薔薇の王子様と監督生の話
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甘菓子ランデブー!
春の陽気を温かなそよ風に感じ始めた、ある日の放課後。
錬金術の授業で必要な材料をウッカリ全て使い切ってしまったため、私とグリムはオンボロ寮へ帰る前に購買部へとやって来たのだが──。
「ふ、ふなッ!? 購買、しまってるんだゾ!」
学園内にある購買部Mr.Sのミステリーショップは、長期休暇でも無ければいつでも大きな両扉を開け放したままで、店奥のカウンターの向こうからサムさんが「ウェルカム小鬼ちゃーん!」と気さくに出迎えてくれる筈、なんだけど。その日は何でもない平日なのに、まさかの、休みだった。両扉はがっちりと閉め切られて鍵も掛かっており、ドアノブにぶら下がる簡素な掛札には「臨時休業」の赤文字が書かれている。
このミステリーショップは生卵から魔法石まで何でも扱う品揃えが、生徒たちの間で大評判の購買部。ここの生徒になってからと言うもの、私たちもほとんど毎日のようにお世話になっている──というか、寧ろこの世界に来てから購買部でしか買い物をした事がない。けれど、明日は。
「……ねえ、グリム、明日って」
「1限から錬金術の授業、あるんだゾ……」
ど、どうしよう──!?
──とりあえず、臨時休業中の購買部の前でずっと悩んでいても仕方ないし、私はグリムを抱いてしょぼくれながら鏡舎の方向へトボトボ向かった。仕方ないから、いちどオンボロ寮へ帰ろう。
明日は朝から錬金術の授業が待っている。どうしても購買で買わなければならない材料はひとつだけ、授業が始まる前に大急ぎで購買へ駆け込むしかないか。でも万が一、明日の朝まで購買部が休みだったら、本当にどうしたものか。エースやデュースに頼み込んで材料を分けてもらえないかなあ、なんて都合の良いことを考えていたら。
「あれ、ユウちゃんだー?」
「おや、監督生?」
親しみやすさを感じる明るい声と、凛しくもまだ幼さの残る声から同時に呼ばれて、はっと顔を上げた。鏡舎の前で偶然にも顔を合わせたのは、ケイト先輩と、リドル先輩だった。
「えっ、ちょっと、なんか元気無くない? グリちゃんまで、そんなシワシワのションボリ顔しちゃって、どうしたの?」
「ボクのアリスはまた、何か厄介事にでも巻き込まれたのかい?」
心配そうに言葉をかけてくれるおふたりは、ちょうどハーツラビュル寮へ帰るところだったのだろう。優しいおふたりの姿が、今の私には後光を放ち輝く救世主に見えた。
「先輩がたッ、どうか助けてください!」
えぇ!? 何事かと慌て驚くおふたりに、かくかくしかじか、購買部が臨時休業している事と私たちの明日がピンチであることを簡単にお伝えした。
「なるほど、それでションボリしてたんだ。またユウちゃんたち大変な目に遭ってるんじゃないかと、心配しちゃったよ。大事じゃなくてよかったぁ」
ほっと胸を撫で下ろして安堵の笑みを浮かべてくれるケイト先輩に「これも大ピンチです」とまたしょぼくれたら「ごめんごめん」と軽く謝られた。
「必要な材料って、星のかけらだけ?」
「はい。あとは、白い薔薇の蕾が必要なんですけど、これは植物園で貰えるから大丈夫だと思います。でも、星のかけらは購買にしか売ってないから、とても困ってて──」
「星のかけらなんて一般的な魔法菓子、学園からいちばん近い街にも売ってるよ?」
え? ケイト先輩の口から飛び出した言葉に、私は思わずポカンとしてしまった。
「……学園の外って、出られるんですか」
私の発言は再びおふたりから驚愕された。いや、だって知らなかった、この学園の生徒になってもう半年近く過ぎたけど、全然。なんせ学園内で衣食住の全てが不自由なく済ませてしまうから、学園外に出ようと考えたことがなかったのだ。これぞ灯台下暗しというか、何というか。
ケイト先輩によれば、先生方の誰か(出来ればクラス担任が望ましい)から外出許可さえ取れば、放課後や休日に学園外へ出る事は可能との事だった。何でそういう基本的なこと教えてくれなかったんだろう、学園長め〜!
