姓は「矢代」で固定
第1話 誘われて
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慶応元年八月十一日
千鶴side
お昼過ぎ。定期的にお願いしているお魚屋さんから、今日は秋刀魚が美味しそうだと言われて、戸口で何匹買うか悩んでいるところだった。
そこに難しい顔をして立ち止まった土方さん。振売りの男性は愛想笑いをしたが、私はただ不思議に思って彼を見上げた。
サンマがお嫌いとまでは仰ってなかったと思うのだけれど…
「雪村、今治療室は空だったか?」
つい先日、薩摩藩士の方が半日ほどいたが、その日のうちに戸板に乗せられて、薩摩藩邸の方へ運ばれていった。彼があの後どうなったのか、私には知る術がない。
「はい。空室です…どうかしましたか?」
「今から松原を入れるつもりだ。腹に傷がある。状態は町医者から聞いてくれ」
「お腹に…」
「面倒をかけるが宜しく頼んだ」
「…分かりました」
千鶴はわずかの間、悲しみと困惑で表情を曇らせたが、唇を食むのをやめて、しっかりと土方を見つめて深く頷いた。
運ばれてきたときの彼は気絶していたが、その日の夜にきちんと目を覚ました。
通行人の知らせで処置をして下さったお医者さん曰く、松原さんのお腹の傷は金瘡で、腸を縫い合わせて閉創してあるとのことだった。
斬られたというより、刺されているような感じだけど…
傷の範囲が狭いことと、深くに達していることがそう感じさせたが、松原さん本人が刀で斬られたと言っている。
みんなの朝餉が終わった後、少しの重湯を用意して、千鶴は戸を叩いた。
「松原さん。雪村です」
今起きたらしい返事を聞いて、「入りますね」と戸を開ける。
「おはようございます。重湯ご用意しましたが、食べられそうですか?」
「ああ。ありがとう、雪村君」
背に手を添えて抱え起こして、彼がもたれるための、傾斜のある鉤形の木板と布団を入れ込む。少し前に弥月さんが用意した『座椅子』という道具で、まだ試作段階と言っていたけれど、患者さんが座るときに重宝している。
「痛みますか?」
「…いいや、問題ないよ」
そんなはずが無いのに、彼はたとえ顔を歪め、身体が跳ねても、痛いとは決して言わない。
傷の具合は、先生曰く、正直なところあまり良くないらしい。腸が断裂していたから縫合はしたが、それで問題なく回復する例はあまり多くないそうだ。傷が膿んで体力との勝負になるのは勿論、再び腹の中でのキリキリとした痛みが生じ、のたうち回る程に痛んだらもう手の施しようがないと云う。
「松原さん! 生きてるかー??」
「永倉くん、生きてるよ」
開いたままの扉から顔をのぞかせた永倉さん。目尻を落とした松原さんを見て、彼もホッとしたように目を細める。
「腹のど真ん中の傷なんだって? 左之と揃いだな」
「私のは浪士に斬られた傷だからね。彼の切腹痕と一緒にするのは申し訳ない」
「端から見たら分かんねぇよ!向かい傷だ、ハッタリかましてやれば良い」
永倉は笑いながらあぐらをかいて、彼の隣に腰を下ろした。
「痛みはどうだ?」
「大した事ないよ。君に鳩尾を打ち込まれたときに比べたら」
「組長〜、松原組長が好きなモナカ買ってきたよ〜」
「こらこら。腹の傷だからってしばらく食養生するようにと、雪村君が言ってくれていただろう」
「あっ!」
「やべっ、雪村君がいた!」
「見つかった!」
「永倉組長の声しかなかったじゃん!」
「逃げろ!」
バタバタと走っていく四番組隊士たち。彼らは一晩つききりで組長の様子を看てくれていた。
足音が消え去って、永倉さんが「好かれてんな」と笑うと、松原さんは「良い子らだろう?」と誇らしげに言った。私も「中のあんを溶かして、おしるこにしてみましょうか」と代わりの案をだす。
そんな風に入れ替わり立ち替わり、見舞いの人が訪れる。一見、穏やかな治療室だった。
けれど人が途切れると、松原さんの表情は消えてしまう。痛みに耐えているのとは別に、何か憂いる事があるのだろう。
私には彼が泣きそうな顔をしているようにも見えた。
***
土方side
「以上が周辺の住人からの情報です」
「…」
報告が終わったが、土方は返事をしなかった。けれど、矢代はペコリと頭を下げて、次の指示も聞かずに早々に立ち上がる。
「矢代」
引き止めると、矢代は返事をせずに振り返った。見上げる俺にこいつは、嫌だな、という表情をしていた。どうやら止めて正解だったらしい。
「おまえの見解は」
「…」
「報告、上げてない事があるんじゃねぇか?」
「…聞きこみの結果も、見た事もちゃんと言いましたよ」
矢代は左右非対称の横の髪を耳にかけて、小さく溜息をついた。
「松原さん、生きてるんですから、本人に聞いてください」
「何か分かってるのか?」
「……憶測が過ぎるのと、下世話な想像だったので、あんまり言いたくないです。っていうか、土方さんも何かしらは想像しましたよね?」
