薔薇の王子様と監督生の話
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独占マジカル!
お昼休み、次の授業の予鈴が鳴る5分前。私とグリムは図書室を飛び出して急いでいた。
「待ってよ、グリム〜!」
「まったく、いつまでも図書室にこもってるからだゾ! 授業に遅れたら連帯責任で二人とも怒られる、っていつもはユウの方が怒ってる癖に〜」
「えへへ、ごめんごめん。ちょっと面白い本があって、夢中になっちゃってた。呼びに来てくれてありがとうね、グリム」
「ま、子分の面倒を見るのは親分として当然なんだゾ」
ふふん、と自慢げに鼻を鳴らして偉そうな私の相棒は可愛くて、なんだかんだ頼もしい。今日の夕飯はグリムの大好きなツナ入りクリームパスタにしてあげようかな、そんな事を考えながら廊下を走っ……たら駄目なので、早歩きした。
カツカツカツ、向こうからサバナクロー寮の腕章を付けた生徒が二人、歩いてくる姿が見えたので私は廊下の端へ避けた──筈が。
ドンッ! と、ひとりの生徒に肩が当たってしまった。……と言うより、相手がこちらに体当たりしてきた、と言った方が正しかった。
「うわっ、あ!」
私は押された反動で反対の肩を、強く廊下の壁にぶつけてしまい。バサバサ、ガチャンッ、抱えていた教科書や筆記用具が一気に床へ雪崩れてしまう。
「チッ、邪魔なんだよ、一般人」
「ハッハッ、間抜けだなあ、監督生クン」
ぶつかってきた生徒は舌打ちし、連れの生徒はゲラゲラと下品な笑い声を上げ、こちらへ背を向けて歩いていった。ああ──また、か。
「お、おいっ、大丈夫か、ユウ!」
痛む肩を押さえる私を、心配したグリムが飛び付いてくる。大丈夫、大丈夫だよ、私の相棒。このぐらいなんて事ないよ。そう苦笑して、ふわふわな灰色の毛皮を撫でる。よっこいせ、と何事も無かったように、私は足元へ散らばったノートやペンなどを拾い集めた。
正直、腹が立たない訳ではない。許されるなら今すぐアイツらの首根っこを引っ掴んで、その無駄に高いプライドと同じような鼻がへし折れるほど、めちゃくちゃに殴ってやりたいと思う。でも、そんなことをしたら、私はアイツらと同じに成り下がってしまうから。人を殴ればこちらの拳も痛めてしまうし、赤くなった痛々しい拳を見て心配してくれるひとが、私にはたくさん居るのだから。これくらい──
(あんな弱っちい一般人が、魔法史のテストで満点だって?)
(信じられねえな、絶対ズルしているに決まってる)
(どうせアイツもアズールのヤツと、例の"契約"したんだろ)
(違いねえな。そうでもなきゃ魔法も使えない無能が、上位50位以内になんて入れる訳がない)
だから、立ち去っていく奴らの嫌味な言葉なんて、聞こえていないふりをするんだ。悔しい、本当は悔しい、悔しい。でも、これくらい、なんてこと──!
「オマエら! 今の言葉は聞き捨てならねェんだゾ!!」
え、グリム──!?
