世話焼き助手とお司書さんの話
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帝國図書館第壱特務司書地味で物静かな元引きこもりの23歳
薬の調合が得意な錬金術師
お人好しで頑張り屋さん
瓶底のような眼鏡をかけている
おっぱいがとても大きい
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愛する呼び方
二月も終わりを迎えるその日。
帝國図書館の明かりは深夜遅くなっても未だ消えていなかった。特に、文豪食堂の明かりはひと際煌々と、窓越しにたくさんの人の影があっちへこっちへ動き回って、大いに盛り上がっている様子。
それもその筈、今日はとてもめでたい日、中では宴会の真っ最中である。何せ、ここの先輩特務司書が1ヶ月かけて、寝る間も惜しんで励んでいた研究の成果が無事現れたのだ。去年からずっとずっと待ち焦がれていたとある文豪の転生に、彼女は成功したのである。
「よーぅ、司書ちゃーん! もう泣き止んだかー?」
背後からわあっと脅かすように声を掛けられ、食堂の端の方でぼんやり宴会を眺めていた彼女は「ひょわあ!」と悲鳴をあげる。
びっくりして振り返れば、本日転生を成したばかりの文豪──坂口安吾が、眼鏡の奥でにたにたと楽しそうに青眼を細めていた。悪戯成功、とばかりに笑っている。
「ぁ、あんごせんせ…」
「おっ、まだ目元が赤いけど、俺にわんわん泣き付いてた時より良い顔だな」
「う……あれは、忘れてくださると、ありがたいのです、が……」
「いやー? きっと死ぬまで忘れられねーわ、ふっははは!」
赤くなる頬を両手で押さえて恥ずかしそうに唸る司書を、安吾はまた笑う。その眼差しは実に優しいものであった。
彼は転生された時、生前からの親友たちと再会を喜ぶ前にまず、突然泣き出した女の姿で驚いた。先生、安吾先生! お会いしたかった、ずっと待っていたんです、よかった、よかった!! そう言いながら嬉し泣く彼女の姿は、到底忘れられるものではないだろう。
瓶底眼鏡の隙間から覗く、まだほんの少し赤い目を細めて、司書もつられるようにちょっぴり笑った。
「でも、ほんとうに、よかった。正直……転生に、応じてもらえるか、どうか、不安で……その、」
「ああ、そうか、人によっちゃあ生きるのなんて二度とごめんだって奴も居るよな。けど、まあ、俺は考え方も堕落してるんでね」
安吾はまた泣きそうな顔をしている司書に手を伸ばし、その手を彼女の肩に乗せてぽんぽんと叩いた。
「"あんた、野球好きなんだってな! 元気な身体で一緒にやろうぜ、べーすぼーるを!!"なあんて誘われちゃ、おうおう受けて立ってやろうじゃねえか、って気持ちにもなるだろ」
俺にも守らなきゃならねえもんがあるんだ。その為ならもう一度、また生きてやるのも悪くないかと思ってよ。そう言って、ふはは、と彼は特徴的な笑い方をする。司書は罪悪感に堕ちそうな心を既の所で引っ張り上げて、ありがとうございますと微笑み返した。
「……よかった。わたしも、ですけど。作ちゃん、ずっと、あなたに会えるこの日を、待っていたから」
一瞬誰のことであろうかと、安吾はキョトンと目を丸くしてしまったが、すぐに合点がいった。
人見知りで照れ屋さんらしく、なかなか自分とは目を合わせてもくれないのに、先ほどから何かをちらちら気にしている彼女の目線を追えばわかる。
司書が見つめる先には、今夜も酔っ払って太宰治に絡んでいる中原中也がいて、それを困った顔して宥めている美男子がひとり。おや、あの織田作之助のことを、彼女はそう呼んでいるのか。