「なあんだ、良かった! やっぱり先輩がたに相談して正解でした、ありがとうございます。それじゃあ今から、クルーウェル先生に許可を貰って、」
「ユウ君、ちょっと待って」
リドル先輩が突然、キュッと私の制服の裾を掴んで引き止めた。ピャッなんて間抜けな声が溢れ出ると共に、胸の奥がきゅんと高鳴る。
「キミ、学園の外にはいちども出たことがないのだろう。見知らぬ異世界の街にも一切臆することのない、その度胸は相変わらず尊敬するけれど。魔力を持たないキミには危険な街であるし、きっと知らない道ばかりで迷子になってしまうよ」
確かに、その通りだった。グリムが私の腕の中で「オレ様がついてるから平気なんだゾ!」と頼もしく吠えてはいるけど、なおさら不安である。
「ボクが着いて行こう、道案内してあげるから」
でも、優しい笑顔と共に告げられたそのお言葉は、予想外でした。
「ケイトはグリムを連れて、ハーツラビュル寮の庭園を案内してやってくれるかい。白い薔薇の蕾も必要なんだろう、我が寮から一輪ぐらい持って行っても構わないよ」
「ふなあッ、オレ様も外行きたい! 街の探検したいんだゾー!?」
「まあまあ、グリちゃんにはトレイくんが作ってくれたケーキを分けてあげるから、けーくんと一緒においでね。こういう時は役割分担した方が効率良いし♪」
「ふな? そういうことなら、まあ……。よし子分、こっちはオレ様に任せておくんだゾ!」
トレイ先輩の美味しいケーキに胃袋を釣られたグリムは、あっさりとケイト先輩の肩へ飛び付いた。
「えっ、と……良いんですか?」
正直、凄く嬉しい申し出だった。けれど、リドル先輩には毎日のように何から何までお世話になりっぱなしで、申し訳ない気持ちもあった。
恐る恐る彼の顔を覗きこめば、ふっ、とその淡いグレーの瞳が柔らかく細まる。
「ボクはキミと好い仲であると思っているし、そんな相手の為ならいつでも助けになりたいと願っているのだけれど。キミの考えとは違っていたかな、ボクのアリス?」
「い、いえ! 私も、リドル先輩が何かお困りだったら、どんなことでも力になりたいって思います」
「ふふ、嬉しいよ、ありがとう。なら可笑しな遠慮なんてせずに、このボクを素直に頼っておくれ」
「はい! ありがとうございます、先輩」
好い仲って、マブダチのような意味合いだろうか。そうだとしたら、凄く嬉しい。聞き慣れない言葉の意味に少し変な期待をして、ドキドキしちゃったことは内緒です。
私をエスコートしようと自然に左の手を差し伸べてくれるリドル先輩へ、私は素直に右の手を重ねて繋いだ。あれ、ただ授業で必要なものを買いに行くだけなのに。こんなの、まるで──。
「じゃあ、リドルくん、ユウちゃん。せっかくのふたりきりなんだから、放課後デート、いっぱい楽しんできてね〜♡」
「ばっ!? ば、馬鹿なことをお言いでないよ! ケイトッ!!」
顔を真っ赤に染めたリドル先輩のお怒りの声は、それはそれはよく響き渡りました。
無事にクルーウェル先生から外出許可を頂けた私は、リドル先輩に手を引かれるまま闇の鏡の中へ飛び込んだ。
「さあ、着いたよ」
彼の言葉を聞いて、暗闇の中でギュッと強く閉じていた目蓋をゆっくりと上げる。そこには、私の居た元の世界──日本とは全然違う街の風景が広がっていて、思わず「わあっ」と感動の声が溢れた。