私の隣にふよふよ浮いていた筈の相棒は、先程の奴等の背中に向かって吠えていた。ゴウゴウと耳の炎をいつにも増して強く燃やして、まるで私の代わりだとでも言わんばかりに、とても、怒っていた。
「ユウはズルしちまったオレ様と違って、ちゃんと自分で頑張って勉強して、正真正銘の満点を取ったんだ! 毎日、毎日、何にもわからない、知らない世界で、必死に頑張ってることを、オレ様は知ってるんだ!! オレ様の子分を馬鹿にするヤツはッ、誰であろうと許さないんだゾ!!」
今にも青い炎を噴き出さんとする勢いだった。まさか、グリムがそんなことを言ってくれるなんて、思わなかった。でも、嬉しくなってる場合じゃない、まずい! このまま怒り任せに火を吹いて、相手を怪我させるなんてことになったら、本当に今度こそ退学だ! 相棒の大切な夢を、こんなくだらない事で壊させる訳にはいかなかった。
「グリムっ、だめ──!!」
頬いっぱいに炎を溜めたグリムの口を、咄嗟に両手で押さえ込む。相棒の口から漏れ出た炎で、じゅう、と右の手のひらの焼ける感覚がしたけれど、気にしている暇はない。
「なんだ、この狸! クソ生意気に吠えてきやがって、ボロ雑巾どもが一丁前に、腹が立つ」
「一発、格の違いをわからせてやるよ。もちろん、魔法なんて使わねえから安心しな!」
ああ、殴られる。でも避ける余裕はない。瞬間的に分かって、グリムを庇うよう抱き締めて身構える。リーンゴーンとお昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いた、その時。
「"
私のすぐ背後から、凛と響き渡った魔法の詠唱。そして強風を纏った真っ赤な薔薇の花弁が、言葉通りに弾丸となって生徒二人の顔面に連続直撃、吹き飛んだ不良たちは廊下の冷たい床へ背中から勢いよく転んだ。
驚いて目を見開き、振り返る。そこには、ああ、やっぱり、さっき弾けた薔薇のように真っ赤な髪が、目に飛び込んで。
「リドル先輩っ……!」
そのひとは一瞬にこりと目を細めて柔らかに微笑んでくれたけれど、すぐさまその瞳は光を失い、美しいグレーを腐ったケーキでも見てしまったように濁らせて──ニッコリと、妖しく笑った。
「おやおや、すまないね、キミたち。ボクとしたことが"ウッカリ"手が滑ってしまったようだよ。さて……」
リドル先輩はツカツカと私の前へ、転ばされた生徒たちの足元へ歩み寄り、マジカルペンを突き付けた。
「──
今まで聞いたことのないような、まるで死刑を言い放ったハートの女王のような、低く恐ろしい声だった。
余計な手を出してしまった男たちは酷く怯え、ヒュッ、と喉から可笑しな空気の漏れる音を聞いた。ハーツラビュル寮の長が声を荒げるでも顔を赤くするでもなく、静かに、とても静かに怒っている。庇われている筈の私でさえ、少し震えるほど彼の背中は怖かった。当然、その怒りに見下ろされている生徒たちはもっと怖いだろう。
不良生徒二人は、無様に膝をついてでも逃げ出そうと振り返る──が、もう遅かったらしい。
「ああ、大変だ。幼気な一年生たちをこうも怯えさせてしまって、可哀想に。リドルさんでも"ウッカリ"してしまう事があるんですね、驚きました」
彼らの逃げ道を塞ぐように立ち塞がった、スラリと細い二本足。海の底のような深い深い青色の瞳を光らせて、かちゃり、眼鏡のズレを丁寧に直すそのひとは。
「アズール先輩……!?」
ハートの女王様と、深海の魔術師に、逃げ場無く挟まれるだなんて。背筋が凍る、どころではないほどの絶望的な状況。こんな絶対絶命、私でも味わったことはない。
「ちなみに、先程の風の魔法は偶然にも発動練習をしていたものだ。決して、学園内で私闘の為に魔法を使ったものではないよ。そうだね、アズール?」
「ええ、全くその通りですよ、リドルさん。僕ら二年生はあなた方には少々難しい強力な魔法のお勉強もしていますから、こうして次の授業に備えて予習・復習をキッチリしておきませんと……ね?」
アズール先輩は何故か私に向かってニコニコと笑いかけてきたが、絶対嘘だと思った。先輩たちがそんなウッカリする訳ないじゃないですか!
