金木犀の惚れ薬
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帝國図書館第壱特務司書地味で物静かな元引きこもりの23歳
薬の調合が得意な錬金術師
お人好しで頑張り屋さん
瓶底のような眼鏡をかけている
おっぱいがとても大きい
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秋が過ぎ去って行くのは早い。
黄色い花びらが机の下にぽつりぽつりと散らばっていた事に気が付いて、私は一行も進まぬ原稿用紙の上から万年筆を退かした。図書館の中庭で立派に咲いていた金木犀が懐かしくあり愛おしくもなって、そっと一枝持ち帰り机の片隅に活けて置いたのだが、それは一週間と持たなかった。匂いの消えた花びらを片している自分の、なんと物悲しいことか。夕暮れに降り出した雨は、未だ止む気配を見せない。
窓を少し開けて愛用の煙草に火をつけた。卓上電灯の弱い明かりしかない薄暗がりの部屋でぽっと橙色が燃える。再びこの世に転生した今も、生前と変わらない一服を味わえることは心から感謝したい。よくぞ生き残ってくれていたものだ。煙草を片手に何十枚か書き上げた用紙をぱらぱら捲って軽く見直してみるが、これもまた、人知れず没になるだろう。どこへ売り出すわけでもない、自費出版するつもりもない、殆ど自身が満足する為だけの趣味も同然に書いている話なのだが、何度書いても私は私の納得出来る話が書けないのだ。これに関してだけは、どうしても。
私はもうすぐこの世へ転生して一年を迎える。それは私を起こしてくれた彼女と出会った祝いの、一周年でもある。いつか必ず彼女の話を書こうと心に決めたのも、恐らく一年前のその日であっただろう。
素材さえ揃えばどんな病も治す万能薬すら作れるという錬金術師──文豪を転生させる特別な力を持ったアルケミスト──題材とするにはあまりに面白い、だからこそ苦戦していた。小説の中で綴る嘘よりも、現実で起こる本当の方が不可思議かつ愉快な出来事ばかり。彼女という人物像を私の書く物語に登場人物として落とし込む事も考えた。口数少なく無愛想だがその実とてもお人好しで周囲の人間に都合良く利用されてしまう女と、そんな女を見捨てられずに一生かけて尽くしてしまう嫉妬深い男の話。ここは男女の性別を入れ替えても面白いかもしれない。などと空想してみるが、それは彼女がモデルになっているだけであって、彼女自身とは全くの別人になってしまう。
私は、彼女という人間をこの手で書き残したい。私の名が文豪の一人として未だ生き残っているように、いつまでも彼女の名を残しておきたいのだ。一週間も耐えられず散ってしまうような、金木犀の一枝で終わらせてしまいたくはない。
全く、想えば想うほどに難しいものだ。吸殻の溜まった灰皿にまた吸殻を増やして、私は二本目に火をつけた。もういちど万年筆を握る。洋墨を滑らせる先は原稿用紙ではなく、もうあと数日分書いたら埋まり切ってしまう茶色表紙の日記帳だ。とりあえず今日の出来事でも書き留めておくとしよう。
空が灰色に曇り始めた昼過ぎ。
そういえば、彼女は今朝から妙にそわそわとして落ち着きがなかったように思う。何か思い悩んでいる様子でもあった。仕事にもあまり集中出来ていないようで、執務机の前で書類に向かっている間も私の方をちらちらと盗み見る視線を感じていたし、不意に声を掛けられたが「ごめんなさい、呼んでみた、だけ」と聞きたいことがあるけれど聞けないような素振りを見せていた。
きっと彼女は疲れているのだろう。去年に比べれば随分人員は増えて職場環境全体が良くなり、特務司書としての彼女の負担も大きく減ったとは言え、侵蝕者との戦いは終わりが見えない。先日から新たに見つかった白い本の調査任務も始まって忙しい身だ。ここは専属助手らしく、そして婚約者としても彼女を労ろう。
「おっしょはん、ちょっと休憩しましょか。そろそろおやつの時間やで、お茶も冷めてもうたやろ、あったかいの淹れてくるわ。ついでに食堂から何かうまいもん貰って──」
