姓は「矢代」で固定
第10話 その先へ
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慶応元年七月十四日
あれから数日、捜索範囲は名古屋城下に至っているが、とんと進展がない。変わりがあるといえば、値段は交渉して据え置きで、ご飯の美味しい旅籠に移動したことくらいだ。
他の仕事と違って夜に起きている必要がないため、弥月が布団にもぐりこむと、烝が「消すぞ」と言って火を消すのも定番の流れになってきた。
暑さが退いてきて涼しくなった初秋の夜、たくさんの虫の音を聞く。
今が最後の機会だろうと、今日一日迷い続けていた弥月は意を決して、暗闇の中で口を開いた。
「烝さん、明日、またあの三角を作ります」
「…そうか」
「一緒に来て下さい」
沈黙が落ちたのか、元の静寂に戻ったのか。再び虫の声だけが響いた。
「その必要はないだろう」
抑揚のない淡々とした声が返ってきた。
必要はない
「吸い込まれて行方不明になってもいいなら来なくていいです」
だから脅す
「おやすみなさい」
それに返事はなかった。
***
「烝さん、動きにくいです」
「…吸い込まれるんだろう」
「ないです…たぶん」
未知の物について明言できない私は、場所をここに決めた瞬間から、袴の腰板を彼に掴まれたままである。
宿場町の朝は早く、暗い内に朝餉が準備できていて、客は食べたその足で日が昇る前に出発していく。弥月達はそれと同時に支度をして、日の出の直前には宿場を外れて、河口の人気のない荒地に立っていた。
東西、南も見渡せる太平洋側の果てなく広い空は、すでに明るくなり始めている。
今日は龕灯(がんどう)を借りてきた。この蝋燭の火が消えなかったら、向こうには酸素があるということだ。
そして、これは昨日名古屋城下の街で見つけて買っておいた。
「…鳥籠?」
「うずらです」
何をどうするとは言わなかった。けれど、私が沈黙に耐えられなかった。
「鬼畜ですよね」
「いや…」
この鳥は向こう側が有毒の空間ではないか、動物を出し入れして問題ないかを確認するために入れる。
仏教には放生会という、【捕まった生き物を野に返し殺生を戒める】という考え方があるらしい。変若水の製造のために、山南さんに動物実験を勧めたときにそれを教えてもらった。彼はきっと自分は地獄に落ちると笑っていた。
神仏が崇められる時代に、私はその逆を行こうとしている。
「でもまあ…私たちが行く先は極楽浄土じゃなくて地獄だって、土方さんが補償してくれてるので。みんなで行けば怖くないですね」
弥月が悪戯っぽくフフッと笑うと、烝は困ったような顔をして。けれど、弥月の腰板から手を放して、籠をつかむ彼女の手に、自分の手を重ねた。
「君の安全の方が大事だ」
「…ありがとうございます」
地面に籠を置いて、刀を引き抜く。
また腰板がわずかに引っ張られたので、笑いそうになった。
「いち、にい、さーん」
その声はいつもより小さくなる。本当は絶対に要らないだろう掛け声を大声で言うことが、急に恥ずかしくなった。
出たでた
刀を収めて、銀色の三角にまずは火のついた蝋燭を入れ込む。出しても火は消えていなかった。
次に、うずらを籠ごと、棒でぶら下げて入れ込んだ。そのまま日の出とともに三角が消えるのを静かに待った。
消えた
籠はやはりこちら側に残っていた。それを目の高さに掲げて覗き込む。
「生きてる…」
数えていた限り2分間ほど中に入れていたが、うずらになんの変化もない。放射線とかなら知らん。
「…これで向こうは安全ということか?」
「生き物が即効苦しむような環境ではない、ということかな…と」
「まだ検証が必要なのか?」
「毎秒同じとも限らないんですけど、言ってたらキリがないし…今のところ考えてるのは位置の問題で…高さとかかな…」
「高さか…」
前回のように物干しがあればつついたのだが。昨日、たまたま鳥売りを見つけたので、こちらを先に試すことにしたのだ。
弥月は籠を開けて、うずらを出してやる。あまり警戒心のない鳥なのか、簡単に両手で包み込めた。
「羽を切っていないのか?」
「はい。もし死ななかったら逃がしてあげようと思って」
「…それは徳が積めそうだ」
「ははっ!結果的にですね」
さっきの今で、あまり説得力のない冗談だ。
うずらは手を広げてもしばらくそこにいたが、放ってやった勢いで羽ばたいて飛んでいく。遠くまで飛べるとも思っていなかったが、それは小さな身体で素早く羽を羽ばたかせて、草むらの中に消えていった。
「おわりです」
隣を見て、ホッとした表情の彼に笑いかける。本当に吸い込まれることも心配してくれていたのだろう。ようやく腰板から手を放してくれた。
「行こうか」
頼んでいないのに、彼は空になった鳥籠を持ち上げる。それが烝さんにとっての普通なのだ。彼は今日起きてからここに辿り着くまでよりも、少し晴れた表情をしていた。
弥月は早朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸う。
「ねえ、烝さん」
「なんだ?」
「勝手に突然いなくなる気はないから、帰る方法を探ってても怒らないで下さい」
少し間があった。
「怒っていない」
その返事に続く言葉を弥月は待つ。続きがあるはずだと確信していた。
「怒ってるわけじゃない。ただ、少し…」
彼は空になった籠に視線を落として、聞こえるかどうかの声量で「寂しくなった」と。
「私も寂しいです。いつか別れるからって、ずっとその事だけ知らんぷりされるのは。
烝さんは報告してって言うけど、すっごく話しにくいです」
「…すまない」
「いつもみたいに話していいですか? 見たこと無くて面白いとか、帰ったら何をしたいとか食べたいとか。こっちでも作ってみたいとか」
一緒にいたこの数日、普通に会話をしていた。視線を合わせ、自然に会話をし、いつも通りの振りをしていた。けれど、話したことと言えば業務連絡のような話ばかりで、未来に繋がる話題を避けているのだと、暗黙の了解のようになっていた。
ここまでの道中色々なものを見たけれど、彼がどんな顔をするか想像できなくて、その度にグッと言葉を飲み込んだ。まるで味がしないような日々だった。
「構わない」
「本当に?」
「本当だ。君が何か言おうとして止めた顔をしている方が、俺も気掛かりだ」
「…顔に出てました?」
烝さんは無言で頷いた。
「特に舟は。絶対に諸手を上げて喜ぶと思ったのに、目ばかり輝かせて、あとは無反応だったからな」
「あぁ…」
桑名宿との間にあった河口を、木舟で二刻ほどかけて渡ったときの話だ。あれは内心興奮しまくっていたが、控えた。やればできる。
烝は一度遠くを見てから、弥月へと視線を戻した。彼はいつも通りの優しい顔で笑っていた。
「君が未来の話をするときの笑顔が好きだった。折角一緒にいられるんだ。いつも通りにしてほしい」
途中の単語に過剰に反応しそうになったけれど、何食わぬ顔で聞き流して、屈託ない様で「はい!」と返事をする。
「じゃあ、舟の感想からやり直してもいいですか?」
「ああ、是非」
街道を旅装の人々が足早に進むが、店が開いて、街の人々が動き出すのはもう少し先だ。
二人は道の片隅で、数日の思い出を振り返って、束の間の時間を楽しんだ。