夕暮れの空と同化しそうな、オレンジ色に統一された屋根の列。美しく整列した石畳の道路、その上を走る馬車、野良の黒い猫。遠くには立派な時計塔も見える。まさに西洋の趣きを感じる古き良き欧米の街並み、といった感じだ。更には、今が春の季節だからかもしれないが、やたらあちこちに色とりどりの綺麗な花々が飾られていて華やかだった。その花の近くには妖精らしい小さな人の姿が見えたりして、やはりここは魔法の世界だなあ、と改めて実感する。
「春を呼ぶ祝祭が何事もなく済んだことで、この街にも無事に春が訪れたみたいだ。誰かさんたちが邪魔せず頑張ったおかげだね?」
「ふふ。ほんとうに、上手く行って良かったです。おかげで、こんなに素敵な街並みを見られましたから」
つい先日、妖精に扮して参加した春を祝うお祭りでの出来事を思い出して、私は自然と笑顔になった。学園長に厄介事を押し付けられるのはもう何度目かわからないけど、綺麗な衣装を着させてもらったり、レオナ先輩の頼もしくて格好良いところを見直したり、カリム先輩とジャミル先輩のダンスで感激したり、ラギー先輩と怪盗ごっこしたりして、大変だったけど楽しかったから。
リドル先輩にファッションショーでの思い出を語りながら、オレンジ色の街をしばらく歩いた。お洒落なカフェや洋服店、オモチャ屋、レストランを通り過ぎたところで、先輩が足を止める。辿り着いたお店の看板には「魔法道具専門」という文字が刻まれていた。オンボロ寮並みに古い建物の、今にも壊れそうな木製の黒い扉をギィッと押し開けて、リドル先輩に手を引かれるまま店の中へと潜り込む。
薄暗くて怪しい雰囲気の店内。棚にはたくさんの魔導書が並び、魔法士用のローブやホウキ、杖に水晶玉など、学園の購買部に負けないほど様々な魔法商品が並んでいる。店内のどこもかしこも興味深かったけれど、あまりゆっくり見て回ると帰りが深夜になりそうなほど魅力的なので、また次の機会にしよう。お目当ての魔法菓子──瓶に詰まった淡い桃色と白色の金平糖のような、非常に甘いお菓子。食べると消費した魔力を回復出来るらしい──星のかけらを見つけたら、すぐに購入して店を出た。
優しいオレンジ色の街並みが再び私を出迎えてくれて、ほっと安心する。
「はあ、よかったー! 星のかけら無事ゲット出来ました。リドル先輩のおかげですよ、ありがとうございました!」
「ボクは少し道案内をしただけだよ。しかし星のかけらなんて、そもそも学園から十分に支給されている筈の材料だろう? わざわざ買い足す必要なんて、あまり考えられない話だけれど」
「そうなんですけど、今日の授業中にグリムが全部食べちゃって……」
「……キミの相棒、もう少しちゃんと躾るべきだね」
呆れ切った表情のリドル先輩は、空いている右手で痛そうにこめかみを押さえた。
彼の左手は相変わらず、鏡の間からずっと私の右手を握ったままだ。嬉しいから、私も離さないけれど。せっかくだから、もう少し先輩とふたりきりで居たかったな。でも、もう目的は済んでしまったから、はやく帰らなきゃ──。
「ねえ、ユウ君」
寂しさに俯いていた顔を上げれば。沈みゆく夕陽の色が、先輩の苺みたいな赤い髪に反射して、とてもキラキラして見えた。
「もう少しだけ、一緒に街を歩きたいのだけれど、良いかな。……まだ、キミとふたりきりで居たいんだ」
とても小さな声を残した後、照れ臭そうに長い睫毛を伏せてしまうリドル先輩。甘い愛おしさが、きゅううう、と胸いっぱい広がっていく感じがした。
「わ、私も、先輩と同じこと、考えてました」
「えっ、本当? そっか、……嬉しいよ」
年相応の少年らしい表情で、ふにゃ、と微笑んだそのひとはマシュマロみたいに愛らしくて。つい、繋いだ手の握る力を強めてしまう。けれど彼がすぐに同じくらいギュッと握り返してくれるから、安心した。