「ボクの"不注意"で酷く怖い思いをさせてしまったようだね。良ければ何かお詫びをしよう、ふむ……」
「でしたら、放課後。攻撃魔法と防衛魔法の練習に、彼らも参加してもらうのはいかがでしょう?」
「ああ、さすがアズール、名案だ。ボクとしても練習相手がいると助かるし、オンボロ寮の監督生よりも遥かに"優秀"らしいキミたちなら、先程の魔法ぐらい不意打ちでなければ余裕だろう?」
「おや、失礼ですが、リドルさん。彼らは僕の顧客候補リストによれば、確か……右の彼が錬金術、飛行術の筆記で共に30点以下。左の彼が、実践魔法と魔法史どちらも20点以下の成績でしたか……うーん、その他もあまり良いとは言えない点数ですね」
「それは、それは。初めての期末テストの結果は散々だったのだね、キミたちもきっと監督生と"同じぐらい"とてもよく頑張ったのだろうに。ああ、可哀想」
「フフフ、本当に。なんと可哀想な一年生たちだ。よろしければ次回のテストで、僕が心血注いで作り上げた虎の巻を貸して差し上げましょうか。ええ、勿論お詫びですから、特別に無料でも構いませんよ。悲しい事に、監督生さんにとっては不要の代物だったみたいですけれど──」
前門の女王様、後門の悪徳商人、ふたつの黒い笑みがニッコリと浮かぶ。
「さあ、どうする?」
「さあ、どうします?」
息ぴったりの二人の問いかけに、とうとう恐怖が限界だったらしい生徒たちは、最初の粗暴さは何処へやら。「ひいい、勘弁してくれ!」「ごめんなさい!!」等と泣き叫びながら、アズール先輩の横を通り過ぎて逃げていった……。
事前に台本でも用意していたのかと思うほど、息の合った流れるような二人の寮長の掛け合いを茫然と見ていた私は、ほわあ、と気の抜けた溜め息を吐き出すしかなかった。なんというか、寮長になるひとってやっぱり色々とすごい、とんでもなく恐ろしい迫力だった。
「ユウ君っ、無事かい!?」
けれど、慌ててこちらを振り返ったリドル先輩は恐ろしい女王様の仮面を何処かへ放り投げ、心配そうな優しい先輩の表情で、私の両肩をがっしり掴んだ。呆けていた私はそこでようやく我に帰った。
「は、はい。お二人のおかげで、なんとか──」
大丈夫です、と言い掛けた途端。
「もごっ、むごむごむごーっ!」
私の腕の中でグリムが急にジタバタと暴れ出したので、私は相棒の口をずっと塞いでいたことを思い出し、慌てて両手を離した。
「ご、ごめんグリム、大丈夫?」
「大丈夫じゃないんだゾ!」
プンスコ怒るグリムを前に、もう一度謝ると何故か「違うんだゾ!!」とまた怒られた。
「リドルっ、アズールっ、ユウの右手を見てやってくれ!」
私の右手──あ、と熱く焼ける痛みを思い出して、咄嗟に右の手のひらを隠そうとしたが、すぐさまリドル先輩の両手で捕獲されて敵わなかった。
「こ、これは、小さい傷だけれど、手のひらの皮膚が焼けてる……!? まさか、さっきの奴らに何か魔法を、」
リドル先輩の言葉に、グリムはふるふると首を振った。そのまん丸の瞳に涙をいっぱい溜めて。
「ち、ちがう、オレ様が、オレ様がカッとなって、アイツらに炎を食らわせてやろうとしたんだゾ。でも、ユウが、無理やり口を塞いで止めたりなんて、するから……! オレ様……っ」
今にも泣き出しそうな相棒を見ていられなくて「このくらい何ともないよ、大丈夫だから」と声を掛ければ、またもや「大丈夫なんかじゃないんだゾ!!」と更に怒られてしまった。
「ユウはすぐ、何でもかんでも大丈夫って言うんだゾ! ほんとは痛くて苦しくて悔しくて、大丈夫なんかじゃないのに、ほんとっ、バカなんだゾ! ユウのバカあ!!」
うわああん、と今度こそ堪え切れずにわんわん泣いてしまったグリム。相棒の両目から溢れる大粒の涙が、ぼたぼた、私の右手の火傷へ降り注いだ。ぬるい滴が傷に染みて痛い。でも、この痛みは相棒の心の痛みだと、思った。
リドル先輩は険しい顔で黙り込んだまま、ポケットから薔薇の刺繍が入った白いハンカチを取り出すと、水の魔法で濡らしてしまう。何をしているのかとびっくりしていたら、その冷たく濡れたハンカチで右手を包まれた。火傷への応急処置だ。
そうこうしている内に、リーンゴーンと今度は本鈴の鐘が鳴ってしまう。
「せ、先輩、授業が、」
私は本当に大丈夫だから、そう言おうとした口はリドル先輩の右手の人差し指で、ふにり、と塞がれた。
「アズール。すまないが、彼女の荷物と1年A組に伝言を頼めるかい」
「ええ、構いませんよ。そこの強情張りな後輩は、少し無理やりにでも休ませた方が良いでしょう。良き対価を期待しておきます」
「ありがとう、考えておくよ」
