緑の帽子屋と寮母さんの話
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抹茶と蕩けた愛の証
バレンタインデーなんて、男だらけの全寮制寄宿学校に通う俺にとっては、全く無縁だった。
まあ、同じくこの学園に通う生徒たちの中にも、友人同士で贈り物をしたり、遠く離れた家族と連絡を取ったり、他校や故郷で待ってる恋人の元へ会いに行ったり──と。バレンタインを楽しんでいる奴らが、少なからず居たんだろうけど。
惚れた腫れたの経験もない俺には、あまり興味もない記念日だった。実家のケーキ屋が少し忙しくなっているかも、とぼんやり思う程度であった。
──去年まで、は。
例年通り"なんでもない日"のつもりで迎えた、今朝の登校中。
鏡舎を抜けたところで「クローバー君っ」なんて随分と嬉しそうに弾む、綿飴を思わせる甘い声で呼び止められた。ニコッと大粒の苺みたいな瞳を細めて笑うそのひとは、俺が密かに恋心を寄せている年上の女性──オンボロ寮の管理人を任されているアイさんで、俺の心臓はどきんっと驚きに跳ね上がる。
「おはよう、早起きさんね」
「あっ、おはようございます。寮母さんこそ、お早いですね」
今日は偶然、一限が始まる前に図書館へ寄りたかったから、いつもより早くひとりきりで寮を出たんだが。まさか、こんな早朝から彼女と会えるなんて、ラッキーだ。このなんでもない日も穏やかで良い1日になりそうだなあ、とか。俺は呑気にフワフワ浮かれた事を考えていた。
アイさんの方は、まだ寒さも厳しい中、こうも朝早くから既にお仕事中なのだろうか。普段はその身ひとつで学園中をあちこち駆け回っている彼女が、珍しく大きめのトートバッグを抱えていて。それを、なんとなく不思議に感じていると──。
彼女はニコニコ効果音がつきそうなほど満面の笑みを浮かべて、また機嫌良く「ふふっ」と声を弾ませた。
「朝いちばんにきみと会えて嬉しいな、ちょうど渡したい物もあったから。もし良かったら、受け取ってほしいのだけど……」
思いもよらぬ言葉に「えっ」と間の抜けた声を落とす俺には目もくれず、彼女はご機嫌な様子で抱えた鞄の中身を探り始める。な、何だろう。俺に、贈り物? 誕生日はとっくに過ぎた筈だが。期待でドキドキと胸が高鳴った。
鞄から彼女の手と一緒に出て来たものは、手のひらサイズの白い箱。可愛らしくも赤いリボンが結ばれていた。柔やかに「はい、どうぞ」と手渡されたそれは、思いのほかズッシリした重さがある。中身がどうしても気になったので、俺はすぐにリボンを解いて蓋を開けた。
「おおっ、チョコレートだ」
開いた途端、ふんわりと甘くて品の良い香りが漂って、自然に頬が緩む。思わず子供っぽい声を上げてしまって、少し恥ずかしい。
箱の中身は、四つ入りのトリュフチョコレートだった。極東の小さな島国では人気らしい抹茶粉を纏ったガナッシュが、綺麗に整列して詰められている。市販品にも劣らない出来栄えだが、彼女の手作りだろうか。このひとは選択科目であるマスターシェフの指導役を任されるほどの腕前だし、俺も何度か美味しい手料理を頂いたことがあるから、味も信頼出来る。
想いを寄せる彼女からの贈り物なら、何だって嬉しいものだ。しかし、貰える理由が思い付かない。オンボロ寮の可愛い生徒たちへ振る舞うおやつを作り過ぎてしまった、とか? それにしては、梱包が丁寧過ぎる気がした。
そんな事を疑問に思っていたら、彼女が小声で「あのね」と口を開く。視線を戻せば、照れ臭そうにもじもじ横髪を掻き上げながら、甘く熟した桃の顔が微笑んだ。
「今日は、バレンタインデーだから……」
すぐには理解が追い付かなくて「んん?」と首を傾げてしまう俺に、彼女は慌てた様子で言葉を続ける。
「私が元々居た世界の、住んでいた国ではね、えっと、……親しいひとに、チョコレートを贈るイベントがあるの。だから、いつも良い子で優しいきみにも、日頃のお礼を兼ねて、プレゼントです」
