世話焼き助手とお司書さんの話
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帝國図書館第壱特務司書地味で物静かな元引きこもりの23歳
薬の調合が得意な錬金術師
お人好しで頑張り屋さん
瓶底のような眼鏡をかけている
おっぱいがとても大きい
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霜降月
一目惚れだなんて、ありえない。馬鹿げている。彼はきっと何か悪い勘違いをしているのだろう。
だって、初めて彼と出会った時の私は、牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡で目を隠していた。人と関わる事に恐怖して、地味で、愛想もなくて、上手く自己紹介すら出来ない、何年も暗い地下の研究所暮らしをしていた引きこもり。私に惚れるような要素、何処にも無かった筈なのに。それでも彼は、柘榴石の如く美しい目をキラキラ輝かせて、私の専属助手になると言い出した。何故、と問えば、お司書はんの事を気に入ったから、と答える。──意味がわからなかった。更に何故か問えば、一目惚れなんてそんなもんやで、と笑う。ますます理解が出来なくて、愛や恋なんて私には難しくて、でも、わからなくても、私の頬が燃えそうに熱くなったことは事実だった。それはきっかけだった。彼という存在を通して、私の世界が変わる第一歩。
正直なところ、私は文学を守る特務司書だなんて大任、やっていける自信がなかった。恐らく彼も、私の専属助手だなんていつか飽きてしまうだろうと思っていた。でも、1日、1週間、1ヶ月、彼はちっとも飽きる素振りを見せず献身的に私を支え続けてくれた。息つく暇もない侵蝕者との戦い、そして図書館業務も担う忙しない日々の中、私はたくさんの彼を知っていった。
まずは彼の著書を読んだ。私は幼い頃から錬金術や薬学ばかりに没頭して、文学というものにあまり親しみがなかったから。ここから文豪としての彼を知ろうと考えた。初めて読んだ本はやはり代表作の"夫婦善哉"だ。彼の生まれ育った大正時代の大阪を舞台に、事ある毎に喧嘩をしながらも別れず二人で逞しく生きる内縁夫婦の物語。最初から最後まで実に庶民的で、不思議と懐かしさを感じる文章だった。その中でも、度々出て来る食べ物の描写が妙にそそられるものがあって、読んでいてとてもお腹が空いた。そんな感想を素直に伝えたら、彼は腹を抱えて大笑い。ならば丁度良いと、近所の飲み屋へ私を連れ出した。お互い、アルコールはあまり得意じゃないのに。しかし、その店で出された豚の角煮がもう美味しくて美味しくて。じっくり繰り返し煮込まれたであろう、お醤油色した厚切りの塊は味が濃くて、脂身がほろほろと舌の上で蕩けるのだ。私はたぶん数年振りに、頰が落ちそうなくらい笑ったと思う。
彼は同じ味覚の幸福を共有出来ることが余程嬉しかったのだろう。その日から毎週一度は、お気に入りのうまいもん屋へほぼ無理やり私を連れ回すようになった。いや、実際は私も喜んで着いて行ったのだけど。餡蜜だけにこだわった甘味処、終夜営業の立ち食い蕎麦屋、オムライスが自慢の喫茶店など、彼の行きつけは何処も外れがない。これをあんたはんに食べさせてやりたかったんや、と。心底嬉しそうな顔で独特の高笑いを聞かせる彼に、私も物語の"彼女"と同じく胃袋を掴まれてしまったらしい。
このひとは誰も彼もを魅了してしまうひとだと思った。絶世と言っても申し分ないその美貌は勿論、人懐っこい笑顔に軽やかな大阪弁、少しお節介が過ぎるほどの気遣い上手。彼の、まるで宝石のような赤い瞳に熱く見つめられたら、簡単に心奪われることも仕方ない。誰にでも好かれるひと、というのは彼のようなひとを指して言うのだろう。素敵なひと。私とはまるっきり、正反対のひと。周りを明るく照らす彼の笑顔は、私には眩しいくらいだ。でも、そんな太陽のような笑顔を遠く見上げている瞬間が、私は好きだった。その美しい赤色に惹かれて、私は気付けばあっさりと恋に落ちていた。きっと、彼は心の底まで一点の曇りもないのだろう──当時の私は、憧れの気持ちさえ持ってそう思っていたのだ。
