薔薇の王子様と監督生の話
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新婚クォーラル!
今朝、妻と喧嘩をした。
きっかけはとても些細なもので、最近ふたりの時間が取れなくて寂しいね、なんて言う他愛無い会話だった筈が。
少し嫌味っぽく「キミはボクより友人たちとの時間を優先してしまうからね」なんて、口を滑らせてしまったのが悪かったんだ。彼女にも火が付いてしまって「あなただって相変わらず幼馴染みにべったりじゃないですか」と、それに反論して「キミこそいい加減ペット離れしたらどうなんだい!?」なんて言ってしまえば「グリムはペットじゃありません! 相棒です!!」と逆に強く反論されて「ボクは相棒以下の存在なのかな、ボクはキミの夫なのだけれどね!?」そう返せば「私だってあなたの妻なのに! もういっそトレイ先輩と結婚した方が良かったんじゃないですか!?」と、はあ、うん、そんな感じで、売り言葉に買い言葉の応酬、ふたりして激しく声を荒げてしまった。
いま振り返ってみると、本当に馬鹿馬鹿しい。まるで子供のようなヤキモチで苛立って、過去から成長できないまま何をしているんだろう、ボクは。きちんと冷静に会話が出来ていれば、喧嘩なんてせず済んだ話なんだ。
こんなこと、ボクたちにとってはウサギが空でも飛ぶくらいに、珍しい出来事だった。喧嘩をした記憶なんて、思い返せば学生時代以来だろうか。……いや、学生の頃も喧嘩と言うよりは、彼女から叱られてばっかりだったような、気がする。
学園という狭い世界の小さな小さな不思議の国で、歪んだ暴君と化していたボクを「そんな
こんなにも、彼女を愛しい気持ちは変わらないのに。喧嘩なんてしたくない、したい夫婦なんて居ない筈なのに。ひとつ屋根の下で共にどれだけの時を暮らそうとも、やはり元々は生まれ育った環境の異なる他人同士、完璧に擦れ違いなど無くせるものではないのだ、と思い知る。
嗚呼、毎日のように喧嘩していた両親を思い出して、ひどく、気分が悪くなった。ボクたちも、あんな、お互いを憎み合いながら、利害の一致だけで夫婦の形を取り続けているような、歪んだ関係に、なってしまうのだろうか。
ふと、彼女が学生時代に口にした、優しい言葉を思い出した。
(ね、リドルさん。ふたりで、いくつかの約束を交わしませんか)
(……約束?)
(はい! 私たちだけの、秘密の
その日はとてもよく晴れていて、絶好のお茶会日和。毎日のように事件だらけだった二年生がもうすぐ終わりを告げる、初夏の頃。
例のプロポーズ大作戦──もとい、花嫁ゴーストによるイデア先輩誘拐事件が、無事ハッピーエンドでめでたし、めでたし──と閉幕してから、数日後のことだった。
数日振りに訪れた、愛しいアリスとふたりきりの時間。薔薇の庭園が一望出来る特等席で、ケイトの淹れてくれたピーチティーを氷魔法で冷やしつつ味わっていたボクは。
「ボクの、理想の結婚観、だって?」
アリスからの唐突が過ぎる質問に、コトンと飲みかけのグラスを置いた。
はい、と小さく頷いた彼女に、ボクは困惑して首を傾げる。オンボロ寮の監督生であるユウ君は、男装している身であることを忘れるくらい、頬をほんのりと桃色に染めた少女の表情で照れていた。ボクの恋人は今日も可愛らしくて、頬が緩む。
この間の事件で、花嫁ゴーストたちの(かなりめちゃくちゃな展開ではあったけど)幸せそうな結婚式を目の当たりにして以来、監督生と仲の良い一年生たちの間で、お互いの恋愛経験や結婚観などを語り合う恋話が流行っているらしい。初々しくて可愛らしいことだ。
「私は、その、リドルさんが初恋なので、あまり語ることがないんですけど、」
ますます照れ臭そうな様子で、えへへ、なんて口元を両手の指先で隠して微笑む彼女。ボクは「ふうん」と側から見たら興味の無さそうな反応をしてしまったけど、内心は嬉しさのあまり心臓がギュウウと締め付けられている思いだった。ちょっと口の端がニヤけたと思う。
