姓は「矢代」で固定
第6話
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慶応二年二月某日
かつての長州の中心地、日本海沿岸にある『萩』は穏やかな港町である。二つの川に囲まれた三角州に開かれた城下町には、大きな寺と武家屋敷、豪商の家が並び、町の豊かさを想わせた。家々の軒先から黄色い夏橙々が覗いているのが、どことなく微笑ましい。
そして、海に向かう大きな山……まるで海にポツンと浮かぶ山の麓に、萩城はあった。
堅牢だな…
山崎は城から少し離れた畦道から、天守を眺める。
城のある山の裏は断崖。手前の開けた堀の内には上級武家屋敷が並んでいる。豊臣政権下、西軍の総大将格を務めた毛利家が、大坂の陣で敗れた後に築城したという海城。守りに特化した城という印象だった。
この辺りにしておくか
陽は真上をとうに過ぎている。宿を確保するならそろそろ動きださなければならない。
良い頃合いの場所に来て、山崎は頭を下ろして歩きはじめる。ピーホーピー…と笛を吹き、杖で地面を叩いて行く先を探った。
「おや、鍼治とは珍しい」
「見たことない顔っちゃ」
「どこからきたそ?」
しばらく行くと、畑で種植えをしていた人々がこちらを振り向いた。山崎は瞼をうっすらとだけ開けて顔を上げ、人が居る方向へと声をかける。
「そこの兄さん、姉さん。畑仕事をしてお疲れだろう。もし腰や膝が痛むようなら、針は要らんかね?」
「…」
訝しむような気配があった。言葉で外の人間だと察しがついたらしい。
元藩庁とはいえこんな田舎だ。それに時世柄、当然、藩外から来た人間の受け入れは悪いだろう。治療の依頼をされるなどと思っていない……まずは、言葉を交わす気があるかどうかだ。
「間に合っとるよ」
老いた農夫から返事があった。それだけで次の段階へ進む期待ができる。
「そうかい? 津和野で一番と謳われたおいらの手練見たくはないかね」
「あんた、津和野から来とるけぇ」
「ああ、ここしばらく住んどったんだ。長門の温泉町で殿様に覚えてもらって一つ稼ごうと思うとったが、あそこの按摩どもは縄張り意識が強くていけない。ヨソモノが働くには冷たいところだ」
「そりゃご苦労さんやぁ」
知ってる土地の名前が出て、老人の語気はわずかに弱まる。
「ほんなら、もう津和野に帰るっちゃ?」
「さてなあ、出てきた手前なぁ…ここまで来たら、殿様追いかけて山口へ行くか……都に戻る悪くねえが…」
「そーなそ」
「ここの町には良い鍼師はもういるかね?」
「間に合っとるよ。それに萩はみんな殿様に付いて行っちまったけんなぁ……都は遠いけん達者でな」
駄目だな
「ああ。あんたらも逃げ遅れないよう気をつけて」
閉じた瞼の向こうで、農夫が言葉を失ったのを見る。流れ者の去り際の言葉としては、親切心よりも嫌味なものだった。
現在は山口城へ藩庁が移鎮されたが、三年前まで長州藩庁のあった萩城。元々は毛利家の御膝下にいた町人たちの自尊心は高い。
ただ、海に面しているためにいつ何時戦の舞台になるのではと、残された町人らは先の下関戦争の再現を恐れている。主たる武家が出て行ってしまった今、自分達には頼る先がないことに不安は消えない。
萩城を探り、次第は一旦山口へ向かうか…
萩を探るには時間がかかりそうだ。しばらく分かれて行動していたから、山口で待機しているもう一人の監察方・服部君と合流した方が良いだろう。
山崎は再び頭を垂れて、トントンと杖で先を探しながらゆっくりと道を進む。すると、すぐにすれ違ったのは二人連れの童子で、手を繋いだ二人共がシクシクと泣いている。
思わず足を止めかけて、グッと次の一歩を踏み出した。気付かなかったフリをするべきだし、私情で敵地の人間に関わるべきではない……情の移るような関わりは避けたい。
「かーーーちゃあぁぁん」
…
傷む良心に、いよいよ無視できなくなりかけた瞬間。
「ここよー!」
「お母ちゃん、まーくんが痛いってー!」
「痛い…?」
…
