薔薇の王子様と監督生の話
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流星フレンドリー!
ナイトレイブンカレッジの広ーい運動場へ元気いっぱい飛び出して、さくり、さくり、と芝生を鳴らす。私は少しブカブカな運動着を身にまとい、陽光眩しい青空へ向かってウンと背伸びをした。
「はあーっ、良い天気ー!」
本日、晴天なり。
絶好の飛行日和である。
「なーんかさ、今日の監督生、やけにご機嫌じゃね?」
運動着のツナギの上だけ脱いで袖をギュッと腰に巻き付けながら、怪訝な顔で私を見下ろしてくるエース。優等生らしくキッチリ運動着を着こなすデュースも、彼の隣で「確かに」と不思議そうな丸い目をして頷いた。グリムが私の足元で「朝から怖いぐらいご機嫌なんだゾ」と要らぬ報告をして来る。
「え、むしろ何で、みんなはワクワクしてないの?」
私は友人たちを見上げて、ムムッと口を尖らせながら首を傾げた。彼らの反応の方こそ、私から見れば謎である。
だって、これから飛行術の授業があるんだよ。そして、今日からは──!
「ついにホウキで空を飛べるんだよ!」
これまでの体育系の授業は体力育成ばっかり、飛行術も教室にこもりきりの座学中心だったけれど。今日は魔法士の卵である1年A組たちにとって、初めての飛行術の実技授業! ホウキに跨がり、空を飛ぶ訓練が始まるのだ。
元々は剣や魔法のファンタジーと無縁の世界で生きていて、掃除用具や魔法の杖などで空を飛ぶ行為は幻想世界の夢物語だった私にとって、この日が楽しみで仕方なかった。私は炎を作れないし、風も吹かせられないし、水も生み出せないけど。グリムとふたりでひとりの生徒、相棒の後ろに跨って飛んでも良い権利があるはずだ。あの青い空にこの身ひとつで近付けるなんて、鳥と同じ目線に行けるだなんて、いったいどんな感覚だろう。ああ、こんなの、ワクワクするに決まってる!
私は胸の鼓動をどきどき鳴らしながら、そんなことを彼らにめいっぱい話して聞かせた。しばらくの間、揃ってキョトンと目を丸くしていた友人たちだけど、エースは「ほんと素直過ぎて恥ずかしいヤツ」なんて呆れたように苦笑して、デュースは眩しいくらいニカッと笑い返してくれた。
「僕もなんだか凄く楽しみになってきた。一緒に風になろうぜ、監督生!」
「うんっ、良い風吹かしてやろー!」
うおおー! と気合十分に、右の拳を空へ向かって掲げる私とデュース。後ろでエースの「うわ暑苦しい」なんてドン引きした声が聞こえた、ノリが悪いなあ。
「ふふん、オレ様がエースやデュースより高いとこまで、ユウを連れて行ってやるんだゾ!」
足元にいたはずの相棒が、いつの間にかフワフワ宙へ浮いて、ずしっと私の頭の上へのし掛かってきた。
「楽しみにしてろよ、子分!」
「へへっ、よろしくね、グリム親分〜」
──なんて、授業が始まる前までは、3人と1匹でキャッキャはしゃいでいた。
……が。
授業開始数分で、私の顔はまるで世界の終わりを知らされたひとのような──絶望に満ちた顔となっていた事だろう。
「……え? バルガス先生、今なんて、おっしゃいました?」
体育系科目を担当するアシュトン・バルガス先生のお言葉を、私は聞き間違いだと信じたかった。
「ん? どうした監督生、まるでこの世の終わりみたいな顔をして」
「だ、だって、」
「お前は魔法が使えないからな、飛行術の実技授業中はオレの特別メニューによる体力育成を行ってもらう」
な、なんだって──!?