いつの間にか、床に散らばっていた私の荷物を集めておいてくれたアズール先輩に、一切お礼を言う暇もなく、リドル先輩に左腕をぐいぐいと引っ張られて。私とグリムは強制的に保健室へ連行されるのでした──。
タイミング悪く先生が不在の、誰もいない保健室は酷く静かで寒い。
「そこへ座って待つように」
私を引き摺るように歩いていた廊下では一言も発さなかったリドル先輩が、いちばん近いベッドを指差してそう言った。なんとなく親に叱られた子供のような気持ちで縮こまっている私は、ハイ、と小さく返事をして大人しくベッドの端へ座る。グリムはようやく泣き止んで、鼻をぐすぐすと鳴らしながら、私の頭の上にがっちり張り付いていた。
リドル先輩は古そうな木製の薬品棚の中を探った後、何やら、手のひらサイズの平たい缶の容器を見つけ出した。その缶の中には、何かの塗り薬であろう、淡い草原の色をしたクリームがねっとり詰まっている。先輩は塗り薬片手に私の足元へ跪くと、何も持っていない方の片手を私に向かって差し伸べた。
「さあ、アリス。手をお出し」
その姿はまるで、どこぞのお姫様をエスコートする王子様のようだったから。どきん、と心臓を高鳴らせてしまったことは内緒だ。
私は濡れたハンカチで巻かれた右手を差し出す。リドル先輩は自分のハンカチを雑に近くの椅子へ放ると、缶の中身を少量、私の手のひらへ垂らした。先輩の男性にしては華奢な両手が、ぬるぬるとその淡い緑色を火傷部分中心に塗り広げてくれて。なんか、私ってこんな時でも嫌だな、傷の手当てをしてもらっているだけなのに、彼の手に包み込まれ、その指が火傷の周りをなぞるたび、ど、どきどき、する。
この変な気持ちを少しでも紛らわしたくて、恐る恐る声を掛けた。
「えっと、先輩、これは……?」
「ただのハーブクリームだよ。小さな怪我であれば、擦り傷でも火傷でも何でも塗って数秒ですぐに治せてしまうから、安心して」
私が元居た世界にも様々な種類のハーブクリームはあったけれど、そんなとんでもない万能薬ではなかった筈だ。どちらかと言えば、美容品のイメージが強い。
「材料はカモミール、ラベンダー、ティーツリー、シアバター、ミツロウ、アルラウネの涙。調合する際の注意点は、カモミール等のハーブ類は全て満月の夜に採取したものでなければならないこと、ぐらいかな。比較的簡単に作れる魔法薬だ」
こんなこと知ってて当然、とばかりにスラスラ話す彼の言葉はもはや呪文のようだった。さすがお医者様の息子さんだなあ、なんて頭の片隅で感心する。
「キミたちも近い内に授業で習うだろう。今から材料を覚えておいても損はないよ。……うん、もう大丈夫」
十分にクリームを塗り広げてくれた先輩の手がパッと離れた。いつの間にか熱くてむず痒かった痛みは引いている。塗り薬にしてはとても爽やかで素敵な香りがする薄緑色は、私の皮膚に浸透するようどんどん透明になっていき、やがて、つるんといつも通りの手のひらが現れて。火傷の痕なんて、すっかり消えてしまっていた。
「えっ、嘘、すごい!? ほ、ほんとうに治ってる!」
「うおお、ユウの手ピカピカだ、すげーんだゾ!」
「ふふっ、こんな簡単な魔法薬で奇跡みたいに喜んでくれるのは、キミたちぐらいだよ」
キャッキャとはしゃぐ私たちを先輩はクスクス笑いながら、薬品棚へ手際良く塗り薬を片付けに行った。いえいえ、私にとっては十分過ぎる奇跡です、むしろ怪我をする前よりキレイになっている気がする! すごいな、いつか私にも作れるかなあ。
「ありがとうございます、リドル先輩!」
「治せる怪我で済んで良かったよ。あの時は偶然にも寮長会議から戻る途中でね、アズールがキミたちに気が付いてくれて助かった」
「そうだ、アズール先輩にもちゃんとお礼がしたいです。対価って、いったい何を差し上げたら喜んでくれるんだろう……またオンボロ寮を取られちゃうのは困るなあ……」
私は魔法が使えないから差し出せるものなんて何一つ無いや、と落ち込んでいたら、リドル先輩が「後で一緒に考えようか」と優しさいっぱいに微笑んでくれたので、私は嬉しくなって頷いた。
しかし、一瞬でその整ったお顔から優しさが消える。冷たいグレーの瞳が妖しく輝いた。私を見下ろし「ボクの可愛いアリス」そう呼ぶ声がなんだか妙に恐ろしくて、ぞくり、と背筋が冷える。
「真実を答えておくれ。先程のような輩に絡まれることは、今回が初めてなのかい?」
「そ、れは……っ、」
彼の、様々なハーブの混ざり合った強い香りがする指先で、するり、顎の下を撫でられて。ビクッと肩が震える。
何も言えず涙目になってしまう私に代わって、頭の上のグリムが大きく吠えた。
