姓は「矢代」で固定
第5話 よりどころ
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***
「今日は梓月君がするの?」
千姫の質問に、私は兄に抜き身の刀を渡しながら頷いた。
「振るのも、手を入れるのも梓月がします」
「でも、弥月ちゃんが頭を入れたの時なのよね。その人間っぽいものが見えたのって」
「そうです。けど、色んな場合を試してみる価値はあるかなって。何も起こらないかもしれないけど、試してみないと分からないから」
「なんだか根気のいる話ねぇ」
「本当に」
今日の彼女は、お菊さんの御伴なしで来たらしい。人攫いがよくあるというのに「困ったお姫様ですね」と言ったら、今は御所に滞在中だから内緒にしてほしいとお願いされた。
話すうちに陽が昇り始めたので、弥月らは梓月の背後に立って、彼が刀を振りかぶるのを眺める。
今日も良い天気だ
陽光が仄かな温かさを運ぶ。旧暦の正月は、新暦の節分の頃…つまり、2月初めあたり。今が一番寒い時期ではあるが、春ももうすぐ訪れる。
…って、大きすぎ!
梓月の作った銀の三角はとんでもない大きさに出来上がっていた。『穴(ホール)』という認識だったものが、『扉(ゲート)』という概念に変わるほどには、それは人一人が歩いて通れるほどの面積で。
刀を振るというよりも、軌跡を描くように、可能な限りの大きさになぞったらしい。
「ある」
有る?
カツンと音が鳴り、梓月の手から刀が落ちたのだと気付く。
「梓月、なに」
何があるの?と訊こうとしたけれど、彼が瞬きを忘れたように大きく見開いた目で、こちらを振り返る。
一心不乱な兄の瞳に凝視されて、私は二の句が継げなかった。困惑すると同時に、何かが起こっているのだと知る。
梓月は眼で全てを語った。真っ直ぐに弥月へ手を伸ばして、その手首を握り、大きな歩幅で銀の光の中に飛び込んだ。
引っ張られた弥月は、手だけが銀の世界に埋まる。
「ちょっ、梓月!!? 何してんの! そっち降りたら」
「弥月!」
巨大な銀の光の中から聞こえた叫声。今の私には、そこに何も見えない。居るはずの梓月さえ見えない。
まずい
この手は今、絶対に掴んでいなければならないと、弥月は強く握りかえした。
「早く!!」
光の向こうから、私を呼ぶ声だけが聞こえる。梓月が必死に私の手を引っ張っている。
早く来いと
説明されなくても、兄が何をしたいのかを理解した。『ある』と、彼は光の向こうに何かを見ていたから。
うちが有った、の?
今まで繰り返し話し合った、三角の向こうの世界の可能性を。未来か過去か、地球か否か。つながる先の条件は何か、制御できるものなのか。
千姫に頼んで、八瀬にある古い巻物も広げた。けれど、何一つ分からないまま、今月も定例の日が来ただけだ。
こんなに突然…繋がったの?
梓月の動きには躊躇いすらなかった。考える必要すらないことだったのだ。
けど…
私は「いつかは」と思っていても、今日だとは思っていなかったのだと理解した。
今
「迷うことじゃない! これ以上は新選組にいたら駄目だ!!
長州戦争は幕府が負ける! 幕軍に先はもう無い、全員死ぬ!」
「!!」
「そこは過去だ!!俺たちの世界じゃない! お前が命かけんな!」
「知って…」
私は隊士じゃないのだと……人斬りじゃない、雑用係だと、兄に思っていてほしかった。
「早く!!!」
「いつから…知ってたの?」
「ーーーッ、伏見で! 近藤勇の馬に付いて歩いてた!分かんない訳ないだろ!?
そんな事もういいから!早く!」
伏見…
…将軍が上京した日?