「私っ、皆と同じ授業さえ受けさせてもらえないんですか!?」
「仕方ないだろう。魔法の使えない者にとって、飛行術の実践は危険極まりない。万が一、ホウキから落っこちたらどうする。風の魔法で楽に着地することも、水の魔法で落下の衝撃を抑えることも出来ないだろう。大怪我では、済まないかもしれない」
いつも耳がキーンとするぐらい声の大きいバルガス先生が、優しく声を抑えている。まるで幼子を諭すような言い方だった。
「グリムがお前を乗せて飛んでも安心だ、というレベルに成長するまでの我慢だ。それまでは、ホウキに長時間掴まっていられるように基礎筋力を鍛え、完璧なバランス感覚も養ってもらう。なあに安心しろ、オレの指導にかかればホウキの二人乗りは半年も経たん内に出来る様になるぞ! ……わかったな、監督生」
健康的な白い歯をニッと見せて、筋肉ゴツゴツの大きくて逞しい手が、私の頭をわしわしと撫でる。先生にそう言われてしまったら、黙って頷く他なかった。
バルガス先生からの個人的なお話を終えて、私はとぼとぼ友人たちの元へ戻る。いくら普段より声を抑えてくれていたとは言え、元の声が大き過ぎるバルガス先生のお話は、彼らもほとんど聞こえていたらしい。憐憫の目で私を見ていた。
「ユウ──その、なんていうか、あまり落ち込むなよ。すぐ皆で飛べるように、僕たちがして見せる」
そっ、とデュースの優しい手が、私の右肩に乗せられる。
「そうだぜ、ユウ。俺がパパッと二人乗り出来るようになっちゃって、お前のこと後ろに乗せてやるよ」
ぽんぽん、とエースの力強い手が、私の左肩を叩く。
「オレ様は未来の大魔法士、グリム様だゾ! あっという間にユウなんて乗せられるようになってやるんだゾ!!」
グリムのぷにぷにした肉球が、私の額をべちべち叩いて、励ましてくれた。
誰がいちばん先に二人乗りが出来るようになるか競争だ、なんて笑ってくれる友人たちが心の底から頼もしくて。悲しい気持ちはどこか空高くまで飛んで行ってしまった。
「──ありがとう! 楽しみに、してるね」
それまでは、憧れの空の旅はもう少しだけ我慢だ。
バルガス先生の特別筋トレメニュー、しっかりこなして私自身も鍛えておかなくちゃ!
♢♢♢
あの時は、少し強がって笑い返して見せたりしたけれど。飛行術の授業中はとても、孤独だった。
バルガス先生が私専用に考えて下さった筋トレメニューを、えっほえっほとこなしながら。遠くの方、箒の上で上手くバランスが取れなくて苦戦するグリム、箒にしがみつくような体制でやっと地面から数センチ宙へ浮き上がるエースやデュースを眺めて、微笑ましい気持ちになったりしたけど。
魔法の使える皆を、遠くからひとり羨ましげに見つめる私は、あまりにも惨めだった。自分の生きてきた世界と、彼らの生きる世界の違いを、嫌ってくらいに思い知る。魔法の使えない私は、何者でもない私は、やっぱり、この世界にとって異物なんだと理解する。
(監督生のヤツ、マジでダッセー)
(魔法も使えない癖に、何でまだこの学園に居るんだろうな?)
(異世界から来た不思議チャンだから行き場がないんだってよ、カワイソー)
授業後の教室で、クスクス、ケラケラ、私を冷たく嘲笑う声がまだ耳に残っている。
まあ、陰口言ってたクラスメイトたちはすぐ、元ヤンスイッチが入ったデュースに「あ? 俺のダチがなんだって?」とドスの効いた声で睨まれて、ヒィッとか情けない悲鳴を上げて退散してくれたけども。
その後も友人たちの前ではいつも通りに過ごして、1日の授業を無事に終えた放課後。
私の心は未だ深く暗いところへ沈んだまま、オンボロ寮へ帰る気にもなれず、ひとりで図書館に居残った。なんだか酷く落ち込んでしまって、このまま孤独で居たい気分だった。グリムはそんな私に気を遣ってくれたのか「腹が減ったから先に帰ってるゾ」と私を置いて行ってくれた。
