緑の帽子屋と寮母さんの話
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甘い苺に恋した帽子屋の独白
正直、恋なんて曖昧で馬鹿らしい感情、俺には無縁だろうとすら思っていた。
年頃の少女たちがきゃあきゃあと黄色い声をあげながら語り合う様を見ても、彼女が出来たと嬉しそうに報告してくる友人の話を聞いても、何故だか、どうにも興味を持てなかったのだ。
ミドルスクールの頃、恋人のことを自慢げに語ってくる友人が、少し煩わしかったんだろう。恋のトキメキだの、幸福でフワフワするような感覚だの、何処ぞの王子様気分で声高らかに話すその姿は、口が悪いけど『馬鹿みたいだなあ』なんて冷やかな感情を抱いてしまった。結論は同じ、変わらない内容の繰り返しばかりで、ひとの惚気話は本当につまらないものである。かと言って否定もし辛いから面倒臭かった。
そんな面白くない経験のせいもあるだろう。恋とはなんて面倒で退屈なものなんだろうか、とガッカリした。羨ましいなんて微塵も感じられない。友人たちとサッカーに励んだり、お菓子作りに没頭している時の方が、遥かに楽しいとさえ思った。
いま思い返せば、ほんの少しだけ異性への苦手意識を抱いていた事も、恋愛に対する興味を持てない理由のひとつだったのかもしれない。
もっと幼い、エレメンタリースクールの頃。ある幼馴染みの母親から酷く、それはもう容赦無く、怒られた記憶があるせいだろうか。悪魔のように吊り上がった鋭い目で見下ろされて、真っ赤な顔をして5時間も怒鳴られ続けた記憶。それは自分の想像以上に、俺の幼心へ傷を付けていたらしい。特に、女性特有のヒステリックで甲高い声が、どうも、苦手だった。
大人の女性は、……怖い、という感情だけが根深く残った。
だから、実を言えば──。
初めて"彼女"と出会った時も、これと言って特別な感情は抱かなかった。
しかし随分と、綺麗な女性だった。真っ白な綿飴を思わせる髪に、苺のようで美味しそうな赤い瞳が、深く印象付いている。でも、それはあくまで初対面の感想だ。恐らく、一目惚れではない……と思う。
蕩けたマシュマロのように柔和な微笑みを浮かべて「オンボロ寮の管理人を任されました、アイと申します。監督生ちゃんやグリムちゃん共々、よろしくお願いしますね」──そう名乗った音はあまり聞き慣れない、まるで蜂蜜みたいな甘くて優しい声色だった。
丁寧で淑やかな自己紹介をしてくれた彼女へ抱いた、最初のイメージは『名前も知らない異世界から迷い込んでしまった挙句、学園長から面倒事をアレコレ押し付けられている雑用係の、なんだか可哀想だけど綺麗なひと』ぐらい、か。二人しか居ないオンボロ寮の生徒たちから"寮母さん"と呼ばれて、姉のように母のように慕われている様子だった。
要するにまあ、初対面から好印象だったことは、間違いない。なんだかんだ言って俺も、優しげで美人な年上の女性──と言うだけでも何処か心惹かれてしまう、そんな"普通"で健全な男子高校生ではあったのだろう。
ほんのりと抱いた憧れが、明確な恋心に変わった出来事は、初対面からひと月も経たず起こった。
ある日、俺にとっては何て事もない些細な行動を「きみは頑張りやさんで優しい子だね」とめいっぱい褒めながら、彼女は当たり前のように俺の頭を撫でてくれたのだ。
驚くしかなかった。高校三年生に進級したばかりの俺としてはもう、雷にでも打たれたような衝撃だった。
まるで幼い子供を可愛がるみたいに、七歳も年上のお姉さんから「いい子いい子」をされてしまうだなんて。こんなの、恥ずかしくて堪らないのに。ギュッと心臓が苦しくなる。……嬉しくて、仕方なかった。
皆に頼られる兄貴分でも、しっかり者の副寮長でもない、未だ年相応の子供である俺を真っ直ぐ見てくれるひとなんて、周りに居なかったせいだろうか。
どきん、どきん、胸の奥が甘い音を鳴らした。耳からフワフワ蕩けてしまいそうな声が、好きになった。その温かくて柔らかな手のひらに、心の底から惚れてしまった。そのひとから漂う、砂糖菓子みたいな甘い香りでくらくらとして、酔いそうなほど夢中になった。
嗚呼、ひとが恋に落ちる瞬間とは、なんて呆気なく一瞬なんだろう。
──こうも面倒で甘やかな感情を抱いたひとは、彼女が初めてだった。
四六時中、とまで大袈裟には言えないが、ふと気が付いたら彼女のことを考えてしまっている。
なんでもない日のパーティーで振る舞う為のケーキを作っている途中、そういえば彼女は「レアチーズケーキが好き」と言っていた事を不意に思い出して、本来の予定と異なるクリームチーズたっぷりの真っ白なケーキを作っていた。
新作のレシピ案を練っている時でさえ、彼女ならどんなお菓子を喜んでくれるだろう、また「美味しい」と嬉しそうな顔をしてくれるだろうか、なんて想像をして口元がつい緩んでしまう。
部活動の一環で育てている苺の水やりをしている最中も、その艶々と赤く色付いた姿に、彼女の甘い眼差しが重なって見えるものだから。最近はこの小さな赤い粒たちも、愛おしく感じてしまう。
まったくもう、本当に。我ながら『馬鹿みたいだなあ』と呆れるほど、恋煩いの重症患者である自覚はあった。
まあ、男子高校生の初恋なんて、そんなものだろう。あんなにも綺麗で心優しいひとなんだ、夢にまで見るくらい浮かれてしまっても仕方がない、筈だ。寧ろ男性として健全な証拠だろうし、普通の事である、と思う。……たぶん。
好きなひとに気に入られたい、自分を特別に想ってほしいと願うことは、きっと"普通"だ。
オンボロ寮の管理人を任されている彼女は、同じく異世界から迷い込んでしまった不運な監督生や、問題児である猫型モンスターのグリムに世話を焼きながら、学園の雑用係も兼任していた。
誰に対しても穏やかで優しく振る舞う彼女だが、ディア・クロウリー学園長はまるでそんな優しさに漬け込むかの如く、何でもかんでも雑用仕事を押し付けているようである。学園内で見かける彼女はあっちへこっちへ駆け回って常に忙しそうだし、毎日同じクラシカルなメイド服姿でボロボロの白いエプロンを揺らしていて……。
