世話焼き助手とお司書さんの話
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帝國図書館第壱特務司書地味で物静かな元引きこもりの23歳
薬の調合が得意な錬金術師
お人好しで頑張り屋さん
瓶底のような眼鏡をかけている
おっぱいがとても大きい
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駆け落ちた夕暮れ時
「お司書はん、だいじょうぶ……やなさそうやね、うん」
見るからに、今の特務司書の姿は大丈夫ではなかった。司書室から戻ってきた途端、助手の織田作之助が「おかえり」と声を掛けたにも関わらず、俯いて返事もしないで応接用のソファーにぼふんっと勢いよく座った。かと思えば、体育座りで膝に顔を埋めて、以降ぴくりとも動かなくなってしまった。
「……咲枝はん?」
織田はソファーに蹲る司書の元へと近寄って、彼女の目の前にしゃがみ込む。恐る恐る名を呼んでみるも、返事はない。
彼女がここまで凹んでいる原因は、恐らく今から数時間前の出来事のせいであろう、と織田は考えた。
今朝は帝國図書館へ、特務司書の仕事振りを視察にやってきたという、政府役人の男が現れた。中折れの帽子を目深に被り、たっぷりと無精髭を生やした無愛想な男。
(なんや、見るからに嫌ァな感じの、逆さ絵みたいなツラしたオッサンやなー)
司書の助手として、館長やネコと共にその役人を出迎えた織田はついそう思ってしまった。しかし、どんなに嫌な雰囲気の相手だろうと、機嫌を損ねるのはよろしくない。錬金術師の力を持った特務司書は一応、日本国政府に雇われてこの帝國図書館にいる。だから、織田も内心は隠して、なるべく笑顔で愛想よく出迎えたつもりである。
政府の視察は午前中で早々に終わり、これで息苦しい時間も終わる、と思いきや。よろしければ文豪食堂でお食事でも如何ですか? なんて館長の穏やかな社交辞令の誘いを、役人の男は不機嫌に結構だとお断りして、代わりに「司書と館長に話がある」と言って館長室へ二人を連れ込み、助手とネコは廊下へ追い出されてしまった。仕方無しに、織田はネコを抱いて先に司書室へ戻ったのだが──。
それから1時間後、気紛れなネコはいつの間にか何処かへ姿を消して、ひとり退屈に司書の帰りを待っていたら、この通りだ。
「どないしたん、あのオッサンは? 何や嫌なこと言われたんか」
そっと彼女の頭へ手を伸ばし、柔らかな黒髪をよしよし撫でながら問い掛ける。酷く震えた弱々しい声で「帰りました」とだけ聞こえた。
あの男に、何か心無い事でも言われたのだろうか。そう考えただけで、彼女をここまで悲しませた原因かもしれない男へ、胸の奥から沸々と怒りが湧いてくる。が、今は彼女の話を聞いてやるのが先決だろうと、深呼吸で心を落ち着かせる。
「そおか、そりゃ良かったわー。まったく、もー、こんな視察なんてもうこれっきりにしてほしいもんやね、わしも朝から窮屈で堪らんかったわ。あのオッサンいちいち事あるごとに可笑しな文句つけて来て、ほんま腹立つ……」
そこまで言いかけたところで、ひくっ、ぐすっ、と彼女が小さく泣き声を溢している事に気がついた。思わず頭を撫でていた手も止まる。
「ちょ、ぉ、咲枝はん?」
「わたしっ、やっぱり、ひっく、むり、です」
「何が無理なん、あのオッサンに何言われたんや、お司書はん」
「司書、なんて……もう、出来ません……わたしには、やっぱり無理だったんです、よ……愛想もなくて、不気味で、居るだけでっ、人を不快にさせる、わたし、には……う、ううぅっ」
ぐすぐすと涙声にそう溢す彼女の言葉に、ああ、これは相当酷いことを、彼女の崩れかけた脆い心をぐしゃぐしゃに握り潰すようなことを、散々言われたのだろうと察する。
「そんなこと絶対無いわ、あんたが隣に居てくれるだけで幸せになれる男も居るっちゅーのに。咲枝はんは毎日よう頑張っとるやんか、しっかりした立派なお司書はんです。あんな阿呆の戯言なんて、まともに聞いたらあかんよ」
あの逆さ絵野郎、今度会ったらその舌切り落としてやろうか。内心はそんな物騒なことを思いながら、表情と声は出来る限り穏やかに冷静に、また彼女の頭を撫で始めた。
