彼の将来が幸せでありますように。そんなことを祈りながら、飴玉が溶けてなくなるまでの間、私はずっと小さな頭を撫で続けた。
それから案外すぐに、別れの時は訪れる。
どこか遠くから、おーい、おおーい、と誰かを呼んでいるらしい音が微かに耳を震わせた。あっ、もしかして、と私が声を掛けるよりも早く、男の子がぴょんっと跳ねるように勢いよく立ち上がる。
「父さんと、母さんの声だ!」
愛する我が子の異変にいちはやく気が付いて、探しに来てくれたようだ。きっと、たくさん心配していたことだろう。
そわそわと落ち着かない様子で、今にも声がする方へ駆け出しそうな男の子。勝手に家出したことを叱られるかもしれない恐怖よりも、ちゃんと自分を探しに来てくれた喜びが勝っているようだ。なんだか少しだけ、羨ましいな。
「ぼく、どうしたの。はやくお父さんとお母さんのところへ行ってあげなきゃ」
「でも……お姉さんは?」
「え?」
「だって、いま俺が居なくなったら、今度はお姉さんがひとりぼっちになっちゃうから……」
私は数秒ぽかんと思考停止していたが、彼の言葉をなんとか飲み込んだ途端、その純粋過ぎる優しさが可愛くて、たまらなくて。思わず、声を弾ませて笑ってしまう。ああ、もう、ほんとうにやさしい子だなあ。
「あはは、ふふっ、心配してくれて、ありがとう! でも、大丈夫だよ。夜のお散歩は慣れているの。きみを見送ったら、私もおうちに帰るね」
「……うん、わかった」
最後にぽんぽんと頭を撫でてあげたら、男の子は渋々と言った様子だけれど、了解してくれたらしい。
おーい、おおーい。彼を呼ぶ声が少しずつ、こちらへ近付いている。タッとすぐに走り出した男の子だったが、公園の出入り口、暗闇に続く薔薇のアーチの真下で足を止めると、私の方を振り返った。
ニーッと歯を見せる、悪戯っ子みたいな笑顔で「お姉さんっ、またね」それだけ言い残すと、美しい薔薇の花弁を風に散らしながら去って行った。
これは、夢の中の出来事。私に都合の良いこと、嬉しいことばかりが起こる、夢の世界なのだから。「
「おやすみなさい。また、会えるといいね」
そうして、小さな背中を見送って以来、私が不思議な世界の夢を見ることは無くなったのでした──。
♣︎♧♣︎
ぎしり、身体が微かに揺れた感覚で、ゆっくりと重い瞼を上げた。
なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。
(でも……どんな夢、だったかしら)
ぱちぱちと瞬きを繰り返すうちに、夢の内容を忘れてしまった。その忘却が寂しくも感じられたけれど、やがてこの儚い感覚も意識がハッキリし始めるにつれて掻き消える。
ああ、そうだ。私ったら、家事の途中で居眠りしてしまったのね。
この身ひとつで異世界へ迷い込んでから半年が過ぎ、オンボロ寮の管理人とナイトレイブンカレッジの雑用係の掛け持ち生活にも慣れてきたこの頃。今日は可愛い寮生ちゃんたちが帰ってくる前に、ゲストルームをぴっかぴかにお掃除しておこうと思っていたのに。監督生ちゃんが魔法のトンカチで作ってくれた、ベーシックな灰色の縦縞模様がお洒落な二人掛けソファ。このふかふかの魔力に吸い込まれるが如く、少しだけ休憩しよう──と、軽い気持ちで腰掛けたら。外がすっかりオレンジ色に染まるまで、寝入ってしまったらしい。
まあまあ、大変! 早くお掃除の続きをしなければ、そう思いシャキンと背筋を伸ばした瞬間。すぐ隣で「あっ」と聞き慣れた低めの声が跳ねる。驚き慌てて顔を向ければ、困ったように苦笑する蜂蜜色とぱっちり目が合った。
「すみません、起こすつもりはなかったんだが……」
抹茶色した短髪が申し訳なさそうに揺れる。
ハーツラビュル寮所属の三年生、しっかり者の副寮長で、皆の頼れるお兄さんであるトレイ・クローバー君だ。それは間違いない。……筈なのに、ええっと、あれ? ほんとうにあの子なの? 何故か、彼が私の知っている彼ではないような、久しぶりの再会で急成長した親戚の子を見たような、奇妙極まりない違和感に襲われた。
恐る恐る、クローバー君の頭の天辺に手を伸ばしてみる。彼は反射的に驚いて「おわっ」と声を零したものの、嫌がる素振りも抵抗も見せず、変わらず困った顔のまま(ほんの少し照れ臭そうに頬を染めながらも)大人しく撫でさせてくれた。あ、ふわふわだ。大きなワンちゃんを撫でているような気分、晴れた日の芝生を思わせる感触が愛おしく感じられて、いつも通りの触り心地の良さでホッと安心する。
「えぇっと、寮母さん? どうしたんだ、突然」
「ううーん……きみって、こんなにおおきかった、かしら」