私が浅葱の羽織を纏い、行軍の一員として歩いたのは、もう何ヶ月も前の話だ。近藤勇の横で護衛として周囲を警戒していた私が、彼にはどう映っていたのか。
あと2分もすれば、朝日が昇りきる。
今まで、三角の中に何度も身体を入れた。手に握っていた物はこちらに残った。籠の中の鳥もこちらに残った。私が手を離したものは、全てあちらに消えた。頭を入れていたせいで、あちらに行くことはなかった。
意識が…ものの『認識』が銀の光の向こうとこちらを二分するのなら、梓月はあちらに残るはずだ。
繋いだ手は?
それは試していない。狭間で切れるのか、どちらか一方に引き寄せられるのか。
向こうにあるのは きっと未来の世界
数歩進めば、元の世界に帰れる。うちに帰れるのだと、梓月は確信したのだ。
「…そっちに何が見えたの?」
「今年の選挙ポスターだよ! この際、多少ズレてても良いだろ!!」
ホントに有るんだ
感動した一方で、判断の基準が雑なことに少し可笑しくなる。時間も世界もズレていて、もう一人の自分とかいたらどうするつもりだろうか。
それでも、きっと今しかないのだと、これが最初で最後の機会なのだと……そんな予感が私達二人にあった。
「帰るぞ!」
帰りたい
帰りたいとずっと願ってた
そのはずなのに、あまりに急な話で一歩目を躊躇う。ここにやり残したことがあるのではないかと。
だけど、私がここから居なくなって、誰か困るだろうか。
困らない…かもしれない
……
いや、困らない
私が誰かに困ってほしいだけだ
先日千鶴ちゃんへ「居なくなったら困る」と言った時だって、心のどこかで「成るようになる」と思っていた。
顔を外へと向けると、千姫と目が合う。
彼女は表情を歪め、身体を小さくして、ぐっと唇を引き結んでいた。そして、私と視線を合わせたまま首を横に振った。自分から言える事は何もないのだと。
私は必要じゃない
私は『新選組 諸子調役兼監察方 矢代弥月』……それ以外に頼る者も頼られる者もなく、ただの組織の歯車だ。私が居なくなっても、代わりに誰かが務められる。
たまたまここに来たときに、私が何も持っていなかったから、新選組に居た。不便にも不潔にも耐え、嫌なことにも目を瞑り、危険なことも仕方ないと諦めてきた。
もう大丈夫 家に帰れる
病気や怪我に怯えることもない
他人から謂れのない憎悪を向けられることもない
暗闇に息を殺して隠れなくていい
誰も殺さなくていい
何も背負わなくていい
やっと帰れる
梓月と一緒に帰れる
みんなに会える
喜ぶ家族の姿を想像すると、未知の銀の光も怖くなくなった。自然と肩の力が抜けて、スルリと足を踏み出す。これ以上は迷わずに進める。
「さよなら」
新選組
言葉とともに浮かんだ、浅葱色の背。昨日の夜に干したままにした羽織が見納めになった。
弥月がさらに一歩進むと、梓月の手の力が緩む。次に出した足にトンと何かが当たった。
顯明連
地にある私の刃。それが無造作に落ちている。
落としたら駄目だ
ざわりと気持ちが焦り、その理由に気付く……次の手を考えていないから。死んだら駄目だと、足掻く手段を探せと心が騒めいた。
その時、フッと私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
そちらへ顔を上げるけれど、そこには木でできた建物ばかりの、古い街並みがあるだけだった。ただ、遠くの西の空が暁色に染まり、夜明けを待っている。
違う
私が 帰りを待ってる
誰かに願われたからじゃない。
また会いたいと、私が願っていた
「弥月!」
「梓月」
足はそれ以上前に進まなかった。頭では今しかないのだと、帰らなければと思うのに、身体の真ん中の奥底に、ここに踏みとどまらせる楔があった。
繋がっている
重い枷だと知った。けれど、嫌な気持ちはしなかった。それは大切にしたいものの一つだったから。
ねえ、梓月
敢えて何度も口にしてきた。新選組として死ぬ覚悟ができているのだと。隊士として…自分のために、私は人を殺すことすらもできるのだと。
この時代に生きるのならば、いつかは梓月に言わなくちゃいけないと、言えるようにと、自分に言い聞かせてきた。
新選組の隊士であることを誇りに思っているのだと