なんだか、おとぎ話の可哀想な灰かぶり姫が、意地悪な義母らに虐げられている様を見てしまうネズミの気分だった。
先日も、魔法の使えない華奢な女性に持たせるのはあまりに重そうな、実験器具がガチャガチャと詰まった段ボール箱を抱えて、廊下をフラフラ歩いていたものだから。
「──寮母さん、手伝いますよ」
俺は勇気を出してその後ろ姿へ近付いて、壁側へ少しよろけた彼女の肩を咄嗟に抱いて支えながら、そう声を掛けた。不用意にも女性の肩へ触れてしまった瞬間、想像以上の細さと柔さに驚いて、どきんと心臓を高鳴らせた事は秘めておこう。
「わっ、クローバー君!?」
出来る限り静かに呼び掛けたつもりだが、彼女は大変驚いた様子で俺を見上げた。真っ赤な苺色の瞳が丸くなったその隙に、俺は重たい段ボール箱をガチャンと奪い取る。
「これ、実験室に持って行くんですよね? 俺もこれから部活で実験室へ向かう所なんだ、ついでに運びますよ」
「そんな、駄目ですッ、こんな雑用、可愛い生徒ちゃんにはさせられないから、」
彼女が仕事でやっている雑用であると、彼女はこれで少ない賃金を貰っているんだと、理解している。が、だからと言って、無理を押し付けられて困った様子のお姫様を放って置けるほど、俺は聞き分けの良いお利口な生徒にはなれない。
「じゃあ、後でバイト代をくれないか。また俺の作ったお菓子の感想をくれるだけでも構いませんから、ね?」
ニッと悪戯っぽく笑ってみせれば、困り顔でオロオロしていた彼女はやや間を空けて、もう、と小さく溜息を零しながらもつられるように微笑んでくれた。
「……ありがとう。ほんとうに、きみは優しい子だね」
「いえいえ、寮母さんには日頃よくお世話になってますから」──と。
こちらも微笑み返せば、また、いつかのように「いい子いい子」なんて彼女は俺の頭をぽんぽん撫でてくれるものだから。カッと燃えるように頬が熱くなって、思わず抱えた段ボール箱を落っことしそうなほど、ビックリ肩を震わせてしまった。
ああ、でも、やっぱりその優しくて温かな手は心地良い。バイト代なんて、本当は何にも要らないんだ。あなたに"良い子"だと褒めてもらえたら、それでいい。あわよくば、あなたに頼もしくて好ましい男だと思ってもらいたい、そんな下心を含めた行動なんだから。
「後でお駄賃に飴ちゃんをあげますね」
「あめちゃん?」
「サム君の所でクラブのキャンディが売ってたの、なんだかクローバー君のことを思い出して買っちゃった」
彼女はエプロンのポケットから、パッと三つ葉型の棒付きキャンディを取り出した。俺も購買部で見た事のある艶々とした赤色を掲げて、機嫌良くニコニコ笑う彼女はなんだかキラキラとして眩しい。
「ほら見て、可愛いでしょう!」
「……ははっ、ほんとだ、可愛いな」
年上のお姉さんが垣間見せる、そんな少し子供っぽい表情や言動は、キャンディなんかよりも遥かに可愛らしかった。
まさか、ふとした時に俺のことを考える事が、彼女の心にあるだなんて。どうしよう、顔がニヤけて仕方ない。実験室へ向かう足取りが自然と軽くなってしまう。もしや、俺が彼女のことを想っているように、彼女も頭の片隅に俺の存在を置いてくれているのか? そう考えたら、嬉しくて堪らなかった。
それから手伝いを終えた後も、俺は貰ったキャンディを頬張りながら、一日中、彼女を想い続けてしまって。いつぞや話に聞いた、幸福でフワフワするような甘い感覚に浮かれるのだった──。
俺はどんどん、底なし沼のように彼女への恋心に溺れていった。もう二度と抜け出せない、深みにハマっているような気さえしている。
しかし、彼女へ好意を寄せていることは誰にも話してないのだから、まさか周囲にこの片想いがバレてはいないだろう──と、思いきや。
「トレイくんってさあ、やっぱり寮母さんのこと好きなの?」
俺の密やかな(つもりの)恋は、結構、バレバレだったらしい。
まだ初々しい一年生の頃からクラスメイトだったり、同じハーツラビュル寮生かつ相部屋で過ごしていた時期もあったり等、何かと不思議な縁を持つ友人であるケイト・ダイヤモンド。周囲の些細な異変や噂話に敏感な彼には、いつの間にやら勘付かれていたようだ。
それは当寮の伝統行事"なんでもない日"のパーティーを準備中で、三年生は薔薇の色塗りに励んでいた時の話である。その「答えは聞かなくても分かり切ってるけどね」と言わんばかりの気怠げな問い掛けは、もう何年も繰り返しやらされている色変え作業にすっかり飽きた為だろう、退屈凌ぎで問われた言葉だった。
「なッ、何を言うんだよ、いきなり。馬鹿なこと聞いてないで、さっさと薔薇を──」
「いーじゃん、ちょっと休憩! 青い春真っ盛りな男子高校生らしく、たまには恋話でもしよーよ」
「こ、コイバナって、そんなもの語れないぞ、俺は……」
「嘘だあ、寮母さんと一緒に居る時はめっちゃ恋する男の子の顔してる癖に、よく言うよ」
いやいや、そんな、まさか。ケイトの言葉に動揺してしまった俺は思わず、自分の頬をぐにぐにと引っ張った。
ひとは恋に落ちるだけで、そうもわかりやすく変わってしまうものなのか? そもそもバレているなんて思わなかったし、上手く嘘を吐いたり、本心を誤魔化す事は得意なつもりでいたんだが。俺はいったい、彼女の前でどんなだらしない顔をしているんだろうか。
じわじわと恥ずかしさが込み上げて頬の熱さに堪えきれなくなってきた俺を、友人は面白そうな顔で見つめてニンマリと笑った。
「トレイくんって、意外と他人への好き嫌いがわかりやすいよね」
「そ、そうなのか?」
「だって、寮母さんに対してはあからさまなくらい優しいじゃん。この間も見ちゃったもんねえ、重たい荷物をか弱い女性ひとりで運ばされてるところへ颯爽と現れて助け出す、カッコいい
「ぐっ、その呼び方やめてくれ……」
その
思わず深いため息をひとつ吐き出して、痛む頭を押さえる。眉間にぐっと皺が寄る俺を見ても、ケイトはケラケラ笑って楽しそうだ。
「で、実際のトコどーなの?」
「……否定は、しない」