「……もしかして、まだ寝惚けてます?」
見た目は既に大人と変わりない身長180cm越えの男子高校生くんに対して、我ながら何を言っているのだろうか。彼がくすくすと忍び笑いながら言うように、まだ上手く頭が覚醒していないみたいだ。
目覚めて早々可笑しな真似をしてしまって、ごめんなさいね、そう謝りながら撫でていた手を退ける。一瞬、彼がどこか名残惜しそうな顔で、離れる私の手を見つめていた気がした。
「ところでクローバー君こそ、どうしてオンボロ寮に? ウチの子たちと、何かお約束?」
「いえ、特別な用事は何にも。新作のケーキが出来たから、また試食してもらえないかと思って」
いちおう寮母さんの携帯にメッセージを送ったんだが、なかなか返事が来ないから心配だし、もう直接来てしまった──との事だった。玄関の鍵はゴーストのおじさまたちが開けてくれたらしい。
彼が控えめに片手で掲げた白いケーキ箱を見て、私は思わず子供みたいにはしゃいだ声を上げてしまう。
「まあ、うれしい! 早速いただいちゃおうかしら。監督生ちゃんとグリムちゃんは、魔法薬学の補習で遅くなるそうだから……ひと足お先に、ふたりでこっそり秘密のお茶会しましょう!」
そうと決まれば、この間サム君のお店で買った少しお高い紅茶、淹れちゃおうかな。うふふ。
ルンルンとご機嫌にソファから立った私を、クローバー君は呆気に取られた様子で見上げていたけれど、すぐに「ふはっ」と噴き出すように笑ってくれた。
「せっかくお休み中のところを邪魔して、悪い事やらかした気分だったのに。はは、まったく杞憂だったな、良かった」
「悪い事なんて何にもありませんよ。きみの作ってくれるケーキ、お姉さんだいすきだもの! いつまでも寝惚けてなんか居られません。紅茶を淹れるけど、クローバー君はストレートで良かったよね」
「はい、ありがとうございます。俺も手伝いますよ。いっしょに準備した方が楽しいだろう?」
「ふふっ、そうだね。ありがとう」
ぎしりと音を立ててゲストルームを後にする。ふたりでいっしょに談話室を抜けてキッチンへ向かった。
最近ぴかぴかにリフォームしてもらったばかりのキッチンで、最新式の電気ケトルがこぽこぽとお湯を沸かすのを待ちながら、カップやフォークの準備を進める。クローバー君はまるで魔法を使ったかのように手際が良いものだから、あっと言う間もなく、お盆の上で喫茶店みたいな紅茶とケーキのセットがふたりぶん出来上がった。
「わあ、おいしそう!」なんて再びはしゃいでしまう私に、彼は「抹茶と苺を組み合わせて、ミルクレープを作ってみたんだ」とはにかみながら説明をくれる。
真っ白なお皿に、ちょこんとお座りする抹茶色で着飾った三角形。赤くて艶々した苺も帽子のように乗せていて、外見も可愛らしい素敵なケーキ。何枚も重なった抹茶クレープの間には、薄いピンク色のクリームがたっぷり挟まれている。どうやらクリームと一緒に柔くつぶした苺の果肉も入っているみたいだ。
そんな美味しそうで魅惑的な姿を見ていたら、もう我慢出来なくて。お湯が沸いた途端、私はすぐさまお盆を抱える。クローバー君を「はやくはやくっ」と急かして、ご機嫌な足取りでゲストルームへと戻った。
「それじゃあ、早速──いただきます!」
ふかふかの縦縞ソファに座り直して、机の上へお店も顔負けなほど丁寧にケーキセットを並べたら、お行儀良く手を合わせてからフォークを手に取る。
何層にも重なり合う抹茶と苺を、さっくり、ひとくちぶん掬い上げて──パクッと頬張った。途端、ほどよく優しい苦みと甘酸っぱさ、クリーミーな幸せが口の中いっぱいに広がる。堪らずに「んんっ♡」だなんて、甘い高音を鳴らしてしまった。
「ん~っ、美味しい! 抹茶とクリームの相性バッチリね、苺の甘酸っぱさも良いアクセントになってて、生地のもっちりふわふわ感も絶妙に全体をまとめてくれてる。思わずニッコリ微笑んでしまうくらい、しあわせなお味ね~♡」
あんまりにも美味しいから、ついグリムちゃんにも負けない感想を長々と続けてしまった。ああっ、いけない、彼に引かれてないかしら。そう不安に思いながらクローバー君の顔を覗き見ると、彼は口元を拳で押さえながら、必死に笑いを堪えている様子だった。
「ッく……ふふ、そっか……アイさんのお口に合って良かったよ。これは、あなたを想って作ったケーキだから」
愛おしげな蜂蜜色の眼差しで、思わぬ言葉を告げられる。どきん、心臓が喉から飛び出そうなくらい跳ね上がった。同時に「へ?」と情けないほど弱々しい音が私の口から溢れた。
