姓は「矢代」で固定
第2話 淡く深く
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慶応元年十月三日
今回の会津公の判断はとても早かった。将軍が正式に辞職願を出したと聞いて、すぐに帰東することを想定し、その護衛と、少しでも時間を稼ぐために新選組を大坂へ迎えに出した。そして京街道の陸路を来ていた将軍の行列と、新選組は枚方でかち合った。
近藤局長は将軍に直訴したいと、老中を説得することには失敗したが、今はひとまず共に伏見へ向かっている。
局長とその左右に侍る、軍奉行・伊東と武田が話すのを、弥月は傍らで使番として聞いていた。
「長州征討の勅許が出ているのですか?」
「なんと!」
「先の朝議で決まっていたらしい。艦隊の件でそれどころではなかったのと……大樹公が辞職し江戸に戻られるなら、この先がどうなるかは分からないそうだが…」
ものすごいヤヤコシイ事になったな…
将軍が上洛した目的の一つである、『長州征討』の名分は立ったわけだが、将軍は『もう知らん!』状態なわけだ。
これで十五代の成立か
前の時と同様に、家茂さんは後継に慶喜さんを指名したはずだ。
幕府のために奔走していた慶喜さんにとって、この結果はどうなのだろう。長州征討を推してなかった慶喜さんは、勅許を無かったことにしてもらうのだろうか。
「局長、我々はこのまま江戸まで御同行致すか?」
「昨日、容保様の伝令から聞いているのは、なんとかお引き止めしたいとのことだが…
…今日は伏見宿で過ごし、明日は伏見街道をお通りするそうだから、京にきっかけがあることを願うしかあるまい」
「然るべき方が止めに来てくだされば、叶いそうなお話ではありますけれどね…」
「なぜそう思われるのですか? 伊東参謀」
「こうして陸路を選んで戻られるのでしょう。断固として江戸へとお思いでしたら、船を呼び寄せて大坂から海路を選ばれたと思いますの。軍は一橋公に残していけばよい話。
そうせずに京を通過するのは、まだどこか迷われているお気持ちがあるのではないかしら」
「…そうであれば良いのですが」
伊東の話に、周囲は思い思い頷く。
「弥月さん、各隊長へ今のことを方針として伝えてきてください」
「承知しました」
伊東さんに命じられる。今回は練習がてら行軍編成で赴いているので、私は近藤さんや軍奉行の彼らの指示に従う。
因みに土方さんは二十人分ほど前側にいるが、ちゃんと馬に乗っている……本当に乗れているからツマラん男だ。
走ってそれぞれの隊長に伝えに行く。職名は変われど、その面子はいつもどおりの組長ら。まあ、所々にいる旗持ち係だけはやっぱり納得できないけれど。それ要るのか?
最後尾の小荷駄隊・原田奉行に伝えたところで、列を外れる。また外側から走って定位置に戻る予定だ。
増えたね、隊士…
改めて後ろから見ると、この長い幕臣の列の中でも、色鮮やかで目立つ揃いの羽織の群は壮観だ。
ん?
「え゛ッ!?」
ふと、誰かに腰帯を掴まれた気が……と思った瞬間には、グイと勢いよく後ろへ引っ張られていた。そうして街道沿いの民家の竹垣裏に引きずりこまれて尻餅を着いた途端に、後ろから口を塞がれる。
「!!?」
「丁度良いところで見つけた」
私の肩を抱える袖の紅梅色。その声と、動かした視界に捕らえた女性の横顔。
南雲 薫
私の手は空いているからいつでも逃れようとできるのに、動けずに固唾を飲んだ。
それを察してか、彼女は私にニコリと微笑みかける。
「抵抗は無し? 助けは求めないんだ?」
何…なんで…?
耳元で聞こえる可笑しそうな声に、ぞっとする。体中の痛みの記憶が蘇った。
害意はある…?ない? 目的は…?
