姓は「矢代」で固定
第9話 診察
混沌夢主用・名前のみ変更可能
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
慶応元年六月上旬
弥月side
「千鶴ちゃん、どーおー?」
「あっ、このままで行けそうです!」
夕暮れ後。羅刹隊宿舎の傍らに建てた小さな小さな小屋。その外と中で会話をする。
弥月は満足気な表情で、鍋に入った燃える薪をそのまま持って、宿舎の勝手場に戻った。
「また無茶な事を始めたかと思いましたが、なんとかなりそうですね」
「山南さん、おはようございます」
寝起きらしい、少しぼんやりとした顔で髪の乱れた山南さんが「おはようございます」と。
隊士用の風呂を設置するのは、命令されたその日の内に終わったのだけれど。
桶と鉄筒さえ用意すれば野ざらしで風呂入れる男達とは、こちらは訳が違った。桶を置く小屋を建てるために、伊東さんに気付かれぬよう隠密に事を進めなければならず。昨日ようやく完成したのだ。
「為せば成るもんです。火起こししたついでに汁物作ってるので、食べてくださいね」
「ありがとうございます。とはいえ、彼女はあまりこちらに近づけない方が良いと思うのですが…」
夕餉の準備のときに、取り分けておいた食材を鍋に放りこむ。
「なんでですか?」
「何故と…」
ケロッとした様子で、まさか聞き返されると思っていなかった山南は戸惑った。
「羅刹がいるのですよ?」
「はい。もし羅刹増やしたら、誰もお風呂覗かないよう厳重注意してくださいね」
「そちらの心配ではなく…」
いや。私の心配はそっちだけ
山南さんが危惧している事象は分かっていたが。私としては、宿舎から出られない人が、血迷って風呂の覗きをする方が問題だった。
そうとはいえ、彼の心配を受け入れなければ話が進まない。
「千鶴ちゃんを宿舎内には入れませんし、山南さん以外の幽霊は見せません」
「勿論、羅刹となった隊士の生死については、秘匿しなければなりませんが…」
「千鶴ちゃんの行き帰りは、私が責任持って監視してますって」
「…未だ嘗て、あなたが雪村君の監視をきちんとしていたことがありましたか?」
味噌を溶いていたお玉が止まる。
言われて気付いた。
無いか
「そちらではなく…羅刹ですよ」
…羅刹、ね
こうして山南さんと今まで通り話しているが、彼は”羅刹”である。それは時に、残忍に血を欲する者となり得るのだと。
「…危険ってことですか?」
「当然でしょう」
「危険ですか?」
「……場合によっては」
「じゃあ早めに警告してください。連れて逃げます」
弥月は肩を竦めて、彼を振り向く。
山南さんが変若水を飲んでから四ヶ月。抑えきれない程の衝動性は、彼には未だ訪れていないという。
ただ…抑えられる程度の渇望は、どれだけ重ねられるのか
その未知数を危険だとは理解していたけれど、この目の前の人物を避ける必要があるとは思えなかった。
彼自身が自分を信用しておらず、そうなった時の自分の身より、近くにいる私達のことを心配している。
だから、抑えられなくなる限界に、きっと彼は到達しない
無防備に構えている人じゃない。我を失って血に狂うその姿を、彼が私たちに見せる日は来ない。
「できたので、いつでもどうぞ。そっちのひじきは千鶴ちゃんの味なので保障します。
ところで。血、要ります?」
「…ありがたい申し出ですね」
「そんなに心配なら、症状緩和の薬、備蓄しておく方が良いでしょう」
「おかげさまで在庫も増えてはいますから…」
以前ならば、ありがたくと受け取っていただろう私の提案に、最近の山南さんは時々迷うことがある。
迷うってことは、必要な時期ってことかな…
羅刹は人間の血液…特に鮮血の臭いに、敏感なのだと彼は言った。それが吸血衝動のきっかけになり得るのだと。
そのため、採血時に羅刹化の危険性が最も高くなるらしい。
一方で、私の血は、変若水を変えた新たな触媒であり、粉末にすれば症状緩和の薬としても特に有効であるそうだ。
「目の前で飲んでもなんとも思いませんから、採血ついでにどうぞ」
「…申し訳ありません」
山南は沈鬱な表情で、少し頭を下げた。
前回、松本先生から注射器を譲ってもらったと言われたが、なんせそれが銀製の針一体型で、ピストンはネジ式。針の中まで洗いきれずに汚そう(笑)だった。
なので、少しでも苦痛を減らそうと思って用意してくれたらしいが、未だに私は自ら腕を斬っている。
まあ…悪いと思ってもらうくらいで、丁度良いんじゃない?
ちょっと性格が悪いと思わないでもないが、当然と思われるのも少し癪だ。
完全に腕が治っている山南さんにとって、私の左腕としての価値はもうない。罪の印がなくなり、彼自身が望んだ副次的なもので贖罪を求めるのには、お互いに無理がある。
部屋の中に移動して、上腕を襷(たすき)で縛る。浅く見えている太い静脈を突くと、溢れ出る赤黒い液体。
弥月は呼吸が深くなった山南を横目で見ながら、親指を伝って、血液をビーカーに落とし込む。
鬼と羅刹って、やっぱり何か関係ありそうだよね…
赤くなった山南さんの眼を正視せずに、それ以上変わりがないことを、気配だけで感じ取る。
「…次から採血は、沖田君がいるときにしましょう」
「え。今やばいですか?」
「いつもギリギリで耐えている私の身にもなってください」
「沖田さんがいれば万が一箍(たが)が外れても大丈夫って思うなら、寧ろそのまま耐えてください」
「…手厳しいですね」
「はい。おしまい」
襷をはずして傷口を布切れで押さえ、そのまま彼の方へと弥月は手を差し出す。
その傷と指の間を繋いだ赤い筋を、山南は自分の指で浚(さら)った。
ここで、いつもなんとなく目を逸らしてしまう。見てはいけないものがそこにある気がした。
それを誤魔化すように、水瓶へ向かい、残った汚れを水で洗い流す。
「流石にそろそろ出てくるかな。次、お湯どうぞ」
「…ありがとうございます」
目を閉じたままの山南さんをちらりと見てから、外へ向かう。直後はそっとしておいて欲しいと、以前に言われた。
少し待っていると、木戸の音が鳴る。
「あっ!」
「どうだった?」
「えへへ…ありがとうございます。良いお湯でした」
この蒸し暑い夜に、千鶴ちゃんはしっかりと温まったらしい。赤ら顔で、頭から蒸気が出るのではないかと思うほどだ。
「湯あたりしてない、大丈夫?」
「大丈夫です、でもお水ほしいかも…」
「おっけ。とりあえず帰ろうか」
見るからに逆上(のぼ)せている。けれど、ヘロヘロで危うげなのに、見たことがないほどに嬉しそうな顔をして。
お風呂作ってよかった!!
桶いっぱいにする水を運んできた重労働も、これのためなら大したことじゃなかった。
誰にも見せたくない可愛さだけれど、みんなにこの功績を自慢したくて仕方がない。
そう思いながらすぐに部屋に戻ったが、今度は千鶴は白い顔をして「気持ち悪くなってきました」と言って。
彼女を寝かして、弥月はうちわで仰ぎながらこっそりと笑った。