数秒の沈黙の後、クローバー君は自分でもビックリ目を見開いて「あッ!?」と焦った声を上げる。たぶん、言うつもりはなかったのだろう。愛用の眼鏡が傾くほど動揺していた。
「いやっ、ちが、違わなくもないが、変な、深い意味は……正直、あるんですけど、その……」
照れ臭そうに眼鏡のズレを直しながら、彼はコホンと咳払いをして、ゆっくり言葉を続ける。
「……あなたが、俺を励ます為にくれたキャンディ」
えぇっと、確かに今日より少し前、いつもより疲れた様子というか落ち込んでいるクローバー君を偶然、学園の中庭で見かけて。元気を出してほしいから、キャンディをひとつプレゼントした記憶はあるけれど。
「抹茶ミルク味、すごく美味しくて──なんだか、懐かしい気持ちになったんだ」
「うん、私もお気に入りの飴ちゃんね」
「父さんと母さんが作ってくれたケーキの味でも、思い出したのかな。不思議と微笑んでしまうような、優しい味だった。俺も、あなたがくれたものと同じくらい、幸せな気持ちになれるケーキを作りたいと思ってさ。色々悩みながら試行錯誤した結果、ようやく完成した新作だったから」
出来上がってすぐ、あなたに最初のひとくちを食べてほしくなって、ついオンボロ寮へ駆け込んでしまったのだ──と。
大人の男性と遜色ないほど整ったお顔を、子供らしくポフポフ赤色に染めながら、そう語ってくれた彼。ああ、だめ、胸の奥がきゅうっと鳴って、愛おしくて堪らない気持ちになってしまう。
「まあ、まあ、キャンディひとつのお返しにこんな美味しいケーキを頂けるなんて、贅沢過ぎますよ。ありがとう、クローバー君はやさしいね」
「優しいだなんて、とんでもない。こうしてアイさんと他愛無いお喋りをしたり、ふたりきりの時間を過ごしたいが為に、自分の貴重な特技を上手く利用してるだけですよ。俺がアピール出来るものなんて、ケーキ作りぐらいだからなあ」
「……こら、またそんなこと言って。お姉さんを揶揄わないの」
「揶揄ってなんかいませんよ」
射抜かれそうなほど真剣な眼差しに、どきん、どきんとまた心臓が喧しくなる。
「俺と同じように、甘い物がだいすきで。俺の作ったケーキを誰よりも喜んでくれて、美味しいと答えてくれる。こうも愛おしいひとに出会ってしまったら、そのひとのために特別、腕を振るいたくなるのは普通だろ?」
彼は自分の皿に乗ったケーキから、ほんのり抹茶粉でお化粧した大粒の苺をフォークに刺して持ち上げて、私の口元へ「どうぞ」と差し出した。
「あなたが笑顔で幸せになってくれるなら、これ以上ないくらい最高の魔法だ」
普通よりも少しだけ、
ふふんっと珍しく自慢気に笑う彼は、どこか幼さが混ざっていて可愛らしい。不思議と、私もその笑顔を昔に見た覚えのあるような、懐かしい気持ちになる。
クローバー君ったら。ほんとうにやさしくて、愛おしい子。彼の真っ直ぐな想いにきちんと応えられない自分が歯痒くて、大人の癖に泣いてしまいそうだ。
「……困りました、今日の告白はいつにも増して熱烈ですね」
「うーん、あまり熱くなるのは得意じゃないんだけどな、上手く伝わらなかったか」
「いいえ、いいえ、よく伝わりましたとも。胸がいっぱいで、もう、だいすきなケーキが食べられないくらい」
「えッ、それは困る。これからもたくさん、俺の作ったケーキを食べてほしいのに」
「ふふ、冗談です。そんな捨てられた子犬ちゃんみたいに悲しい顔をしないで、素敵な魔法使いさん。ちゃーんと別腹でぜんぶ頂きますから」
私は彼が差し出してくれた苺を、にっこり喜んで、パクッとひとくちに頬張るのだった。甘酸っぱくて幸せな、春の味がした。
幼い頃の私は、不思議な夢をよく見ていた。
どうして、今そのことを思い出したかはわからない。夢の内容も朧げでほとんど覚えてはいない。ただ、ひとりぼっちの寂しい私にとって都合が良過ぎるほど、楽しくて賑やかで幸せな夢だった事を、胸の奥が覚えている。
きっと、それは「つらい現実世界から逃げ出したい」という、幼き私の願いが夢の中で形になったものだった──けれど。
「……ふうっ、ごちそうさまでした! ほんとうに頬っぺたが落っこちそうなぐらい、美味しいケーキをありがとう」
「どういたしまして。こっちも、良い感想を聞けて助かったよ。もう少し改良の余地がありそうだとわかったし、また試食してもらえますか?」
「もちろんですよ、次も楽しみにしてるね」
「ああ、期待して待っててくれ。──さて、楽しいお茶会の後は歯磨き、だな?」
「ふふっ、そうだね。クローバー君はえらいね、いいこいいこ!」
もう、不思議な夢を見る必要はない。
だって今、私の現実は夢のように幸せなのだから。
2022.08.23 公開