このまま密かに縊り殺される可能性を考え、不安にドクドクと脈が速くなる。
竹垣の向こうから人々が闊歩する音がする。うちの隊士は全員通り過ぎた後だけれど、将軍の行列は続いている。
「これ、今どうなってるか教えてくれる?」
これ…は将軍の移動について、か…?
彼女は得物を持ってはいないが、このまま首の骨を折られる可能性はある。行列がある間にあちらへ飛びだせたら逃げられるだろうけれど、確実に離れられる時機は見極めなければならない。
首に回された彼女の腕に触れる。わずかな力で引いて、口から手を離すように伝えた。
「…大樹公が辞職願いを出したので、江戸に帰る途中です」
特別に秘されたことではない。彼女の目的が情報収集だけなら、どこまで知らなくて、何を知れば満足するのか。
南雲は訝しげな顔をする。
「なんでそうなったの?」
「兵庫が開港になったことで帝と揉めたからです」
「それは知ってる。けど、将軍はそれも承知の上でしょう」
「…連合国と会談した老中に、朝廷が官位を剥奪するよう命令したから、将軍が幕政に干渉するなって怒った結果です」
「そんなことで?」
「……」
弥月は頷く。確かに傍から聞けば、『そんなこと』だった。
けれど、公務合体が上手くいかない理由の一つ……あくまで幕府は朝廷の下に付くつもりはない。朝廷から『徳川の権威』を守るなら、家老の処罰は朝廷に命じられてすることではなかった。
「そう…それはあれも予想してなかったな」
あれ?
「…誰がですか?」
「…坂本が、ね」
返答があったことに少なからず驚いた。訊いてはみたが、答えるとは微塵も思っていなかった。
何を考えているか全く理解不能で……他人を傷つけることを喜ぶような、常識的な会話すら成立しない人と思っていたけれど。今のは、暴力任せの一方的な情報提供ではなくて、対等な情報のやりとりが成立した。
坂本…土佐藩つながりか…
数日前、坂本は兵庫港を見に向かったと、梓月から聞いた。その後は長州に向かうのではないかという話だ。
土佐を脱藩した彼と、南雲が未だに繋がっているとは思わなかった。
「それで、征長はどうなるの?」
「未定です」
「一橋慶喜が次代将軍予定?」
「おそらく…」
これに関して、自分は大した情報は持っていない。会津公の私兵として遣われているだけの私たちでは、この先はかなり不透明だ。
帝と親しく朝廷寄りの一橋慶喜が、なぜ倒幕軍に追われることになるのか、私にさえ分からない。
「移動は早計か…」
それは独り言で、南雲は渋い顔で何かを考えていた。
移動…?
征長がなくなって、移動する必要が無くなったもの……人、武器、物資……今、政権が公武合体派に傾いたばかりの土佐から、幕軍へ提供するとすれば…人だろうか。
…待って。この人は尊王派じゃなくて、勤王派?
先の閏五月、巡察中に彼女に会った。その数日後、長く牢獄にいた勤王派の土佐藩士が切腹を果たした。そのために彼女は京にいたのではないかという推測がある。
坂本龍馬は討幕派。現在の公務合体派の土佐の思惑と、彼女が全く違う動きをしているとすれば、支援を移動させる先は長州。
土佐じゃない、南雲と繋がりのある、勤王派が動かせる手札
征長さえなければ、動かさないもの
動かせないもの
弥月は思い至った答えに、目を瞠ってギョロリと瞳を回す。
南雲は彼女の息遣いが変わったことに気付いて、じっと弥月の目を見た。
「薩摩の羅刹を?」
南雲は驚きのままに口を開きかけたが、みるみるうちに喜びの表情でパアッと顔を輝かせる。
「――ッ、やっぱり欲しいな!」
弥月の腹に回っていた手にグッと力が籠もり、弥月は「ん」と小さく苦痛の声を漏らした。
欲しい…?
