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第9話 診察
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***
千鶴side
チャポン…
「いっ」
生きかえるーーーー!!!
「ふあぁぁ…」
肩までお湯に浸かって、思わず漏れ出た声。
ほぼ二年ぶりのお風呂。弥月さんは勿体ないほどの浸かれるたっぷりのお湯を用意して下さった。
身体を包む温もり。感動で涙が出そうになる。
「千鶴ちゃん、どーおー?」
「あっ、このままで行けそうです!」
外から聞こえた彼の声に返事をして。その足音が遠ざかるのを聞く。薄暗い室内で、火の微かな揺らめきを見て、目を閉じる。
神様、ありがとうございます…
そう思ってから、感謝すべきは弥月と土方さんなのだと思い出す。
大掃除の最中に、弥月さんが高らかに宣言して出て行った後。その日のうちに、屯所の井戸の傍に設置された大きな鉄砲風呂。
自分も入りたいなどと想像すらしないうちに、彼に「ごめん、しばらく待って」と謝られて、山南さんの庵(いおり)にもう一つ作るという話をこっそりと聞いた。
それから半月、顔に出さないように…けれど、期待して待っていた。
…
……
…最高です! 一番風呂!
ジャポンと顔を漬ける。
嬉しくて嬉しくて、落ち着かないくらいだ。
狭い室内で脱衣所もないけれど、浴室内でなんでも揃うようにしてあって、弥月さんの心配りを感じた。
「…次は沸かすの私がしよう」
今日、弥月さんに呼ばれたときには、既にお風呂はほとんど炊けていて。彼の額から滴る汗に、せっせと水を運ぶ労が伺えた。
けれど、私が提案したらきっと『自分が入りたいから沸かす』と言い訳をするのだろう。嘘の上手な優しい人だ。
嘘…
ここのところ、色々な話が自分に舞い込んでくる。
平助君のことも、沖田さんのことも……彼らが今思っていることを知って……それに対する私自身の考えはあっても、心にしまっておくことにした。
彼らはたくさん悩んで、重たいものを持っていて……その一部を分けてもらえたことを誇りに思う。
けれど、松本先生と会って、ずっとぼんやりと浮かんでいた謎が、はっきりと輪郭を取った。
父さま…
うっすらと目を開いて、再び閉じる。
きっかけは、嘘があるのだと知った日…
夜の藤を酒宴で楽しんだ帰りのこと。
弥月さんが八木家から借りたものは明日返しに行くので、まとめて隅に置いといて良いと言って。行きと同じように、彼がまだ中の残った酒樽を背負う。
「重箱も私が持つからいいよ」
「いいえ! それだと弥月さんばかりですから、そんな訳には…!」
「千鶴ちゃんは、いざとなったら左之さんたちを引っ張ってくる係。酔っ払い達が道のどこに落ちてくるか、分かったものじゃないから。引率して」
素面の私と弥月さん以外は、しっかりとできあがった皆さん。
島田さんと沖田さんは控えて呑んでいたとお聞きしたけれど、彼らは近藤さんたちの警護要因なので、両手を空けておいてほしいと話す。
もし永倉さんがこのまま寝ちゃったら、わたしが引っ張って帰るのは無理そうですけれど…
そうは思ったけれど、弥月さんの押しに負けて、私は手ぶらとなり。右手に鼻唄を歌う原田さん、左手にうとうとして千鳥足の永倉さんの手を引いて歩いていた。
龕灯(がんどう)を持った島田を先頭にして、最後尾を弥月と山南が歩く。
「山南さんは入口が別というか、もはや大庭園の主なので、そちらから入って下さいね」
「家屋はそれほどとお聞きしましたよ」
「ええ。大庭園ですけど、家屋は庵(いおり)に毛が生えた程度です」
私たちの暮らす堂宇とは壁一枚隔てた西本願寺側で、山南さんはこっそり過ごすそうだ。
なんとはなしに背後の会話を聞きながら、千鶴は帰路を歩く。
「でしたら、落ち着いて研究ができるのもしばらくの内だけでしょうね」
山南さんは見識がとても広くて、薬師のようなこともしているのだとも以前お聞きした。即効性のある傷薬を研究しているのだと。