「リドルさんの理想を聞いて、少しでも今後の自分に活かせたらいいなあ、と思いまして、」
「キミは時々、少しだけ、意地の悪いところがあるよね」
「えッ、そ、そんなつもりは!?」
「そもそも、学生の本分は勉学だろう? 恋愛なんて正解の存在しないものに微塵も興味を持てないし、結婚なんて考えたこともなかったよ」
しゅん、とわかりやすく肩を窄めて落ち込む彼女に、優しいボクはもう一言付け加えた。
「キミと出会うまでは、ね」
ぽんっと色変え魔法によって一瞬で赤くなった薔薇の如く、真っ赤な顔を見せる彼女。
「みんなボクを怖がるのに、ちっとも臆せず寧ろ懐いてくれるような子は、キミが初めてだった。可愛い後輩のキミは、いつの間にか、僕にとって誰よりも大切で愛しい
こんな願望を抱いたのはキミが初めてなのに、以前にも一度教えただろう、と。ボクはわざとらしいほど妖しい笑みを浮かべて、そう告げた。
彼女は言葉にすらなっていない「ひゃああ」なんて鳴き声をあげて、顔の赤色を必死に両手で覆い隠そうとするけれど。耳まで赤く染まっているから隠し切れていなくて、その愛らしい様にボクはクスクス笑った。
「こんな拙い恋話ですまないね、満足して頂けたかな」
「ううー……い、意地悪なのは、リドルさんの方ですよ……」
「おや、キミの理想は違ったのかい?」
「わ、私の理想の結婚相手だって、リドルさん以外考えられません!」
くわっと吠えるように反論してきた彼女は、赤い顔を隠すことはもう諦めた様子。身体の熱でも冷まそうとするように、放置していた冷たいピーチティーをごくごくと飲み干した。
「でも、そうだね。結婚後の理想なら、あるかな」
二杯目のピーチティーを注いだ後、お茶会のために持参してくれたバタークッキーをかじりながら、今度は彼女が首を傾げた。興味深そうなキラキラした期待の眼差しを向けられている。
「ハートの女王と王様は、夫婦仲がとても良かったらしい。ハートの王様は執務中もずっと女王のそばにいて、陰ながら彼女を支え続けていたそうだ」
「あ、その話、デュースから聞いたことあるかも」
「我が寮では有名な話だからね。何か夫婦円満の秘訣でもあったのか、知りたいものだよ」
「そういえば、ハリネズミの夫婦もフラミンゴの夫婦もすごく仲が良くていいことだ、って、リドルさんこの前話してくれましたね」
「ああ、そんなことも教えたかな。よく覚えていたね」
「ふふっ、覚えてますよー。リドルさんが大好きなお友達の話をしている時って、とっても可愛らしいので」
優しいお顔になるから好きなんです、なんてマシュマロのようにふわふわ微笑む彼女。今度はボクの方が、少し、頬を熱くしてしまった。
「良いですね、いつまでも仲良しの夫婦。確かに憧れちゃいます」
「うん、素敵だ。……あまり、毎日のように喧嘩なんてことは、したくないな」
彼女と、楽しくて幸せな会話の最中なのに、嫌な光景が蘇る。
ボクの両親は、ハートの女王にもハリネズミにもフラミンゴにも程遠く、ひどく、仲の悪い夫婦だった。幼い頃から、母親のヒステリックな声、父親の激しい怒声、近所迷惑になりそうな酷い音を毎晩のように聞かされることが、嫌で、嫌で。息子の教育方針でも揉めていたのか、ボクの名前や成績の話などが罵声と共に飛び交う時は、苦しくて、苦しくて。まるで、首を絞められるような思いだった。
彼女にも以前、ほんの少しだけ、その事をうっかり話してしまった覚えがある。
彼女はしばらく、あまり見ない真顔でグラスの中のピーチティーをくるくる揺らした後、はっと何か「良いことを思い付いた!」という明るい笑顔で、ボクを見つめた。
「ね、リドルさん。ふたりで、いくつかの約束を交わしませんか」
「……約束?」
「はい! 私たちだけの、秘密の
ふたりだけの秘密。なんだか不思議なくらいに、どきどき、そわそわと胸が高鳴る響きだ。
「夫婦円満の秘訣、という確証はありませんけど、私もひとつ良い話を知ってます。私のおじいちゃんとおばあちゃんはとっても仲良し夫婦だったんですけど、ふたりの間でルールを作っていたらしいんです。例えば、日々お互いへの感謝を忘れないように、とか。週に一度は必ずふたりきりの時間を設ける、とか」