初めて読んだ"夫婦善哉"をきっかけに、私はどんどん彼の作品にのめり込んでいた。もはや、ただ純粋に読者として作品を楽しんでいた。その内、彼の生前を知りたくなった。帝國図書館には調べるに十分な資料が残っている。私は更に深く、深く、様々な書物を漁るように読んだ。彼の愛した大阪の土地柄、大正時代という背景、当時のご友人たちから見た彼の印象や、ご結婚なさった女性たちのこと、死因までもを、私は読んだ。そうして、知ってしまった。
──彼は嘘つきだった。あんなにも暖かく晴れ晴れと笑っておきながら、彼の心にはずっと冷たい雨が降っていたのだ。
生前の彼は死ぬまで病に苦しめられていた。転生した今も身体が弱いにも関わらず、文学のため、私のためと無理していたことを知った。遅くまで仕事が長引いて徹夜をしても、そのせいで体調を崩して熱が出てしまっても、潜書先でぼろぼろに精神を耗弱しても、彼は「大丈夫」だと弱々しく笑っていた。尊敬する先生方や、私を心配させまいとしていた。そんな、大丈夫な筈がないのに。下手をしたら、また重い病に侵されてしまうのでは、と私は酷く不安になった。
生前の彼は愛妻家だった。嫉妬に狂うほど愛した妻を病で亡くして、暗い死を考えたこと、後を追うように彼も病で逝ってしまったことを知った。それはあまりにも早過ぎる別れであった。彼自身、当時の記憶がまだぼんやりとしか思い出せていない可能性はある。それでも心の奥底に、愛する人を救えなかった後悔や悲しみが残っているのだろう。私を過保護なくらい大切に扱おうとする理由は、ここにあるのだと思った。彼は未だに、深い罪悪感と孤独の中に取り残されているのだ。
へらへら、と。何も考えていないかのような笑顔で、何処へ居ても明るく響き渡る声で、全部全部覆い隠して誤魔化して、嘘を吐く。身体なんて弱くない、そんな過去の事はもう覚えていない、心配しなくても大丈夫だ、と高笑い。その姿はまるで、笑いながら血を吐いているようだと気が付いた。
私だけは、そんな偽物の笑顔で嘘を吐く彼が好きになれなかった。けれど、嫌いにもなれはしなかった。
彼の生前を知った私はすぐに、研究室へ籠もった。寝る間も惜しんで丸一日。作り上げた物は彼専用に調合した、特別な栄養ドリンク。それを大量生産して彼に押し付けた。あなたは無理をし過ぎている、しっかり休んでほしいけれど、あなたはきっと簡単に休もうとはしないだろうから、せめてものお薬代わりに、と私は言った。押し付けられた大量の瓶を前に、しょんぼり眉を下げる彼。その表情は悔しそうにも悲しそうにも見えて「ありがとう」と笑った。違う、違う、そんな風に笑わないで、お礼が欲しかった訳じゃない。
彼が絶筆寸前まで無茶をして有碍書から帰還した日には、半ば無理やり補修室へ閉じ込めた。そして、私の前で無理に笑わないでほしいと願った。痛い時は痛いと、苦しい時は苦しいと、伝えてほしい。どうか私には、あなたの「大丈夫じゃない」ことを教えてほしい。そう泣いて頼んでも、彼は逆に私を慰めるように「ごめん」と笑うのだった。何も、あなたを困らせて、謝らせたかった訳じゃ、ないのに。
私はもう、例え"誰か"の代わりでも、構わなかった。あなたの向ける愛が勘違いであるならば、ずっと勘違いしたままで良い。あのひとの心の休まる場所でありたい。その雨に冷えた孤独と寄り添える花の一枝になりたい。私はあの人の秋晴れみたいな本当の笑顔が大好きだから。彼の為ならこの身が朽ちても構わないとさえ、考えていた。彼が健康で幸福に生きてくれるのなら、何だってしよう。今度こそ、何処にも逝かせはしない、誰にも奪わせたりしない、病になんて負けるものか。あのひとは私のもの、私だけのものだ。彼の書き遺したとある一節が、私の心に染み込んでいく。これが独占欲というものか。知らなかった。なんて醜い感情だろう、こんなものが愛情の一片だなんて信じたくはない。けれど、その激しい感情はもはや、恋と呼べる代物ではなかった。彼を深く愛してしまっている、何よりの証拠だった。