かと言って、肯定も出来ないんだが。下手にこの恋心を口にした結果、寮母さんとの関係性が歪んでしまう事を避けたかった。我ながら、何という臆病者だろう。
そんな俺の思惑がわかってしまうのか、ケイトは酷く呆れた様子で「は〜あ」と深い溜息を吐き出した。
「ハッキリ『好き』とは言わないか、残念。まっ、トレイくんらしいかも。その様子じゃあ、告白とか、ぜーんぜんする気なさそうだね?」
痛いところを突かれた結果、うぐっ、と情けない唸り声が漏れる。
その通りだった。この気持ちを伝える勇気も度胸も、初めての恋で振り回されてばかりの俺に、ある筈もなかった。苦く痛々しい笑みを浮かべるしかない。
「告白なんて簡単に出来たら、こうも悩んだりしないさ。相手は教師じゃないとはいえ、この学園に雇われてる職員のひとりだぞ。まず、立場的に振られてしまう事は目に見えてる。……そもそも俺は、恋愛対象としてなんか、見られていないだろうし、」
なんとも、自分で口に出しておいて酷く落ち込んでしまうんだが、紛れもない事実だろう。
彼女にはよく可愛がられているという、自覚はある。ケーキの差し入れをしたり、快く雑用仕事の手伝いもして、オンボロ寮の監督生やグリムにも何かと世話を焼いてるから。たぶん、彼女から見た俺の印象は悪くない。少しばかり贔屓目に見てもらえているとも、思うが──。
恐らく、そこまでだろう。彼女にとっての俺は、可愛い生徒のひとりでしかない。こちらがどんなアプローチをかけても、相変わらず子供扱いされるばかりだから……いや、それもちょっと悪い気はしなくて、結局のところ、子供らしく甘やかされてしまう俺も居るんだけどな……。
「トレイ、それマジで言ってる?」
ケイトの珍しく低い声に、少しばかり驚いて肩が震える。友人は何だか怒っているかのような、険しい顔付きだった。
「ど、どうした? そんな怖い顔して、」
「いや、こっちもめちゃくちゃビックリしてるんだけどね、お前あんだけ寮母さんから可愛がられてる癖に、その発言はなくない?」
「まあ、確かによく可愛がってもらってるけど、別に俺ばっかりじゃないだろう? あのひとは、生徒たち皆に優しいひとだからな、……俺だけが特別な訳じゃないよ」
彼女は、そういうひとだ。
この学園の生徒たちを分け隔てなく可愛がって、相手が獣人属でも妖精族でも、自分より背の高い上級生だろうと関係なく"年下の可愛い男の子"として見て接するような、ナイトレイブンカレッジの職員としては非常に珍しい、真の誰にでも優しいひとだから。
そんなお人好しなところも、好きだと思う。……思うけど。
あの甘くて蕩けそうな愛情が、俺の為だけに向けられるものだったら良いのに、とか欲張りな事を考えてしまう。好きなひとの特別になりたいと願ってしまう事は、普通だろうか。どろり、と。黒く沈み濁ったような感情を抱いてしまう、この嫉妬心も"普通"なのか?
俺の気分が暗くなる一方で、友人は相変わらず、ムッと不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
「……具体的には、どんな事してもらったの」
──何故、そんなことを聞くのだろう? とりあえず、思い付くままに答えた。
「皆と大差ないさ。良い成績を取ったら褒めてくれたり、雑用仕事を手伝った後にはご褒美を貰ったり……。ケイトも昨日、寮母さんからダイヤのキャンディを貰って、嬉しそうに食べてたじゃないか」
「うん、まあ、確かにオレもお世話になってる。信じられないぐらいお人好しっていうか、優しいひとだよね。で、他には?」
「他って……。うーん、後は、怪我をした時わざわざ見舞いに来てくれたり、お弁当を差し入れてくれたこともあるかな。あ、先週は手作りの和菓子を振る舞ってもくれたよ」
そこまで聞いた友人は「ふうん?」と意味深に、またもチェシャ猫の如くニンマリ笑う。
「オレ、さすがにそこまではしてもらったことないなあ。好きなひとから手作りのお弁当もらえるとか、羨ましいヤツめー!」
俺は思わず「え?」なんて間の抜けた声を落としてしまった。
「トレイくんって、どうして変なとこで自信失くすんだろうね。もうちょっとさあ、特別に可愛がられてるのかもーって、自惚れても良いんじゃない? オレから見たら、お前は他の子より明らか贔屓されてるように見えるけど?」
その彼の言葉で、彼女がくれた色んな優しい行動や愛のこもった声を、次々に思い出してしまう。
副寮長の仕事に疲れ切った俺を、温かな膝枕で長い時間をかけて癒してくれたことも。「皆には内緒だからね?」なんて悪戯っぽく微笑みながら、高級な紅茶を淹れてくれたことも、本当に。あれもこれも、俺だけにしてくれた好意、なのか。俺は側から見ても特別に思われるほど、彼女から可愛がられていたんだろうか。
カァッとまるで火が付いたように体温の上がっていく感じがする。なんだか恥ずかしい、背中が擽ったくて仕方なかった。彼女から向けられた、密やかで特別な愛情を自覚したせいだ。
「そりゃ世間体とか考えたら難しいのかもしんないけどー、オレはお似合いだと思うのになあ」
「えッ! えっと、ありがとう……?」
「ぶはっ、トレイくん顔真っ赤じゃん!? うわあ、超レア顔だ、記念の写真取って良い?」
「だ、ダメに決まってるだろ!」
慌てて声を張り上げながら、咄嗟に片手で顔を覆い隠せば「冗談ですぅ」とケイトは不満そうに口を尖らせた。コイツの事だから、すぐさま顔を隠さなかったら絶対に写真撮ってたぞ、絶対。
「もう、トレイくんってば。そーいうとこはホント、普通の男子高校生だねえ」
「……だから、いつも言ってるだろ。俺は普通だよ」
この軽薄なフリをした友人に「あははッ」なんて笑われながらも、揶揄い混じりに背中を押されるとは、全く思ってもみなかった。
恋話なんて、一方的にひとの惚気を聞かされるばかりだから、退屈で面白くないものと思い込んでいたけども。こうも親身に聞いてくれる友人さえ居たら、そう悪くはないのかもしれない。
……まあ、今回のパーティーでは腕によりをかけて、スパイシーなトマト風味のキッシュを振る舞ってやっても、良いかな?