けれど、一度感情のたがが外れてしまうと、自身ではなかなか止められなくなるものだ。司書は幼い子供のように泣きじゃくり、ぽろぽろ吐き出される弱音をもう抑えられない。
「でも、わたしっ、ひっく、もう……やだ、よぉ……ぐすっ……」
彼女は自ら望んで特務司書に就いた訳ではない。実家から政府へ売られるように追い出された先が、この帝國図書館だった。未知の敵と戦う覚悟も、転生された命の責任を持てる自信もなかった。それでも、潜書指示や補修に侵蝕現象の研究、文豪たちの衣食住の管理まで、図書館司書としての業務も合わせて懸命にこなしてきた。助手や皆の手を借りて、必死に心を奮い立たせて頑張っていたのに。彼女の努力も現場での苦労も知らず見ようともしない男の、心無い言葉で簡単に泣き崩れてしまうぐらいには、精神に無理が祟っていたのか。
織田は彼女の頭から肩へ手を移動させて、ぽんぽん、軽く叩いて「そおか」とだけ呟いた。「よう頑張ったなあ」と言うその表情は相変わらず穏やかで、赤い瞳は慈愛に満ちて優しかった。
「……ほんなら、わしといっしょにこんなところから逃げよう、咲枝はん」
へ? と間の抜けた声が彼女の口から漏れて、司書はようやくほんの少し顔を上げてくれた。ずっと顔を膝に埋めていたせいで眼鏡がずれて、晒された目は真っ赤に腫れて、涙でぐちゃぐちゃの顔を、織田は「あーもーせっかくのぺっぴんさんが台無しやんかー」なんて泣き顔すらも愛おしそうに笑った。応接用の机からティッシュをガサガサ何枚かまとめて掴み、邪魔な瓶底眼鏡も外して、彼女の泣き顔をぐしぐし拭ってやる。
「辛かったら逃げ出してもええんやで。こんなお仕事、嫌なら投げ出したって構へんよ」
「逃げる、なんて、どこに、」
「大丈夫。あんたの人生やもん、逃げるも何処へ行くのも、あんたの自由なんやで。なあ、咲枝はん、いっそのこと、わしと駆け落ちでもしますー?」
けらけらと冗談めいた慰めの言葉であったが、これまで自分にはもう逃げ場すら何処にもないと諦めていた彼女には、まるで救いのように思えて。こくり、頷いた。
ん、わかった、と織田もすぐに頷き返して、膝を抱えていた彼女の両手をとり、立ち上がった。
「ほな、行きましょか」
──いったいどこへ行こうと言うのか。
織田は目的地も告げず、司書を図書館の外へ連れ出した。防寒用で支給された黒いロングコートに首を埋め「うわあっ外寒っ!」なんて大袈裟に声を上げる。
司書も図書館を出る前に、特務司書の証である深緑のジャケットを羽織らされ、更には織田が普段腰に巻いている赤い布をマフラーのように首にぐるぐる巻かれている為、随分と暖かそうだ。いつもの伊達眼鏡は司書室に置いてきてしまったが、顔の半分まですっぽり隠せる布のおかげで、幸い泣き顔が周囲にじろじろと見られることもない。
二人はお互いの手を自然に繋いだまま、その足は近場の駅方面へと確実に向かっていた。まさか、本当に何処かへ駆け落ちするつもりなのだろうか、と司書は今更不安になってしまった。
「さくのすけさん、あの……」
もう逃げ出してしまいたい、でもここで逃げたら悔しいような、腹立たしいような、そんな複雑な思いで、彼の名を呼び止めたのは良いものの、それ以上は何の言葉も続けられなかった。逃げたいとも、やっぱり帰ろうとも言えず。それでも、助手は司書の声で振り返ると、いつも通り、へらりと気楽そうに笑った。
「腹へったなあ、もうすっかりお昼の時間過ぎてもうたし」
「え……あ、そう、ですね」
あまりに身も心も疲労していたせいか、時間の感覚どころか空腹感すら忘れていたが、司書は自分が朝から何も食べていなかった事を思い出した。政府の視察があるという緊張と不安で、前日の夕飯さえ普段の半分も食べられずに居たことも。なのに、彼の言葉ひとつにつられて、やっと思い出したように腹の虫がそわそわ疼いた。
「どっかで飯食うて行きますか、咲枝はん何か食べたいもんある?」
司書はしばらく悩んで黙り込んでいると、織田が「特に無いなら、ちょっと連れて行きたいとこあるんやけど」そう言って、彼女の返答も聞かずにまた歩き出した。