「へえ、作ちゃんねえ」
随分かわいいあだ名で呼んでるんだなあ、なんてニヤニヤからかえば、ようやく司書と目が合う。彼女の顔からぼふっと湯気が噴き出したように見えた。
「ぁ、さ、さくのすけさん、です! ほ、ほんとっ、ずっと待ってたんですよ、あんごさんのこと!!」
「ふははっ、いまさら誤魔化しても遅い遅い。いつもはそんなふうに呼んでんのかァ」
「いえ、あのっ、そういうわけじゃ、なくて……!」
なるほど、薄々この司書と助手が既に深い関係にあると睨んでいたが、二人きりの時は特別な呼び名を使うほど親密だったとは。
安吾の口元はますますにやけた。この純真な娘をからかうのはどうにも面白い。後で織田に怒られそうではあるが、彼女の頭をわしゃわしゃ撫でた。
「何だよ、そんな必死に隠すことないだろう? 俺としては嬉しい話だよ。てっきりアイツの悲しい片想いかと思いきや、まさか本当にこんな可愛い恋人捕まえてたとはなァ」
「ち、ちがっ……」
ちがいます、と否定しようとして、声が途中で止まった。違う? この間、あれだけ精一杯の告白をしておいて、違うのだろうか?自分は今、彼の"何"なのか、戸惑ってしまった。恋人、そう名乗っていいものか、わからない。
「えっ、と……ちがうんです、よ。これは、普段から呼んでいる訳ではなくて、つい、うっかり……」
「はいはい、照れるなって〜。初々しくて可愛いねえ、まったく」
「あうう、またわしゃわしゃ、やめて……でも、ほんとちがいます。作ちゃんだなんて、滅多に呼んだり、しません……これはちょっとした、お叱りというか、お仕置き用みたいなもので……」
「お仕置きぃ?」
ますます気になる話だな、と興味津々でぐいぐい肩を抱いて迫ってくる安吾に、ひええっと司書の困惑した悲鳴が上がる。あっ、お酒くさい。安吾も生前ぶりの宴会に浮かれ、実は結構酔っている事に司書はいまさら気付いた。ならば、余計にきっちり話をするまで諦めてくれないだろう。
さて、彼を初めてそう呼んだのは、いつだったか。
あれは、年が明けたばかりの頃の話。
この時まだ、特務司書という肩書きも、彼女ひとりだけのものだった。
「皆さん!!」
潜書室に、司書の悲痛な声が響く。有碍書の中から戻った織田作之助は、太宰治の肩を借りてようやく辛うじて立っている、そんな状態であった。しかし、その太宰も精神を半分侵蝕された状態で、共に潜書へ同行した室生犀星と国木田独歩も耗弱状態でその場にへたり込んでいる。だが織田はそれよりも酷い、喪失状態まで侵蝕されてしまっていた。
此度の潜書は初めて挑む、極めて侵蝕の酷い本の世界であった。当初は軽い偵察の予定で、それでも練度の高い主力を第一会派に加えて挑んだのに、運悪く最奧部の侵蝕者から不意を突かれてこの有様だ。
すぐに皆さんを補修室へ! 珍しく声を張り上げる司書の言葉で、待機していた他の文豪たちがハッと我に返り動き出した。室生と国木田がそれぞれ補修室に運ばれていく姿を見送ってから、よろよろ歩み寄る太宰と、ぐったりして顔も上げられない織田の元へ駆け寄った。
「太宰さんっ、作之助さん!」
「ごめん司書ちゃん、ドジっちゃった。俺はまだ全然余裕だから、オダサクの補修を先に頼む」
太宰の気遣いに司書はこくこくと頷き、織田の片腕を自分の肩に乗せて、太宰と二人でずりずりと彼を補修室へ引き摺って行く。だが、織田はその間もうわ言の様に繰り返すのだ。
「大丈夫、大丈夫やから」
自分で歩けるよ、二人して大袈裟やなあ。はは、と力の無い笑いが溢れる。
「大丈夫なわけあるもんかよ! このッ、バカ作が!!」