ただ、やはり"告白"に至るまでは、あまりにも、壁が分厚くて高過ぎる──。
もしも、俺が彼女と同じ歳だったら、学生と職員なんて関係じゃなかったら、……同じ世界の生まれなら、こんなにも重く恋を悩まなかったのだろうか。
時々、そんな事を考える。しかし、その度に考え直した。その"もしも"がどれかひとつでも叶っていたら、彼女と出会う事すら有り得なかったかもしれない──と。
あ、いや、奇跡とか運命とか、そういうファンタジーで夢想的ものはあまり信じてないし、恥ずかしくて言葉にも出来ないんだが。
うじうじと実現しない仮定で悩むよりは、現状を逆手にとって行動した方が良い、という話だ。
寮母さんの、世界さえ越えた遠い故郷では、和菓子が人気だったらしい。
餅菓子や練り切り、お饅頭に羊羹、カステラなど。この世界でも和菓子は、極東の小さな島国から広まった伝統的な菓子として有名だ。ケーキ屋の長男として生まれた俺も、昔から興味があって少しばかりの知識は持っていたし、味わった記憶もある。でも、実際に作った経験はなかった。
彼女自身、よくご褒美や三時のおやつ等に振る舞ってくれるそれを、俺も作れるようになったら、喜んでもらえるかもしれない。改めて興味を抱いたキッカケは少々邪な気持ちだったが、最近は和洋折衷なお菓子も人気が高いから、今後のケーキ作りに良い刺激や参考となる筈である。
そう思い立ったこの頃は、忙しい日々の合間を縫いながら図書館に寄って、和菓子のレシピ本や歴史書などを借りて読み耽っている。本当、この学園の図書館は何でも揃ってて助かるよ。
とある放課後も俺はひとり、眩しい夕日が差し込む中、図書館の隅の方で分厚いレシピ本を広げていた。
お、苺大福か、先日頂いた彼女の手作りはとても美味しかった。なんとなーく、寮母さんの見た目や雰囲気にも似てて可愛いし、好きなんだよなあ、ふふ。苺ならサイエンス部でも育てているし、ウチの女王様も苺がお好きだから喜んで頂けるかも、な?
──そんなことを考えながら、手元のメモ帳へ必要な材料などを書き写していた時である。
「あら、クローバー君」
まるで音符が跳ねるような甘い声に呼び掛けられて、心臓が身体ごとビクーッと跳ね上がった。思わず「うおッ」なんて情けない悲鳴も上がる。慌てて振り返れば、俺の大袈裟な反応に驚いて目を丸くする彼女──寮母さんが居た。
「わッ、あ、アイさん!?」
ちょうど彼女のことを考えていたし、つい先日に友人と恋話なんて語ったせいだろうか、普段の何倍も心臓が高鳴ってしまう。急激に全身の熱が上がる。
しかし、彼女が困った様子で眉を寄せて「しーっ」と柔らかそうな桃の唇に人差し指を立てたので、ここが静粛に過ごすべき図書館内である事を思い出した。咄嗟にパッと片手で口を塞げば、彼女は苺を思わせる瞳を優しく細める。
「うふふ、驚かせてしまってごめんなさいね。お隣、良いかしら?」
潜めた声に耳奥を擽られながら、俺は口を押さえたまま、コクコクと首を縦に振った。彼女はニッコリ嬉しそうな顔をして、俺の隣の席に着く。ドサドサッ、と机に落とされた大量の本を前に、こちらはまたも驚いてしまう。
「クローバー君は、へえ、和菓子のレシピ本を読んでいたのね。勉強熱心で素敵だなあ」
「い、いえ、そんな。寮母さんは、何か……調べ物、ですか?」
俺は手を退かして、ようやく小さめに口を開いた。彼女は苦笑いで首を横に振る。
「ううん、私もお勉強しに来ました」
勉強──? そう言われてから、改めて本の山に目を向ける。それらの表紙に描かれたイラストは明らかな子供向けのタッチで、題名も『たのしい魔法社会学』や『わくわく世界地図帳』など、エレメンタリースクールの生徒が手に取るような、ページ数も少ない本ばかりだった。
どうして、と考えてすぐに察してしまう。ああ、そうだ。彼女は名前も知らない異世界から、このツイステッドワンダーランドへ迷い込んでしまったひとである。俺が幼い頃から"普通"に触れていた魔法も、何年も前に学んだこの世界の基礎知識も、彼女は何にも持っていないのだ。
「トレイン先生がとても親切にしてくださってね、私にも分かりやすくて簡単な本から紹介して頂いたの」
少しずつでも、この世界の事を勉強しなくちゃ、と思って──。
何処か照れ臭そうに語る彼女は、もう随分と前から時々図書館へ訪れて密かに、ひとりきりの勉強会を行っていたらしい。
「クロウリー学園長が元の世界へ帰る方法を探してくれているとは言え、もしかしたら、二度と帰れない可能性だってあるでしょう?」
俺の口からは、何とも言えなかった。
だって、俺は……ほぼ無意識に、当たり前のように、その"帰れない"可能性ばかりを考えてしまっていたから。
「いつまでもこの学園に居られる保証もないから、何とかこの世界で生きていけるように、最低限を学んでおかないとね。私はあくまで、監督生ちゃんとグリムちゃんが無事に学園を卒業するまでの、期限付き寮母さんだもの」
彼女は俺の想像以上に、大人だった。しっかりと現実を見据える事が出来るひとで、不確定な将来も色んなパターンを考えながら、生徒たちからは見えないように隠れた努力をしているなんて。……知らなかった。
その割に、語る彼女の表情は普段通り朗らかで、自分の身の上を少しも重く感じていない様子だから。不思議だった。
「……不安は、無いんですか?」
聞いておいてすぐ『馬鹿ッ、そんな筈が無いだろう』と俺は自分を内心で強く叱責する。彼女はキョトンと目を丸くした後、眉をひそめて笑った。
「この世界に迷い込んだ最初のひと月ぐらいは、正直ね、未知の世界が怖くて仕方なかったよ。……でも、今は、あんまり感じないかな。大変な事も多いけれど、元の世界に居る頃よりも、こちらの世界に居る方が、なんというか──息をしやすいの。そんな将来の不安より何倍も、可愛い生徒ちゃんたちと毎日を賑やかに過ごせて、嬉しいんだ。こうして、クローバー君とお話出来る時間も楽しいから、ね?」