「ムカつくヤツらはひとりやふたりじゃねえんだゾ!」
「へえ──? 詳しく教えてくれるかい、グリム」
「今回みたいにわざとぶつかって転ばされることも一度や二度じゃないんだゾ。でも、ユウは弱っちい癖に、ノートぐちゃぐちゃにされても、弁当をひっくり返されたりしても、絶対折れなくて、無理やり『大丈夫』って、笑うんだゾ……。ユウが魔法を使えないからって、どいつもこいつも酷いんだゾ。しかも、期末テストの結果が出てからは、もっと陰口とか嫌がらせとか増えた気がするんだゾ。ユウが成績優秀で、いったい何がダメなんだ? 人間って、時々わけわかんないんだゾ……」
「……なるほど、ね」
グリムを見上げていたリドル先輩の厳しい目線が、再び私に向いた。私はつい、視線を窓の外へ逃がしてしまう。
「ユウ君、グリムの言葉は本当?」
「……でも、こんなことは珍しいというか、ほんと、滅多にないことなんですよ。いつもはエースやデュースがそばに居てくれるから、陰口に反論してくれたり、励ましてくれる。最近はサバナクロー寮の親切な狼さんも、ジャックも助けてくれます。私には、グリムもついていますし、だから、」
本当に大丈夫──そう言いかけて、また言えなかった。
何故なら、リドル先輩の腕の中へぎゅっと抱き締められていたから。ベッドの端に座る私を、上から覆い隠すような形で。先輩の首元を飾るリボン結びされたネクタイが、ゼロ距離にある。砂糖菓子のように甘いそのひと自身の匂いがあまりにも近くて、くらくらと気が遠くなりそうだった。
「ずっと、我慢していたんだね。キミはよく頑張っているよ、ユウ君」
あ、だめだ。幼い頃から誰より我慢を続けて、努力を強いられてきたこのひとに、そんな言葉をもらってしまったら、私。──泣いて、しまう。
「もう、大丈夫だなんて、苦しい嘘をつくのはおやめ」
ああ、いやだ、やだ、泣きたくないのに涙が止まらなくて、大好きな人の制服を、濡らしてしまう。
「うっ、ぐすっ、せんぱい、ごめんなさ、」
「キミが謝る必要なんて何処にもないよ。けれど、そうだね。もし万が一、今後も同じようなことがあれば、すぐにボクを頼ってくれるかい」
「っ、でも、」
「今更、何を遠慮することも、恥ずかしがることもないだろう。ボクの方がもっと醜悪な姿を、キミに晒してしまっているのだから。お互い様、という話だよ」
「ッ、りどる、せんぱい……わたしっ、わたし、ほんと、は……!」
ほんとうは、だれかに、心の中のあなたに、ずっと助けを求めていたことを。酷い言動を繰り返す奴らに対して、悔しくて腹が立って堪らなかったことを。それでも必死に我慢して、やり返すことだけはしなかった、小さなプライドを。正直、先輩たちが不良を懲らしめてくれた時、少し心がスッとしてしまったことを。心にどろどろ溜め込んでいた黒いものを、全部、ぜんぶ。吐き出して、しまった──。
私の頭の近くで「はあ」と呆れたような深い溜め息が聞こえた。
「ユウのバカ、やっと素直になったんだゾ。ヤレヤレだ」
「キミの相棒は想像以上の意地っ張りだったらしいね。色々と教えてくれてありがとう、グリム」
先輩に顎の下でも撫でられているのだろうか、グリムがごろごろと喉を鳴らす音が頭上から聞こえる。
私はしばらくの間、翌日に両目の赤みを残してしまうほど、久しぶりに泣きじゃくってしまった。何かのタガが外れてしまったらしく、泣いている最中に先輩と何を話したかも実はボンヤリしていて断片しか覚えていない。だから。
「──やはり、自分のものにはきちんと"名前"をつけるべきだね」
これは彼が本当に呟いた言葉だったのか、それすらわからないほど小さな音の意味が、私にはよく理解出来なかった。
あれからしばらく経ったある日。私は突然、ホリデーから無事に帰って来られたリドル先輩から「ボクのアリスにお土産だよ」と、不思議な贈り物を頂いた。
丁寧に封をされた紙袋から出て来たそれは、真っ赤な薔薇が一輪キラキラと咲いているかのような──万年筆だった。全体は黒色で丸みを帯びたシンプルなデザインだけど、金のクリップに咲く赤薔薇の装飾がひときわ目立っていて、とても綺麗だった。
「わあ、素敵! まるで先輩たちがいつも使っている、マジカルペンみたいですね」
「勿論、そのペンを振ったからといって魔法は使えないけれど、ね?」
「ふふ、わかってますよ。それでも、皆と同じものを手に出来た気がして、嬉しいんです。ありがとうございますっ」
「喜んでもらえたなら良かったよ」
「この薔薇も宝石みたいに綺麗で、なんだか私にはもったいないですね」
「そんなことはないよ、これはキミのために作った薔薇だもの」
──え?