「へえ、可愛らしくて素敵なご夫婦だったんだね」
「はい、大好きなふたりでした」
一瞬、まるでもう二度と会えない人を想うように、彼女が悲しそうに眉尻を下げた気がしたけれど、それ以上の話を深く聞けはしなかった。
「だから、もしかしたらハートの女王も、あれだけの法律を全て自らお考えになった方ですし、夫婦生活において何かしらのルールを王様とふたりで決めていたんじゃないかなあ、と思ったんです。ある程度の秩序を夫婦間にも作ることで、不要な喧嘩などを避けてたのかも」
「なるほど、一理あるかもしれないね」
「まあ、ただの想像なんですけど、こういう未来のための準備も、ちょっと楽しそうじゃないですか?」
言葉通り楽しげに、キラキラ瞳の星を輝かせる彼女を見ていたら。心に冷たく刺さるような不安なんて、みるみる温かな気持ちに溶けていった。何より、ボクとの未来を彼女らしく真剣に考えてくれていることが、嬉しかった。
「あっ、でも、あんまり変な内容はやめましょうね。ポットの中で眠りネズミは寝てなくても良いし、なんでもない日のパーティーにマロンタルトを食べたって良いんですから、ね?」
「わ、わかっているよ」
やっぱり彼女は、少しだけ意地の悪い子だ。いつかの暴君に成り果てた自分を思い出し、恥ずかしくなるボクを見つめて、くすくすとからかうように笑ったりするのだから。もう。
確かにボクはハーツラビュル寮の長として、ハートの女王が作った不思議な法律を今も厳格に守り続けている──が。それとこれとは別問題だ。深い愛情を持って彼女を一生離したくないとは思うけれど、自由を奪ってまで彼女を縛り付けたくはない。ボクは、お母様のようには、なりたくないのだから。
でも、ほんの少し彼女に意地悪を仕返したくなったボクは、胸ポケットのマジカルペンを手に取った。ピーチティーのグラスを置いていた紙製のコースター、その真っ白な裏面にサラサラと金色の文字を書き込む。
「じゃあ、まずは第1条」
手渡されたコースターに書かれた文字を見て、照れた彼女の頬がぽっと再び赤色に染まる。
「1日に1度は必ず、相手に愛の言葉を伝えること──」
「えっ、えぇ!? それはちょっと、は、恥ずかしい、かも、」
予想通りの愛らしい反応をくれるアリスの姿に、なんだか得意な気になって「ふふん」と笑った。
「ルーク先輩曰く、大切な人には毎日愛の言葉を捧げなければならないそうだよ。夫婦なら尚更、守るべき大切な
「あのひとの恋愛観はかなり特殊な気がしますけど、うーん……でも確かに、結婚して何年経っても年老いても、毎日好きって口にして想い合える夫婦は、素敵、だな……」
彼女は予想していたよりもすんなりと提案を受け入れて、幸福そうに笑うものだから。ボクまで吊られるように照れてしまった。少しだけ作戦失敗だ。
今度は彼女が、胸ポケットのペンを手に取る。赤い薔薇の宝石を飾られたペンがくるくるとコースターの上を滑り、何か書き込まれてボクの手元へ返ってきた。
どれどれ、と色変え魔法の使えず黒いままの文字を読む。丸っこいそれを見ていたら「ふふっ」なんて思わず声が溢れるくらい、自然と頬がふやけるように笑ってしまった。
「もしも喧嘩をした時には、ふたりでイチゴタルトを作って仲直りする! ──なんて、どうですか?」
ニカッと歯を見せて笑う彼女が、まるで向日葵のように眩しい。
「どんなに仲が良くたって、ずっと一緒にいたら、たまには喧嘩をしてしまう時もあるでしょう。そんな時はすぐに謝って、仲直りできる夫婦になりたいです。あとで喧嘩の内容を振り返ったりして、なんて馬鹿なことで怒ってたんだろうって、笑い合えるふたりになりたい」
ああ、なるほど。ボクの暗い過去を気遣っているというよりは、心からそうありたいという願いだ。彼女らしくて、優しい言葉だった。
「それは──とても、素敵な約束だね」
「ふふ、よかった。他には、どんなルールを加えましょうか」