ふふっ、なんて悪戯っぽく声を弾ませて笑う彼女を前に、心臓の奥できゅんと高鳴る甘い音を聞いた。
「そッ、れは、……嬉しい話だな」
咄嗟に出た声が裏返って恥ずかしい。彼女はクスクスと笑うばかりだ。
「ごめんね、お姉さんばっかり一方的にお喋りしちゃって。うるさかったよね」
「いや、大丈夫ですよ。俺も、楽しいから」
「ふふ、良かった。……こんな話、少し恥ずかしいから、皆には内緒にしてね」
また、このひとはそうやって、俺だけに新しい特別をくれるから。もじもじと横髪を掻き上げる仕草も、可愛くて堪らない気持ちになってしまう。
「寮母さ、……いや、アイさん、」
彼女が無事に元の世界へ帰ってしまう可能性も、卒業後に離れ離れとなってしまう可能性も、俺は考えたくなかった。──だから。
「はい、なあに?」
こてんと不思議そうに首を傾げる彼女の苺色した瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「将来、俺とケーキ屋で働きませんか」
数秒の間を開けて、彼女の口から「……へ?」なんて呆けた声が落ちた。
「もし、いつか居場所も働き先も失ってしまう不安があるなら、どうか俺と一緒に薔薇の王国へ来てほしい。クローバー印のケーキ屋で良ければ、いつでも歓迎しますよ」
「え……あっ、あの、それって、」
「自分で言うのも何だが、俺は結構、将来性があると思うぞ。あまり贅沢をさせてやれる自信はないけど、絶対に不自由な思いはさせない。アイさんほど気立ての良いひとなら、ウチの両親もすぐ気に入ってくれるだろうし──」
「まっ、待ってクローバー君、お話が急過ぎるから、いったん落ち着いて、ね?」
再び、彼女が美味しそうな唇の前で「静かに」と指を添えたから、俺は不満ながらも渋々口を閉じる。ほっと安心した様子で息を吐き出した彼女の頬は、林檎の如く赤色だった。
「……もう。急にプロポーズみたいなこと言い出すんだから、びっくりしちゃった」
恥ずかしそうにツンと口を尖らせた彼女を見て、俺は改めて自分の勢い任せで告げてしまった言葉を振り返る。身体がブワッと燃えるように熱くなった。
「──はッ!? 今のは、そのッ、」
突然慌てて声を上げてしまった俺の、かさついた唇を塞ぐように、彼女の細い指先がちょんと添えられる。「むぐっ」なんて情けない声が漏れた。図書館という場を忘れて何度も騒いでしまった事について、叱られているのだろう。このひとは注意の仕方さえ、甘やかだ。
なんとも格好悪い。彼女を引き止めたいあまりに、告白の順序さえ飛び越えて何を口走っているんだ、俺は……。
「ありがとう。クローバー君は優しいから、私を気遣ってくれたんだよね」
違う。──違う。俺は、優しくなんてない。無理やり笑おうとさえする彼女を前に、そう否定したかった。プロポーズ紛いの言葉は、彼女を気遣った訳でも冗談でもない、本心だったのに。
しかし、優しい指先に唇を塞がれてしまっているせいで、もう一度、同じ言葉を告げる事が出来ない。彼女がそうさせてくれないのは、恐らく、別の"もしも"を考えているからだ。……いつか、元の世界へ帰らなければならない、その可能性を捨て切れないのだろう。
言い知れない心苦しさに襲われる俺の唇から、彼女はやっと指を離して。代わりに、俺が机の上で強く握っていた拳へ触れた。俺の筋張った男の手が、きゅっ、と柔らかな女性の手に包み込まれる。
「もしも、ほんとうに。何処にも居られる場所が無くなってしまったら、その時は、きみの優しいお言葉に甘えさせてもらうね」
心臓の奥が、ずきりと痛くなった。
その"もしも"が、本当に叶ってしまえば良いのに──。
ああ、最低だ。俺はこのひとにとって、灰かぶり姫を救い出した魔法使いのような存在になりたかった。彼女にとって誰よりも『良い子』でありたいと願っていた筈が、こんな酷い事を考えてしまう俺はなんて『悪い子』だろう。
それでも、俺は。例えどんなに最低な悪役だと蔑まれても、構わないから。このひとを手放したくない、連れ去ってしまいたい、……居場所になりたいと、願ってしまうんだ。
どうか、何処にも行かないでほしい。ずっと俺の隣で生きてほしい。そんな泣き出してしまいそうな願いを、今すぐ言葉にする事は、出来なくて。
はは、と渇いた声を落として自嘲気味に笑うしかなかった。
「そう、だな。心の片隅に、置いてくれたら嬉しいよ」
「……うん、ありがとう」
彼女は悲しげに赤い瞳を潤ませながら、それでも微笑みを絶やさない。
胸の奥が、痛くて苦しくて仕方なかった。張り裂けそうとはこの事だ。恋が幸福ばかりを与えてくれるものではないと、今更ながら理解する。
俺は彼女の手を強く握り返しながら、二度と元の世界へ帰れなくなってしまえばいいのに、と。そんな恐ろしい事を、みっともなく願うばかりだった。
──ああ、もう。恋とは本当に、ひとを馬鹿へ変えてしまうものだな。
初恋のひとから優しい指先で想いを拒まれてしまってから、数日後。
あの夕暮れでのひととき以来、俺自身、少し彼女と顔を合わせづらく感じてはいたが。彼女もまた気まずい思いがあるようで、明らかに俺から距離を置こうと動き、わざと避けられている──。そんな寂しい日々を過ごしていた。
このままでは駄目だ。俺が何か行動を起こすべきだろう。迷子の少女がこの罪から逃げ出そうとするのなら、トランプ兵は追わなければならない。
そう意を決した俺は、学校指定の白衣を羽織って、放課後の実験室に居た。
サイエンス部の活動中だが、決して、怪しい薬や黄金なんかを生み出そうとしている訳ではない。