駅方面の道からは全くの反対方向へ逸れて、図書館に程近い大通りも離れ、信号のない道路を早歩きに横切って、住宅ばかりの路地を進み……。まだ図書館周辺の地理に慣れていないどころか普段あまり外出もしない司書は、あっという間に帰り道がわからなくなってしまった。しかし、不思議と恐怖や不安はない。彼女の手をしっかりと掴んで離さぬ、大きな彼の手が、それを感じさせなかった。
気が付けば、見知らぬ商店街の真ん中を歩いている。初めて訪れた場所の筈なのに、何故だか懐かしい気持ちになる、そんな古き良き風景にぼんやりしていると。織田が急に足を止めたので、ぽすんっと目の前の彼の背にぶつかった。「わぷっ」なんて驚いて変な声を出してしまったが、織田は気にせず「ここでお昼にしましょかー」とにこにこ微笑みかける。はっ、とすぐ隣の店へ目を向けた。
「……珈琲店?」
彼に連れられてきたそこは、レトロな外観に「西洋珈琲店」と黒木の看板を掲げた、喫茶店のようだった。
「転生されたばっかの頃にひとりでふら〜っと入った店やねんけど、ランチが安くてうまいねん。珈琲もいけるし、居心地もええもんで、結構お世話になっててなー。あ、他の先生たちも何人か気に入って通っとるらしいで、ここ」
今時珍しく全席喫煙オッケイやしな? と付け加え、生前からの愛煙家である織田はにたりと笑った。彼以外にも、煙草を好む転生文豪は多い。いや、殆どがそうだと言っても良い、吸わない文豪の方が指で数えられるだろう。
「よかった〜、まだランチやってはるわ。前から咲枝はんも連れて来たい思うてたんやけど、なかなかええ機会無くてなぁ」
そんなことをぺらぺらと話しながら、織田は慣れた風に店の扉を開ける。カランコロンと古いドアベルの音は早々に遠退いて、看板娘の出迎える声も通り過ぎ、司書が何かを言う間も無く、すぐ店の奥のテーブル席に落ち着いていた。彼女を連れて来たかった、という言葉は本当なのだろう。席に着いた途端、メニューを開いて見せる彼は声だけでわかるほどに上機嫌だ。
「店のお勧めはオムライスやけど、他のもんもうまいで。わしはここのポークソテーが気に入ってんねん。またセット頼もっかなー」
「……これに、します」
「おっ、ほんなら、飲み物は〜」
早々に注文も決まり、水とおしぼりを持ってきてくれた看板娘にそれを伝え終えて、ようやくほっと一息。
首に巻かれた赤い即席マフラーを外すと、外す前よりも強く珈琲豆の良い香りが鼻の奥を擽った。苦い物は得意ではないが、この香りは好きだと、司書の頬がほんの少し緩む。きょろきょろ、周りを見回してみた。深い茶色を基調にした店内。この座り心地がやたらと良い椅子も、机も、古物で統一されている。客層もこの時間にしては多い割に静かだ。ここでは流れている曲すら落ち着いていて、確かに居心地が良い。飲み物一杯で何時間でもゆったり居座ってしまいそうだ。
ふと、彼女の目線は、早速煙草に火をつけている織田へと戻る。
「……こういうとこで、お話書いたりとか、するんですか、せんせい」
「うっ、先生呼びはやめてって、なんや咲枝はんに言われると恥ずかしなるから、こそばいわあ……。話書きに来るっちゅうより、あんま良いネタ思い付かん時の方が多いなあ、行き詰まって逃げ出したくなって、ついふらふら〜っと、な」
「え……」
煙を吐き出しながら頬杖をついて苦笑う織田に、司書は失礼ながら意外だと驚いてしまった。彼にも、思わず何もかも投げて逃げ出したくなる、そんな時があるのかと。
「あっ、今更やけど煙草吸ってて大丈夫?煙たない?」
彼の周囲にもわもわ漂う白い煙を見て、本当に今更だと思いつつ、司書は大丈夫ですと小さく頷いた。
「おおきに。咲枝はんって、今時の子やのに、煙草気にしないんやね。あー、ほら、今って、昔と違って喫煙者にごっつ厳しい風潮なっとるやんか?愛煙家は肩身狭くてしゃあないわー」
「煙草……吸えないですけど、嫌いでは、ないです。わたしの父も、よく、吸っていたので」
「へえ、そうなん?」
吸っていた、という過去形の言葉が何故か気になって、つい。
「……なあ、咲枝はんの、」
親父さんってどんな人なん?