太宰の怒声が廊下に響いた。自分が一番練度高いからって、ひとりで前に出過ぎなんだよ! 調子乗って俺たちを庇うような真似までしやがって!! 彼の怒りを聞いても司書は相変わらず無言で泣きそうに、でも泣かぬ様に必死に下唇を噛んで堪えていた。
一番奥の補修室の扉を太宰が雑に足で蹴り開けて、弱った成人男性の重たい身体をベッドに放り込む。はあ、と太宰と司書二人同時に苦しい溜息が吐き出された。
「だざいさんも、すぐに補修を、」
「んーん、今はオダサクをちゃんと見ててやって。俺はちょーっと、司書室のソファーでも借りて寝てるから、さ」
はああ、つっかれたー! あとは任せた、よろしくー!! 太宰はいつも通り喧しくそう叫びながら、赤い羽織を翻して補修室から出て行った。帰りはきちんと丁寧に扉を閉めて。
「おっしょはん、あかんて、犀星先生と国木田先生の補修、優先してやって。太宰クンも、はよ、休ませてやらんと、」
わしなら大丈夫やから。そう言ってベッドから起き上がろうとする彼を、司書はすぐに肩を押さえて止めた。普段なら、こんな弱い力に押さえ付けられるような彼ではない。抵抗も出来ない程に弱っているのは一目瞭然。それなのに何故、大丈夫、この作家はまだその言葉だけを繰り返し、へらへらと笑ってみせるのだ。いつもはこちらが励まされるくらいに眩しい彼の笑顔、けれど、こういう時に無理をする彼の困った様に歪んだ笑顔だけは、司書は一生好きになれないと思う。それを嫌いにもなれないのが、悲しかった。
だんだん怒りすら湧いてきて、司書はスッと眼鏡を外した。両手で彼の頬を挟み込む。晒された灰色が真っ直ぐに彼の赤色を見下ろしていた。彼女の目は、彼の柘榴石のような目を映して、赤く揺れている。
「作ちゃん、めっ」
司書の口から吐き出されたその呼び名は、彼にとって実に懐かしい響きであった。それは同時に、生前の照れくさい記憶を蘇らせるもので、彼の青ざめていた頬にも赤が戻ってきた。
「ど……どないしたん、急に」
「だざいさんが、」
オダサクがあんまり無茶して言う事聞かないようだったら、こう言って叱ってやんなよ。ふっふっふ、結構効果あると思うぜ?
「……って、」
あンのヤロウ、おっしょはんになんちゅーこと吹き込んでんねん!? 織田は叫びたくなる気持ちをぐっと抑えた。怒りと羞恥と少し喜びも混じり合った複雑な気持ちである。しかしあの野郎の言葉通り、効果的であったのは確かだった。もう無理に抵抗する気も失せてしまった。
織田が完全に脱力した隙に、司書は慣れた手付きで彼のジャケットに手をかける。ぼろぼろに破れたそれも、腰のベルトや飾りも外してやり、髪留めを取って三つ編みも解いた。楽に眠れるようにという彼女の気遣いだが、この手際の良さは実に作業的である。普段の、少し彼と手が触れ合っただけでも照れて慌てるような、初々しい女の姿はない。けれど、そっと枕の位置を整え、布団をゆっくり被せてくれる彼女の表情は、いつにも増して優しい微笑みを浮かべていた。
彼の首元まで布団をかけてやると、司書はベッドの傍らへ寄せた丸椅子に腰掛けて、ようやくフゥッと一息ついた。何処か不安げに、今にも閉じてしまいそうに細まる目を向ける織田へ、また両手を伸ばす。「いいこ、いいこ」そう言いながら、片手で彼の長髪を解くように撫でて、もう片手で彼の力が抜けた手を握る。
「おつかれさまです。がんばりましたね、作ちゃん。よく、がんばってくれました」
でも、どうかお願い、今はゆっくり休んでほしい。せめて私の前でだけは無理をしないで。それは祈るような言葉であった。泣きそうに震えた声だった。
(その呼び方、恥ずかしいなあ……)
作ちゃん、なんて。