ずっと引っ張られていた手を、グイッと引っ張り返す。梓月の顔が出てくると、彼は瞠目していて、必死の形相と目が合う。
「梓月、お母さんとお父さん…みんなに伝えて。元気だからって」
「!? ば…っ」
「やりたい事、見たいもの、全部ここで見つけたから。育ててくれてありがとうって」
「弥月!!」
「元気でね…大好きだよ」
「ま…」
最後は笑った。この人が大切だと思ったから。
言い足りない事がたくさんあるけれど、泣いている時間すらもない。ただ、唇が震えた。
全ての力を込めて、彼を突き飛ばす。
刻とともに朝日は昇る。
さよなら
「 」
最後の瞬間まで、兄が私を呼ぶ声が聞こえた。けれど、音も光も消えた。
そして梓月はいなくなった、この世界から。
まるで今、時間が動き出したかのように、鳥が屋根から羽ばたいた。家の戸を開ける音がする。いつもと変わらない朝が訪れる。
弥月は何もなくなった宙に再び手を伸ばす。何にも触れることはなかった。
喪失感に、たまらず膝から崩折れる。
私が手を離した そこにあったのに
今しかなかった
帰りたかったのに
「う…ああ…」
もう いない
もう 帰れない
私がここに居たいと思ったから
ボロボロと涙が溢れる。自分で決めたのだから後悔しないはずなのに、どうしようもなく悲しかった。
ずっと願っていたものが目の前にあったのに、どうして棄てられたのだろう。不確実な向こうの世界に、どうして彼を独りで行かせたのだろう。
ごめんなさい
「ーーーっ、ああぁああああ゛ああぁ…!!!」
弥月は額を地に擦り付けて泣く。胸に虚が空いたことを知った。
肺が潰れるほどに声を出し続けて、それでもまだ足りなくて、吸うよりも吐くものの方が大きくて。頭が割れそうだった。
また ひとりになった
よかった
さよなら 梓月
どうか無事で
***
「今日は梓月君がするの?」
千姫の質問に、私は兄に抜き身の刀を渡しながら頷いた。
「振るのも、手を入れるのも梓月がします」
「でも、弥月ちゃんが頭を入れたの時なのよね。その人間っぽいものが見えたのって」
「そうです。けど、色んな場合を試してみる価値はあるかなって。何も起こらないかもしれないけど、試してみないと分からないから」
「なんだか根気のいる話ねぇ」
「本当に」
今日の彼女は、お菊さんの御伴なしで来たらしい。人攫いがよくあるというのに「困ったお姫様ですね」と言ったら、今は御所に滞在中だから内緒にしてほしいとお願いされた。
話すうちに陽が昇り始めたので、弥月らは梓月の背後に立って、彼が刀を振りかぶるのを眺める。
今日も良い天気だ
陽光が仄かな温かさを運ぶ。旧暦の正月は、新暦の節分の頃…つまり、2月初めあたり。今が一番寒い時期ではあるが、春ももうすぐ訪れる。
…って、大きすぎ!
梓月の作った銀の三角はとんでもない大きさに出来上がっていた。『穴(ホール)』という認識だったものが、『扉(ゲート)』という概念に変わるほどには、それは人一人が歩いて通れるほどの面積で。
刀を振るというよりも、軌跡を描くように、可能な限りの大きさになぞったらしい。
「ある」
有る?
カツンと音が鳴り、梓月の手から刀が落ちたのだと気付く。
「梓月、なに」
何があるの?と訊こうとしたけれど、彼が瞬きを忘れたように大きく見開いた目で、こちらを振り返る。
一心不乱な兄の瞳に凝視されて、私は二の句が継げなかった。困惑すると同時に、何かが起こっているのだと知る。
梓月は眼で全てを語った。真っ直ぐに弥月へ手を伸ばして、その手首を握り、大きな歩幅で銀の光の中に飛び込んだ。
引っ張られた弥月は、手だけが銀の世界に埋まる。
「ちょっ、梓月!!? 何してんの! そっち降りたら」
「弥月!」
巨大な銀の光の中から聞こえた叫声。今の私には、そこに何も見えない。居るはずの梓月さえ見えない。
まずい
この手は今、絶対に掴んでいなければならないと、弥月は強く握りかえした。
「早く!!」
光の向こうから、私を呼ぶ声だけが聞こえる。梓月が必死に私の手を引っ張っている。
早く来いと
説明されなくても、兄が何をしたいのかを理解した。『ある』と、彼は光の向こうに何かを見ていたから。
うちが有った、の?