お薬…私も何かお手伝いできないかな…
治療室の在庫管理は私がしているけれど、仕入れは主に山崎さんが行っている。自由に外出できない私でも、できることはないだろうか。
「寂しいからって、勝手に同居人増やしちゃ駄目ですよ」
「同居人を心配されるのでしたら、毎日、顔を見せに来て下さいね」
「そこまで心配してませんて。でも時々は沖田組長の愚痴りに行くので相手してください」
「ええ。いつでも」
「後ろ、なんか僕の悪口言ってる?」
「気のせい、でっ」
弥月さんの声が不自然に止まる。
「切れた」
「どうしました?」
「鼻緒が切れました。沖田さん呪いました?」
山南が提灯を掲げると、片足を上げた弥月の足趾にぷらんとぶら下がる下駄。彼が抱えていた風呂敷を地面に置いて、息を吐く。
「みんな先に行っててください。直して追っかけます」
それと同時に、隣の人が地面に膝を着いた。
「もう一度、足をお上げなさい」
「え」
「明かりは私が持っているのですから、独りで残っても見えないでしょう」
「あっ。え、確かに。でも、そうですけど、ちょっと待ってください」
弥月が止める前に、すでに山南は懐から手縫いを取り出していて。
「え、待って! 私のあるか」
ビリッ
手ぬぐいが裂かれる音がした。
「下駄、貸りますよ」
「…ありがとうございます」
弥月は何か言いたげな間の後、諦めたように礼を言う。
「足はここにお乗せなさい」
「すみません…」
申し訳なさそうに弥月さんは謝っていたけれど、当の山南さんは甚(いた)く機嫌が良いようで。
私はお酒に酔った山南さんを見たのは初めてだった。おそらく彼自身は気が付いていないのだろうけれど、終始口元が楽しげに綻んでいる。
「姫がいるぞ」
「…うるさい」
からかう原田さんと、恥ずかしそうな弥月さんがやり取りをする横で、私はふと気づいた。
あれ?
手が…
山南さんの手が「ふつう」に動いていた。
元々動かない訳では無い。利き手は問題がないのだから、傍目には普通に生活をしていた。
けれど、よく見ていると、左手の親指、人差し指には力が入らないのだと分かった。添える程度の動きはできるが、重いものを支えるべく強く握ることはできない。
少なくとも、手ぬぐいを手で破って、その先を摘んで鼻緒をすげられる程に、細やかな動きはできなかったはず。
治っ、た…?
会わなかった二ッ月の間に、目覚ましく何かが起こったのか。
「できました」
「ありがとうございます」
結局、全員でそれが終わるのを待っていた。
それからも彼らの前を歩く私は、それ以上振り返って観察することもできず。
庭園の裏口なのだろう、木戸から「ではまた」と独り入って行く彼を見送ることしかできなかった。
知らない方が良いのだと、自分に言い聞かせて、いつの間にかそれが当たり前になっていた。ここで生きるには、そうしなければならないのだと思っていたから。
核心に触れたのは、嘘に気づかない振りをすることを止めた時
「松本先生、父さまは…」
「…残念ながら、儂も網道さんの居場所は知らないんだ」
松本先生は伏し目がちに、申し訳なさそうに言った。
「そう…ですか…」
先生に問いかけたときに覚悟はできていても、思ったよりも私はがっかりした。
近藤さんが東下した際に、松本先生とお会いしていて。もし父さまの事が何か分かっていたならば、今まで話を引き延ばしはしないだろうと、予想はできていたのに。
それでも……何か手がかりはあるはず
「…松本先生、近藤さん…教えてください。父さまはここで一体何をしていたのですか?」
サッとお二人の表情が曇る。そして、松本先生は近藤さんに確認するように視線を送り、彼は小さく首を振った。
やっぱり…
松本先生が知っていて、それをひた隠しにするということは、おそらく幕府が関わっている事で。
幹部の方ですら父さまと接触がなかったのに、似顔絵まで描いて探していたという事は、父さまが何か重要な役割を担っていたという裏付けだった。