生前を思い出して、可愛がってくれた姉達や照れ臭そうに呼ぶ妻の声が耳の奥を走り抜けて、擽ったくて仕方がない。しかし、口に出す事も、逆らう事も出来なかった。また甘えてしまう、甘やかされることを心地よく思ってしまう。安心する。
彼女の温かい手が、張り詰めていた精神をゆるゆると解していくようで、自然と瞼も落ちていった。
ようやく寝付いてくれたのだと思い、ほっと司書も安堵して再び息を吐いた。
「……ごめんなさい」
同時に、言葉も溢れた。
「ごめんなさい、さくのすけさん……」
司書は彼の手をぽたぽたと大粒の涙で濡らしながら、普段通りの呼び方でひたすら謝罪の言葉を繰り返した。完全に私の采配ミスだ、練度不足で行かせた私が悪いのだ、と。
また苦しい思いをさせてしまって、ごめんなさい。私はあなたの文学を守りたいと言っておきながら、あなたを傷付けてばかりだ。……ごめんなさい、作ちゃん。
彼に聞こえていないと思って溢した言葉であったが、生憎それは、夢現つの合間にいる彼の耳へと届いてしまっていた。
(あーあ、またやってもうた、やっぱり無茶はあかんなあ)
眠りの淵で、彼は酷く後悔した。
今生こそ、愛する嫁を誰より大切にして生きようと決めたのに。
(咲枝はん)
わしの方こそ、ごめんな。あんたは泣き虫でひとりぼっちが苦手やのに、こんな怖がらせるような真似して、ごめん。もうあんたを泣かせんよう、努力するから、大丈夫。絶対置いていかんし、置いていかれんのも、二度とごめんやから。またすぐに、目を覚ますから。
「咲、ちゃ……だいじょうぶ、大丈夫やから、なぁ……」
全ての言葉は伝えられず、彼は今度こそ眠ってしまって、その後はすーすーと穏やかな寝息を聞かせるだけだった。けれど、ぎゅっと力を振り絞って握り返してきた彼の手が、少しは彼の想いも彼女に伝えてくれたようで。司書はその手を、今度は両手で、愛おしそうに握り締めた。
「うん……ありがとう、作ちゃん……」
あの時。眠る彼の手の甲に、そっと口付けを落としたことは、彼女だけの秘密である。
「……ふふっ」
司書は小声で笑った。
ひと月前、いや、先ほど日付が変わって月も跨いだから、ふた月前か。そんなほんの少し前の出来事であったのに、もう懐かしい思い出に変わっていた。つい、自分の手の甲を眺めながら、笑ってしまう。
「おぉーい、司書ー? 司書ちゃーん、俺の声聞こえてるー?」
坂口安吾の声ではっと我に返る。慌てて謝れば、面白い話を聞けたから良いと、また楽しげに笑い返してくれた。
「いやはや、聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい、可愛いお仕置きだな。けど確かに太宰の言った通り、あのバカには効果抜群だったろう」
「はい。あれから少しは、無茶、控えてくれるように、なりました」
「おっと、完全にしなくなったわけじゃあないのね。はあ、仕方ねえな、やはり馬鹿は一度死んでも治らんモンか」
「でも、また無茶しそうになった時は、わたしが"めっ"て止めますから、だいじょうぶ」
「……そうか」
じゃあ、安心だな。心底安堵に満ちた声と表情。それを見た司書の目は、緩く細まる。はい、彼のことは任せてください、と。
安吾はまたぽんぽんと彼女の肩を叩いてから、その華奢な体から素早く手を離した。
「っと、怖〜い目で睨まれてるし、そろそろ太宰のやつを助けてやるか。また後でな、司書ちゃん」
「え? あ、はい……」
離された方の手をひらひらと振って、何故かこの場から逃げるように立ち去っていく安吾。その行動を不自然に思い、彼の行方を目で追ったが、彼は言葉通り、先ほどからずっと中原中也に絡まれている太宰治の元へ向かっていった。
(……あれ?)