ホッとしたのも束の間、山崎は今度こそ足を止めてわずかに振り返る。童子らに寄っていったのは、先ほどの百姓たちの中にいた女性であった。
見たところ怪我もなさそうだと、母親は不思議に思いながら子どもの身体に触れる。すると、途端に火が点いたようにまた男児は泣き叫んだ。
「あんた、どうしたの…?」
「まーくん痛いって」
「どこが痛いんね? あんたたち、何してたん?」
「何もしてない…」
傍らの女児は上手く説明できないのか後ろめたいのか、途端に気まずそうにする。母親がさらに追求すると、女児は出来事が起こった順番もバラバラに、土手登りをして遊んでいたことをたどたどしく話した。
「その時、どこを引っ張ったん?」
「手」
手…腕か、肩か…
山崎はジッと親子の話を聞いていた。
自分が診ればすぐに判明する気がしたが、今それをすることはできない。
「ーーっ、腕!外れて…ッ!」
母親は絶句した。
やはりな…
山崎は合点がいって、こっそりと息を吐く。
想像するに、引っ張られたはずみで肘か肩の関節が抜けたのだろう。母親が見て分かるくらいならば、きっと脱臼したままだ。
…関わっても損はないか
「おいらが治しましょうか?」
それは鍼灸ではなく骨接ぎの類だが、肘と肩ならば入れたことがある。子どもの腕の整復程度なら手探りでもできるだろう。
母親はその提案に驚きしばらく迷っていたが、激しく泣く子を前に、最後には「お願いします」と山崎が近寄ることを許した。山崎は盲らしく相手に丁度よい位置に来るように母親に促し、触れる事すら嫌がる男児の腕を手さぐりに取る。
動かそうとするとやはり腕がダラリと垂れている。力の入り方からやはり肘が抜けたようだった。
「転んだり、ぶつけたりしてはないか?」
「してない」
患児本人ではなく、横の女児が答える。
「すぐに終わる…男の子だろう。泣き止みなさい」
静かに諭すと、患児は顔を強張らせて震えるように泣きはじめる。八木家の子よりずっと年下かと思ったが、話の通じるあたり同じ頃かもしれない。それでも怖がって逃げないように、後ろから母親に抑えていてもらう。
子どもの肘の関節の要点を支えて、グルリとその細い腕を曲げる。すると手に『ポコン』と骨が動いた感覚が伝わった。
入った
山崎は思わず会心の笑みを浮かべる。
「手を握ってごらん」
「ふぇっ…ふっ…」
「動くかな?」
「んぅ…うん…」
その瞬間、大人たちのホッとした息に包まれる。
「先生、ありがとうございます!」
「しばらくは外れやすいので、腕を引っ張ったりはしないように」
「はい…!」
「子どもですから、念のため包帯があれば固定もしましょうか」
母親からの礼の言葉が繰り返されるとともに、頭を下げる気配がする。
任務には要らぬ世話を焼いたような気はしたけれど、悪い気はしなかった。
恩を先に売ったおかげで、一宿一飯をもらえることになった。
昼間は舟の船頭を勤めているという児の父親と、引退したという祖父が安酒を注いでくれるのを、山崎は恐縮しつつありがたく口にする。最初は自分がどこから来たのかという嘘まみれの世間話に始まり、話題は今日町内で回欄するよう言われたという冊子に移っていた、
「お侍さまが言うには国の一大事ってことは分かっとるっちゃ、自分らみたいなんにはなあ」
ハハハと愛想笑いをした男に、然り然りと頷いておく。敵兵は一人でも少ないに越したことはない。
これが…
表題に「長防臣民合議書」と印刷された冊子。明倫館というこのあたりで有名な私塾があるのだが、長州藩全戸へ配布するためにそこで印刷を進めているという話だった。こんな農村で手に取れるとは思わなかったが、それだけこの政策に力を入れているだろうことが察せられる。
「おいらは残念ながら読めませんけれど、殿様の言葉が広く伝わるのは良い事でしょうね」
「あっ、そうか。失礼なことを…」
「いえいえ、気にされず」
盲である設定を不便にも思うが、これで他人の同情を買い、警戒心を薄めやすい。外の任務では「雨露をしのぐため」と頼んでも納屋すら借りられず、軒先で過ごしたことは数知れない。冊子など後でこっそりと読めば良い。
