薔薇の王子様と監督生の話
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──不覚だった。
まさか、ボクまで風邪を引いてしまうだなんて。
昨日は副寮長であるトレイが風邪でダウンしてしまって、今日はボクがこうして保健室のベッドを借りる羽目になるとは。日頃から体調管理には気をつけるように、なんて自ら周りへ呼びかけておきながら、寮長がこんなザマでは、寮生たちに示しがつかないじゃないか。
はあ。錬金術の授業を一限無駄にしてしまった上、同じクラスのジェイドに保健室まで付き添わせるという世話までかけさせてしまったり、もう散々だ。
そういえば、実験着のままベッドの中へ潜り込んでしまったな。せめて、白衣ぐらいは脱ぎたいけど、ああ、もう……今更、起き上がるのも、億劫だ……。
熱に浮かされて寝惚けたような思考の中、だるい身体をふんわり包んでくれるベッドの柔らかさと、頭に当てた氷嚢のひんやり冷たい心地良さが相まって。ボクの意識は、あっという間に眠りの底へと落ちていった──。
ああ──なんだか、不思議な夢を見ていた気がする。
夢の中で、どこかの国の女王様になっているボクは、黒い猫を連れた迷子の少女と出会った。しかし、その猫と少女が数々のルール違反を犯すから、怒って怒って、追い掛け回す。でも、いつの間にか、その少女らと仲良くなって。帽子屋やチェシャ猫、三月ウサギにトランプ兵たち、そして黒猫と少女を交え、お茶会をして仲直りする。そんな、不思議で楽しい夢。
とことこ、ぱたぱた。不意に、夢の中にある意識の遠い遠いところから、誰かの足音が聞こえてきた。
「失礼しまーす……」
恐る恐る、と言った様子の小さく弱々しい声。今度はゆっくりと、ぺたん、ぺたん、足音が近付いて来る。
「リドルのヤツ、本当に寝込んじまってるんだゾ! おおい、大丈夫かァ?」
「ちょっと、グリムったら、めっ。静かに。このまま眠らせてあげよう、ね?」
この声は──そうだ、夢の中の黒猫と
「ふなあ、せっかくオレ様とユウが見舞いに来てやったのに……」
「ゆっくり眠れているなら、良かったよ。ツナ缶と飲み物だけ置いて、退散しよっか」
「ちぇ、仕方ないんだゾ」
「いちおう一言だけ、お手紙も置いて行きますね。リドル先輩……」
ああ、いや、この声は、違う──グリムと、監督生?
ひそひそと耳をくすぐる声たちはまるで子守唄のように優しくて、再び眠りの奥に落ちかけそうだ。まだボクの頭の中は半分微睡んでいるけれど、重たい目蓋をなんとか僅かに押し上げる。
「ユウ、くん……?」
ぼやけた視界の向こう、一瞬だけ彼の深く艶やかな黒い髪の色が見えて、しかし、すぐに少女の小さな手でサッと視界を遮られた。
「ごめんなさい先輩、起こしてしまいましたね。でも、もう少しだけ、まだ眠っていてください」
風邪には睡眠がいちばんのお薬ですから、とまた優しい声が降ってきて。彼の、いや、彼女? その細い指先に眉の辺りを撫でられて、目蓋の幕がストンと落ちる。そのまま、ふわりふわり、髪を解かすように撫でられる感覚がして、ああ、心地良い──。
「あのおっかない女王様が、ちっちゃい子供みたいな顔して寝てるんだゾ」
「毎日頑張っているから、お疲れなんだよ。寮長としての仕事が忙しくて自分の時間もなかなか取れないって言ってたし、あんまり休めてもいないんだろうね……それでも、しっかり勉強や部活と両立させて、他寮の後輩まで気にかけてくれて……すごいなあ、リドル先輩は」