そして、『りはびり』の片手間と言って、山南さん一人が扱っているという南蛮由来の薬。私が治療室の管理を担ってすら、詳細を教えてもらえない物がある。
考える時間だけはたくさんあった。きっと大枠ははずれていない
胸を張って姿勢を正す。焦りそうになる気持ちをクッと飲み込んで、ただ真っ直ぐに近藤さんを見た。
「父さまが新選組にいたのは、幕府からの依頼で…でも、町医者としての仕事ではないんですよね。山南さんの扱っている薬の研究をしていたのですか?」
「!」
異見を言っても、怒る人はいない
近藤さんを前に、それを信じることにした。
好奇心じゃない。これは私が知りたいと声に出すだけの理由がある。この方がそれを聞いてくれる人だと、私は信じられる。
それでも酷く緊張した千鶴の視線を受けて、近藤は迷った。その硬い表情が崩れることはない。
駄目…か
「…網道さんが行っていたのは、傷を癒す…霊薬の研究だった」
「松本先生!」
思わぬ方からの声に、顔をそちらに向ける。
傷を癒す、霊薬
「近藤さん。聡い子だ。ここまで分かっていて、それでもあんた達を信頼して共にいる。
彼女が覚悟を決めて問うたことを、どうして頭から咎めようか」
「ーーっ、しかし…」
「機密全てを話せという訳ではない。ただ、彼女の信頼と献身に見合う応えを与えられるのは、あんただけだ。局長」
「…」
そう松本が諭しても、近藤は押し黙る。
それほど重大な何かに父さまは携わっていたのだ。
どうして…
「…千鶴君、納得のいく応えが得られないのならば、儂と共に江戸に帰ろう」
「え…?」
「それは…!」
「近藤さん、彼女は客人でも隊士でも、ましてや捕虜でもないのだろう? それでも懸命に務める彼女を馬鹿にするようなあんたらのところに、大事な友人の娘である彼女を、儂は預けておきたくない」
「…――っ」
「どうだね、千鶴君。ここでの生活は、君にはあまりに不便だろう」
意地悪や煽動で言っているわけではない。先生は真剣に私を心配してくれていた。
帰る?
「網道さんのことは、改めて各藩医に訊いてみよう。どこかの藩に匿われているやもしれん。京での捜索は容保様と南部先生に任せて問題ない」
私がここに居て、あちこちに出向いて探すことに、それほど利はないのだと言われていた。
帰る…
…
帰りたい…?
長く、それを考えたことがなかったのだと気づく。
この一年、帰りたいと思ったなら、きっとどこかで帰れていた。もしも一度でも声に出したなら、近藤さんは路銀すら握らせてくれただろう。
そう思わなくなったのは…
私が必要だと、力を貸してほしいと望んでくれる人達がいた。
何気なくした事にも”ありがとう”と感謝をされた。
一生懸命に向き合った命があった。
池田屋を目指して、祇園を目指して、一人で夜に駆けたあの日から
私はずっと前を向いている
「…松本先生、ありがとうございます。でも、私はここに残ります」
声に出して、初めて自分で道を選んだ気がした。
江戸で父さまと暮らした十六年。父さまに「駄目だ」と言われたことは、したことが無かった。なに不自由のない穏やかな日常。よく知った優しい家族と隣人。
そして、十六年の人生から欠けたものを探していた、この二年。
出会ったのは、不自由ばかりの、苛烈でキラキラとした世界。今、この瞬間を全力で生きている人達。
彼らが私を信じてくれるときの、燃えるような胸の熱さ。
取り上げないで
千鶴は無意識に笑む。松本はそれを見て、困った顔で笑った。
「…しばらく見ないうちに、大人になったな」
「? そうですか…?」
どちらかと言えば、ワガママのような…
千鶴は自分の頬に触れる。少し考えてみて、そういえば月のものが来たから大人になったかも、と思った。
「どう思うかね、近藤さん」
「…松本先生にも、雪村君にも、叶いませんな…」
近藤はため息を吐き、眉をㇵの字にした。まぶしいものを見るかのように、千鶴を見て目を細めた。
「新選組……網道さんを会津藩より紹介されたのは、浪士組の頃のことだった」