今まで繰り返し話し合った、三角の向こうの世界の可能性を。未来か過去か、地球か否か。つながる先の条件は何か、制御できるものなのか。
千姫に頼んで、八瀬にある古い巻物も広げた。けれど、何一つ分からないまま、今月も定例の日が来ただけだ。
こんなに突然…繋がったの?
梓月の動きには躊躇いすらなかった。考える必要すらないことだったのだ。
けど…
私は「いつかは」と思っていても、今日だとは思っていなかったのだと理解した。
今
「迷うことじゃない! これ以上は新選組にいたら駄目だ!!
長州戦争は幕府が負ける! 幕軍に先はもう無い、全員死ぬ!」
「!!」
「そこは過去だ!!俺たちの世界じゃない! お前が命かけんな!」
「知って…」
私は隊士じゃないのだと……人斬りじゃない、雑用係だと、兄に思っていてほしかった。
「早く!!!」
「いつから…知ってたの?」
「ーーーッ、伏見で! 近藤勇の馬に付いて歩いてた!分かんない訳ないだろ!?
そんな事もういいから!早く!」
伏見…
…将軍が上京した日?
私が浅葱の羽織を纏い、行軍の一員として歩いたのは、もう何ヶ月も前の話だ。近藤勇の横で護衛として周囲を警戒していた私が、彼にはどう映っていたのか。
あと2分もすれば、朝日が昇りきる。
今まで、三角の中に何度も身体を入れた。手に握っていた物はこちらに残った。籠の中の鳥もこちらに残った。私が手を離したものは、全てあちらに消えた。頭を入れていたせいで、あちらに行くことはなかった。
意識が…ものの『認識』が銀の光の向こうとこちらを二分するのなら、梓月はあちらに残るはずだ。
繋いだ手は?
それは試していない。狭間で切れるのか、どちらか一方に引き寄せられるのか。
向こうにあるのは きっと未来の世界
数歩進めば、元の世界に帰れる。うちに帰れるのだと、梓月は確信したのだ。
「…そっちに何が見えたの?」
「今年の選挙ポスターだよ! この際、多少ズレてても良いだろ!!」
ホントに有るんだ
感動した一方で、判断の基準が雑なことに少し可笑しくなる。時間も世界もズレていて、もう一人の自分とかいたらどうするつもりだろうか。
それでも、きっと今しかないのだと、これが最初で最後の機会なのだと……そんな予感が私達二人にあった。
「帰るぞ!」
帰りたい
帰りたいとずっと願ってた
そのはずなのに、あまりに急な話で一歩目を躊躇う。ここにやり残したことがあるのではないかと。
だけど、私がここから居なくなって、誰か困るだろうか。
困らない…かもしれない
……
いや、困らない
私が誰かに困ってほしいだけだ
先日千鶴ちゃんへ「居なくなったら困る」と言った時だって、心のどこかで「成るようになる」と思っていた。
顔を外へと向けると、千姫と目が合う。
彼女は表情を歪め、身体を小さくして、ぐっと唇を引き結んでいた。そして、私と視線を合わせたまま首を横に振った。自分から言える事は何もないのだと。
私は必要じゃない
私は『新選組 諸子調役兼監察方 矢代弥月』……それ以外に頼る者も頼られる者もなく、ただの組織の歯車だ。私が居なくなっても、代わりに誰かが務められる。
たまたまここに来たときに、私が何も持っていなかったから、新選組に居た。不便にも不潔にも耐え、嫌なことにも目を瞑り、危険なことも仕方ないと諦めてきた。
もう大丈夫 家に帰れる
病気や怪我に怯えることもない
他人から謂れのない憎悪を向けられることもない
暗闇に息を殺して隠れなくていい
誰も殺さなくていい
何も背負わなくていい
やっと帰れる
梓月と一緒に帰れる