「この前会ったとき、賢いなって思ったんだよね。身の程を弁えてて、不要な手出しも口出しもしない!」
弥月の頬を、南雲の指がスルリと撫でる。
「しかも、時渡りの鬼……千鶴を御印に据えれば十分と思ってたけど、八瀬の直系をも超えるその能書き。どちらも女鬼っていうなら尚更、象徴が二つあるのも悪くはないよね」
「なにを…」
「ねえ、こっちおいでよ」
ギリギリと締まる腹。
「このまま連れて帰っても良いんだけど……弥月は納得しないよねぇ?」
「放…っせ!」
左手で腰のクナイを探りながら、右手で彼女の腕を掴んで爪を立てた。
「痛いなぁ!」
「――ッ!」
締め付けから解放されると同時に、後頭部を殴られた。
南雲は立ち上がる。そして、前屈みで深くまで息を吸う弥月の背中に、足の裏を据えた。
「…まあいいよ。お姫様たちに来てもらうには、こっちもまだ準備が整ってないしね」
「あ、なたは…!」
「全部潰してあげる。そしたら僕しか残らないんだから」
振り向くと、南雲はクスクスと笑っていた。
その不穏な様子に、彼女へ苦無を向けたけれど、彼女はまるで気にならないように私への敵意を消した。
「そんな怖い顔しないでよ。弥月は生かしてあげるから」
「羅刹を使いたいのは、あなただったんですか…!」
「…僕はどうでも良いんだけどね。僕たちを勝手に恐れて、里を潰したのは幕府で……徳川は見て見ぬふりをした。それを許せない人がいるんだよ」
羅刹を使おうと躍起になっているのは
「…雪村、網道?」
南雲は嬉しそうに口の端を上げる。
「皆行っちゃうよ? いいの?」
!!
行軍が最後列を迎えようとしていた。
南雲は余裕のある様子でゆったりと微笑む。まだ彼女から引き出せる情報があるのだと……私の確実な逃げ道を天秤にかけられていた。
――っ、駄目だ
苦無を向けたままジリジリと、弥月は後退する。竹垣を離れて外の人目に付いた途端に、踵を返した。
走って走って幕臣の列を追い越し、浅葱色の羽織を見つける。見慣れたその後ろ姿に手を伸ばした。
「んぁ!!? なんだ!? 弥月?」
突然に後ろから羽織を引っぱられた左之助は、つんのめりかける。振り返って肩越しに見えた金髪で、その理由を知った。
弥月は息切れの合間に、「ん」と返事をする。
「どうかしたか?」
緊張感を醸した彼に、首を振る。息継ぎとともに「大丈夫」と音にした。
「えらく息切れてるけど、後ろつかえるから歩くぞ」
「ん」
「戻らねぇなとは思ってたんだ、どこ行ってたんだ?」
「内緒」
それは素っ気ない返事だったが、原田はまあ任務の特性上そういうこともあるだろうと、長くは気に留めなかった。
けれど、しばらく経っても後ろを歩く弥月に、未だに羽織の背中あたりを掴まれていて。不思議に思って振り返って見ても、うつむきがちに歩く彼と、視線は合わない。
「……どこも怪我してねぇか?」
「え?」
「前と違ってここに居ねぇだろ、山崎が」
それは半年以上の小荷駄雑具方の頃の話で。
「この編成とお前を見てな。弥月がどっか行くのに一々心配してた山崎のこと思い出した。まあ実際、大怪我して帰ってくるしよ」
「…大丈夫です」
「そうか……あの軍奉行らの横なんてドッと疲れるだろうから、ちょっとくらい休んでいけばいいさ」
武田さんと伊東さんの事を言いたいのだろう。彼はいつものように軽口を叩いた。
「左之さんは…最後尾、どうですか?」
「んー。まあ、悪くない眺めだとは思ったぜ」
何がとは言わなかったが、意味は分かってクスリと笑う。
「殿(しんがり)を任される男は器が違いますね」
「…『荷物持ち』って、あのとき俺を揶揄ってきたのはお前だけだぜ?」
「………え? そんなこと言ってなーい!」
「忘れたフリしてんじゃねぇ!!おい、待て!」
弥月は左之助が後ろ手に掴もうとしたのを避けて、アハハ!と笑いながら、逃げるように前へと走り出した。