一目惚れなんて勘違いに過ぎない。こんな私を本当に愛してくれるひとなんていない。今までずっとそう思って生きていたから、だから、彼の直向きな愛の言葉を鵜呑みにしないよう、目を逸らしていたのに。もう私は彼を手放したくないのだと、気付いてしまった時には手遅れだった。とうとう堪え切れなくなって吐き出してしまった、私の愛の言葉。私もあなたのことが好き。大好き。そんな稚拙な告白を、彼は受け入れてくれた。ずっとその言葉が聞きたくて待っていたのだと、本当に嬉しそうに泣き出しそうに笑った。ああ、──私も、あなたのその笑顔が見たかった。
恋仲になってようやく、彼は私に少しずつ甘えてくれるようになった。私の自己満足な好意も無意味ではなかったらしい。頭が痛い時は痛い、心が苦しい時は苦しいと、嘘を吐かずに教えてくれる。相変わらず尊敬する先生方の前ではケラケラ笑って強がっても、私の前ではすっかり弱くなる彼が愛おしくて仕方なかった。疲れた、しんどい、と笑顔なんて見せずに擦り寄ってくる彼を、まるで我が子みたいに抱き締めて甘やかした。可愛い、可愛いなあ。でも、彼が少し拗ねてしまうから、可愛いねと口に出すことはなるべく控えている。
そして去年の初秋、私達は婚約をした。彼が贈ってくれた金色の指輪を、お互いの左手の薬指に飾っている。侵蝕者との戦いに未だ終わりが見えない事を考えて、まずは将来の約束をするという形を取った。が、事実上は既に、ほとんど夫婦のような生活をしていた。寮の狭いワンルームに、ふたりぶんの荷物を詰め込んだ。朝は買ったばかりの目覚まし時計で共に起きて、夜はふたり洗面所に並んで歯を磨いてから眠る。「なあ、」と呼び掛けられたら「はい」とお醤油を取って渡すような。いつの間にか、彼とふたりの生活が当たり前になっていた。特務司書に就任する以前では考えられないほど、心安らかで幸せな毎日だった。
しかし、私はとっても欲張りだ。自分でも知らなかったけれど、彼に対する欲だけは何処までも際限を知らず溢れてくる。まだ足りない。まだ欲しいものがある。いつまでも内縁のままでは嫌だから。
私は今日、彼と夫婦になる。
さて、まずは朝ご飯を作ろうかな。今日は午前休みをもらってるから、のんびり支度が出来る。とは言え、一日のスケジュールはなかなか忙しい。午前中に大切な用事を済ませておきたいし、午後からは図書館中が大賑わいのお祭り騒ぎになるだろう。何せ今日は"特別な日"であるから。スーツとドレスの準備は万端。後は、私達のお腹をきちんと満たしておかなくちゃ。
白米とお味噌汁を温め直して、おかずはどうしよう。昨夜のそぼろが余っているから、玉子に混ぜて焼いちゃおうか。作り置きしていたおかずもいくつかあるし、どれを出そうかな。頭の中でくるくるとメニューを考えながら、私は冷蔵庫を開けた。
そこにぺたんぺたんと裸足で床を鳴らす音がして、振り返る。まだぼんやり眠たそうな赤色と目が合って、私はくすりと微笑みかけた。目覚まし時計が鳴るよりも前に起きるなんて、珍しいなあ。
「おはよう、作さん」
彼は一瞬、面食らった顔をしたが「ふあい、おはよーさん」と、欠伸混じりにふやけた笑みを返してくれた。私のそばまで歩み寄ってきたかと思えば、背後から緩く抱き締められる。そうしてまるで、大きな猫が匂い付けするみたいに私の首元へ頬擦りをしてくるのだ。甘えてくれる彼は可愛いが、寝ている間に少し伸びたお髭がちくりと擦れた。
「やだ、ちくちく、するー。おひげ、ちゃんと剃ってきて」