窓の外が橙色に染まり、やがて紫色に変わるまで、適当な本を読み漁る。こういう時、私はこの世界の歴史書やグレートセブンについて書かれた本などをよく手に取る。私から見ればお伽話みたいな物語を読むのは面白いし、知らない歴史を夢中で知ろうとする間は、余計なことを考えなくて済むから良い。だから結構、モーゼズ・トレイン先生による魔法史の授業は好きだ。異世界の生まれには難しい専門用語も多いけれど、その意味を調べるためにまた別の本を探す時間も楽しい。トレイン先生に聞いてみるのもアリかな、真面目に授業を聞く生徒にはとても優しく教えてくれる先生だから。
そうこう長居していたら、あっという間に時間は過ぎる。図書館の司書さんに閉館時間を告げられて、私は慌てて読みかけの本を返却してから、ようやく図書室を後にした。ひとりでゆっくり過ごしたおかげで、暗く落ちてた心の底から何とか這い上がれた気がする。さ、オンボロ寮へ帰ろう。
お腹が空いて今日の夕飯のことを考えながら、図書館を出てメインストリートを歩く。ちょうど部活動が終わるくらいの時間なのだろうか、運動着姿の生徒らも下校する様子を多く見かける。
はやくご飯にしたいな、と健康的な空腹感に少し足を早めた──その時。突然、頭上をビュンッと何かが素早く通り過ぎる音を聞いた。驚いて、薄暗い夕暮れが広がるはずの真上へ、バッと目線を向ける。
「ちょっ──と、レオナさん! 飛ばし過ぎッスよ、危ないなあ!!」
そこには、ホウキに跨って飛んでいる獣人のお兄さんが居た。
あれは──運動着の裾の黄色や、百獣の王を思わせるマーク、そして人間よりも大きな獣の耳を見るに、サバナクロー寮のひとだ。鉄製のフリスビーのような物を抱えて、犬のようで猫にも見える獣人のお兄さんは、また勢いよく運動場の方へ飛んで行く。運動場へ目を凝らすと、先ほどの彼と同じようにホウキで華麗な動きを見せるひとたちが、それはもう大勢居た。
うわあ、凄い。飛行術の、部活動? 何か、競技の練習中かな。誰も彼もが、あんなにビュンビュン飛び回って。校舎の屋根より高い位置で素早く宙返りしたり、足だけホウキに引っ掛けて逆さのままを維持したり、全ての動きがまるで曲芸師だ。何か、魔法でフリスビー? ディスク? みたいな物を取り合っているけど、あれは、いったい何の部活動だろう。炎が鮮やかに舞ったり、水の柱が噴き出したり、それを飛行術で軽やかに避けたりして。楽しそう、だな。彼らにはあんな芸当、出来て当たり前なんだ。……羨ましい──そんなことを考えて、ボンヤリしていたら。
「おや、監督生?」
聞き覚えのある凛とした声に呼ばれて、ハッと振り返る。
「わっ、リドル先輩!」
私と近い目線に、真っ赤な薔薇を思わせるひとの姿があった。しかし、彼のいつもと雰囲気の違う姿に、私は目を丸くする。
先輩が運動着を身にまとう姿は初めて見た。制服とも寮服とも違う、緩やかでラフな格好。普段きっちり隠されている首回りが惜しげもなく晒されて、意外としっかり私より太い首や男性らしさを象徴する喉仏が見えて──何故だか、どきんと心臓が跳ね上がる。直視出来なくなって、思わずそっぽを向いてしまった。
そんな私の不審な行動は、リドル先輩に余計な心配をかけさせてしまったようで。
「ユウ君、大丈夫かい? なんだか、暗い顔をしているように見えたけれど、」
「い、いえ、全然ッ、大丈夫です!」
心配させまいと焦って、視線を彼の整ったお顔へ戻した。途端、ほっと安心したように微笑まれて、また心臓が跳ねた。なんか、お顔熱いや、変なの。
「グリムすら側に居ないなんて珍しい、ひとりきりでどうしたの?」