そう聞きかけた言葉は、先に頼んだ飲み物を持ってきた看板娘の「セットのあったかい珈琲と紅茶でございます」やけに明るい声で遮られた。
「あの、さっき……」
「いやいや、なんでもないで」
織田は苦い笑みのままに首を振った。人の過去や家族関係を無闇に詮索するのも良くないことかと思い、しかし彼女は自分の生前すら知っているのに、こちらは彼女の何も知らないのはなんとなく寂しいような気もするのだが、結局聞けなかった。
温かい飲み物で身も心もぽかぽかにしながら待っていると、煙草の火の消えた丁度良いタイミングで、頼んだ料理も運ばれてきた。黄一色の薄焼き卵にオーロラソースをたっぷりかけられたオムライスと、熱々の鉄板に乗せられてじゅうじゅう音を立てるポークソテーが、目の前に並ぶ。途端、司書の目が無邪気な子供のように煌めいて、織田の表情をますます緩くした。
二人はすぐに「いただきます」と声を揃えた。司書は早速スプーンで、焼きたて卵と中身のえびピラフを一緒に掬い上げ、ひとくち。ぽっと頰が赤くなる。目はきゅうと細まった。スプーンの先を咥えたままの口元が綻ぶ。そんな目一杯美味しいを訴える表情が可愛くて堪らなくなったのか、織田は小さく切り分けた肉を黙って彼女の口元に差し出した。彼女は当然戸惑ったが、目の前で肉汁を滴らせる豚肉と、彼のにこにこ笑顔にやられて、それもまたひとくち。再び、幸せそうな美味しい顔になった。
「どや、うまいやろ?」
「……はいっ、おいしいです、とても」
せやろー? なんて自慢げに織田は笑う。こんなうまいポークソテー他じゃ食えへんで? 変に気取ってお高いもん食うより、こういう良心的でうまい店を選んだ方がええ。他にも安くて良い店知っとるから、今度食べ歩きに行こうな。何せわし、庶民派なんで。ケッケッケ! と独特の笑い声と共に彼の講釈を聞きながら、司書はふと何処かで同じような言葉を聞いたような……いや、読んだことのある覚えがして、その理由を思い出すと可笑しくて、声を上げて笑った。
「咲枝はん、やっと笑ってくれたなあ」
良かった、ちょっと安心したわ。なんて言葉通りに彼が心底安堵した顔で微笑むものだから、彼女は笑いながらもまた、泣きそうになった。
店主と看板娘に「ごちそうさまでした」「ごっそさんでした、また来ますー」至福に満たされた腹のお礼を告げて、珈琲店を出た。
外はもう日が傾き始めており、余計に寒さを増したように感じる。店の居心地が良い為に、随分長居をしたようだ。何せ三時のおやつも、珈琲店名物コーヒーゼリーに生クリームをたっぷり乗せて、美味しく頂いてしまった。
司書が唐突に、あっ、と声を上げた。その目線は、珈琲店の丁度向かいの店に真っ直ぐ向いていた。
「本屋さん……」
古き良き商店街に似つかわしい、こじんまりとした書店である。織田はひょいっと司書の顔を前から覗き込んで。
「寄って行きましょか?」
「……はいっ」
今度は自ら率先して前を歩いていく司書。どこか嬉しそうな後ろ姿を、織田はゆっくりと着いて歩き、書店の敷居に足を踏み入れた。彼もこの店に立ち寄るのは初めてだった。
さて、どこに何の本が置いてあるのやら、と店内を軽く見渡して、雑誌コーナーで目が止まる。ハタキを片手に彷徨いている老人男性と目が合った。きっとこの店の主であろうと思い、織田は軽く会釈をする。年老いた店主もそれを返してはくれたのだが、そこに張り付いた笑みがやたら窶れていて、それが嫌に気になった。
司書は近代小説のコーナーの前で、俯いていた。織田が貸した即席のマフラーで顔を埋め、その表情は見えない。
「どないしたん、今度は誰の本をお探しで? わしも一緒に探したる……」
「わすれ、ちゃった」
「……え?」