「和田の坊も偉くなっちまって…」
祖父がしんみりと昔話を始める。昔、舟をひっくり返そうとする武家の悪餓鬼らがいたらしい。
「小五郎は最初からあっち側だったそ。親父らが怒鳴りつけとったのは大目に見てもらってただけっちゃ」
小五郎…
その苗字が「桂」であれば、超重要人物ではあるが。十年以上前の話は、何も有益な情報にはならなそうである。
「…お侍様というえば、萩の城は立派ものですな」
「! そうじゃろう!」
「先生、親父にその話をだすと長くなりますけぇ」
息子は苦く笑う。
今は戦のために武士たちが出て行ってしまったものの、どれだけ萩の人間が知性に秀でているか、大きな城や舟を作る技術があるか、だれかの受け売りのような話を高齢の男は嬉しそうに語ったのだった。
***
萩城の裏は指月山という海に面した小高い山だ。天然の要塞、備蓄庫であり、最後の砦としての詰丸がある。
山口が今の長州藩士の主たる拠点とはいえ、山口や下関で彼らが敗走した場合に行く先は萩。少なくはない備えをここにしているはずだと、山崎は睨んでいた。
西洋式の炉は可動していないようだが……あの巨大な帆船…造船技術は脅威になる。資金力も然ることながら…
先の戦争から実用されているという軍艦。今は帆船の製造しかしていないようだが、いずれは蒸気船をと考えているだろう。
山崎は道なき山の中を進んで詰丸へと向かう。城主不在とはいえ、藩士は配備されているようで、石垣の陰から詰丸に入る隙を伺う。
いや、それほどか…
大坂城を見慣れている自分にとっては、空も同然の城であった。しかも、兵たちも驚くほどに無警戒。
山崎は適当なところで塀を越えた後は、まず大まかに敷地をまわり、入るべき建物に目星をつける。警備は門と内に二人ずつ居るだけで、建物それぞれには居ないようであった。この様子ならば萩城の方も大した事はないだろうと肩の力を抜く。
その時フッと、なにか音がした…と、彼が思った次の瞬間に、地面が揺れはじめた。
地震か…!
さほど大きくない揺れでも、今は場所が悪い。姿勢を低くし、揺れをやり過ごすと、幸いにもすぐに収まった。
「ーー…ー」
「ーー」
…?
顔を上げて音がする方向を見る。
探るつもりであった建物の一つから音…声がしている。住居らしさはなく、倉庫の類かと思っていた…が、そこだけに警備を配置する必要はあるだろうか。
「おーい、大丈夫かー」
!!
「はい。少し大きかったですね」
「被害がないか確認した方が良いだろう」
「分かりました」
門にいた者らと、内側にいた者らがそろって動きだす。
狭い詰丸。注意深く巡回をされると、隠れたとしても見つかるのは時間の問題である。
――チッ…
近づいてくる複数の足音に内心舌打ちをしながら、今日は偵察を諦めて、背後の塀を乗り越えることに決めた。しかし、暗闇の先、降りた向こう側をきちんと確認している余裕はない。なるべく音をたてないようにだけ注意をして、飛び降り着地する。
すると、ガラリと足元の岩がはずれた感触がした。山崎は後ろ手に掴めるものを探し、壁に張り付くように体重を預ける姿勢をとるが、踵が他の何にも掛からない。
たまたま開けた空間がそこにはあった。
しま…っ!
ザザザ…ッ
山崎は崖を落ちるように滑っていった。
「…っ」
止まり、横たわった身体をすぐに起こす。怪我をしたことは問題ではない。
動けるか…
「なんか大きいものが落ちる音したよな?」
「この辺りか?」
まずい!!
灯りを掲げた人が近付いてくる。身を潜めるか、逃げるか。
「誰かいるぞ!!」
―――…っ
走る。それしかなかった。
転がるように山を下りて、飛び出したのは海。夜闇に深さが分からず一瞬躊躇ったが、選択肢はない。
南無三!
山崎は静かな暗い海に飛び込んだ。
***
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