「私は、少し図書室に居残ってました。まだ全然この世界のことを知りませんから、ちょっとでも勉強しようと思って。先輩は、部活の帰りですか?」
「うん。先ほど終わったばかりでね、その、少し汗臭いだろうか」
「え、そんなことありませんよ。リドル先輩は今日も薔薇のように爽やかな、それでいてカラメルみたいな甘くて、良い匂いがしますよ!」
「……まるでグリムの食事の感想みたいに、恥ずかしいことを言わないでもらえるかな」
事実であって、可笑しなことを言ったつもりはないのだけど。照れたようにほんのり頬を苺色で染める先輩が、可愛い、なんて思ってしまった。どきどき、心音がうるさい。
「そ、そういえば、リドル先輩は、何の部活動に所属なさってるんですか?」
他愛のない会話で、高鳴る心臓と頬の熱を誤魔化そうと試みる。
「あ、ああ──ボクは馬術部に所属しているんだ」
馬術部、ということは先輩って馬にも乗れてしまうのか、すごいなあ。
ぽわんぽわんと頭の中に浮かんだのは、ハートの女王を思わせる白い寮服をまとって黒馬を乗りこなす勇ましい先輩の姿、きっと薔薇の王子様みたいに格好良いんだろうなあ……って、私は何を妄想しているんだろう!? 落ち着かせる筈の心臓はますます高鳴るばかりだ。
ぶんぶんと首を振って、乙女のような妄想を振り払う。先ほどから挙動不審な私を見て、リドル先輩は何だか楽しそうに口元を押さえて笑った。
「暗い顔をしていたと思ったら、ニコニコ笑ったり照れたり。百面相して面白い子だね、キミは」
先輩、初めてお会いした時よりも、たくさん笑ってくれるようになったみたいで、嬉しいな。
彼の笑顔をうっとり見つめていたら「鏡舎まで一緒に帰ろうか」と更に嬉しい提案を受けたので、私は即座に喜んで「はいっ」とお返事した。
ふたりになった帰り道を、ゆっくりのんびり歩いて、穏やかで何でもない会話は続く。
「ユウ君は何か部活動には入らないのかい?」
「私は、うーん、サイエンス部とか軽音部とか、色々魅力的で楽しそうだと思うんですけど、今は授業に着いていくだけで精一杯なので。部活までは、手が回らないですね」
「そう。馬術部を勧めたかったけれど、仕方ないね。学生の本分は勉強だから。でもキミが望んでくれたら、いつでも歓迎するよ」
「ありがとうございます! でも、私、乗馬初心者どころかお馬さんに触ったことすらないんですけど、大丈夫ですか?」
「安心おしよ。このボクが、それはそれは優しく教えてあげよう」
ニコリと微笑みながらも、ねっとり含みのある言い方で。優しくと言いつつ多少は厳しく指導されるのだろう、という事が容易に想像出来たけど。ただ素直に、その言葉は嬉しかった。
「ふふ、良いですね馬術部!」
リドル先輩にご指導頂けるなら、とっても、魅力的だ。今日みたいに、部活がある日は先輩と一緒に帰れるし──
「……魔法が使えなくても、何とかなりそう」
心の中で呟いたはずの言葉は、ぽそりと舌の上を滑っていた。慌てて片手で口を押さえるも、時既に遅し。心配そうに眉尻を下げたリドル先輩のお顔が、俯く私を覗き込む。
「ねえ、監督生? やはり今日のキミはいつもの元気が無いように見えるよ、何か思い悩んでいるのだろう」
大きなグレーの瞳に真っ直ぐじっと見つめられては、うう、と情けなく唸る他ない。
「ボクはキミの先輩なのだから、可愛い後輩の悩みくらい聞いてあげられるよ」
「でも……簡単に解決出来るような話じゃ、ないんです」
「そうだとしても、誰かに話してみたら少し気が楽になるかもしれないだろう?」
歩きながら話している内に、鏡舎の前まで辿り着いてしまった。
ぴたりと足を止めて、不意に空を見上げる。太陽はすっかり沈みきって、もう秋の長い夜が訪れていた。大きくて白いパンケーキみたいなお月様が見える。