「オレ様ほどじゃないけど、まあ、いい子いい子ぐらいはしてやっても良いんだゾ」
ぽむぽむ、と。何やらぷにっとした猫の肉球が、ボクの額を緩く叩いてる感触がする。
「えらいえらい、なんだゾ〜」
「ふふ。風邪、はやく治りますように」
それは泣いてしまいそうなくらい、優しくて温かなおまじないだった。
──ハッ、と慌てて目を覚まして飛び起きた時には、もうそこに黒猫や
代わりに帽子屋、じゃなかった、ハーツラビュルの副寮長であるトレイの姿があった。
どうやら、ボクはほんの少し仮眠するつもりが、結構ぐっすり寝入ってしまっていたらしい。もう放課後だよ、と教えてくれたトレイの言葉通り、窓の外を見れば夕暮れだった。
もしかして、グリムとユウ君がお見舞いに来てくれていた、あの一瞬の光景も夢だったのか? そう不安に思って、きょろきょろと保健室内を見渡してみる。
「……あっ、」
実験用のゴーグルを置いていた、サイドテーブルの上。そこには猫型モンスターを虜にしてやまないツナ缶と、購買でわざわざ購入したのであろうスポーツドリンク、そして可愛らしい桃色のメモ用紙が置かれていた。置き手紙には『いつもお疲れ様です。お大事にしてください』とだけ書かれている。差出人の名前は無くとも、それが監督生の書いた字であることはすぐにわかった。
彼らが来てくれたことは夢でなかった現実に深く安心して、自然と笑みが溢れる。不意に視線を感じてトレイの方を見上げれば、彼は意地の悪い顔でニヤニヤしていて、カッと頬の熱が増した。これは風邪が原因の熱ではないことぐらい、さすがにボクもわかる。
「良い後輩を持ったな、リドル」
「そ……そう、だね」
可愛くて優しい後輩たちには明日必ず、お礼をしよう。
「体の調子はどうだ?」
「今は、だいぶいい……」
あの、温かな手と優しい声たちが、まるで魔法のように頭の痛みや苦しい熱を取り除いてくれたのかもしれない──なんて、つい、夢みたいなことを考えてしまった。
「……くしゅんっ」
まだ、クシャミは止まってくれないけれど。
翌日。親切なオンボロ寮の後輩たちと、あの後美味しいスープを作ってくれたトレイのおかげで、ボクはすっかり元気を取り戻していた。
グリムと監督生に一言お礼をしたくて、朝から1年A組の教室を覗きに行ったが──そこに彼らの姿はなかった。彼らのクラスメイトであるエースやデュースに聞いても、まだ会えていないからわからない、との事。登校中にすれ違うこともなかったのか、遅刻だろうか、珍しい。もしや、また何か面倒事に巻き込まれているんじゃないかと、二人も心配そうだった。
仕方ないので一年生のクラスを後にして、ボクは普段通り授業を受けた。お昼休みにはどこかで見かけることもあるだろう、そう楽観していたが、結局グリムも監督生も見つけられなかった。午後は一緒に、錬金術の選択授業を受けようと誘うつもりだったのだけれど、残念だ。なんだか、酷く寂しい。……アズールでも、誘ってみるとしよう。
午後の選択授業が始まって、クルーウェル先生が入って来られる姿を見て、ボクはハッとした。そうだ。クルーウェル先生は1年A組の担任だから、グリムや監督生にもし何かトラブルがあったなら、きっと知っているはずだろう。
錬金術の授業後、ボクはすかさず、実験室を後にしようとする先生の後ろ姿へ声を掛けた。
「すみません、クルーウェル先生。グリムと監督生のことで、少しお聞きしたいのですが」