そうして気付く。さっきまで太宰の横でレモン水を傾けていた彼がいない。どこへ行ったのだろう、と辺りを見回すよりも先に。
「おっしょはん」
すぐ右隣から聞こえてきた低い声に、ひゃっ、と驚いて悲鳴が上がる。パッと顔も上げれば、思っていた通り、織田作之助の赤色と目が合った。
「わあ、さくのすけさんっ、びっくりした。どうされたんですか」
安吾と彼の話をしていて、丁度彼の事を想っていたから、つい嬉しくなって声が弾む。しかし、そんな司書の反応に反して、彼女を見下ろす織田の表情はむっすり不機嫌そうであった。
「……べつにどーもせえへんけど、」
織田は司書の肩を抱くと、少し乱暴に自分の方へぐいっと引き寄せた。悲鳴をあげる間も無く、気が付けばもう片手は彼女の腰も捉えており、彼の大きな体に横から抱きすくめられてしまっている。こんな他の先生方も大勢居る場所で恥ずかしいです! と顔を真っ赤にしながら声を張ろうとするも、彼の顎でぐりぐり頭頂部を押されて、あうう〜と情けない声しか出なかった。しかし、まあ、こういったふたりの戯れ合いは、もはや日常茶飯事だ。尚且つ今は宴会真っ最中ということもあって、誰もいまさら気にする者も止める者も居ない。この状況は、良いのか悪いのか。
「旦那が目の前で見とるっちゅうのに、堂々と浮気しとった罰や。反省しなはれ」
「ぅ、うわき……?」
何の事だかさっぱり心当たりが無い。そう思うも、ほんま悪い嫁はんやわー! と冗談交じりに怒る彼のぐりぐり攻撃は止まらない。これが結構痛いのだ、痩せて骨張っているから。
「こないだ言うたばっかりでしょ、わしは案外心のせっまい男なんですよー、て」
そこまで言われて、司書もようやく頭の中で合点がいった。彼の表情は今見えないが、きっと子供のようにふてくされた顔をしているのだろうと、司書はくすくす微笑んでしまう。何笑てんねん、と頭上からますます怒られてしまったが。
恐らく、司書が安吾と楽しそうに会話をしたり、頭を撫でられても肩を抱かれても一切嫌がる素振りを見せなかったのが、彼にとっては不愉快極まりなかったのだろう。生前からの親友が相手ともなると、その危機感は余計に高まるのか。
ああ、きっとそうだ、と司書は何だか嬉しくなってしまった。この人はそういう可愛い人だから。その嫉妬深さは彼の作品からもよく伝わってくる。私と同じぐらい、もしかしたらそれ以上に、独占欲のつよいひとだ。最近知ったこと。
「うわき、なんて、しませんよ」
「うん。わかっとるけどね。でも、やっぱり、あんまり他の男とべたべたしてんの、見るのは嫌や」
「ごめんなさい。でも、あんごさんは、やさしくておもしろい、おにいちゃん……ですよ」
「それでも嫌。もう少し、わしの恋人なんやって自覚持ってくれ、頼むわ」
すりすり、今度は彼女の頭に甘えるように頬を摺り寄せて、抱き締める腕の力も強まる。まるで"これは自分の物だ"と匂い付けをし直す猫のよう、なんて思ってしまった。
司書は彼の言った「恋人」というひとことを、自らも小さく口に出して繰り返した。何度もそれを頭の中で反芻して、心が満たされていくのを感じる。
「ふふ、そっか、恋人……わたしは、さくのすけさんの、恋人で、いいんですね……」
「いやいや、いまさら何言うてんの。あれだけ熱い愛の告白しておいて」
「だ、だって、わたし、今まで誰かとお付き合いなんて、したことない、から」
恋人、というものがよくわからなくて。夫婦のようにその後の変化がわかりやすい関係と違って、何かが大きく変わる訳ではないから。付き合ってください、というお願いを一度挟むべきなのか。それとも、想いが通じ合えば、自然と至るものなのか。告白のお返事をしたからと言って、それだけであなたの恋人を名乗って良いのか、不安だった。
無知ですみません、と心底申し訳無さそうにしょんぼり謝った腕の中の彼女が、織田は愛おしくなって堪らなかった。嫉妬心など、いつの間にか何処かへ吹き飛んでいた。
「咲枝はんはわしの可愛い可愛い恋人です! ああ、もうっ、ほんまかわいいわあ〜!! これから恋人らしいこと、たっくさんしようなあ!」
ほんの少し前までの不機嫌は嘘のように、好きだ好きだと周りの目も憚らず騒ぐ織田。司書は相変わらず困った風の笑顔で、けれどいつもより嬉しそうに口元が緩みきっていた。
「あの、では、恋人らしいこと……早速ひとつ、お願いしても、いいですか」
「んー、なになに?」
「あ……まず、恥ずかしいので、お耳、貸してください」
何とも可愛らしい頼みに彼は喜んで、彼女を抱き締めたままに、その口元へそっと耳を近付けた。こしょこしょと、果たして司書は何をお願いしたのか。
「……ええよ、咲ちゃん」
それはふたりだけにしかわからない秘密となってしまったが、ただこの日以来、司書がうっかり織田の名前を可愛いあだ名で呼び間違えることが増えたのは、確かである。
(ふたりきりの時だけ、作ちゃんって、呼んでもいいですか……?)
2017.03.05公開
2018.04.01加筆修正