そうして私たちは再び、学園とは反対方向へ足を動かした。今度は何の目的もなく、自由気ままなチェシャ猫のようにふらふらと。夕焼けの街を歩きながら、ぽつりぽつりと会話を続けた。
「最近のキミはとても忙しそうにしていたから、こうしてふたりきりでゆっくり話すことがなんだか、とても久しぶりな気がするよ」
「ここ数日ずっとバタバタしてましたからねえ、レオナ先輩すぐサボるから連れ戻すのが大変で……」
「お茶会に誘っても来てくれないし、」
「うう、私も行きたかったんですよ? トレイ先輩の春の新作ケーキを食べ損ねたことは悲しかったけど、体型維持しないと少しのズレですぐ衣装着れなくなっちゃうから……」
「厳しい食事制限を強いられていたんだろう、エースとデュースから聞いて知っていたけれど。それでも……少し、寂しかったのだからね」
自分の耳が拾った小さな音に「えッ」と驚いて信じられなくて、私はすぐに隣へ顔を向ける。夕陽を見つめるその横顔は、むっと口を尖らせて不機嫌そうだった。
まさか、リドル先輩がそんな(失礼だけど)幼子のようなことを言うなんて。ヤキモチを、妬いてくれていたのだろうか──そう自惚れてしまう。私の前ではどうも感情表現の幼くなるらしいその人が、あまりにも可愛くて愛おしくて「えへへ」と口元がだらしなく緩んだ。頬の赤い先輩からは「あまり恥ずかしいことを言わせないでおくれ」と横目で静かに怒られた。
ふと正面へ視線を戻すと、反対側の歩道に真っ白な移動販売の車が見えた。オレンジの街並みにそれはとてもよく目立っていて、ふんわりと甘い香りに鼻をくすぐられる。あれは、私たちと同年代であろう少女たちが店の前で食べているものを見るに、クレープ屋さんかな。
あ──良いこと思い付いた。
「ねっ、リドル先輩、私とちょっぴり悪いことしましょう!」
いつも凛とした先輩の口から「え、な、何?」なんて戸惑った声が溢れるも無視をして、私は繋がれた左手をぐいぐい引っ張って白い屋台へ向かって駆け出した。
「おや。これは、ケイトが見たら喜びそうな屋台だね」
近付いて見ると、やはりその屋台はクレープ屋さんで、車の中からモチモチの薄生地が焼ける美味しそうな匂いがする。車体にでかでかと貼られたメニューは非常に種類豊富で、様々なフルーツや生クリームの組み合わさったイラストが所狭しと描かれていた。
「この世界にもあったんですねえ、クレープ屋さん!」
「クレープ……? ボクの知っているものとは、随分と華やかで全く別の食べ物に見えるけれど、キミの住んでいた地域独特のものかな」
「え、クレープってこういう、果物ごろごろ生クリームたっぷりの甘々スイーツじゃないんですか?」
「少なくとも、ボクの食した記憶の物とは違うね。ボクの知るクレープは、これと同じようなモチモチの生地を皿へ盛って、塩バターや焦がしキャラメル、チョコレートソースなどをかけて頂くんだ」
「わあ、そっちも美味しそう……」
「今度トレイに作ってもらえないか頼んでみようか?」
是非!! と、頼み込みたいところだったけれど、今は我慢、我慢。
「まずは、私のよく知るクレープを一緒に味わいましょうよ!」
「……まさか、悪いことって、」
「ふっふっふ……お夕飯前に制服姿のまま内緒の買い食いだなんて、と〜っても魅力的な"悪いこと"だと思いません?」
親友のふたりにだって負けないくらい精一杯の悪い顔で、私はニンマリと笑って見せた。
