第9話 診察

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***



 翌々日。


「こんにちはー」

「あら、こんにちは。矢代はん」


 会津藩医・南部先生のお宅の、通いの女中さんが表の掃き掃除をしていたので挨拶する。かつて山南さんの腕の件で訪ねたことがあり、家人とも顔見知りではあった。


「松本先生は居やはります?」

「はいはい、おいやすよ。矢代はん来はったら診察室にお通しするよう言い遣っとります」

「診察室?」

「今は南部先生の患者はん、一緒に診てはりますからそちらに」



  診察室?



 一昨日、ここから帰ってきた烝さんが、話がしたいから今日この時間に来るようにと、言付かったとのことだった。話す場所などどこでも構わないが、南部先生や他に患者さんがいる最中に、込み入った話をするような配慮のない人だろうか。


 弥月は女中に案内されるがままに敷居を跨いだが、外には待合している患者らしき人が二人座っている。


「先生ら、矢代はんがお来しやす」

「丁度いいところだ、入りなさい」


 暖簾の向こうから、松本先生の声がした。
 中に患者がいるのでは?と思って、一度女中さんの顔を見たが、彼女はどうぞと手を差し出すだけで。


 恐る恐る暖簾をくぐると、白い割烹着を着た先生二人と…


「うっ…」



  悪臭



 思わず手の甲で鼻を塞ぐ。糞便や下水の臭いとも異なる、言葉で表現できない有機的な鼻を突く臭い。


「あんたらの所にも、いずれこうなるのが居る。梅毒を見たことがなければ、見ておきなさい」


 松本先生は患者から目を離さずにそう言った。南部先生は顔を上げて、私に会釈をしてくださる。


 そして弥月は先生方の視線の先を見て、臭いの源を理解した。



  ヴッ…わ…



 顔面の腫れと、鎖骨の大きなぶつぶつの塊と、えぐれて黄色く膿んだ傷。痛々しいを通り越して、気持ちの悪い…不気味な様相だった。

 すぐに患者の視線に気づいて、表情を引き締めたが、あまりに礼を欠いた。


 それからは言われるがままに見学をしていた。
 最初の患者の傷は酷すぎて目を逸らしたくなったが。それと比べると、後の人達は「触ったら移りそう」とは思っても、今にも死にそうな傷はなかった。


 患者が入れ替わり立ち代わりして、一刻ほど経った頃。
 「今ので終いだ。下がっていい」と言われて、弥月は手前の部屋の上がり口でグッタリと項垂れる。

 しばらくしてから、松本先生は割烹着を脱いだ楽な恰好で現れた。


「吐かなかったな。桶を用意し忘れたから助かった」

「…」


 なんとか彼を見上げたが、疲れて返事をする気にもならなかった。
 ただ見ていただけなのに、気力を全て持っていかれた。


「ハハッ、山崎も終わったとき同じ顔をしていた」

「…千鶴ちゃんも見てたんですか?」

「あの日は蛆(うじ)がわいた金創もあったが。千鶴君はしばらく青い顔で倒れていたな。
 それでも、患者が居る間は気張っていたんだから、あれは大したもんだ」

  

  ゲェ…



 えぐえぐのえぐが過ぎる。


「蛆といえば、あんたらは今まで金創に焼酎かけていたんだと?」

「そうですね、基本的に全ての怪我は洗って酒です」

「石灰はなぜ選ばなかった」

「…消毒効果はあったとして、人間の傷に使っていいか分からなかったので」

「ヨウ素は」

「今日初めて見ました」


 保健室にあった茶色いうがい液のことなら、さっき静かに驚いていたところだ。あれ欲しい。


「傷を洗うのも飲むのも、井戸水ではなく湯冷ましを勧めてるらしいな。
 それを言い出したのはあんただと聞いたが、理由は? 誰に師事している?」

「独学です…」



  疲れた

  今日はもう話とかいいから、帰りたい



 そう思いはしたが、本題のホの字にも達していないから、弥月はのそりのそりと姿勢を正す。


「先生に合わす顔もないと思っていました。今日はお話する機会を頂いただけでなく、医療のご指導もいただき、ありがとうございます」


 恭しく頭を垂れる。

 沖田さんが屯所に居続けている。そして私が独りでこちらに呼び出された。それはつまり、先生が意志を曲げて下さったということだ。


「…あんたに礼を言われる筋合いはない。儂があの男の覚悟を尊重しただけだ」

「ありがとうございます」


 松本は隣に腰を下ろして溜息をついた。


「本人に重ね重ね無理をするなと注意はしておいた。生活の細かいことは千鶴君に伝えてあるが…」

「?」

「あんたが知ってる事を、沖田は知らない。そのつもりでいてくれ」

「…分かりました」


 沖田さんの様子が変わりないから、そうだろうとは思っていた。

 その方が、私も気が楽だということにも気付いていた。




  私が気負う必要はない



  彼が進むと言うのなら

  もし、彼が、もう歩けないと言ったなら



  それだけを基準にすればいい


 
  治すための前進ではないのだから




「…あんたは転ばぬ先の杖、という言葉を知っているか?」

「転ば…ない先に杖……コケるよ注意?」

「何事にも用心しろ、という事だ。千鶴君はそれをよく辨(わきま)えていたが…
 あんたら武士は志ばかりが立派で、すぐに当たって砕けようとする。老婆心ながら、若者が生き急ぐのを見るのは気分の良いものではない」