「作った、って、リドル先輩が? この薔薇の万年筆を?」
「ああ、万年筆の方は市販品だよ。元々はボクが実家で使っていた物でね、後からボクの手で薔薇の装飾を加えたんだ。結構、自信作なのだけれど」
ホリデー前に習った錬金術を応用して作ってみた物だと聞いて、私はますます驚いてしまった。錬金術はそもそも鉄やアルミなどを金や銀に変えようとした科学技術である、とは授業で習っていたけど、こんなにも美しい薔薇の形をした宝石が、学生の手で作れてしまうものなのか。私の元居た世界では決して有り得ないような、幼い頃から憧れていたファンタジーの数々を現実で目の当たりにして、もはや感動する。
「すごいです、凄すぎますよ、先輩! そっか、確かにリドル先輩の髪の色みたいでキラキラしてて素敵だと思ったんです。これは一生の宝物にしないといけませんね!」
「フフ、ボクのお古でも良ければ、そうしてくれると嬉しいな。この赤い薔薇は、キミのためのもの、言わばお守りのようなものだから、出来れば肌身離さず持ち歩いてほしい。学園で生活している間は、特に」
……?
「理由はよくわかりませんが、言われなくても、ずっと大切に使わせてもらいますから、安心してください」
「うん、よかった──」
その日から私の制服の胸ポケットには、真っ赤な宝石の薔薇が一輪、毎日生けられるようになった。
そうして、この薔薇の万年筆を貰ったおかげなのだろうか──とても不思議な話だが、先日のように不良生徒から絡まれることがパッタリ無くなったのだ。
陰口も激減したが、完全に言われなくなった訳でもなく、ただ──。
(あの監督生、相変わらず生意気なッ)
(お、おい、やめておけよ、お前。もしローズハート寮長に聞かれたら……)
何故か時折、陰口の中でリドル先輩のお名前が出てくることも、不思議のひとつであった。
まさか、本当にこの胸元を飾る万年筆には、魔除け(?)か何かの効果があるのだろうか。確かに先輩は「お守り」だと言っていたし、この薔薇の装飾もリドル先輩を連想させるものではあるけれど、だからって何故、私が虐められなくなることに繋がるのか……うーん。
「おーいっ、ユウ! 何マヌケな顔でぼけっとしてんだよ」
「ユウ、そろそろ移動しないと間に合わないぞ」
親友たちの声で、はっ、と我に帰る。うわ、もうこんな時間。次は魔法史の授業だから、1分の遅刻も許されない、はやく教室へ向かわないと。
答えのない変なことを深く考えても仕方ない、か。このペンを持っていると、いつも先輩が寄り添ってくれてる気がして、嬉しいから良いや。毎日が平和なら、間違いなくそれが一番だもの!
「あ、待ってよ、エース! デュース〜!」
「こらあっ、オレ様を置いてくんじゃねえんだゾー!」
私とグリムは今日も慌ただしく、賑やかな親友たちを追い掛けるのだった。
「──最近の監督生は日々を平穏無事に過ごせているようで、何よりだ」
「それは当然でしょう。あんなにも、リドルさんの魔力を強く込められた宝石を見てしまったら。まあ、マトモに魔法の使える人間なら、そう軽率に手を出すなんてバカな真似出来ませんよ。……フフッ、あなたがこうも独占欲の強いひとだったとは、意外ですね」
「おや、失礼だね、アズール。ボクは何にも特別なことはしていないよ。自分のものにはきちんと名前を付けて大切に扱うように、と。誰だって"お母様"から習うものだろう──?」
2020.06.20公開