司書の指先が、ゆっくりと棚を撫でた。その傍らに"作者名お行"との仕切りがあった。だが、その本棚の所々にはぽっかり隙間が空いていて、随分と並んでいる本は少なかった。いや、ここだけではない。詩集、絵本、哲学書や芸術書、歴史書に至るまで。よくよく見渡してみれば、この書店には棚の空きが異常に多過ぎる。
織田はふと、彼女の専属助手として図書館内で本の整理や資料を探していた時も、本棚に不自然な空きが多くあったことを思い出した。その空きに、有碍書より浄化完了した本たちを並べ直す仕事があったことも。
「わたし、前から、読みたかった本が、あったはず、なのに」
忘れてしまった。本の題名も、表紙も、いったい誰の作品を読もうと思っていたのかすら、記憶の中から消えてしまった。
他の客も全く訪れる気配さえなく、品揃えも少ない店内。これは、この書店に限った状況ではないのだろう。"侵蝕者"の手により完全に侵蝕されてしまった本は、それだけが黒く染まり読めなくなるだけではない、人々の記憶からもその存在が失われてしまう。まるで最初から、無かったかのように。消える。当然、本屋に客など来るはずもない。本が売れるわけもない。誰も読む者が居ないのだ。何せ、読もうと思った事すら、やがて忘れるのだ。そしてその内もう忘れた事すら覚えが無くなる。
いやいや、きっとただのド忘れだ、考え過ぎだろう、また思い出した時に探せば良い。そんな慰めさえ彼には言えなかった。思っていた以上に、それは衝撃で悲しかった。虚しかった。嗚呼──こうして、穢された作品は人々の記憶から消えて、自分が血を吐き命を削ってでも書き綴った作品が、忘れられていくのか。いつか作者自身も消えるのか。
「もう、出ようか」
項垂れる彼女の手を引いて、この寂れた書店から連れ出すことしか出来なかった。この場に居る事すら堪えられなかった。
ここ数年で書店の数も随分減ってしまったと、いつだったか館長が悲しげに話していたことを、司書は思い出した。二人が後にした書店がこの商店街から姿を消すのも、時間の問題なのかもしれない。こうした現状を話には聞いていても、実際に見たのは初めてで、まさか自ら体感する事になるとは思わなかった。嗚呼──こんな風に、文学書と共に、彼の生きた証も何もかも、全て、人々から忘れ去られてしまうのか。このまま何もせずに現状を見て見ぬふりしていたら、いつか自分も、彼らを忘れてしまうのだろうか。
司書はそう思うと、心臓が千切れそうな悲痛に襲われた。自分のことを何と罵られた時よりも、悔しくて、苦しくて、泣けない程に辛かった。嫌だ。
「……いやだ」
彼と握り合った手に、きゅ、と力がこもる。織田は彼女の言葉に足を止めて、振り返った。
「咲枝はん」
「いやです、こんなの、わたし、忘れたく、ないです」
せっかく本を読む楽しさを知って、本を通して彼らのことを少しずつ知る事が出来て、嬉しかったのに。まだまだ読みたい作品がたくさんある、彼をもっと知りたいのに。
また、じわりと涙腺が緩むのを感じて、司書はもう泣いてしまいたくないと、顔を上げて必死に涙を引っ込める。ただ黙って自分を見下ろす赤い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「きっと、わたしがひとり、いなくなったところで、他の錬金術師が、補充、されるのでしょう」
この役目を担うべきは何も絶対に自分でなくてもいい筈だ。他にも錬金術を学び扱える者たちは、その数が多いとは言えずとも、いるのだから。彼女以外に"文豪を転生させられる能力"を持った錬金術師も、見つかるだろう。「お前の代わりなどいくらでも利くことを覚えておけ」あの政府役人の男も帰り際そう言っていた。例えここで自分が逃げ出しても、見知らぬどこかの錬金術師が引っ張り出され、特務司書という肩書きを引き継ぐのだ。