「…まあな」
確かに、憶測か…
当然、意識が戻った本人に、誰に何故刺されたのか直接訊いてはいる。しかし、彼は大事なことを何も語らず、知らない男に裏通りで”斬られた”の一点張りなのだ、
原田によれば、少し前から松原さんに女ができたとの噂があったらしい。あの松原さんの事だし、幹部でもあるし、本人から直接の申し出があるまではと、小耳に挟んだ誰も深追いすることはなかった。
けれど、今の矢代の報告から上がってきたその事の経緯。全ての出来事が今回の件に関連しているなら、女に刺されたと考えるのが一番辻褄が合った。
「女はそこに住んでるのか?」
「ええ。変わりなくお子さんと暮らしてますよ」
恐ろしい女だ
頑なに口を閉ざしている松原さんの意を汲むなら、ひっかき回すことではない。矢代と俺が黙っていれば、”ただの向かい傷”で済む話だった。
どうすっか…
決めかねて額に手を当てる。情に流されやすい局長に相談するような話ではない。
「女が誰かにこの話を洩らす可能性は?」
もし後からこの事が公になれば、松原さんが幹部だから不祥事を隠蔽しようとしたと、平隊士から不興を買いかねない。
「その女性と直接は話をしてないのでなんとも。それに松原さんが新選組と知っていて刺したのかどうか、詳細までは分かってないので」
「…俺が直接外で話をすることはできるか? 誰にも気取られずに」
「呼び出せってことですか?」
「未亡人の家を尋ねる訳にはいかねぇだろ。ガキ連れてても話し辛い。女を外で引き止めることは可能か?」
矢代はしばらく考えていたが、視線を明後日に向けながら「なんとかします」と言った。こいつ含め、監察方はそう言ったら大抵いつもなんとかするから助かる。
「土方さん、ななしです。入ります」
指定された時刻に座敷の個室で待っていると、聞きなれない名前だったが、それは矢代の声だった。それに応じると静かにふすまが開けられる。
…
…ん゛、そっちか
見咎めるべきは、不機嫌な顔をしている小柄な女の方だったが、視線はどうにも現れた二人の女をさまよった。金髪の男はいなかった。
なるほどな…
確かにその恰好なら女に声をかけても、周囲への影響は少ない。新選組の遣いだと明かした上で、どうにかして子どもとは引き離して、ここまで連れてきたのだろう。
矢代が「入ってください」と言うと、渋々といった様子で、女は俺の前に坐した。そして矢代の紹介でお互いの名を知ったが、女は一度も視線を俺と合わせない。
「ここに呼ばれた理由は分かってるな」
「……」
「松原は死んだ。これで満足か?」
女の瞼が震えた。
「ななし、俺達の所属については」
「伝えています」
「なら、報復される覚悟でここに来たってことだな。人の腹を刺すだけのことはある」
何考えてるか全く分からねぇな
女はだんまりを決め込んでいた。矢代は女の動きを警戒しているようで、一瞬も目を放さない。
「松原は見ず知らずの男に斬られたと言っていたが、実際はお前だな」
「……」
「松原はてめぇの女に刺されるような事をしたか?」
「……」
「それが旦那の仇討ちって言うなら、所司代が許可したか? それか、願い捨てにでも行ってきたか?」
死んだ夫の存在を臭わすと、ようやく女は視線を動かして口を開いた。新選組を前にして正気とは思えない、冷めた眼をしていた。
「…お調べにならはってんね」
「あんたがどこぞの朝敵で、新選組と知って松原と親しくなったとあっちゃ、話は別だからな」
女はまた目を伏せて、フッと息を溢した。そして「まさか」と。
「お優しい壬生狼もおるもんやね。あの人……黙ってらへんかったんよ。うち知らんかったんに…
…酔うて斬られた夫のこと助けてくれようとした、ええ人やって思って…」
ゆっくりゆっくりと女が話したことは、概ね俺が想像した通りではあった。
松原はこの女の旦那を斬ってしまい、それを介抱したふりをして、女の家を訪ねた。けれど、結局旦那は死んでしまった。松原はその秘密を墓場まで持って行くことができずに、後から女へ吐露した。
「知らんかったさかい…」
旦那が亡き後の二人の関係性がどうであれ、結果として、松原は女に怨まれて刺された。
悲劇と言うにはあまりにくだらない話だった。松原は都合の悪いことを咄嗟に隠した。それなのに情の湧いた女に、懺悔のつもりで罪を話して、自分だけが楽になろうとした。
士道どころか、男として不覚悟にも程があるな…
旦那の仇討ちをして、それでも平静を装って暮らし、最後は矢代に着いてきた女の方が、よっぽど腹が座っていた。
「あの人、苦しんで死んだんよね?」
女は嬉しさも悲しさもない目をしていた。けれど、土方が肯定も否定もせずにいると、「そう」と言ってわずかに満足そうにする。
「思い残すことはねぇか」
「ええ」
ゆらりと顔を上げた女は、遠くに何かを見ていた。
死を受け入れる、か
「松原さん、生きてますよ」
!!