リドル先輩とは、ここで一旦お別れ──のはずが。
「オンボロ寮まで送って行くよ」
あまりにも、優しい声だった。え、と思わず驚きの声が溢れる。目線を戻せば、どこか不機嫌そうな彼にまた、じっとり見つめられた。
「だ、大丈夫ですよ、あと少しの距離ぐらい」
「いいや、もう道が暗くて危ないだろう。それに……」
むすりと口を尖らせて眉間にシワを寄せる、彼の表情は。なんだか、失礼かもしれないけど、拗ねた子供のように見えてしまった。
「キミが悩みのひとつも話してくれないから、心配なんだ」
彼は心の底から、私を想って優しい言葉をかけてくれているのに。つい意地っ張りな私は、弱い癖にその弱さを隠そうと必死になって、優しい誰かを頼り切ってしまうのが怖くて、逃げていた。
「ボクは先輩として頼りないだろうか」
でも、そんな悲しそうな顔をされてしまったら、もう逃げられないや。
「……実は、」
ぽつり、ぽつりと、私は震える声を落として、彼に秘めた胸の内を明かした。
ずっと楽しみにしていた飛行術の実技授業に参加できなくて悲しかったとか、まだ未熟でもホウキに跨がり空を飛べる皆が羨ましかったとか。魔法が使えない自分はそもそも周囲からよく思われていなくて悔しい、とか。
きっと、当たり前に魔法が使える彼にとっては、理解さえしてもらえないような、くだらない内容だろう。
「魔法の使えない、何者でもない私は、この学園に居て良いのかなあ、なんて今更思ったりして……」
その答えを、私は知っている癖に。この世界に本当の居場所なんてない、いつか元の世界に帰るべき異物だと、自分がいちばんわかっているのに。
「全く、馬鹿をお言いでないよ」
彼のピシャンと叱るような口調、でも、その表情は優しくて。
「キミは例え魔法が使えなくても、間違いなく"闇の鏡"に入学を認められた生徒のひとりだ。このボクがハーツラビュル寮の長である限り、勝手に退学だなんて許さないよ」
私ハーツラビュル寮の生徒じゃないです、とかウッカリ空気も読まず突っ込んでしまいそうになったけど。
彼は厳しさを装いながら『ここに居て良いんだよ』って、言ってくれてるんだと思う。ああ、そうか、その言葉が、欲しかったんだ、私──。
「ひとには誰しも得意不得意があるものだよ。魔法が使えないのなら、他を高めるしかないだろう。魔法力の関係ない座学や、それこそ運動とか、ね。何者でもないキミは、裏を返せば、何者にだってなれるはずだ」
不意に彼の手が伸びて、その指先が私の胸の中心を示した。
「魔法なんて使えなくても、キミはそこに強い心を持っているだろう。その力で、恐ろしい"真紅の暴君"さえも打ち負かしたんだ。大丈夫。このボクが認めているのだから、もっと自信を持つべきだよ」
「──っ、はい!」
厳格の中に優しさも兼ね備えた女王様のお言葉は、どんな慰めや励ましよりも頼もしかった。もう誰に何と言われたって、負ける気がしない。意地でもこの学園を卒業してやろうとさえ思える。
リドル先輩から、こうも高い評価を頂いていたとは知らなくて嬉しくて、自然とニヤニヤ口元が緩んだ。
「えへへ……ありがとうございます、リドル先輩。すごく、元気出てきました!」
「フフ、良かったよ」
やっと私の表情はマシなものになったのだろう、先輩のお顔も安堵に緩む。
「それにしても、キミも意外と可愛らしい夢を持っていたんだね。空を飛んでみたい、なんて」
「ううっ、子供っぽいとか、思われてます? 私の元居た世界では、本当に夢のような話で……」
「いや、決してキミをからかっているつもりはないんだよ。ただ本当に、愛らしいと思ってね」
そんなこと、片手で口元を押さえてクスクス笑いながら言われても──
「ボクが、キミの夢を叶えてあげる」
──え?