確か、昼食の時に若き女料理長が今日はおやつにアップルパイを焼くと言っていたか──読みかけの本に栞を挟んで長椅子から立ち上がった私と、同時に彼女もすぐさま立ち上がる。何故か慌てた様子で待ってほしいと止められた。
「今日は、わたしが、淹れます」
彼女があまりに大袈裟なほど決死の面持ちだった為、わかりましたと言う他ない。私は再びふかふかの長椅子に座り直した。やはり今日の彼女は何か変だ。いや、時折彼女は通販で取り寄せた高級菓子が届いた日など、とても喜んで自ら三時のお茶を淹れてくれることも多いのだが。茶を淹れると言った筈の彼女は司書室を出て数歩先の給湯室ではなく、司書室と繋がる自身の研究室へ早足に籠ってしまった。私はしばらくその場でひとりきり残された。
もう二十分ぐらい、彼女の消えていった研究室の扉を大人しく見つめ続けている。再び扉が開いたかと思えば、まず鼻奥まで通り抜けて行く香気に驚いた。果実の、恐らく林檎だろうか、甘酸っぱい匂いが部屋に充満する。案の定、彼女の持つ木製の盆には氷細工のように冷えたコップがふたつ並び、淡い金色がたっぷり注がれていた。
「昨日、けんちゃんにりんご、たくさん貰ったから」
試しにジュースを作ってみたのだと言う。ああ、それなら昨日は私も童話作家の宮沢賢治先生から林檎をいくつか頂いた。この間の休み、高村光太郎先生や新美南吉君らと林檎狩りへ出掛けて大収穫だったらしい。出勤前、朝食代わりに丸々ひとつ齧ってきたが、蜜をたっぷり溜め込んでいてとてもうまかった。それをジュースにしたとあれば、必ずうまいに違いない。
「おやつは、甘さ控えめ、バニラクッキー、です」
「なんやぁ、今日は先におやつの準備もしてくれてたんやね、おおきに」
彼女は黒縁眼鏡の奥で柔らかに微笑み、りんごジュースと小皿に乗せたクッキーを応接用の長机に並べた。机を挟んで向かいのひとり掛けではなく、もう何も言わなくとも、長椅子に座る私の隣へぴったり寄り添って腰を下ろす彼女が可愛い。
いただきます、と声を揃える。コップを手に取れば中の小さな氷たちがカラカラと音を鳴らした。早速ひとくち含んだ果汁たっぷりのジュースは、私の想像を遥かに超えてうまい。少し蜂蜜も入っているのだろうか、自然で優しい甘さに心癒されるようだ。そんな身も心も緩み切った私の様子を、彼女は熱心に見つめている。
「……おいしい?」
「うん、ほっとする味やねえ」
続いて、恐らくこちらも彼女の手作りであろう、ほんのりバニラ香るクッキーをさっくりと齧る。嗚呼、口の中でほろほろ簡単に崩れ溶けていった。
「うんうん、クッキーもうまいよお」
「よかった」
「咲ちゃんもわしばっか見てへんと食べや。ま、この美男子に見惚れる気持ちもわかるけどな?」
「ふふっ、はい」
彼女も私と同じようにジュースを飲んでから、クッキーをさくさくと頬張った。途端、幸せいっぱいのふやけた顔になる。私はこの、うまいものを食べたとき感動で緩む彼女の表情が、一等好きだ。可愛くて可愛くて仕方ない。その表情を見るたび、この上ない幸福を感じるのだ。しかし、彼女は突然ハッと我に返ったように表情を変えてしまう。やたら真剣な様子で、また私をじいっと見つめる作業へ戻る。まるで観察されているみたいだが、私は構わず再びりんごジュースに口を付けた。
「……あ、れ?」
彼女は不思議そうな顔でこてんと首を傾げた。どうしてそう、いちいち仕草が可愛らしいのだろう、この嫁は。
「おかしい、な……」
私の顔の前でひらひらと片手を振る姿には、もう内心身悶えるほどだ。
「何がおかしいの、咲枝はん」
彼女はしばらく小声で唸りながら悩んでいたが、やがて「あのね」と申し訳無さそうに口を開いた。
「からだ、何にも変化、ない?」
そう言われても。何にもないと私も首を傾げる他なく、困ってしまった。私の身体は今日もすこぶる健康だった。日々私の心身を気遣い、特製の栄養ドリンクまで調合してくれる彼女のおかげだ。生前からの親友たちにもあんまり顔色が良くて逆に驚かれたりする。
「変化言われてもなあ、ちょっと腹の奥からぽかぽかあったかくなってきた気ぃはするけど、たぶん物食った後の普通の現象ちゃうん?」
自ら吐き出した言葉を改めて耳で受け止めると、急に可笑しなことを言ってる気がしてきた。氷まで入れたジュースを飲んで身体が冷えるなら理解できる、しかし身体が温まるとはいったいどういう事か。クッキーをひとつ齧った程度でそんなことは起こるまい。