実験台の上に乗せた透明なボウルの中には、細かく刻んだホワイトチョコレートが溶けて、たっぷりの甘い海を作っていた。ちょうど、湯煎が終わった所である。溺れそうなほど甘ったるい匂いが、実験室中を満たしていた。
今日も今日とて、俺の特技であり趣味でもある、お菓子作りの真っ最中だ。しかし、これも立派なサイエンス部の活動の一環である。……ほら、料理は芸術だし科学みたいなモンだ、って古い名言もあるだろ?
俺の他に誰が居るわけでもないから、心の中でそんな言い訳を呟いていた時である。
「やあ、トレイくん」
この静かで孤独な室内に、突如、よく通る華やかな声が響いた。慌てて振り返れば、見慣れたキャメル色の羽根付き帽子が朗らかに揺れる。
「──ああ、なんだ、ルークか」
そこに居たのは同じサイエンス部の三年生、ルーク・ハントだった。いつもの奇妙な呼び方ではないから、どちら様に声を掛けられたかと驚いたよ。まったく、慣れって怖いな。
彼は既に白衣を脱ぎ去った、黒の制服姿だった。それも当然か。放課後と言ったが、もうとっくに部活動さえ終わっている筈の時間帯だ。普通の生徒なら、お利口さんに下校している筈であり、そろそろ夕食を取る頃だろう。窓の外はもう真っ暗で、曇っているから星も見えない。
「まだ帰らないのかい? こんな遅くまで居残りとは、熱心だね。誰か、愛しいシンデレラへの贈り物かな」
湯煎したホワイトチョコレートの海に、あらかじめ火の魔法で温めておいたクリームチーズを少しずつ混ぜ合わせていく俺の手元を観察しながら、彼は「ほうほう」なんて感心した声を上げた。俺は図星を突かれたせいで、つい「別に、そんなものじゃない」と子供っぽく否定してしまったが。
「てっきり、麗しのプリンセスから振られてしまったばかりに、傷心で落ち込んでいるのかと心配していたよ」
満面の笑みで治りかけの傷口を刺されて「ゔっ」と情けない声が漏れる。
「……ふ、振られては、ないぞ」
「おや、そうなのかい? 私はムシュー・マジカメから……いや、風の噂で、トレイくんが意中の女性へ愛を伝え切れなかった為に、ひどく落胆している──と。見ているコチラも辛くなるほど、キミが寂しそうにしていると聞いたのだが、いやはや、所詮は噂だったようだね!」
あー、もうっ、ケイトのヤツめ。心配してくれた気持ちは感謝するが、よりにもよってルークに話すなんて。随分と厄介極まりない真似もしてくれたらしいな、まったく。
確かに、勢いでプロポーズ紛いの言葉を告げたにも関わらず、彼女が俺の想いに答えてくれる事はなかった。全て優しい言葉だったとはいえ、振られたようなものかもしれない。でも決して、俺の事を嫌っていたり、煩わしいから拒んだ訳ではないと思う。ただ、彼女には学園の職員という立場があるし、異世界という大きな壁もある。故に、今はまだ、答えをもらえないのだろう。
まあ、さすがに拒まれた直後の夜は割と、生まれた世界の違いを恨んだし、歳の差を悩んで落ち込みもしたし、正直あまり眠れもしなかったけども……。
「もしも『好きじゃない、無関心だ、恋愛対象として見ていない』とか、ハッキリ振られていたなら、俺も潔く諦めるだろうけど──」
あの、悲しく曇った表情が、目に焼き付いて離れない。思い出すだけで胸が痛む。今にも泣き出してしまいそうに笑う彼女を見たら、そんなの余計、諦め切れる訳がなかった。
「俺はあのひとが思っているほど、聞き分けの良いお利口さんじゃない。悪い子だから、な」
ニィッと歯を見せて笑った俺は、我ながら立派に悪役面をしていた事だろう。隣に並ぶ友人は「フフッ」なんて声を弾ませて笑った。
「しかしキミは、そんな悪童を自称しながらも、魅惑的な甘い薬やガラスの靴、お得意の"落書き"等には、頼らないのだね?」
「当たり前だろ、そんな一瞬の幻想じゃ意味がないんだ。0時になったら解けてしまう魔法なんて、俺はごめんだよ」
作ろうと思えば、こんな安っぽい素人手作りのお菓子じゃなくて、相手に恋心を錯覚させる惚れ薬を作る事も。俺に好意が向くよう"上書き"してしまう事だって、出来なくはない。──が、俺は夢のように一瞬だけ得られる愛など、興味が無いんだ。
「ちなみに、今は何を作っているんだい?」
「ん、ホワイトチョコのレアチーズケーキだよ」
俺は手元の作業を続けながら、こんな他愛もない話をした。
「──人間の脳は面白いもので、ひとがひとを忘れる時はまず、声から忘れていくらしい。次に顔、最後に思い出を。……だが、美味しい食事を頬張った時、懐かしい匂いを嗅いだ時、それを味わった過去の体験と一緒に、幼い頃の記憶や昔に出会ったひとを、ふと思い出す事がある。人間は耳で聞いた音楽、目で見た景色よりも、料理の味や匂いなんかの方が記憶に残りやすいそうだ」
「……ほう。つまり、美味しいお菓子や手料理を振る舞い、共に食す事で。一生残る思い出として、彼女の記憶に自分の存在を強く刻み込もうと──?」
「ははっ、まあ、そこまで大層な心積りじゃないんだが。俺にアピール出来る事なんて、お菓子作りが得意なことぐらいだからな。要は、良いトコ見せて好かれたい、ってだけだよ」
あくまで"趣味"として作ったお菓子を片手に『少し作り過ぎてしまったから良ければ食べてほしい』とか『試作品の味見をしてくれないか?』など適当な理由を添えれば、優しい彼女に声をかけやすいし、罪悪感や遠慮も生まないだろう。
愛を伝える方法なんて、何も言葉だけではないのだから。この甘くて特別な好意を贈り続ける事で、彼女がケーキを食べるたび、甘ったるい匂いを嗅ぐたびに、俺を思い浮かべてくれたら良い──そんな事を願う。彼女の幸せそうに綻ぶ表情を想像しながら、ホイッパーを手早くかき回して『おいしくなあれ』と愛情を込めるんだ。
「あわよくば彼女の胃袋も心も掴んで、一生の虜にしてみせるさ」
それこそ、元の世界へなんてもう『帰りたくない』と思わせる程度には──な?