しかしリドル先輩の、視線をゆらゆら彷徨わせて戸惑うその表情は、なんとなく、何かを怯えているような気がして。やっぱり"お母様"の存在が頭を過ぎるのだろうか、とほんの少し心の奥底がちくり痛んだ。彼と繋がれた手にそっと、もう片方の手も添える。
「大丈夫、誰からも怒られたりしませんよ。私と先輩だけの秘密にしておけば良いんですから、ね?」
ようやく彼のグレーの瞳が私を真っ直ぐ見つめ、ふ、と微笑み返してくれたから、心の痛みが止んでホッと安堵する。
「……全く、このボクを共犯にしようだなんて、悪い子だね。アリス」
「お褒め頂き光栄ですよ、女王様」
なんてふざけ合った会話を交わしながら、さあ、どれにしようか、多過ぎるメニューと睨めっこする。結構なサイズ感のあるクレープを夕飯前に丸々ひとつずつ食べることまではさすがに躊躇われたので、1種類だけ頼んでふたりではんぶんこする事に決めた。散々悩んだ結果、ド定番のメニューであろう苺たっぷりのクレープを注文する。道案内をしてくれたお礼と言うことで、クレープ代はこちらで奢らせてもらった。後輩の女の子に支払いをさせるなんて、と先輩から不満たっぷりに長々文句を言われたけど、私がどうしてもお礼したかったから良いんですー。
手際の良い女性店員さんが、器用に炎の魔法を操って焼き上げたモチモチの薄生地に、背徳感を覚えるほどたっぷりの生クリームが盛られ、宝石みたいな真っ赤の苺がぎっしり詰められて、仕上げにコンデンスミルクをかけられた後は、くるくると美しい三角錐の形で包まれていく。天辺にオマケのミントを飾って完成したクレープは、手持ちして食べやすいよう更に純白のヴェールで包装される。お待たせしました、と爽やかな営業スマイルで差し出されたそれに「おおー」とふたり揃って感嘆の声を溢した。
私が出来上がったクレープを受け取って、屋台の近くにちょうどよく置かれていたベンチへ、ふたり並んで腰掛ける。
「ふわあ、美味しそう〜!」
「実物は思っていた以上に豪華だね」
お先にどうぞ、というリドル先輩のお言葉に甘えて、私は思いっきり大きなひとくちを頂いた。先輩が大きな吊り目を真ん丸にして驚いていたけど、気にしない。
「んんっ、濃厚な練乳の甘味と苺の爽やかな酸味、ふわっふわ滑らかな生クリームが相性抜群で。それを優しく包み込むモチモチ食感の生地も美味しいっ、まるでとろけそうなくらい夢心地なお味ですねえ〜♡」
「ふッ、ははっ、まるでグリムみたいな感想を述べるのだね」
美味しいクレープにメロメロな私が相当面白かったのか、リドル先輩が珍しく次々弾けるシャボン玉のように笑うものだから、照れくさいけどやっぱり嬉しくなる。
今度は先輩の番ですよ、とひとくちかぶり付いたクレープを差し出した。彼はまだ少し笑いながら、けれどスプーンもフォークも使わず直に食べる行為に抵抗感があるのか、おずおずと出来る限り口を開いて頬張った。
あ、これ、間接キスしちゃったな──? と一瞬思ったけれども、口には出さず。そんなことより、彼の瞳の奥でキラキラと光り出した小さな星の輝きに、見惚れていた。
「これは、うん、美味しい」
キミの知るクレープも悪くないよ、と初めてかぶり付いたスイーツをすっかりお気に召したご様子。ああ、良かった。先輩が嬉しそうだと、私も嬉しくてたまらない。
しかし、ふと先輩の口の端に少しクリームが残っているのが見えて、つい──
「せんぱい、クリーム付いてますよ」
「ん、失礼。少し、はしたなかったね」
「あ、じっとして。取ってあげるから」
リドル先輩がハンカチを取り出すよりも早く、彼の口の端に手を伸ばして指先でクリームを拭った。ぺろ、とその指先を舐め取った直後「え」呆気に取られて驚く先輩と「はッ!?」自分の怪行動に気付いた私の声が重なる。