「お気に入りのアリスについて、か? 残念ながら、今日は登校していないぞ」
「え?」
「どうやら風邪をひいたらしい。恐らく、原因は昨日の──」
その言葉を聞いた瞬間、頭に冷や水をかけられたような心地がした。クルーウェル先生が何やら言葉を続けていたが、ボクの耳には一切届かなかった。
嗚呼。きっと、原因は昨日の、ボクの見舞いになんて来たせいだ──。
放課後、寮の仕事をしばらくトレイとケイトに任せて、ボクはすぐにオンボロ寮へ向かった。
購買部で思い付く限りの風邪に良さそうな飲み物や果物、魔法薬を購入して、ぱんぱんに膨れた紙袋を抱えて歩く。ほとんど駆けるような早歩きで急げば、すぐにぼろぼろの幽霊屋敷が見えてきた。ギギィと嫌な音を鳴らす門を越えて、劣化した石造りの階段を上がり、建て付けの悪い両扉をコンコンとノックする。
しかし、オンボロ寮の扉を開けてボクを出迎えたのは、グリムでも監督生でもなく──この幽霊屋敷に住み着く、ゴーストだった。扉の隙間から顔を出した、頬のこけた真っ白な顔に思わず「ウワッ」と悲鳴が上がる。
「おやおや、お前さんは。グリ坊とユウちゃんの、先輩君じゃあないか」
「こ……こんにちは。ユウ君が風邪をひいたと聞いて……」
「お見舞いに来てくれたのか、ありがとう」
どうぞ、と扉を大きく開け放って中へ歓迎してくれるゴーストに、ボクは「お邪魔します」と小さく頭を下げて寮内へ足を踏み入れた。
初めて訪れた時に比べれば随分綺麗になった廊下だけど、踏むたびギシギシ音が鳴るのは相変わらずだ。これは学園長に早く直してやるよう、ボクからも釘を刺すべきだね。
「さっきまで、ハートとスペードの坊やたちも来てくれていたんだよ」
間違いなく、エースとデュースのことだろう。彼らも見舞いに来ていたのか。
「ユウちゃんがぐっすり寝てしまっているから、騒がしくしては悪いと、すぐに帰っていったけどね。あの子たちは良い友人や先輩に恵まれているなァ」
楽しくやれているみたいで嬉しいよ、なんて語る痩せたゴーストの横顔は、まるで可愛い我が子たちを思う親のような顔をしていた。とても、素敵な笑顔だった。
談話室を通り過ぎて、二階へ通じる階段を上がり、グリムと監督生が使っている寮室の前へ辿り着いた。ここまで案内してくれたゴーストは、口の前で人差し指を立てて「しーっ」と微笑む。病人が眠っているから静かに頼むよ、そんな意味のジェスチャーだった。
恐る恐る、ドアノブに手をかけた。あまり音を立てないよう、ゆっくりと扉を開ける。
「……失礼するよ」
いちおう小さく声だけは掛けながら、そっと彼らのプライベートな空間へ入り込んだ。
ヒヤリと冷たい空気に歓迎されたその部屋は、せっかく暖炉もあるのに火を灯されてすらいなかった。カーテンも閉め切られて薄暗い部屋の奥、古びた木製ベッドの上に白い布団の小山が出来ている。そろそろと近付いてその中を覗き込めば、頭に氷嚢を当ててぐったり苦しそうに眠る、赤い顔の監督生が居た。彼の傍らにはグリムも、本当の猫のように丸くなって眠っている。寝顔ではあっても、やっとふたりの顔を見られたことに少しだけ安心した。けれど、やはり、罪悪感でちくり胸の奥が痛んだ。
ボクもあまり長居してしまっては悪いかな、見舞いの品を置いたらさっさと帰った方が良いか。そう思いつつも、なんだかこのまま何も出来ず立ち去ってしまうことも申し訳なくて。ボクはベッド横の棚に荷物を置いて、その近くへ置かれた丸椅子に腰掛けた。
「……う、ッ、」