そして、ゆっくりと言葉を選ぶように話しだす。
「当時の壬生浪士組は極々小さな組織で、資金繰りに困り、いつ江戸へ戻らねばならぬかという状況だった。
なんとか御公儀に繋がりを持ったが……引き立ててもらうためには、幕府の抱えている未知の薬の実験場になることが条件だった。本意でなかったというのは、今となってはの話で…当時は、それも致し方ないという考え方があったんだ」
未知の薬…の、実験…
「あとは君も知っての通りだ。壬生の網道さんが暮らしていた家屋で不審火が起きて、それ以降、彼は行方知れずとなった。
残った薬を山南君が今も扱っているが……霊薬というには遠く及ばない…危険な物だった」
「…どうして…父さまは幕府で…ここで研究を…」
「幕府と網道さんの繋がりについては、俺は全く知らない。ただ、壬生浪士組は都合が良かったのだろう。未知の薬は傷がすぐに治る特殊なもので…」
近藤さんの言葉は尻すぼみになって消えた。何を話そうか、話すのを止めようかと迷っているのが分かった。
「…阿片(アヘン)のようなものと思えばいい。使えば心を蝕むものでもあった。傷が癒えても、心が壊れた者を、儂も何人も見た」
「心を…」
阿片は聞いたことがある程度のものだったが、清と英国が戦争をした原因だとは知っている。
「それでも全員ではないんですよね。傷が治った方もいるから、父はその望みにかけて…」
「いや…」
「すまないが、君に今これ以上を話すことはできない。薬についてもだ」
答えあぐねた松本から請け負うように、今度は近藤が首を横に振る。その先に踏み入ることは許されないのだと。
傷が治っても、心が壊れる薬
「父さまはどうして…そんな危険なものを…」
父さまは危険を冒すような性格ではなかった。
患者さんの話をじっくりと聞き、原因や治療を考えて本とにらめっこして。時に、他の医師にも知恵を借りてくると言って出かけて。怪我をしないように、病気にならないようにと、みんなに説いていた。
心を蝕むような、犠牲をはらう実験を進めるなんて…
穏やかに笑う父の記憶が揺らぐ。
「網道さんの考えに関わらず、幕府の命は受けざるを得なかったんだろう。
…しかし結局。綱道さんはここを去った。確かな良心があるからこその決断だったんだと思う」
松本先生はそう言って下さった。
私の見ていた父は、松本先生から見えている姿と同じだったのだと、少しだけ安心した。
千鶴は眼を開ける。少しうとうとしていたらしい。
最初から熱めだったお湯が、ようやく丁度いい温度になっていた。
「四半時、経ってないよね…」
弥月さんがそれくらいでまた迎えに来ると言ってくれた。油も勿体ないしそろそろ上がろう。
手ぬぐいで身体を拭い、髪をまとめて、サッと対丈にした小袖に袖を通す。外は暗いから、部屋までの距離くらいなら、袴はなくても構わないだろう。
『網道はこちら側にいる。意味は分かるな? お前の父は幕府を見限ったということだ』
薩摩藩の人が言ったあの言葉。
本当のことか分からないと、みんなに私の動揺を宥められたが、あれは向こうから出した名前だった。恐らく、今は彼らの方が父と繋がりがある。
見限って…どうして薩摩にいるの?
そこは、実験場ではないの?
傷を癒す、霊薬って?
傷がすぐに治る……幼いころから繰り返し言い聞かされた、『神様からの贈り物』をもつ体質の私。
本当は父さまは何か知っていたのかもしれない。
もしかしたら
その薬が 私から作られたのか
その薬から 私が生まれたのか
薄暗い中で、鏡に映るわずかに照らされた顔をじっと見る。
『網道さんって、実の父親?』『全然似てないなと思ってさ』
沖田さんの言葉が蘇る。
「父さま…」
誰にでも優しい父さま
私にはその何倍も優しい父さま
信じている。
人様に言えないような事を、壬生浪士組にしてしまったのだとしても、決して本意ではなかったのだと。
私の父さまは、私が信じている
「大丈夫。だから」
だから、ここに帰ってきてね
千鶴side
チャポン…
「いっ」
生きかえるーーーー!!!