突然、私の目の前に、手袋をしていない素肌の右手が差し出された。その日焼けを知らないような白い手に、私なんかが触れて良いのか迷ってしまう。でも、リドル先輩は柔らかに微笑み、触れることすらも許してくれる。
ああ、なんだか本当に、王子様、みたいだ。
「おいで、ボクのアリス」
迷子の
その妙な呼び方に戸惑うけど、何故かやたら耳馴染みのある愛称に、不思議と胸は高鳴る。
「はい、リドル先輩!」
しかし、手を取らないという選択肢はなかった。
リドル先輩に手を引かれながら、すっかり暗くなった通学路を早歩きして、あっという間にオンボロ寮まで辿り着いた。
ギイギイ嫌な音の鳴る門を越えて、ぼろぼろに所々崩れた石の階段を上がり、扉の僅かな隙間から灯りの溢れる玄関先まで辿り着いてしまえば。あーあ、先輩とふたりきりの楽しい下校時間もここまでか──なんて、急に寂しくなってしまう。
私の夢を叶えてくれる、って、あの先輩の言葉はどういう意味だったんだろう。
「リドル先輩、わざわざ送って頂いてありがとうございました」
名残惜しいけれど、ぱっと繋いでいた手を離して、丁寧に頭を下げた。けど、再び顔を上げた私に返ってきた言葉は「お礼を言うのはまだ早いよ」だった。へ? と間の抜けた声で首を傾げる。
「ところで、オンボロ寮には何か細かい規則や禁止事項など、あったりするのかな」
んん? 先輩の質問の意図がよくわからないけど、特に、ハーツラビュル寮における"ハートの女王の法律"みたいな決まりは無いはずだ。学園長からも、そんな話は聞いた覚えがない。
「うーん、門限は8時とか、寮の壁や柱で爪をとがない、ゴーストさんたちに逆ドッキリを仕掛けない、ツナ缶は1日1つまで、とか……オンボロ寮の規則といえば、まあ、そのくらいですね」
「ほとんど、グリムのせいで出来たルールのように思えたけど……ふうん、なるほど。じゃあ、例えば『寮の敷地内を飛んではいけない』というルールは無いんだね」
「えっ、飛ぶって──」
リドル先輩は玄関先から数歩下がって距離を取ると、運動着の左袖に付けていたマジカルペンを手にした。ひょい、と彼の手で宙へ飛んだペンが、くるん、くるん、闇の中を回る。パシッ、と彼の手に戻ってきたそれは、小さなペンの姿をしていなくて──木製でやたら柄の長い、大きなホウキへと姿を変えていた。そのホウキの全長は、彼の背よりも大きく見える。マジカルペンはその形状を変えられると情報として知っていたけど、まさかペンや杖以外にも変えられるとは知らなかった。意外と自由自在らしい。
そんな如何にも魔法世界らしい光景を見て、ようやく察したというか。夢を叶えるとリドル先輩の発した言葉の意味を、理解した。期待で、興奮で、わくわくと胸の奥が躍るように、どきどき心の音を鳴らし始める。
自身の腰より少し下でフワフワとホウキを浮かせて、彼はそれに慣れた様子で跨った。そうして再び、彼の手が私に向かって差し伸べられる。
「ほら、おいで。キミは空を飛んでみたかったんだろう」
私は跳ねるように地面を蹴って駆け寄り、また彼の手を取った。
「い、良いんですか……!?」
「ふふ、そうもキラキラと期待に満ちた瞳をして、今更なにを言ってるんだい。ボクは二人乗りのテストにおいてもパーフェクト、バルガス先生から満点を頂いてるから、安心おし。さ、後ろへ跨って。しっかりとボクの身体に掴まるんだよ」
「は、はい!」
私は先輩に言われるがまま、恐る恐る、ホウキの柄に跨った。ゆっくり彼の両肩に掴まれば「そこじゃ危ないよ」と注意されてしまったので、戸惑いながらも彼の腰の方へ両手を回して、薄いお腹の前でギュッと両腕を絡める。リドル先輩の背中にぴったりと、自分の胸や腹をくっつけた。途端、ビクッと先輩の肩が跳ねた気がしたけど、指示通りの行動が出来ていたのか何も言われなかった。
(な、なんだろう、この背中に当たる柔らかい感触は。まさか……いや、でも彼は、監督生は男のはず、だよね……?)