彼女は一瞬表情を明るく咲かせたが、すぐに暗く萎んでしまった。まるで親に悪戯がバレて叱られる子供のように俯いて、ぼそぼそと説明し始める。
「実は、そのジュース、」
いちおう惚れ薬なんです。
「……へっ!?」
驚いて間抜けな声を上げてしまった。新鮮な林檎に蜂蜜、生姜や唐辛子を少量、その他にも秘密の食材が色々こっそり加えられているというこれは、決して身体に良くてうまいだけのりんごジュースではなかったらしい。言われてみれば確かに、私の分だけ林檎の金色が特別濃い気がする。薬の調合に特化した錬金術師である彼女なら、このぐらい簡単に作れるのだろう。けれど何故、私にそんなものを。
「こんなこと、良くないって、でも、わたし、どうしても、作ちゃんに、聞きたいことがあって……」
「えー、そんなん薬なんて使わへんでも、いつでも遠慮せず聞いてくれたらよろしいやん」
「……だめなの。ほんとうを、聞きたいから。わたしに、め、めろめろになってくれたら、本音を答えてくれると、思って」
彼女が何を思い、焦り、悩んでいるのかはわからない。だが、婚約者を騙すような真似をした挙句に薬の調合まで失敗してしまったと、落ち込む彼女を責める気には到底なれず、寧ろ笑いがこみ上げてきた。
「けっけっけ、意外とあほな子やねえ、咲ちゃんは。そういうところも可愛いけど。よう考えてみ、わしにそんなおくすり効果あるわけないやん」
俯く彼女の頭を慰めるように撫でてやれば、きょとんと丸くなった冬空の目が私を見上げる。
「あんたと初めて会うた時から、あんたに一目で惚れてもうてんのに」
いまさら惚れ薬など効くものか。私は全く当たり前の事実を告げたに過ぎないが、彼女の顔はみるみる赤色に染まっていく。隣に林檎を並べたら見分けが付かなくなりそうだ。
「もうとっくの昔から、わしはあんたにめろめろです。せやから、遠慮せずなーんでも聞いてくれてええんやで?」
「あぅ……そっ、か……うん、ごめんなさい。ありがとう。じゃあ、作ちゃんも、遠慮しないで、答えてね」
勿論、と笑顔を崩さず頷いた。彼女も照れ臭そうに潤んだ瞳で微笑む。いったい何を聞かれるのだろうか、変に緊張してしまう。
「なにか、欲しいもの、教えて」
意を決した彼女の質問はあまりにも平凡だった。日常会話でもよくありそうな、以前にも何度か聞かれたことのあるような、他愛も無い質問。思わず呆気にとられてしまい、言葉が詰まる。
「欲しいもんかあ、うーん……せやなあ、改めてそう聞かれると、何もぱっと浮かんで来おへんもんやなあ」
「何でも言って。贈り物、したいの」
「そんなんええよお、咲ちゃんにはもうぎょーさん貰ってばっかりやもん」
「でも……」
「あんたはわしに身も心も捧げてくれたやろ。わしはあんたがそばにおってくれたら、もう十分幸せやから。それ以上のもんなんて欲しいもん何にも無いわ」
「っ、ず、ずるいこと、言わないで」
「えぇ〜? ちゃんと本音を答えたんやけどなあ、けっけっけ。でも急に贈り物がしたいやなんて、クリスマスには全然気ぃ早いし、どないしたん?」
今度は彼女の方が言葉を詰まらせてしまった。いつも以上におどおど狼狽えて困ったように眉を寄せる。
「作ちゃん、覚えてない、の?」
随分不安げな彼女の問い掛けに、えっ、と声が漏れた。転生した私の記憶は完全ではない、未だに心の底へ沈んだまま救い出せない記憶も残っている。けれど、彼女が続けた言葉を拾って、ようやく思い出せた。
だって、明日は──
愛情深い微笑みで教えてくれた彼女の一言をしっかり書き込んで、私は日記帳を閉じた。結局、例の惚れ薬は全て飲み干した後も私の心身に変化が表れる事なく、ただの健康に良くて美味しいりんごジュースだった。
吸殻の山がもはや崩れ始めた灰皿に三本目を捨てて、万年筆に蓋をした。私は部屋の壁掛け時計を確認してから、少し慌てて机の上を片付け始める。煙を外へ逃がすために窓も全開にした。もう雨は止んでいた。雲の切れ間に月が白く輝いている。
日付が変わるまで、あと数分。私はもうすぐ転生後初めての"誕生日"を迎えようとしていた。