みんなに会える
喜ぶ家族の姿を想像すると、未知の銀の光も怖くなくなった。自然と肩の力が抜けて、スルリと足を踏み出す。これ以上は迷わずに進める。
「さよなら」
新選組
言葉とともに浮かんだ、浅葱色の背。昨日の夜に干したままにした羽織が見納めになった。
弥月がさらに一歩進むと、梓月の手の力が緩む。次に出した足にトンと何かが当たった。
顯明連
地にある私の刃。それが無造作に落ちている。
落としたら駄目だ
ざわりと気持ちが焦り、その理由に気付く……次の手を考えていないから。死んだら駄目だと、足掻く手段を探せと心が騒めいた。
その時、フッと私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
そちらへ顔を上げるけれど、そこには木でできた建物ばかりの、古い街並みがあるだけだった。ただ、遠くの西の空が暁色に染まり、夜明けを待っている。
違う
私が 帰りを待ってる
誰かに願われたからじゃない。
また会いたいと、私が願っていた
「弥月!」
「梓月」
足はそれ以上前に進まなかった。頭では今しかないのだと、帰らなければと思うのに、身体の真ん中の奥底に、ここに踏みとどまらせる楔があった。
繋がっている
重い枷だと知った。けれど、嫌な気持ちはしなかった。それは大切にしたいものの一つだったから。
ねえ、梓月
敢えて何度も口にしてきた。新選組として死ぬ覚悟ができているのだと。隊士として…自分のために、私は人を殺すことすらもできるのだと。
この時代に生きるのならば、いつかは梓月に言わなくちゃいけないと、言えるようにと、自分に言い聞かせてきた。
新選組の隊士であることを誇りに思っているのだと
ずっと引っ張られていた手を、グイッと引っ張り返す。梓月の顔が出てくると、彼は瞠目していて、必死の形相と目が合う。
「梓月、お母さんとお父さん…みんなに伝えて。元気だからって」
「!? ば…っ」
「やりたい事、見たいもの、全部ここで見つけたから。育ててくれてありがとうって」
「弥月!!」
「元気でね…大好きだよ」
「ま…」
最後は笑った。この人が大切だと思ったから。
言い足りない事がたくさんあるけれど、泣いている時間すらもない。ただ、唇が震えた。
全ての力を込めて、彼を突き飛ばす。
刻とともに朝日は昇る。
さよなら
「 」
最後の瞬間まで、兄が私を呼ぶ声が聞こえた。けれど、音も光も消えた。
そして梓月はいなくなった、この世界から。
まるで今、時間が動き出したかのように、鳥が屋根から羽ばたいた。家の戸を開ける音がする。いつもと変わらない朝が訪れる。
弥月は何もなくなった宙に再び手を伸ばす。何にも触れることはなかった。
喪失感に、たまらず膝から崩折れる。
私が手を離した そこにあったのに
今しかなかった
帰りたかったのに
「う…ああ…」
もう いない
もう 帰れない
私がここに居たいと思ったから
ボロボロと涙が溢れる。自分で決めたのだから後悔しないはずなのに、どうしようもなく悲しかった。
ずっと願っていたものが目の前にあったのに、どうして棄てられたのだろう。不確実な向こうの世界に、どうして彼を独りで行かせたのだろう。
ごめんなさい
「ーーーっ、ああぁああああ゛ああぁ…!!!」
弥月は額を地に擦り付けて泣く。胸に虚が空いたことを知った。
肺が潰れるほどに声を出し続けて、それでもまだ足りなくて、吸うよりも吐くものの方が大きくて。頭が割れそうだった。
また ひとりになった
よかった
さよなら 梓月
どうか無事で
***