確かに、バレンタインデーはこちらの世界でも、国境を越えて"愛の記念日"として有名だ。俺の生まれ育った国でも、愛するひとへ花を贈る風習があったりする。でも、異世界から迷い込んでしまった不運な彼女は、そんなイベント自体を知らないだろうと思っていたのに。異世界にも同じような記念日が存在して、まさか、贈り物を貰えるだなんて夢にも思わなかった。
胸の奥が強く握り締められたような感覚に、ぐうっと声を上げそうになって堪える。彼女のこういう細やかで甘い優しさが好きだなあと思う。
「──そッ、そう、なのか。ありがとう、ございます。……嬉しいよ」
こうも愛情の詰まった贈り物を前に、もしかして俺だけ特別に用意してくれたんじゃないだろうか? 等と自惚れて、少し吃ったりしたが。
ほっ、と安心したように息を吐いた彼女。その肩に掛けられた大きめサイズのトートバッグ、それから"親しいひと"なんて言葉から察するに、恐らく、彼女からこのチョコレートを貰える者は決して俺だけではない。これから、全校生徒はさすがに無理でも、教師陣や交流の深い生徒たちへ、甘いお菓子を配って回るのかな。俺はたまたま偶然、そのひとりめだっただけに過ぎないだろう。
ほんの少し、我ながら醜い嫉妬心が芽生えてしまうけど。例え、そうだとしても、彼女の中で数多く存在する可愛い生徒のひとりであってもいいんだ。俺が抱いた特別に嬉しい気持ちに変わりはないのだから、と。そう言い聞かせた。
朝食をしっかり食べた後だが、甘いものは別腹という言葉もある。俺は抹茶の化粧が施されたトリュフをひとつ、手に取ってぱくりと頬張った。この場ですぐ食べるなんて思わなかったのか、目の前の彼女は「まあ」と驚きの声を上げる。ほろ苦い抹茶に、ホワイトチョコレートの組み合わせが絶妙で、上品な甘さがなめらかに蕩けていく。口の中から全身へ美味しい幸福感が染み渡った。
「ンンッ、うま……! いや、美味しいですよ」
「ふふっ、喜んでもらえて良かった」
「優しい甘さだな、蜂蜜入りですか?」
「あら、さすがクローバー君、よくわかったね。とっても幸せそうに食べてくれて、私も嬉しいな」
彼女にクスクスと笑われてしまう程なんて、俺はいったい、どんな緩み切った顔をしていたのだろう? ちょっと恥ずかしくて、抹茶粉を拭うフリで口元を隠した。頬が熱い。
「残りも、後でゆっくり頂きますね。ありがとう」
「うん、出来たら早めに食べてね。グリムちゃんが横取りしに来ちゃうかもしれないから」
「ははっ、そうだな、気を付ける」
彼女が冗談を言うとは珍しい。が、グリムじゃなくても、クラスメイトや後輩たちにこのチョコレートの存在がバレたら羨ましがられるだろうし、取られてしまう危険性は十分にある。
……やっぱり、図書館へ寄る前に食べ切ってしまおうかな。
予想外の嬉しい出来事に浮かれていたら、俺の幸せなバレンタインデーは、もう半日を過ぎてしまった。
午前の授業が終わって、すっかり腹を空かせた昼休み。大食堂へ向かいながら、彼女がくれた甘さを俺の手でも再現したいな、俺も何かお返しを贈りたいが花より食べ物の方が良いだろうか、等と機嫌良く考えていた時である。
「おぉーい、トレイッ!」
背後から幼い子供のような鳴き声で呼び掛けられた途端、ドスンッと肩に重たい何かが勢い良く飛びかかって来た振動で「うおっ!?」なんて咄嗟の大声をあげてしまった。
一瞬よろめいた姿勢を正して、ずっしりと重い左肩に顔を向ければ、悪戯好きの猫型モンスターがギザギザの歯をニィーッと見せ付けて笑っている。その無邪気な表情は何だか故郷の弟妹を思い出させるものだから、俺もズレた眼鏡を直しながら釣られるように笑った。
「ははっ、どうしたグリム? 今日は何にも甘いもの持ってないぞ、残念だったな」
「えぇーッ、貰ったお菓子もう全部食っちまったのか!? ガッカリなんだゾ。オレ様もトクベツなまっちゃ味のチョコレート、食べたかったのに!」
「──は?」
待ってくれ、いま何て言った。
……特別な抹茶味のチョコレート?