「そうだね。キミのお爺様とお婆様のルールも、参考にさせてもらおうか。週に1度は必ずふたりきりの時間を作る、というのは良いね」
「大人になったら、今よりもっと忙しくなっちゃうかもしれませんもんね」
「子供が出来たら尚更、ふたりきりなんて難しいだろうから」
「こ、こども……ですか……」
「おや、急に真っ赤な薔薇のような顔をして、ボクのアリスはいったい何を想像したのかな」
「も、もう、あんまりいじめないでくださいっ!?」
あれこれ話している内に、小さなコースターの枠では足りないほどの約束がどんどん増えてしまって。
後日、ボクたちは麓の街で可愛らしい苺柄のノートを買った。そうして改めて、ふたりだけの秘密──夫婦の
あのノートは結婚した今でもちゃんと残っていて。今は、ふたりの寝室に置いてある棚の中で、静かに眠っている。
仕事からの帰り道。ボクは自宅から近い食料雑貨店へ立ち寄って、苺を買った。
懐かしい学生時代の記憶には胸が甘く温まったものの、今も怒っているであろう妻のことを考えたら、家までの道のりがやたら長くて、足取りは重く感じられた。
今日はずっと気持ちが落ち着かなくて、親に叱られた子供のようにバツの悪い気分だった。いつもならお昼休みには必ず、彼女が作ってくれたお弁当の美味しさをスマートフォンから写真付きのメッセージで伝えていたけれど、なんだか気まずくて言葉を送ることが出来なかった。冷たい返事か、無視された場合を怖がってしまったのだ、なんと情けない。夕方になれば彼女の方から毎日欠かさず、メッセージアプリ伝いで夕食のメニューを教えてくれるのだけど、当然それもなかった。
その日の授業を全て終えた後も、ボクはあからさまに元気のない様子だったらしく、普段は手のかかる困った教え子たちから「ローズハート先生、なんか顔色悪いけど大丈夫?」「今にも死にそうな顔されてますよ」なんて珍しく心配されたほどだった。確かに酷く落ち込んではいたけれど、生徒たちの前では隠していたつもりだったのに、子供とは時々鋭いものだ。(いや、もしかしたら隠し切れていなかっただけなのか)
とにかく、いつまでもこんな状態が続くなんて嫌だ。何度も電話やメッセージで謝るべきか考えたが、結局、直接謝った方が良いのでは、なんて思い悩んでこのザマだ。今回の件はボクの余計な一言が原因だった癖に、馬鹿だな。帰宅したら、まず一番に謝ろう。
ボクはそう意を決して、自宅の扉を開けた。ふわ、と家の中からお出汁の甘く美味しそうな香りが漂ってきて、今日の夕食は和食の煮物系か──なんて、呑気に考えている場合じゃない。
「あっ……」
ボクが帰ってきたことに気付いた途端、リビングに居た彼女は椅子をひっくり返しそうな勢いで立ち上がる。ぱたぱたとスリッパの音を鳴らして、慌てた様子で駆け寄ってきた妻の姿に、ほっと安心してしまった。
「おかえりなさい!」
玄関先で、今にも泣き出しそうな、でも嬉しそうな桃薔薇の笑顔が咲いた。
「た、ただいま、」
思わず抱き締めたくなる衝動を抑え、至っていつも通りを装う──って、そうじゃないだろう、まず謝らなくては! すぐさま頭を下げて声を張った。
「今朝は、ごめん!」
「ごめんなさい!」
同時に、謝罪の言葉が重なった。
ふたりとも、キョトンとしながら顔を上げる。しばらく驚いて黙りこくってしまったが、ボクから焦って口を開いた。
「い、いや、ボクが悪かった。最近、少し学園で忙しくしていたせいで、キミと過ごせる時間が減っていたから。キミと今でも楽しく過ごす時間を貰える、エースやデュース、グリムにまで……友人たちと相棒に、その、嫉妬をしてしまった。寂しかった、だけなんだ。本当にごめん」
「そんな。私の方こそ、みっともなく声を荒げたりなんてして、ごめんなさい。トレイ先輩には私も日頃仲良くしてもらっているのに、リドルさんの大切なご友人なのに。でも、最近は頻繁に、お仕事帰りや休日も先輩の元へ会いに行ってらしたし、その理由も、教えてくれないから……ああ、私も嫉妬してたんですね、ごめんなさい……」