「ふあぁぁ…」
肩までお湯に浸かって、思わず漏れ出た声。
ほぼ二年ぶりのお風呂。弥月さんは勿体ないほどの浸かれるたっぷりのお湯を用意して下さった。
身体を包む温もり。感動で涙が出そうになる。
「千鶴ちゃん、どーおー?」
「あっ、このままで行けそうです!」
外から聞こえた彼の声に返事をして。その足音が遠ざかるのを聞く。薄暗い室内で、火の微かな揺らめきを見て、目を閉じる。
神様、ありがとうございます…
そう思ってから、感謝すべきは弥月と土方さんなのだと思い出す。
大掃除の最中に、弥月さんが高らかに宣言して出て行った後。その日のうちに、屯所の井戸の傍に設置された大きな鉄砲風呂。
自分も入りたいなどと想像すらしないうちに、彼に「ごめん、しばらく待って」と謝られて、山南さんの庵(いおり)にもう一つ作るという話をこっそりと聞いた。
それから半月、顔に出さないように…けれど、期待して待っていた。
…
……
…最高です! 一番風呂!
ジャポンと顔を漬ける。
嬉しくて嬉しくて、落ち着かないくらいだ。
狭い室内で脱衣所もないけれど、浴室内でなんでも揃うようにしてあって、弥月さんの心配りを感じた。
「…次は沸かすの私がしよう」
今日、弥月さんに呼ばれたときには、既にお風呂はほとんど炊けていて。彼の額から滴る汗に、せっせと水を運ぶ労が伺えた。
けれど、私が提案したらきっと『自分が入りたいから沸かす』と言い訳をするのだろう。嘘の上手な優しい人だ。
嘘…
ここのところ、色々な話が自分に舞い込んでくる。
平助君のことも、沖田さんのことも……彼らが今思っていることを知って……それに対する私自身の考えはあっても、心にしまっておくことにした。
彼らはたくさん悩んで、重たいものを持っていて……その一部を分けてもらえたことを誇りに思う。
けれど、松本先生と会って、ずっとぼんやりと浮かんでいた謎が、はっきりと輪郭を取った。
父さま…
うっすらと目を開いて、再び閉じる。
きっかけは、嘘があるのだと知った日…
夜の藤を酒宴で楽しんだ帰りのこと。
弥月さんが八木家から借りたものは明日返しに行くので、まとめて隅に置いといて良いと言って。行きと同じように、彼がまだ中の残った酒樽を背負う。
「重箱も私が持つからいいよ」
「いいえ! それだと弥月さんばかりですから、そんな訳には…!」
「千鶴ちゃんは、いざとなったら左之さんたちを引っ張ってくる係。酔っ払い達が道のどこに落ちてくるか、分かったものじゃないから。引率して」
素面の私と弥月さん以外は、しっかりとできあがった皆さん。
島田さんと沖田さんは控えて呑んでいたとお聞きしたけれど、彼らは近藤さんたちの警護要因なので、両手を空けておいてほしいと話す。
もし永倉さんがこのまま寝ちゃったら、わたしが引っ張って帰るのは無理そうですけれど…
そうは思ったけれど、弥月さんの押しに負けて、私は手ぶらとなり。右手に鼻唄を歌う原田さん、左手にうとうとして千鳥足の永倉さんの手を引いて歩いていた。
龕灯(がんどう)を持った島田を先頭にして、最後尾を弥月と山南が歩く。
「山南さんは入口が別というか、もはや大庭園の主なので、そちらから入って下さいね」
「家屋はそれほどとお聞きしましたよ」
「ええ。大庭園ですけど、家屋は庵(いおり)に毛が生えた程度です」
私たちの暮らす堂宇とは壁一枚隔てた西本願寺側で、山南さんはこっそり過ごすそうだ。
なんとはなしに背後の会話を聞きながら、千鶴は帰路を歩く。
「でしたら、落ち着いて研究ができるのもしばらくの内だけでしょうね」
山南さんは見識がとても広くて、薬師のようなこともしているのだとも以前お聞きした。即効性のある傷薬を研究しているのだと。
お薬…私も何かお手伝いできないかな…
治療室の在庫管理は私がしているけれど、仕入れは主に山崎さんが行っている。自由に外出できない私でも、できることはないだろうか。
「寂しいからって、勝手に同居人増やしちゃ駄目ですよ」