勝手に何を言い出すかと思ったが、その時、初めて女の感情が奥から揺らいだ。矢代と俺を順に見て、もう一度、恐る恐るという風に矢代へと向かう。
「死んだならもういいやって、思ったでしょう?」
「…」
「子どもも、お隣のおばさんが見てくれると思ったでしょう? 泣く子も黙らす新選組が、怨嗟の種…子どもを生かしておくと思いますか?」
「―――っ!」
矢代が場違いにニコッと笑むのを、女は信じられないという顔で見た。
「新選組としては、松原と貴女が死んでも生きても、何も良くはなくて。ただ貴女が生きてると、言いふらさないかって心配だけが残ってるんですよ」
「……」
「親子共々殺されるのと、黙って暮らすのと、どっちが良いですか? それとも貴女も松原と同じく、口が軽い人ですか?」
こいつ…
負けた気になった。
俺も可能性に気づいてはいたが、この女を生かしてやるべきか……心中を止めるべきか、答えを出しあぐねていた。
死んだことにしたのは、そうすれば女が言いふらさないと確信しての初手だったが、そこから組み替える方法を取る気はなかった。けれど、松原さんが死んでいないなら、女も死のうとは思わないだろう。
その上で、矢代は俺らの不利益を許容せず、松原さんの願いをも叶えようとしている。俺が迷っている間にも、全部を守ろうとしている。
…勝手に決めやがって
そう思うけれど、始めてしまった策は止めるほどの悪いものではない。
ななしは暴力をちらつかせながら、まるで説法をした後の僧のように、慈悲深く優美に微笑んで、女と向かい合っていた。
頭の片隅でずっと気になり続けている目の前の違和感は計り知れなかったが、この場には間違いなく、俺の知ってる矢代弥月が居た。
芸達者な良い部下だな、山崎
土方は心の中だけで小さな笑いを収めた。
***
「山崎」
「はい」
副長に手紙の代筆を頼まれて、出来上がったそれを届けにいった後、去り際に呼び止められた。
「…最近、あれと親し気と聞いたが」
あれ
思い当たるのは一人しかいなかったが、自ら墓穴を掘りに行くわけにもいかず、副長を前に黙り込む。
「矢代だ」
そうですよね
「矢代君なら、監察方として長い付き合いになりますし、特に変わりはないとは思いますが。彼がどうしましたか?」
「…名古屋の時は、ずっと二人で行動してたんだったか?」
「はい。日中はそれぞれ捜索に出ていましたが、夜は共に」
「……そうか」
俺は首を傾げる。事も無げに傾げておいたが、何か勘づかれたかと、心臓は尋常じゃないほどに早鐘を打っている。
「あれの女装は最小限にしろ。危険だ」
「は…?」
「お前だから何とも無いんだろうけどな。あれの女装は魔が差したバカが死ぬ。いつか誰かしょうもないちょっかい出して、絶対に息の音止めてくるぞ」
「…」
俺も何とも無くもない
表情を決めかねて、顔を歪めつつ「よく言い聞かせておきます」と口を引き結んで頷いた。
そして、俺が困っていることには、幸い気づかなかったらしい副長は「そういや」と、また何かを思い出したらしい。
「先月、酔っぱらった時も島田が付いてて、総司相手だから何もなかったが……そいつが悪くなくても死人が出かねない。やっぱり酒は飲まさない方がいい」
「…なんの話ですか」
「会津小鉄のとこで吞んで来て、帰りが大変そうだったと聞いた」
「…」
聞いていないぞ、島田君
副長は「何もなかったから、お前にも言ってないんだろ」と、気づかわし気に言われたが、おそらく違うと思う。
そもそも酒を呑まないという約束をしていたし、飲んだ結果、何かあって、三人で結託して何事もなかったことにした可能性が高い。
「申し訳ありません。指導しておきます」
「まあ、飲まないようには念押ししておけ」
「勿論です」
決して飲まないよう言い聞かせると決めた心の端で、飲ませてみたいという欲が出たのを、俺は見なかったことにした。