それは私が食事のたびに毎回グリムの暴れん坊な口元を拭ってあげている為、日頃の癖がウッカリ出てきてしまった結果の、大失態だった。相手がリドル先輩であったことをすぐ思い出して、全身が爆発でも起こしそうなほどの熱に襲われた。
「あっ、ご、ごめんなさい! グリムがいつもソースとかご飯粒とか付けて汚すから、あのッ、つい癖で!?」
「い、いや、こちらこそ、ありがとう?」
彼も混乱しているのだろう、謎のお礼を述べるその顔は真っ赤だった。
「驚きはしたけれど、その、嫌ではなかったから。ただ、ボク以外の相手にはウッカリやらかさないよう、十分気をつけるんだよ」
「は、はい、肝に銘じます……」
反省しながらも恥ずかしさを誤魔化したくて、ふたくちめのクレープをもくもぐ頬張る私を見て、また先輩が赤い顔のままクスクスと笑う。
「ふふっ、キミといる時間は本当に楽しいよ。もう少しふたりきりで居たいなんて、ボクのわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
「いいえ、そんな。助けられたのは私の方ですし、私も先輩と一緒に過ごしたかったですから。まさか、こんな風にデート気分を味わえるなんて、嬉しいです。最初は運が無いなあって落ち込んでたのに、結果的には得しちゃいましたね」
どうぞ、と喋りながら再びクレープを差し出せば、ふたくちめは遠慮せずに大きな口でかぶり付いてくれた先輩。なんか大きな猫ちゃんを餌付けしてるみたいで、可愛いなあ。
まるで本当に、恋人同士のデートをしているような感覚が、余計、ふわふわと浮かれた気分を高めてしまう。
「ユウ君、」
さんくちめを頬張っていたら、不意にリドル先輩の手が私の頬へゆっくりと伸びてきて。あれ、私の口にもクリーム付いてたのかな? と思いきや、その指先はするり頬を撫でながら、私の横髪を緩く掻き上げた。
「え、先輩──?」
どうされたんですか、と聞く隙は無く。彼の愛らしく整ったお顔が急に近付いて驚いた瞬間、ふにり、甘い苺色の唇が私の口の端に当たった。すぐさま逃げるように、彼の唇と手が離れていく。上手く状況把握が出来なくて、私の口からは「ふ、ぇ?」なんて間抜けで弱々しい音が落ちた。
「……ごめん、クリームが付いていたから」
そんな言い訳を溢す彼は赤く火照った顔でグレーの瞳を潤ませていたから、本当ですか、なんて聞ける余裕はなかった。
しばらくの静寂。ここが夕暮れの街中であることすら忘れるくらいに、その時の私はもう、彼しか見えなくなっていた。恐る恐る、と言った様子で彼の唇が動いた。
「キミさえ良ければ、これからもボクと、恋人同士のデートをしてほしい。ボクのまだ知らない、楽しいことや"悪いこと"をもっとたくさん、教えてくれないか」
うるうる揺れるグレーの瞳が、じっと縋るように私を見つめる。震える左手で、また私の右手を強く握り締められてしまったら。どきん、どきん、心臓がずっと喧しく高鳴って、もう痛いくらいだ。
「リドル、せんぱい、それって、」
「……だめ、かな?」
今更ながら、鏡舎の前で彼が自然と口にした"好い仲"という言葉の意味を、理解する。
「わ、私なんかで、良ければ、ぜひ──!」
「ボクはキミが良いんだよ、愛しいアリス」
その日、久しぶりに食べたクレープは半分しか食べていない筈なのに、平らげた何倍も胸がいっぱいになるほど甘くて、嬉しくて、もう──泣いてしまいそうなくらい、幸せなお味だった。
2020.06.26公開