擽ったくて抵抗する私を、彼は楽しそうに高笑い。私も嫌がる素ぶりを見せながら、つられるように笑っていた。鼻の下のお髭が少し伸びて、自慢の長髪も寝癖でぼさぼさな、ちょっぴり男前度が下がった彼を知っているのは、きっと私だけ。変な優越感、可笑しな自慢だけれど、それが嬉しいなんて感じていた。
彼は私を渋々その両腕から解放すると「ほな、美男子になってくるわー」なんてケラケラ笑いながら、洗面所へ消えていった。私は朝食作りに戻る。
ぽってりと分厚い玉子焼きが綺麗に焼けた頃。きちんとお手入れを済ませてきた彼が「咲ちゃーん」と猫撫で声を出して、また抱き着いてきた。もう頬擦りされてもちくちくしない。彼の頻繁なスキンシップにはすっかり慣れてしまって驚きはしないけど、愛おしくなる気持ちは毎朝変わらないものだなあ。
「ちょうど、よかった。朝ごはん、出来たよ」
「どおりで、ええにおいやわあ。わしにも手伝えることある?」
「じゃあ、お茶、出してほしいな。今日はね、そぼろ入りの玉子焼きと、きんぴらごぼうと、ひじきの煮物と、館長さんから貰ったお漬物とー、あと、なめこのお味噌汁」
「お、やった。わし、咲ちゃんの作ってくれるお味噌汁すき」
「ふふ、知ってる」
「さっすが、わしの自慢の嫁はんですねえ。けっけっけ、なんやええなあ、この感じ。めっちゃ幸せやわー、おおきにね」
出来上がった朝食をふたりで並べていたら、突然彼が改まってお礼なんて言うものだから、今度は私が面食らってしまう。
「えっと、急にどうしたの?」
「へへ。まるで新婚さんみたいやなあ思うて、嬉しくて」
「……もう。まだ、寝惚けてる」
私はわざと左手を口元へ添えて、くすくす笑う。私の左手薬指に光る金色を彼は見ただろう、ようやく夢から覚めたようにハッと表情を引き締めた。そうやった、と息を溢す。
「ああ、今日──婚姻届、出しに行くんやった、ね」
「まさか、忘れてた?」
「いやいや、そういう訳ちゃうけど、なんやろ、幸せ過ぎてあんまり実感沸かへんのかも」
照れ臭そうにそっぽを向いて、がしがしと雑に自分の頭を掻く彼。ああ、せっかく整えた三つ編みが少し解けてしまう。私は手を伸ばして、乱れた彼の髪を撫でた。
「作ちゃんったら」
霜降月の始まりである今日は、二年前、私が帝國図書館の特務司書に就任した日だ。それはつまり、あなたと初めて出会った記念日でもあって。ふたりにとって大切なこの日を"結婚記念日にしよう"と言い出したのは、あなたでしょう?
──なんて、彼の頬をツンツン悪戯に突く私も、なんだか熱に浮かされたような幸福感で昨日からずっとふわふわしている。
嗚呼。私、今日から本当に、この人の妻になるんだ。お嫁さんなんだ。実感は、あるような、ないような。ただ、泣いてしまいそうなくらい、嬉しいことは確かだった。
「わたし、ね。今日からお名前、変わるんですよ。織田咲枝、です」
「あらま、これはこれは、可愛らしいお名前やわあ」
「でしょう、わたしもお気に入り」
「わしも織田作之助言うんですわ、お揃いですねえ」
「お揃いやねえ」
彼の独特な高笑いと、私の小さく弾んだ笑い声が重なる。不意に美男子のお顔が近付いたかと思えば、一瞬、唇も重なった。
「これからも、よろしゅうな」
とても間近で愛おしそうに目を細める彼。私だけを見つめてくれる赤色は、初めて心奪われた時と変わらず美しい。私はたった一言「はい」とだけ返事をした。
今はふたりきりのひと時だ。別に誰が見ている訳でもないのに、お互いなんだか変に気恥ずかしくなってしまって、ぴったり密着していた身体を慌てて離した。頬が熱い。彼の頬も赤い。新婚さんって、こんなにどきどきしてしまうものなのかしら。
準備の整った食卓についたら、ふたり揃って「いただきます」と手を合わせる。ずずりと啜った今日のお味噌汁も、幸せでいっぱいの味がした。
2018.11.01 公開