彼の口から微かな唸り声が聞こえて、反射的にビクッと肩が跳ねた。起こしてしまったかと思い、彼の顔を覗き込むも、その目蓋はきっちり閉じられている。眠ってはいるが、その表情は眉間に深いシワを寄せて苦悶を浮かべており、また「うう……」と唸った。この様子は、まさか、魘されている? 悪い夢を、見てしまっているのだろうか。ボクが昨日見た夢はとても楽しいものだったけれど、熱が出た時は悪い夢を見やすいと言うから。
ボクはそっと手を伸ばして、彼が苦しげに首を振るせいでズレた氷嚢を直してやってから、そのまま、彼の汗でしっとり濡れた黒髪に指を滑らせた。夢の中で苦しむ彼に、何か、効果がある自信はなかったけれど。昨日、キミがそうしてくれたように、出来る限り優しく頭を撫でてみる。
「ユウ君。大丈夫だよ、もう怖くない、このボクがそばに居るからね」
いい子いい子、なんて。昨日の彼らの真似をして、どうせ眠っているから聞こえていないことを利用して、少し恥ずかしくも思える言葉をかけた。こんなこと慣れていないから、指先がぎこちなく震えているけども、自ら見ないふりをした。
撫で続けている内に、少しずつ、彼の表情が和らいでいく。眉間のシワが解れ、ほんの少し口元も緩んだように見えた。やっと悪い夢から抜け出せたのだろうか。ほっ、と安心したのも束の間。
ぱちり、と開かれた目蓋。黒曜石のような瞳と目が合って、ボクは飛び退くように手を離した。
「あっ……起こして、しまったかな……」
恐る恐る声を掛けてみるも、彼は何度も瞬きを繰り返していて、まだほとんど夢の中に居るらしかった。
「……薔薇の、王子様?」
だから、ふにゃふにゃとココアに沈めたマシュマロのような蕩けた瞳で、うっとり紡がれたその言葉も、ただの寝言なんだろう。
「さっき……私のこと、たすけて、くれて……ありがとう……」
夢の中の話、だろうか?
いったいどんな夢を見ていたのやら。なんだか、背中がくすぐったくなるような感覚だけれど。悪夢に魘される彼へ、こちらから声を掛けたボクの言葉が届いていたのかもしれない。
そうもお伽話に恋する幼子のような、甘い瞳を向けられては、可愛らしく思えてきてしまう。
「どういたしまして、お姫様」
もう一度、寝惚けた彼の前髪を整えるように撫でてあげる。彼は再びウトウト眠りに落ち──かけて、カッといきなり目を見開いた。熱で火照った頬が、ますます赤みを増していく。驚きでまん丸になった瞳が、今度はハッキリとその目にボクの姿を映した。
「ぁ、え? ゆ、夢じゃ、ない……う、うわあッ!?」
布団を蹴飛ばす勢いで飛び起きた監督生。その勢いで、彼の傍らで寝ていたグリムはごろごろ床に転がって行ったが「ふなァ、うるさいんだゾぉ〜」とムニャムニャ寝言を溢すだけで、起きてくることはなかった。その図太さは一級品だね……。
「り、リドル先輩!? な、なっ、どうして、ここに!」
上半身だけ起こしてオロオロ戸惑っている監督生に、キミが風邪をひいたと聞いてお見舞いへ来たんだよ、と冷静に伝える。
「ごめんね、起こしてしまうつもりはなかったのだけれど。なんだか、魘されているようだったから、つい……」
申し訳なくなって、ふ、と目線を下げた時だった。
きっと熱くて寝苦しかったのだろう、少し大きいサイズらしいパジャマのボタンを上からふたつも開け放していて、その肌蹴た隙間から男のボクには無い──柔らかそうな膨らみが見えて、どきんっ、と心臓が跳ね上がる。オマケに、ちらりと女性らしい桃色の下着までが覗いて──ッ!?