どちらも同じような、子供っぽい理由で怒っていたことがわかった。また数秒の沈黙が戻ってくるも、だんだん、笑いが込み上げてきてしまう。堪え切れずにフッと息を溢せば、彼女もくすくす笑い出して。
「お互いにヤキモチ妬いてただけ、だったんですね」
「ボクはどうにも、キミを愛してやまないみたいだ。相変わらずワガママな子供のような男で、すまないね」
「いえ、そんなところも大好きですから。私もまだまだ、大人にはなりきれていませんもの」
「つまり似た者夫婦、ということかな」
あはは、と声を上げて笑ってくれる彼女の姿に、心の底から安堵した。よかった。
「あれ、リドルさん」
ひとしきり笑い合った後、彼女がボクの腕に抱えられている紙袋の存在に気がつく。ああ、少し忘れかけていた。
「なにか、お買い物してきてくれたんですか?」
「これは……うん、苺を買ってきたんだ」
紙袋の中身、まるで宝石のように艶々と輝く赤色を見せる。
「ボクたち夫婦の
なんとも照れ臭くなりながら答えると、彼女も恥ずかしそうに頬を苺色に染めて、それでいてなんだか困ったような苦笑を浮かべていた。
とりあえずリビングへどうぞ、と妻に促されたので、靴を脱いで廊下へ上がる。仕事着のジャケットを脱ぎながらリビングに向かったら、いつもふたりで食事をするテーブルの上には、なんと、キラキラとその赤色を主張する"苺"があった。えっ。
「……実は私も、お夕食の買い出しついでに、苺を買ってしまっていて」
「これは、えーっと、とても豪華なイチゴタルトが出来そうだね?」
「うう、やっぱり一言連絡しておけばよかった……」
でも、リドルさんがまだ怒っているかもしれないと思ったら、気まずくて連絡できなくて──と。申し訳なさそうな赤い顔のまま、もじもじと恥ずかしがる妻が可愛くて、可愛くて。
今度はボクが、思わず大きめの声を上げて笑ってしまった。ああ、本当に、ボクらはそっくりの、似た者夫婦らしいね。
「ボクが変な時間をかけずに、もっと早く謝っていれば良かったんだよ。ごめんね」
「いえっ、そんな!」
「ありがとう、ボクの愛しいアリス。キミもちゃんと、約束を覚えていてくれて嬉しいよ」
「……そもそも、私が言い出したことですもん、覚えてますよ」
ああ、だめだ、恥ずかしがって顔まで背けてしまう彼女があまりにも可愛いから、とうとう我慢の限界だ。
ボクは彼女の買ってくれた苺の隣に紙袋を放ると、空いた両手で愛しいひとの腰を支えて抱き寄せる。驚いてボクを見上げた顔に、すかさず唇を寄せた。唇で額へ、鼻先へ、頬へと触れれば、彼女が「ふふっ」とくすぐったそうに笑うから、また、口付けたくなって、今度は美味しそうな唇を食む。たっぷりと苺より甘い唇を味わった後、ゆっくり顔を離して彼女を見下ろした。ボクを見上げてうっとり瞳を蕩けさせる妻の姿に、堪らなくなってしまう。いっそこのまま、夕食前だけどぺろりと平らげてしまおうか、なんて。
付き合い始めたばかりの彼女は、こんな挨拶程度の戯れでも恥ずかしいと照れていたのに。ボクがあんまりにも頻繁に触れていたせいだろうか、変わったというか、慣れたものだね。だけど、こうして素直に受け入れて、幸福そうな笑顔を浮かべてくれる妻の姿も愛おしい。
「もう、リドルさんったら、そんなにお腹空いてました?」
「うん。ずっと美味しそうな匂いがしているからね」
「じゃあ、お夕食の準備をしましょうか。今夜は肉じゃがですよ」
「キミの故郷の料理だね、煮物は特に好きだから嬉しいよ」
するりと身体を離して、ふたり揃ってキッチンへ向かった。丁寧に手を洗って、皿やコップを用意しながら、少し煮物の味見もさせてもらいつつ、今日1日の学園で起こった出来事を振り返りながら語る。いつの間にか、普段通りの穏やかな会話が出来ていた。
あれ、イチゴタルトを作るよりも先に、すっかり仲直りしてしまったけれど──まあ、良いか。
夫婦喧嘩なんて出来る限りしたくないものだけど、キミとこうして笑い合える思い出が増えるなら、悪くないと思える。でも、やはり気分の良いものではないから、今後も深海で泳ぐウサギを見る程度に控えたいものだ。