「でも、わたし、さくのすけさんのこと」
口を軽く窄めたところで、司書は慌ててうっかり吐き出しそうになった言葉を止めて、飲み込んだ。ぶんぶんと首を振り、改めて口を開く。
「織田作之助さんの、作品が、好きです。もっと、もっと読みたいです。いろんな人に、あなたのこと、知ってもらいたい。忘れないで、ほしい。だから、」
彼の書いた作品を、彼らの築いてきた文学を守りたい。特務司書になって、真にそう思ったのはこの時が初めてであった。
「わたし、逃げません」
強く真っ直ぐの灰の目が、夕焼けの色を浴びて赤くなって、彼を見つめていた。その初めて見る色はとても眩しくて、つい目が細くなる。綺麗だった。
「ほな、帰りましょか。──お司書はん」
「……はい」
ごめんなさい、と彼女は小さく呟いた。何謝ってんの、可笑しな子やなあ、と彼は笑う。
「今日はただ、二人でちょっと近くへお出掛けしただけ、そうやろ? 言わば、デート♡ っちゅうヤツや」
「でっ……!?」
「あれー、ちゃうの? わしは最初っからそのつもりやったけど」
先程までの頼もしい雰囲気が一変、ぽふっと熱くなる頬を隠すように、マフラーの中に額のギリギリまで埋めて俯いてしまった。いつも通り照れ屋な彼女らしい反応に、織田もいつもの独特な笑い声を聞かせた。司書はちらりとマフラーから目元を覗かせて、彼につられるように柔らかく目を細める。
「今日は、……いえ、今日も、ありがとう、ございました」
「いーえいえ、こちらこそ、おおきに、ありがとうな。わしも良い気分転換になったわ」
何より、司書にそこまで自分の作品を想ってもらえていたことを知って、嬉しかった。だが。
「けど、ほんまにええんか」
そう改めて問いかける彼の表情は、いつにもなく真剣だった。
「わしはあんたはんの専属助手や。例え特務司書をやめようとも、何処へ逃げようとも、しつこく着いて回ったるで。小説なんて、どこでも書いていけるからな。忘れ去られんように新しいもん、また書き続けるだけや」
その言葉が本気である事を、燃えるように煌めく赤い瞳と、強く握り締められた手から伝わった。しかし司書は「それは、頼もしい限り、ですね」と笑うだけで、何とも拍子抜けしてしまった。
「なんや、もう平気なん?」
「へいき。図書館、帰ります」
「そおか、ほんならええわ、安心した」
「……もしかしたら、今日の一件で、特務司書……クビにされたかも、しれませんが」
「えっ、いやいやいや、そこは館長はんとネコが何とかしてくれてはるやろ。ああ、でも、勝手に仕事ほっぽって脱走したのはあかんわなあ、うん……ちょおっと、不安なって来た……は、はよ帰ろか!」
司書は青い顔でこくこく必死に頷いて、助手と歩いて来た道をくるりと回れ右をした。
「でも、ほんまに辛くなってどうしようもなくなったら、無理せんでな。お国の為とか、わしらの事とか、何も気にする必要あらへん。あんたの心と体の方が遥かに大事なもんやで」
「うん、わかってます、だいじょうぶです。また辛くなったら、その時は、さくのすけさんと、駆け落ち、します」
「ケッケッケ! ええよ、ええよー。またいっしょにあっちこっちふらふら逃げ回りましょうな。他にも連れてきたい店あるし」
「はい。たのしみに、してます」
そうして二人は未だ互いの手を強く握り合ったまま、帝國図書館へと帰るのだった。少し、急ぎ足で。
「あっ、あの! 新作の方も、期待して待ってますから、せんせい」
帰る途中そんな熱烈なファンのお言葉も頂き、夕暮れにまた独特の笑い声が高く響いていた。
2017.01.03公開
2018.04.01加筆修正