ボクはその視界から逃げるべく咄嗟に立ち上がってしまった。腰掛けていた丸椅子がガタンッとひっくり返る。
「り、リドルせんぱい?」
「ごっ、ごめん!」
「えっと、謝ることなんて、何にも……」
思いっきり顔を背けるボクに不思議そうな声をかける監督生だったけれど、少し経ってから「あ」と何か思い出したような声を上げた。
「こ、こちらこそ、すみません。その、お見苦しいものを、」
「いや、そんなこと、ない、けど」
しばらく、お互いに気まずくて沈黙してしまった。
横目でおずおずと"彼女"の方を覗き見れば、監督生は布団の端を両手で持ち上げて胸元を隠しながら、恥ずかしそうに真っ赤な顔をしていた。
「……くしゅんッ」
急に彼女が小さくクシャミをするから、ハッ、とその柔い身体が風邪に冒されていることを思い出す。それなのに、薄いパジャマしか着ていない状態で、あっ、あんなに、胸元を肌蹴させたりして、悪い子だ。
「こら。駄目じゃないか、温かい格好をしていないと」
自分の羞恥心よりも彼女の身体の方が心配で、ボクは制服のジャケットを脱いで彼女の細い肩に羽織らせた。
「あ、そんな、すみません。……ありがとう、ございます」
「部屋もこんなに冷え切っていては、悪い夢を見て当然だよ」
ボクは彼女に貸したジャケットからマジカルペンを手に取って、その赤い魔法石のついた先を、部屋の暖炉へ向けた。軽く振って見せれば、置きっ放しの薪にボッと火が灯る。
「わあっ、すごい!」
こんな簡単な魔法でも、異世界から迷い込んでしまった彼女には奇跡のように見えるらしい。ちょっとだけ、誇らしい気分になってしまうね。
「これで少しは温まるだろう。あとは、そうだな、食欲はあるかい? お見舞いにリンゴを持ってきたんだ、果物なら食べられるかと思って」
「え──わっ、こ、こんなにたくさん、色々、買ってきてくれたんですか?」
ベッド横の棚の上で放置していた、ぱんぱんに膨らんだ紙袋を見て、彼女は目を丸くして驚いている。
「スポーツドリンクが数本、バナナもあるし、それと、解熱効果のある魔法薬も入っているからね。なかなか苦いけれど、後でちゃんとお飲みよ」
「何から何までご親切に、ありがとうございます。なんだか、申し訳ないぐらいで……くしゅっ」
「ああ、また……。病人は余計なことを気にしないで、素直に先輩を頼ってくれたら良いんだよ」
「……リドルせんぱい、今日はいつにも増して、お優しいですね」
ふにゃ、と嬉しそうに目を細めて頬を緩ませる彼女がやたら愛らしく思えて、胸の奥が、きゅん? なんて妙に甘く高鳴った気がした。何だろう、この感覚。
お言葉に甘えてリンゴを頂きたいです、と小声で遠慮しながらも答えてくれた彼女に、ボクはすぐ頷いて了解した。
「では、キッチンを借りるよ」
お見舞いの紙袋から艶々のリンゴをひとつ手にとって、ボクはまるで遅刻した白ウサギのように早足で、彼女の部屋を飛び出した。
ぱたん、と閉じ切った扉を背に、その場へずるずる座り込む……というか、崩れ落ちて尻餅をつく。部屋の中の彼女には聞こえないよう、どきどき高鳴る心臓が口から溢れ落ちないよう、片手で口元を押さえて「はああ」と深い息を吐き出した。
なんとなく、監督生が"男"として扱われていることに、ずっと違和感を感じてはいたけれど。
ああ、キミは本当に──。
「……迷子の
いつか握り締めた手が思いのほか小さかったことや、咄嗟に近くへ抱き寄せた時あまりの腰の細さで驚いたこと、後ろから抱き着かれた際の背中を包む柔らかな感触などを思い出してしまって、またボッと顔に火でも付いたかのように熱くなってしまった。
「ああ、困ったな……」
どうしたら、良いんだろう。こんな感情、ボクはまだ名前すら知らないというのに。