「同居人を心配されるのでしたら、毎日、顔を見せに来て下さいね」
「そこまで心配してませんて。でも時々は沖田組長の愚痴りに行くので相手してください」
「ええ。いつでも」
「後ろ、なんか僕の悪口言ってる?」
「気のせい、でっ」
弥月さんの声が不自然に止まる。
「切れた」
「どうしました?」
「鼻緒が切れました。沖田さん呪いました?」
山南が提灯を掲げると、片足を上げた弥月の足趾にぷらんとぶら下がる下駄。彼が抱えていた風呂敷を地面に置いて、息を吐く。
「みんな先に行っててください。直して追っかけます」
それと同時に、隣の人が地面に膝を着いた。
「もう一度、足をお上げなさい」
「え」
「明かりは私が持っているのですから、独りで残っても見えないでしょう」
「あっ。え、確かに。でも、そうですけど、ちょっと待ってください」
弥月が止める前に、すでに山南は懐から手縫いを取り出していて。
「え、待って! 私のあるか」
ビリッ
手ぬぐいが裂かれる音がした。
「下駄、貸りますよ」
「…ありがとうございます」
弥月は何か言いたげな間の後、諦めたように礼を言う。
「足はここにお乗せなさい」
「すみません…」
申し訳なさそうに弥月さんは謝っていたけれど、当の山南さんは甚(いた)く機嫌が良いようで。
私はお酒に酔った山南さんを見たのは初めてだった。おそらく彼自身は気が付いていないのだろうけれど、終始口元が楽しげに綻んでいる。
「姫がいるぞ」
「…うるさい」
からかう原田さんと、恥ずかしそうな弥月さんがやり取りをする横で、私はふと気づいた。
あれ?
手が…
山南さんの手が「ふつう」に動いていた。
元々動かない訳では無い。利き手は問題がないのだから、傍目には普通に生活をしていた。
けれど、よく見ていると、左手の親指、人差し指には力が入らないのだと分かった。添える程度の動きはできるが、重いものを支えるべく強く握ることはできない。
少なくとも、手ぬぐいを手で破って、その先を摘んで鼻緒をすげられる程に、細やかな動きはできなかったはず。
治っ、た…?
会わなかった二ッ月の間に、目覚ましく何かが起こったのか。
「できました」
「ありがとうございます」
結局、全員でそれが終わるのを待っていた。
それからも彼らの前を歩く私は、それ以上振り返って観察することもできず。
庭園の裏口なのだろう、木戸から「ではまた」と独り入って行く彼を見送ることしかできなかった。
知らない方が良いのだと、自分に言い聞かせて、いつの間にかそれが当たり前になっていた。ここで生きるには、そうしなければならないのだと思っていたから。
核心に触れたのは、嘘に気づかない振りをすることを止めた時
「松本先生、父さまは…」
「…残念ながら、儂も網道さんの居場所は知らないんだ」
松本先生は伏し目がちに、申し訳なさそうに言った。
「そう…ですか…」
先生に問いかけたときに覚悟はできていても、思ったよりも私はがっかりした。
近藤さんが東下した際に、松本先生とお会いしていて。もし父さまの事が何か分かっていたならば、今まで話を引き延ばしはしないだろうと、予想はできていたのに。
それでも……何か手がかりはあるはず
「…松本先生、近藤さん…教えてください。父さまはここで一体何をしていたのですか?」
サッとお二人の表情が曇る。そして、松本先生は近藤さんに確認するように視線を送り、彼は小さく首を振った。
やっぱり…
松本先生が知っていて、それをひた隠しにするということは、おそらく幕府が関わっている事で。
幹部の方ですら父さまと接触がなかったのに、似顔絵まで描いて探していたという事は、父さまが何か重要な役割を担っていたという裏付けだった。
そして、『りはびり』の片手間と言って、山南さん一人が扱っているという南蛮由来の薬。私が治療室の管理を担ってすら、詳細を教えてもらえない物がある。
考える時間だけはたくさんあった。きっと大枠ははずれていない