「ところで、リドルさん、」
テーブルを陣取る大量の苺をどかして、代わりにほかほかと湯気を立てるお味噌汁を並べながら、不意に何か思い出した様子で彼女が口を開いた。
「最近、頻繁にトレイ先輩の元へ通っている理由は、やっぱり、教えていただけないんですか?」
その不安気な顔を見て、彼女は嫉妬の感情も含みつつ、ボクに隠し事をされていることが心配なんだろう、と察する。妻を不安にさせるくらいなら、無理に隠し続けても仕方ないか。
「……いや、実は、トレイにはケーキの作り方を教わっていたんだ」
「ケーキ、ですか?」
「うん。少し手の込んだ、バラのチョコレートケーキでね、」
いったんスマートフォンを取り出して、保存しておいた画像データを引っ張り出す。艶々と輝くホワイトチョコレートの土台の上に、真っ赤なルビーチョコレートで出来たバラの花を乗せた、優美なケーキの写真。しかし、所々チョコの花弁が欠けていたり剥がれていたりする、まだまだ不格好なそれを渋々、彼女に見せた。
「わあ、すごい! これ、リドルさんが作ってるんですか!?」
キラキラと瞳を輝かせてくれる彼女に少し心が弾んでしまうけれど、それでもコレはトレイが手を加えて多少マシな見栄えになっただけのものだから、ボクとしては全然納得がいっていないケーキだ。
「未だ完璧には程遠い出来栄えだけれど、ね」
「そうなんですか? もう十分なくらい、素敵なのに……」
「本当は、きちんとした完成品を持ってキミに見せたかったけど、この際だから白状してしまうね。キミに、手作りのバラのケーキを贈りたかったんだ」
「え? ……私の、ため?」
困惑する彼女に、ボクはコクリと小さく頷き返した。
「もうすぐ、初めての結婚記念日、だから」
吐き出した言葉は辿々しく小さな声になってしまい、恥ずかしさで熱が上がる。
妻に内緒でこっそり、結婚記念日に贈るケーキの作り方を練習していたら、うっかり喧嘩に発展してしまったなんて。ボクはどうにも隠し事が出来ない、サプライズなんてキザな真似は向いていなかったらしい。
「実は、私も……」
──けれど。
「初めての結婚記念日に、リドルさんに何か、特別な贈り物をしたかったんです」
彼女がボクに続くようにおずおず口を開くものだから、今度はこちらが驚いた。
「まだ、あなたを先輩と呼んで慕っていた学生の頃、綺麗な赤い薔薇の宝石をくれたことがあったでしょう? 私も、あの時のお返しが出来たら、と思って、」
「でも、あれはボクの魔力を込めた特殊な宝石で、キミがひとりで作るにはかなり難しい筈だよ」
「私は魔法が使えませんし、元々の魔力量だって雀の涙すらない程度。だから、エースやデュース、グリムたちに協力してもらっていたんです」
「なるほど、それで最近よく彼らの元へ遊びに行っていたのか」
本当は遊んでいた訳じゃなくて、ボクのために、頑張ってくれていたなんて。ボクたちはどこまでも、考えることや行動までもがお揃いなんだね。
そういうことなら、お互いに邪魔をする訳にはいかないし、怒る理由にもならない。
「当日、楽しみにしているね」
「はい! 私も楽しみです」
来週の予定に胸を躍らせながら、いただきます、と目の前の夕食に手を合わせた。
しかし食事に口を付ける前に、溢れんばかりの想いがボクの口から滑り落ちる。
「──ボクを選んでくれて、この手を取ってくれて、ありがとう。ユウ」
「突然どうしたんですか、結婚記念日はまだ先ですよ?」
「なんでもない日だからこそ、伝えておきたくなったんだよ」
「ふふ、こちらこそ。何者でもない私に、あなたの隣という居場所をくれて、ありがとう。リドルさん」
なんて、お互い幸福に微笑みながら。その日食べた肉じゃがは、いつも以上に温かくて優しい味がした。
ああ、これからも彼女と、美味しくて幸せな思い出をたくさん作っていきたいな──。
2020.07.13公開
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