オンボロ寮のキッチンからお借りした包丁に、マジカルペンをヒョイッと振って魔法をかけた。途端、包丁は意志を持ったかのように手も触れず動き始めて、勝手にショリショリと艶々真っ赤なリンゴの皮を剥いてくれる。あっという間に、見事なクリーム色の姿へ変えてみせた。それを食べ易いようにひとくちサイズで切り分けて、ゴーストが出してくれた器へころころ盛り付けたら、うん、完璧。料理は上手く出来ないけれど、道具へ魔力を付与して自律させるような、こういう実践魔法なら得意分野だ。
さて。いざ、彼女の部屋の前まで戻って来たは良いが、つい足が止まってしまった。監督生が異性であることを確信してしまったせいか、なんだか、部屋に再度入ることすら緊張して胸を高鳴らせてしまうボクがいる。いや、しかし、性別どうこうの前に、彼女はボクの可愛い後輩で、大切な友達だ。女の子だからと変に意識し過ぎてしまっては、失礼だろう。……完全に意識しない、というのは難しいけれど、出来る限り、いつも通り接したいと思う。
コンコン。軽く扉をノックすれば「はあい、どうぞー」と監督生の透き通った声がしっかり聞こえてきた。「失礼するよ」そう先程と同じ言葉を返して、至って平静を装いながら入室する。
先ほど火をつけた暖炉のおかげで、部屋の中は春のように温かい。しかし薄暗さは相変わらずだったので、扉の横にある電気のスイッチを勝手に入れると、すっかり目を覚ました彼女の赤い顔がよく見えた。パジャマのボタンはきっちり締めたようで、ほっと安心する。
「グリムはまだ寝ているの?」
「はい。今日は私のためにいっぱい動いてくれたから、きっと疲れてるんですよ」
彼女の膝の上で、仰向けにお腹を出してスヤスヤ眠り続ける猫型モンスター。というか、こうして監督生に顎の下を撫でられて寝たままゴロゴロ喉を鳴らしている姿は、もう完全にただの猫だった。
「今日のグリムはとても優しくて、少しクシャミしただけで、すぐ心配して飛んで来ては『喉乾いてないか?』とか『なんか食べなきゃ治るモンも治らないゾ!』って、ツナ缶押し付けてきたり……。氷嚢を何度も取り換えたり、こまめに汗を拭いたりもしてくれて。本当にずっと、そばに居てくれたんですよ」
「へえ、あのグリムが、ね……」
普段は暴れん坊でワガママな問題児のイメージが強い彼も、なんだかんだ、ふたりでひとりの相棒を大切にしていることを知ってニヤけてしまう。が、こうも甲斐甲斐しく彼女に世話を焼いている自分を客観視したら、この眠りこける黒猫をあまり笑えないと思った。
ボクはさっきひっくり返してしまった丸椅子を元に戻して、再びそれに腰掛ける。監督生にリンゴを盛った器を手渡そうとして、彼女の膝の上はグリムが占領していて置き場が無いことに気が付いた。ううん、仕方ないね。
「ユウ君、口を開けて」
グリムを撫でることに夢中だった彼女は、ボクの方を向いた途端「へっ」と間の抜けた声をあげて驚いた。それもその筈。ボクがいきなり、フォークに突き刺したひとくちサイズのリンゴを、彼女の口元へ差し出したのだから。
「あ、あの、せんぱい、さすがに自分で食べられま──むぐっ」
「良いから、黙ってお食べ」
拒否しようと開いた彼女の口の中へ、言葉を塞ぐようにリンゴを突っ込んだ。しばらく困った顔で無理やり放られたリンゴを咀嚼していた彼女だったけれど、その内、蜜をたっぷり含んだ甘味と酸味にふにゃりと頬を緩ませる。
「美味しい、です」
「そう、良かった。……もう少し、食べられるかい」
「は、はい」
熱で火照った顔をますます赤くして頷いた彼女に、もう一度ひとくちリンゴを差し出す。今度は自分から、ぱくり、とフォークに食らいついてくれた。