胸を張って姿勢を正す。焦りそうになる気持ちをクッと飲み込んで、ただ真っ直ぐに近藤さんを見た。
「父さまが新選組にいたのは、幕府からの依頼で…でも、町医者としての仕事ではないんですよね。山南さんの扱っている薬の研究をしていたのですか?」
「!」
異見を言っても、怒る人はいない
近藤さんを前に、それを信じることにした。
好奇心じゃない。これは私が知りたいと声に出すだけの理由がある。この方がそれを聞いてくれる人だと、私は信じられる。
それでも酷く緊張した千鶴の視線を受けて、近藤は迷った。その硬い表情が崩れることはない。
駄目…か
「…網道さんが行っていたのは、傷を癒す…霊薬の研究だった」
「松本先生!」
思わぬ方からの声に、顔をそちらに向ける。
傷を癒す、霊薬
「近藤さん。聡い子だ。ここまで分かっていて、それでもあんた達を信頼して共にいる。
彼女が覚悟を決めて問うたことを、どうして頭から咎めようか」
「ーーっ、しかし…」
「機密全てを話せという訳ではない。ただ、彼女の信頼と献身に見合う応えを与えられるのは、あんただけだ。局長」
「…」
そう松本が諭しても、近藤は押し黙る。
それほど重大な何かに父さまは携わっていたのだ。
どうして…
「…千鶴君、納得のいく応えが得られないのならば、儂と共に江戸に帰ろう」
「え…?」
「それは…!」
「近藤さん、彼女は客人でも隊士でも、ましてや捕虜でもないのだろう? それでも懸命に務める彼女を馬鹿にするようなあんたらのところに、大事な友人の娘である彼女を、儂は預けておきたくない」
「…――っ」
「どうだね、千鶴君。ここでの生活は、君にはあまりに不便だろう」
意地悪や煽動で言っているわけではない。先生は真剣に私を心配してくれていた。
帰る?
「網道さんのことは、改めて各藩医に訊いてみよう。どこかの藩に匿われているやもしれん。京での捜索は容保様と南部先生に任せて問題ない」
私がここに居て、あちこちに出向いて探すことに、それほど利はないのだと言われていた。
帰る…
…
帰りたい…?
長く、それを考えたことがなかったのだと気づく。
この一年、帰りたいと思ったなら、きっとどこかで帰れていた。もしも一度でも声に出したなら、近藤さんは路銀すら握らせてくれただろう。
そう思わなくなったのは…
私が必要だと、力を貸してほしいと望んでくれる人達がいた。
何気なくした事にも”ありがとう”と感謝をされた。
一生懸命に向き合った命があった。
池田屋を目指して、祇園を目指して、一人で夜に駆けたあの日から
私はずっと前を向いている
「…松本先生、ありがとうございます。でも、私はここに残ります」
声に出して、初めて自分で道を選んだ気がした。
江戸で父さまと暮らした十六年。父さまに「駄目だ」と言われたことは、したことが無かった。なに不自由のない穏やかな日常。よく知った優しい家族と隣人。
そして、十六年の人生から欠けたものを探していた、この二年。
出会ったのは、不自由ばかりの、苛烈でキラキラとした世界。今、この瞬間を全力で生きている人達。
彼らが私を信じてくれるときの、燃えるような胸の熱さ。
取り上げないで
千鶴は無意識に笑む。松本はそれを見て、困った顔で笑った。
「…しばらく見ないうちに、大人になったな」
「? そうですか…?」
どちらかと言えば、ワガママのような…
千鶴は自分の頬に触れる。少し考えてみて、そういえば月のものが来たから大人になったかも、と思った。
「どう思うかね、近藤さん」
「…松本先生にも、雪村君にも、叶いませんな…」
近藤はため息を吐き、眉をㇵの字にした。まぶしいものを見るかのように、千鶴を見て目を細めた。
「新選組……網道さんを会津藩より紹介されたのは、浪士組の頃のことだった」
そして、ゆっくりと言葉を選ぶように話しだす。
「当時の壬生浪士組は極々小さな組織で、資金繰りに困り、いつ江戸へ戻らねばならぬかという状況だった。