自称・愛の狩人は突然、まるで舞台役者のように手を叩き、嬉しそうに「ボーテ!」と叫び出す。うわ、びっくりした。
「嗚呼ッ、なんと素晴らしい愛の宣言だろう!! その言葉が聞けて安心したよ。まさに赤き薔薇のような情熱を思わせる、さすがは私の認めた
「ルーク、お前なあ……ほんと頼むから、その呼び方はやめろって……」
熱くなるのは得意じゃない、筈だったんだが。その奇妙な呼び名が、今ばかりは、ほんの少しだけ誇らしいような気がした。
初めて恋した彼女の為なら、俺は。自分の与えてやれる全てを捧げたいし、似合わない騎士さえも気取ってみせるだろうから。
「……まあ、でも、いまの話。寮母さんには言い触らさないでくれよ。少し、その、恥ずかしいから」
「ふふ、勿論さ。私にもその甘くて純白な愛情をひとかけら、おすそ分けを頂けるのであれば、内密にしておくとも」
「なんだよ、まったく、元々味見が目的だったのか。愛の狩人も意外と現金だな? そっちの女王様に叱られても知らないぞ」
ははは、なんて楽しげな笑い声が実験室に響く。夕飯前にも関わらず、友人とこっそり分け合うケーキは背徳的で格別美味しい気がした。
さて、と。じゃあ早速……こんな言い回しは柄じゃないけれど……俺のとびっきりの"愛"を、届けに行こうか。
自称・愛の狩人と他愛ない会話を交わして別れた後、俺はオンボロ寮へ向かっていた。
いつの間にか雲の晴れた夜空に、ぽっかりと浮かぶ白い月が眩しい。もう夕食の時間どころか、寮の門限さえも過ぎてしまっている。帰ったらウチの女王様が顔を真っ赤な薔薇色にして怒るだろうなあ……。そんな事をボンヤリ考えながら、古くて持ち手の取れそうなドアノッカーをコンコンと鳴らした。
やや間があって、遠くから微かにぱたぱた足音が聞こえてくる。ギィッと今にも壊れそうな音を立てて開いた扉の向こう、そこからひょっこり顔を覗かせた彼女──寮母さんは驚きにわっと声を上げた。
「クローバー君っ?」
「突然、すみません。部活で作り過ぎたお菓子のおすそ分けに来たんですが、……ご迷惑、でしたか」
前持って考えておいた定型文と共に、つい、少しばかりの不安がこぼれてしまう。
何せ、先日の図書館での一件(プロポーズ紛い事件)以来、彼女とこうして顔を合わせて言葉を交わしたのは、数日振りだったから。
彼女はこの数日間、あからさまに俺を避けていたのだ。俺が声をかけようとすれば「学園長に呼ばれているの」「グリムちゃんを迎えに行かないと」「ゴーストさんたちのお手伝いがあるから」等々、適当な理由を告げて立ち去ってしまう。挙句の果ては、目が合うだけでバッと踵を返して逃げていくから。……もしかしたら、告白もすっ飛ばしてプロポーズなんて愛が重い、鬱陶しいと嫌われたんじゃないか──って。いつぞや怒り狂う女王様を前にした時ぐらい、ぞわりと背が震えて恐ろしかった。
そんな俺の不安は表情にも出ていたのかもしれない。彼女は慌てたように首をぶんぶん横に振る。「迷惑だなんてとんでもない!」と珍しく声を張り上げるから、今度はこっちが驚いたけどホッと安心した。
「私もウチの寮生ちゃんたちも、クローバー君の作ってくれるお菓子は大好きだから、とっても嬉しいよ」
るんっと弾む優しい声、柔らかい笑顔が俺を見上げてくれる。意図的に避けられていたとは思えないほど、いつも通りの甘やかな彼女だった。……よかった。
嬉しそうに白い箱を受け取った彼女は早速、箱の口を少し開けて覗き込む。途端、その笑顔はますます喜びに輝いて「わあ、チーズケーキだ!」子供みたいにはしゃぐ言い方が可愛くてたまらない、俺もつられるように口元がニヤけた。
「寮母さんの好きなレアチーズケーキに、今回はホワイトチョコも混ぜてみたんだ。さっぱりした味わいに濃厚さが増して、我ながら良い出来だと思ってる。あ、ちゃんと3切れ入れてありますからね」
「ふふっ、ありがとう! お風呂上がりの楽しみが増えちゃった、嬉しいなあ」
しかし無邪気に喜んでくれたのも束の間、再び俺に向けられた彼女の赤い瞳は、明らかな困惑と心配に揺れていた。
「でも……いったい、どうしたの? こんな遅くに……」
当たり前の疑問だろう。学園のいち職員として、生徒がこんな夜遅くまで出歩いていることに、何か憂い事でもあるんじゃないかと気遣ってくれているに違いない。しかし。
「……この時間なら、絶対にあなたと会って、話が出来ると思ったから」
俺の答えに、彼女の瞳は大きく見開かれて「あっ」と罪悪感に震えた小さな声がこぼれる。
だって、俺の憂い事は、あなたが原因なのだから。
やはり意図的に避けていた、申し訳ないことをしている、その自覚があったらしい。胸の奥でちくりと薔薇のトゲが刺さるような痛みを感じた。どうして。
「どうして、俺から逃げようとするんですか……?」