あーん、と大きく口を開けて物を食べさせるなんて、小鳥を餌付けでもするような行為。これは結構、食べさせてあげる方も恥ずかしいものだね。……でも。
「ん、ふふ、リドル先輩に、こうも甘やかしてもらえるなんて。風邪っぴきも、悪くない、かも……」
「まったく、馬鹿をお言いでないよ。これを食べ終わったら、次は苦いお薬が待っているんだからね」
「えーっ、苦いのやだなあ」
熱のせい、だろうか。いつもより甘く蕩けた声で、火照った顔で、普段以上に素直な言葉で、ボクを頼ってくれる彼女が可愛い──なんて。
「せんぱいは、どうして、こんなにも。私に優しくしてくれるんですか?」
リンゴを食む合間に問われた、彼女の純粋な質問で戸惑う。
「何故、って、」
ボクはつい黙り込んでしまい、彼女に差し出すフォークの手も止まる。再び「先輩?」と心配そうな声に呼び掛けられて、渋々口を開いた。
「……たぶん、キミが風邪をひいてしまったのは、ボクのせいだから」
昨日、保健室で寝込んでいたボクを見舞いに来てくれただろう、きっとその時に風邪を移してしまったんじゃないか──と。
抱えていた罪悪感を恐る恐る告白したら、彼女はキョトンと目を丸くして「えっ」と不思議そうに首を傾げた。
「違いますよ。これは私の不注意と言うか、無知が原因と言うか、」
「え?」
「植物園の亜熱帯ゾーン、あるじゃないですか。放課後、明日の授業で必要な薬草を貰いに入ったんです。ただ、あの場所、1日に何度かスコールタイムが設定されているなんてことを、ちっとも知らなくて……」
「まさか、植物園のスプリンクラーの水を、もろに浴びて──?」
「……はい。この有り様です」
ご心配おかけしてごめんなさい、と心底申し訳なさそうに頭を下げる彼女を見て、ドッと肩の重荷が落っこちたように脱力した。
クルーウェル先生が言っていた"風邪をひいた原因"とは、そのことだったのか。ボクのせいではなかった、と。しかし、まあ原因が事前にわかっていたとしても、同じことか。どんな理由の体調不良であっても、結局ボクは彼女が心配でオンボロ寮へ足を運んでいたことだろう。
「……以後、気をつけるように、ね」
「うう、すみません……」
きちんと反省しているなら、まあ、良いか。エースには「また寮長が監督生贔屓してるー!」とか不満げに言われそうだけれども。
改めてフォークに突き刺した最後のひとくちを差し出せば、彼女はまた素直にリンゴを頬張った。これで丸々ひとつ完食だ、随分食欲も回復しているみたいで良かった。
「全部食べられてえらいね、良い子だ」
「も、もう、せんぱいったら、年下扱いし過ぎです……」
ぽんぽんと軽く頭を撫でてやれば、照れ臭そうに赤い頬を両手で覆い隠す仕草を見せる彼女が、それはもう可愛くて可愛くて。ふふ、と思わず弾んだ声で笑ってしまう。
「こうも素直で可愛い後輩はキミぐらいだからね、つい、甘やかしてしまうんだろう」
「そ、そう、ですかね?」
「うん。それにキミだって、ボクにはとても親切にしてくれるじゃないか。昨日お見舞いに来てくれたこと、本当に嬉しかったよ」
頭を撫でていた手をするりと滑らせて、頬を隠す彼女の手に重ねる。熱っぽく潤んだ瞳がボクを見つめるから、また、どきんとした。
「ボクにとって、キミは、特別な──」
自分でもほとんど無意識に、何か口を滑らせかけようとした瞬間。
「ふなあ〜ッ、よく寝たんだゾ!」
彼女の膝の上でウーンと背伸びしている、グリムの大きな声で遮られた。
慌てて彼女に触れていた手を離す。どきどき喧しい心音を隠すように、その手で胸元を押さえた。
ボクはいったい、何を言いかけようとしたのか。自分のことなのに、自分の言動が時々よくわからなくなる。
「おはよう、グリム」
相棒が目を覚ましたことで、彼女の視線はボクから離れて、寝起きの黒い猫に向いた。