なんとか御公儀に繋がりを持ったが……引き立ててもらうためには、幕府の抱えている未知の薬の実験場になることが条件だった。本意でなかったというのは、今となってはの話で…当時は、それも致し方ないという考え方があったんだ」
未知の薬…の、実験…
「あとは君も知っての通りだ。壬生の網道さんが暮らしていた家屋で不審火が起きて、それ以降、彼は行方知れずとなった。
残った薬を山南君が今も扱っているが……霊薬というには遠く及ばない…危険な物だった」
「…どうして…父さまは幕府で…ここで研究を…」
「幕府と網道さんの繋がりについては、俺は全く知らない。ただ、壬生浪士組は都合が良かったのだろう。未知の薬は傷がすぐに治る特殊なもので…」
近藤さんの言葉は尻すぼみになって消えた。何を話そうか、話すのを止めようかと迷っているのが分かった。
「…阿片(アヘン)のようなものと思えばいい。使えば心を蝕むものでもあった。傷が癒えても、心が壊れた者を、儂も何人も見た」
「心を…」
阿片は聞いたことがある程度のものだったが、清と英国が戦争をした原因だとは知っている。
「それでも全員ではないんですよね。傷が治った方もいるから、父はその望みにかけて…」
「いや…」
「すまないが、君に今これ以上を話すことはできない。薬についてもだ」
答えあぐねた松本から請け負うように、今度は近藤が首を横に振る。その先に踏み入ることは許されないのだと。
傷が治っても、心が壊れる薬
「父さまはどうして…そんな危険なものを…」
父さまは危険を冒すような性格ではなかった。
患者さんの話をじっくりと聞き、原因や治療を考えて本とにらめっこして。時に、他の医師にも知恵を借りてくると言って出かけて。怪我をしないように、病気にならないようにと、みんなに説いていた。
心を蝕むような、犠牲をはらう実験を進めるなんて…
穏やかに笑う父の記憶が揺らぐ。
「網道さんの考えに関わらず、幕府の命は受けざるを得なかったんだろう。
…しかし結局。綱道さんはここを去った。確かな良心があるからこその決断だったんだと思う」
松本先生はそう言って下さった。
私の見ていた父は、松本先生から見えている姿と同じだったのだと、少しだけ安心した。
千鶴は眼を開ける。少しうとうとしていたらしい。
最初から熱めだったお湯が、ようやく丁度いい温度になっていた。
「四半時、経ってないよね…」
弥月さんがそれくらいでまた迎えに来ると言ってくれた。油も勿体ないしそろそろ上がろう。
手ぬぐいで身体を拭い、髪をまとめて、サッと対丈にした小袖に袖を通す。外は暗いから、部屋までの距離くらいなら、袴はなくても構わないだろう。
『網道はこちら側にいる。意味は分かるな? お前の父は幕府を見限ったということだ』
薩摩藩の人が言ったあの言葉。
本当のことか分からないと、みんなに私の動揺を宥められたが、あれは向こうから出した名前だった。恐らく、今は彼らの方が父と繋がりがある。
見限って…どうして薩摩にいるの?
そこは、実験場ではないの?
傷を癒す、霊薬って?
傷がすぐに治る……幼いころから繰り返し言い聞かされた、『神様からの贈り物』をもつ体質の私。
本当は父さまは何か知っていたのかもしれない。
もしかしたら
その薬が 私から作られたのか
その薬から 私が生まれたのか
薄暗い中で、鏡に映るわずかに照らされた顔をじっと見る。
『網道さんって、実の父親?』『全然似てないなと思ってさ』
沖田さんの言葉が蘇る。
「父さま…」
誰にでも優しい父さま
私にはその何倍も優しい父さま
信じている。
人様に言えないような事を、壬生浪士組にしてしまったのだとしても、決して本意ではなかったのだと。
私の父さまは、私が信じている
「大丈夫。だから」
だから、ここに帰ってきてね
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