「それって、どういう──」
意味なんだ、そう続けたかった言葉は「こら、グリムーっ!!」と悪戯なモンスターを呼ぶ大声に遮られた。
「もう、廊下は走っちゃダメだって、いつも言ってるでしょ……あっ、トレイ先輩、こんにちは!」
慌てた様子でグリムを追って来た監督生にそう声を掛けられて、俺はハッとして少しの冷静さを取り戻した。
「あ……ああ、こんにちは。お前たちは今日も元気そうだな」
未だ俺の肩にしがみついているグリムが「トーゼンなんだゾ!」と声を張る。
「何たって今日は、うんまいチョコがたくさん食えるバレンタインだからな!」
ハロウィンやウィンターホリデーの存在すら知らなかったモンスターが、何故、この"愛の記念日"を知っているのか。答えは簡単だ、監督生や寮母さんから教わったのだろう。
「グリムや監督生も、寮母さんにチョコレートを貰ったのか?」
そう問えば、元気いっぱい嬉しそうに「美味かったんだゾ!」「美味しかったです!」とお揃いの声が返って来た。あまりにも息がぴったりで思わず笑ってしまう。
「ふふ、そうか、良かったな」
「トレイ先輩も貰ったんですよね? どんなお味でしたか!?」
「うん? ああ、もちろん、美味しかったよ。俺も今度、抹茶を使ったお菓子を作ってみようかと考えてるくらいだ。監督生たちも、その時は味見役になってほしいな」
「わあ、良いんですか! 楽しみですっ」
しかし何故、監督生がそうもチョコの味を気にするのか、同じ物を食べた筈だろうに──なんて疑問には、グリムが答えてくれた。
「良いなあ! アイツ、オレ様達にはココア味しかくれなかったんだゾ!? メガネのヤツだけ特別、まっちゃ味なんてズルいんだゾーッ」
特別──? その言葉に、心臓がどきんと跳ね上がる。え、と呆けた声が出た。
まさか、彼女の口から出た「グリムちゃんに横取りされちゃうから」という冗談は、冗談のつもりではなかった? 本当に取られてしまう可能性があるから、注意をしたのか? それは、俺に贈られたチョコレートだけ、特別仕様だったから。
じんわり熱の上がってきた感じがする。監督生がニヤニヤと愉快そうな顔で言葉を続けた。
「私が元いた世界の、住んでいた国では、バレンタインデーに親しいひとへチョコレートを贈るイベントがあって──今でこそ、友達同士や家族なんかで贈り合ったりもしますけど、本来は──好きなひとに愛を告白するキッカケの日なんですよ、っていう話は聞きました?」
「……いや。どうも、半分ぐらいしか聞いてなかったらしい、な」
もしも今日、ここでグリムが飛び付いて来なかったら、監督生が面白半分でチョコレートを贈る真の意味を教えてくれなかったら、俺はその密やかな"特別"にずっと気が付けずにいたんだろう。彼女の直接的で遠回しな愛情表現が、可愛らしくて堪らなかった。
そういう事なら、もう少し味わって食べたのに、とか。俺も例え意味が伝わらなくても花の一輪ぐらい用意しておけば良かった、とか。色々後悔したり思う所はあるんだが、ああ、もう!
「ほんと、ずるい大人だよ……」
俺は可愛い後輩たちの前で、みっともなく火照った顔を片手で覆い隠すしかないのだった。
それから更に、俺は監督生からホワイトデーなる変わったイベントの話を聞いて、必ずや彼女にとびっきり特別なお返しをくれてやろう、と心に誓うのだが──これはまた、来月の話である。
2021.02.14公開