「ユウ! 今朝よりはマシな顔してるんだゾ、具合どうだ?」
「グリムのおかげで、少し楽になったよ。それにリドル先輩もお見舞いに来てくれたから」
「ふなッ!?」
まん丸の青い瞳が驚いてボクの方を向く。あからさまに、あの暴君がひとの心配して見舞いに来るなんて信じられない、という顔をしていた。失礼な。
「って、リドル、お前も顔真っ赤なんだゾ? また風邪か?」
「あ、いや、これは──心配ない、よ。ボクはそろそろお暇する。監督生、お大事にね」
ふと部屋の時計を見れば、短い針の先が数字板の5を示していた。
本当は付きっきりで彼女を看病してあげたいところだけど、ボクはもうハーツラビュル寮へ戻らければならない。ハートの女王の法律・第346条"午後5時以降は庭でクロッケーをしてはならない"を破る生徒が居ないか、キッチリ見回っておかないと。いつまでも副寮長たちに任せきりでは悪いからね。
丸椅子から立ち上がって扉へ向かうボクを、監督生が慌てた声で「待ってください」と呼び止める。
「私も今日は、先輩がお見舞いに来てくださって、とっても嬉しかったです。ありがとうございました。……それから、あの、」
何やら、とても不安げな眼差しだった。目線をそわそわ泳がせて、胸の前で両手をもじもじさせている仕草を見て「ああ、なるほど」とすぐに察する。
「ボクは可愛いアリスの秘密を軽々しくひけらかす様なことはしないよ。他の誰にも言わないから、安心おし」
監督生はようやくボクを真っ直ぐに見つめ、ほっと安心したように胸を撫で下ろした。
彼女が性別を偽っている意味は、男子校だから制服も男性用しか無かったとか、女性だとバレて今以上に目立ちたくないとか、そんな簡単な理由かもしれない。ただ、入学式の時には確か、もっと長かったはずの髪をどうして短く切ってしまったのか、そこまでは男のボクに想像することは難しい。だけど、それはきっと、勇気と覚悟のいる行動だったと思うから。
キミの秘密も、本当はか弱いキミ自身も、このボクが守ってあげたい──なんて願っていることは、恥ずかしいから決して口に出さないけれど。
「それじゃあ、また明日。しっかり薬を飲んで、体を温かくして、十分に休むんだよ」
「はい。明日には必ず、先輩に元気いっぱいの笑顔で挨拶しに行きますね」
まだ弱々しいふやけた笑みで手を振る監督生と、オレ様が着いてるから安心するんだゾ! なんて明るく吠えるグリムへ、ニコリ手を振り返して。ボクは彼女の自室を出て行った。
使った皿やフォークなどはこちらで洗っておくよ、と自ら洗い物を預かってくれた親切なゴーストたちにお礼して、またギシギシ古い廊下を鳴らしながらオンボロ寮を後にする。
外へ一歩踏み出した途端、ひんやりと木々を枯らす秋風の歓迎を受けて、ハッと思い出した。
「……あっ」
制服のジャケット、彼女に貸したままだ。すぐ取りに戻ろうかと振り返ったが、やっぱり、やめておいた。
このまま、すっかり明日まで忘れたフリをして、彼女に貸しておこう。少しシワになっても構わない。明日の朝、ジャケットを忘れてしまったからと言えば、またオンボロ寮へ訪れる理由が作れるし、彼女の体調も確認出来る。登校していちばんに彼女へ「おはよう」が言えるのだ。
そう考えるだけで、なんだか堪らなく嬉しい。明日が楽しみになって、胸が弾むようだ。鏡舎へ向かう足取りも軽くなる。不思議と熱に浮かされたような、ふわふわした幸福感で心の中が満たされていた。
この芽生えて間もない甘やかな感情を、まだ何と言葉にしたら良いか、わからないけれど。
「くしゅんッ」
……また風邪をひいてしまわないよう、ボクも今日は特別あったかくして早めに眠るとしよう。
2020.08.09公開