「リドル先輩、あの、これで大丈夫でしょうか」
「──あ、ああ、飛行中は絶対に手を離さないように。良いね」
何故か耳を真っ赤な薔薇の花弁のように染めて、こちらを一切振り返ってくれない先輩。不思議に首を傾けなからも、私は「はい」と力強く返事をした。
これからあの星空へ近付けるのかという期待や、リドル先輩の意外と男の子らしく広い背中などに、ああ、色んな意味でたくさんドキドキして、心臓が口から溢れ出そう。私の手も、少し震えている。それはそうだ、これから私にとって未知の体験をするのだから。
「大丈夫だよ、ユウ君。ボクを信じて。キミはただ、その身を預けてくれるだけで良い」
先輩はそう言うと、自分の腹に回された私の手をすりすり撫でてくれた。彼は、私のほんの少しの怯えも察してくれたらしい。
「はい。信じてます、先輩」
「うん、よろしい。──では、行くよ」
リドル先輩は軽く背中を屈めたかと思えば、タンッと地面を強く蹴った。途端、ふっ、と全身に伝わる浮遊感。なんだろ、エレベーターに乗って上がる時の感覚と似ているかもしれない。ふたりを乗せたホウキは水平を保ったまま、ゆっくり、ゆっくりと宙へ上がっていった。私の爪先がみるみる地面を離れていく。恐らく先輩は飛行初心者の私を気遣ってくれているのだろう、とても静かな離陸だった。けれど周りの枯れ葉が、ブワァッと激しく舞い上がっている様を見るに、高度な風の魔法が使われていることを想像した。
やがて魔法のホウキはぐんぐん高度を上げて、オンボロ寮の屋根さえ見下ろせる位置まで来てしまう。なんだか下を見続けているのが怖くなって、顔を上げた私は「わあっ」と感動の声を溢した。
「星空が、きれい……」
見渡す限り無数の小さな光の粒たちが、夜空の真っ黒なカンバスをちかちかと彩り輝いていた。高いところで見る夜空はより美しい、という情報は何処から得たんだっけ。もう忘れてしまったけど、本当の話だとは知らなかった。反対を向けば、こちらには落っこちてきそうなくらい大きな月が見える。なんだか遠くにあるはずのお月様まで、とても近くあるように感じられた。
手を伸ばしたら、空に届いてしまいそう。もちろん、そんなわけないって、頭ではわかっているけど。思わず手を伸ばそうとウッカリ離しかけた右腕は、リドル先輩の手で即座に押さえ付けられた。
「こら、手を離してはいけないと言っただろう」
「あ、ご、ごめんなさい」
「結構高い位置まで上がってしまったけど、その様子なら怖がってはいないようだね。少し、寮の周りを旋回してみようか」
「え──わ、わあっ」
急に、ホウキがぐーんっと前へ前へ進み始めた。今日は初秋らしく、ほのかにヒンヤリとしたそよ風程度しか吹いていないはずなのに、全身が風で包み込まれたような錯覚に陥る。風を感じる、風になった気分とは、こういう事か。自転車ぐらいの緩いスピードだけど、私には十分心地良い速さだった。
「わあ、すごい! あははっ、風、気持ち良いですね、先輩っ!」
「ああ、今日は天気も良いし風も穏やかで、絶好の飛行日和だ」
ぐるーりと、オンボロ寮の周りを上空から旋回するだけでも、優しい風で包まれる感覚に癒されるようだ。
──けど、もう少し高く速く飛んでみたくなって、そのことを恐る恐る伝えてみたら、意外と先輩も快く要望に答えてくれた。勢いを増せば増すほどドンドン楽しくなって、風と混ざり合うような感覚が気持ち良くて、わー! きゃー! なんて興奮しきった声ではしゃいでしまう。
不意にオンボロ寮を見下ろせば、窓からひょっこり顔を覗かせる、小さくて青い炎の揺らめきが見えた。先に寮へ帰っていたグリムが、私の騒ぎ声に気が付いたんだろう。グリムの「おおーい! オレ様抜きでなあに楽しそうなことしてるんだゾ、ユウーッ!?」とプンスコ怒った声が、随分遠くから聞こえてくる。
はしゃぐ私につられたのか、珍しくリドル先輩のテンションも上がっていたようで。
「よし、グリムも見ているから、次は宙返りでもしてみようか」
「え? それは少し怖、ひゃッ、」
あまり難易度の高い飛行は怖いとビビる私を他所に、先輩は勢いよくホウキの高度を上げたかと思えば。次の瞬間、お月様へ向かって垂直にグルンッと一回転! からの急降下!!