俺の疑問に、彼女は赤い瞳を伏せて逃げるように顔を背けてしまう。ああ、また。心臓が薔薇のツルで絞められたように、苦しい。
「に、逃げて、なんか……」
「俺が、余計な事を言ってしまったから、ですか。まだ保護される側の子供の癖に、馬鹿みたいな夢を語って……あなたの将来に、気安く踏み込もうとしたから、俺のことなんて、……嫌いに、」
「違うの!」
強い否定の言葉で、深く暗い澱みに沈みかけた心が、はっと引き上げられた。彼女は相変わらず俯いたままで、つい両手に力がこもったのか、抱えたケーキ箱が少しぐしゃりと歪んでいる。
「きみを、嫌いになんて、なれないよ」
泣くように落とされた言葉だった。
「あの時、私に将来を語ってくれたこと、……うれしかった。この世界なら、私にも居場所があるのかもしれないって、勘違いして、泣いてしまいそうなほど嬉しかったの。その気持ちだけは、ほんとうだよ」
「ッ、だったら、尚更どうして──」
「でもね、きみは優しい子だから、可哀想なひとを放っておけないだけ、なんだよ。きっと、憐れみと慈しみが混同しているのでしょう。クローバー君はまだ若いし、これから色んな出会いをする筈だから、ね。もっと、きみの未来を大切にしてほしいから。私なんかが、奪っちゃいけない……こんな、ただの雑用係には、もったいないよ……」
まるで自分に言い聞かせるような台詞だった。
彼女が訴えることも、わからないではない。やはり、仮にも学園の職員という立場や年齢差、そして何よりも異世界からの迷い人であるイレギュラーが、彼女の心を不安に蝕んで邪魔をするのだろう。……だとしても、だ。理解が出来ても、納得出来るかどうかは別問題である。
こうも散々ひとの心を掻き乱して、既に奪い去っておきながら、その気持ちは勘違いだ何だと否定されるなんて。酷く、胸の奥がむかむかと沸騰するように騒いで、三月ウサギが暴れ回ったお茶会みたいな気分になる。つまりは、そう、腹が立ったのだ。
「じゃあ──俺の気持ちが冗談や勘違い等ではなくて、本気であることさえ伝われば、受け入れてくれるんですね?」
え、と彼女の唇から吐息が漏れるより早く、その柔らかな頬と細い顎に利き手を伸ばした。触れてからすぐ、半ば強引にぐいっと顔を上げさせる。驚きに丸くなった瞳は、甘い砂糖を煮詰めたシロップで潤んでいた。
「誰より心優しいあなたは、俺がこの恋を諦めるまで、ずっと逃げ続けるつもりなんだろうが……」
不思議の国の縞々猫が如く、ニンマリと口の端を吊り上げて笑って見せる。
「残念ながら、俺はそう易々と迷子の
一瞬で、お互いの鼻先が触れ合いそうな位置まで、顔を近づけた。自分でも心臓が喉から転がり落ちそうな、至近距離。
「将来、ケーキ屋さんになるって話。真剣に考えておいてくださいね」
今すぐ答えをくれなくても、構わないから。
そう告げて、俺は彼女の甘そうなチェリーを思わせる唇──には、さすがにいきなり触れる度胸が無かったので、もっちりとしたマシュマロみたいな白い頬に口付ける。砂糖菓子のような甘い匂いが相まって、齧り付いてしまいたくなる柔らかさだった。
まずい、このままでは本当に欲望のまま噛み付いてしまうかもしれない。食欲と情欲の混ざる奇妙な感覚が恐ろしくて、すぐさまバッと顔を離して距離を取る。
「あ……え、っ……!?」
いったい何をされたのか、理解が追い付かずにカチコチと思考停止しているようだ。俺も今更ながら自分の行いが恥ずかしくなってきて、悪さをした口元を手の甲で隠した。ぼわっと燃え上がるように頬へ集中する熱が堪えられない。やってしまった。
「……要件はそれだけです。じゃあ、また明日」
ダッと白ウサギの如くその場から逃げ出した俺が、去り際に一瞬だけ見えた彼女の顔は、まるで収穫時期を迎えた林檎のようだった。
「ああ、もう、なんて──恐ろしい、魔法使いさんなのかしら!」
これまた酷いお見送りの言葉には、思わず「ふはっ」と声を出して笑ってしまったが。まあ、全くその通りである。
ずっと『良い子』のフリをしていたら、彼女の手を取れない。かと言って、心優しき王子様役は下手くそで、プリンセスを守る騎士役も空回り。結局のところ、俺には親切な魔法使いよりも悪い魔法使い役がお似合いだ。それでも、やはり、構わないと思う。可哀想な灰かぶり姫は、連れ去ってしまえばいい。
初めて愛したひとを、どこへも逃がさない為ならば──俺は喜んで、
恋なんて曖昧で馬鹿らしい感情を知ってしまった俺は、どうにも、諦めの悪い大馬鹿者だったらしい。
2021.03.12公開
2021.04.01再掲
2022.03.26加筆修正
(このお話は、twst夢全年齢向けwebアンソロ企画「ハローワンダフルイフ!」様に提出した作品の再掲であり、内容は大幅に加筆修正しております)