「わッ、わああーッ!?」
それはもはや、安全装置の付いてないジェットコースターだった。
ピタッと勢いを残さず空中で静止した後、楽しそうに笑っているリドル先輩の背中にビッタリと張り付いて、私は「ひええ」と情けない震え声で涙目になっていた。
どきどき、なんて可愛いものじゃない、ばくばくと破裂しそうなくらい心臓が大騒ぎしている。
「ちょっ、と、せ、せんぱっ、い! 今のはッ、さすがに怖かったですよ!?」
「ふッ、あははっ、ごめんね。ボクもキミに影響されたかな、柄にもなく子供みたいにはしゃいでしまったよ。まさか、友達とホウキを二人乗りするだけのちょっとしたお遊びが、こんなにも楽しいなんて──」
トモダチ。それは本当にリドル先輩の発した言葉だったのか、つい疑ってしまうほど予想外の言葉だった。
「先輩後輩じゃなくて、友達、ですか」
「え、あッ!?」
その言葉は先輩自身、ほとんど無意識に溢れ出た言葉だったらしい。驚いた声が返ってきて、また、彼の耳がカッと赤く染まる。
じわじわ、ハチミツみたいな甘さのあったかい感情が湧き上がって、私の表情筋はみっともないほどフニャフニャと緩んでいった。えへへ、うふふ、なんて堪えきれない笑い声まで溢れてしまう。
「リドル先輩の、お友達かあ。私、嬉しいです、とっても」
「ほ、本当に?」
「ふふっ、ほんとですよ!」
「えっと、それは……よかった」
心の底から安心した彼の声だけが、私の耳へ届いた。
もっといっぱい友達が欲しかった、お外でたくさん遊んでみたかった、と。いつか、そう泣いていたあなたの、新しいトモダチになれたんだね。何者でもない私に、あなたの
このたまらない喜びだけは伝えたくて、ほっと力を抜いた彼の背中に、無邪気を装ってギューッと強く抱き着いた。そうしたら、また彼の肩がビクーッと大袈裟なほど跳ね上がるものだから、それをさっきの仕返しのようにケラケラ悪戯っぽく笑ってみたりして。
素敵な友達とふたりきり、まるで夢のような秋の夜長を、私はめいっぱい楽しむのだった。
リドル先輩と星空の元で(結構激しい)空中散歩を終えて、なんだか随分と久しぶりな心地で足の裏が地面を踏み締める。少し足元の覚束ない私を、先輩は王子様さながら腰を抱いて支えてくれた。
「先輩、今日は本当に──」
ありがとうございました、そう言葉を紡ぐつもりが。ぐうう、と私の腹の虫が盛大に鳴って遮られた。「あっ」「おや」とふたりの声が重なる。
私ったら、すっかり忘れていたけど、帰り道からずっと空腹状態だったことを思い出した。恥ずかしさで顔の熱くなる私を、リドル先輩は「可愛いね」なんてからかうように笑うものだから、余計に私の体温が上がってしまう。
「もう夕食の時間だったね、ボクもそろそろ寮へ帰るよ」
元の小さなサイズになったマジカルペンを運動着の左袖へ戻して、早々に立ち去ろうとする彼を、私は慌ててその左腕へ抱き着くように引き留めた。
「ま、待ってください! 良かったら、オンボロ寮でお夕飯食べて行きませんか?」
ぽわっと何故か頬を苺色に染めた先輩の口から、え、なんて呆けた声が出た。
「その、今日のお礼ってことで、駄目ですか? 私の悩み事を聞いて励ましてくれたり、私の夢を叶えてくださったお礼には、全然、足りないでしょうけど……」
「特に大したことをしたつもりはないから、気にしないでおくれ。ボクの方こそ、またオンボロ寮にお邪魔してしまうなんて、申し訳ないよ。……良いの、かな?」
「もちろん、良いに決まってるじゃないですか。だって──私とリドル先輩はお友達なんですから、ね!」
仲良しのトモダチに遠慮だなんて、しないでくださいよ。
そう言って、思いっきり笑って見せれば。リドル先輩は一瞬キョトンと驚きに目を丸くした後、すぐにそのグレーの瞳を泣きそうなほど細くして、笑い返してくれた。
「ありがとう。そういうことなら、喜んで招ばれようかな。キミの手料理、優しい味がして好きなんだ」
「ふふ、やった。今夜は先輩のため、腕によりをかけちゃいますよー!」
ああ、これからもずっと、こんな風に隣に並んで笑い合って。もっとたくさん、リドル先輩と友達らしいこと、楽しいことが出来たら良いな──。
2020.08.01公開