「…肝に命じておきます」


 私がそういう顔をしていたという事だろう。
 怒られているというのに、誇らしいような気さえした。


 苦笑した弥月に、松本は顔を顰める。


「生かしてやれ」


 少しでも長く、と。



  良い先生だ



 弥月は松本としっかり視線を合わせてから、会釈する程度に小さく頷いた。


「次は山崎らと共に来ると良い」

「…? もしかして、先生は今日はそれを言うために呼んで下さったんですか?」

「まあな。最初は、応急処置ができるのが二人もいれば十分かとも思ったが……あんたの話を聞いて、雪村君らがゼロから学んで、あんたが学ばないのは勿体ない、とな」

「なる、ほど?」


 とことん、こざっぱりした御人だ。情に厚いけれど、生じていた不和を乗り越えるほどの合理主義。



  なるほど、これが江戸っ子



 女中さんがお茶を出してくれて、「お腹空いたでしょう。お茶請けに」と、きな粉の串団子をもらう。



「それに用事もあったからな」

「ほぅじ?」

「その髪が突然変異ではなく、隔世遺伝と言った事について、福澤殿がどうにも引っかかったらしくてな」

「はあ…」

「あんたの言う遺伝とは何だ?」

「なんだ、と言われましても…」



  エンドウマメの交配?



 ここでそれを説明しても歴史に影響ない気はするが、そんな雑学を求められている訳ではないだろう。


「親から受け継いだら遺伝じゃないですか?」

「儂もその言葉自体は理解はする。だから、福澤殿も何が違和感だったのかとしばらく不思議に思っていたそうだ。
 その結果、言葉の語感が良いものなのだと」


「語感…?」

「突然変異では『変わり者』としての色が強くて悪い印象があるが、隔世遺伝だとそれが薄くなる。
 誰も使わないその言葉を、あんたが無意識に使うその所以は何だろうかと言っておった」

「…」


 言葉の意味は分かるが、使い方が腑に落ちないのだと。



  んー…


  …それ、そんなに大事?



 考え方として、逆ではないだろうか。
 私が異国人であることを前提に、粗探しをして出た疑問のような感じがした。


 弥月は口にある団子を咀嚼して、お茶ですっきりとさせてから、それに応える。


「福澤さん翻訳家でしたっけ。言葉に囚われすぎているのでは?」

「儂もそう思っとったんだが、な。あんたを見て気が変わった」

「え」

「口を割らせたくなった」

  
 松本は食べ終わった団子の串をくるくると回しながら、ニヤリと笑った。


「あんたの医学は少なくとも文献からではないな。Dhr Pompe、Dhr Gratamaの講義の、表層だけを掻い摘まんだような偏り方だ。しかも最新の知識もある。
 それでいて、本道にはてんで疎いときた。これの師が西洋人でないはずがない」



  なんだって?



 途中、日本語じゃなさそうな言葉が混ざっていた。


「矢代は何語が分かる?」

「…主に上方言葉です」

「…江戸訛りで話しながら可笑しなことを言う」

「…」



  ああ、これ、めんどくさいやーつー…



「大量に出血した場合の血液の転輸について、欧州では例がある話を山崎にしたんだが。種類は分かるのかと、訳の分からん質問をしてな」

「あー…」


 これはもう質問に答えるばかり、誤魔化すばかりになる流れだ。
 今となっては探られても大して痛くはない腹だけれど、追求されても困るから、あまり話したくはない。



  蘭方医かぁ……福沢さんも大概だったけど…



 さっき知り合った程度の仲の人に対して、距離感が近い。これが西洋文化か。私は京都市民だから、それは無理。



  …あ、思い出した



「蘭学って、オランダ語でしたっけ?」

「昔はそうだったが、西洋学をまとめて蘭学と呼んでいる節はあるな。外国の共通語は英語のようだ」

「ふぅん」



  じゃあ、私の中学英語レベルでも、ちょっとは役に立つってことか?



 弥月は傍らに置いていた顕明連を掴んで、鞘から刀身を半分ほど出す。


「な…ッ」
「…って、無いじゃん。あ、でもこれでいけそう」


 たじろいて身体を引いた松本先生を横目に、弥月は抜き身を持って立ち上がる。


「これも借りますね」


 机の上にあった、おそらく薬を混ぜる用と思しき、木の杓子を掴んで振り返る。
 腰の引けた松本は不信な顔をしながら、コクッと小さく頷いた。


 弥月は元の位置であぐらをかいて座り、団子の串と杓子で、柄の目釘を抜く。


カシャン゙


「松本先生って、外国語読めますか?」

「…英語と蘭語なら多少はな」


 柄を取り、鍔だけ残った刀を、ズイッと松本の前に差し出す。


「おいっ…!」

「これ、何語ですか?」

「儂は蘭語と英語しか分からんと……蘭語だな。なぜ刀身に蘭語が…これは誰の銘だ?」

「分からないから聞きたかったんです。脂がつくので、刃には触らないでくださいね」

「言われずとも…」


 刀に触る気はないらしい。
 差し出されたまま、しげしげと物珍しいように茎を見る。


「…の枝? Takken、ここの単語は枝だ。vanは接続詞の「の」にあたる。deは名詞の前につくが、それは日本語にはない感覚だな。まあそこまで深く考えなくて構わん」


 知識のない者へ、つい細かく説明してしまうのは松本の性分だった。そして、弥月が彼の指先を見ながら「the か」と一人ごちたのを、松本はちらりと見る。


「だが、この単語は知らんな。wereldboom……そのまま一見すると、世界と木なんだが…一つの語か…」

「世界と木?」

「前のここまでが世界、残りのboomが木だ。だが一つ続きだから、別の意味をもつ可能性がある」



  世界木


  世界樹 の 枝



「ユグドラシルって確か北欧神話…」

「なんだって?」

「蘭語ってオランダ語ですよね?」

「何を今さら…」


 ポイと刀をそのまま置くと、また「おい、仕舞わんか!」と咎められる。
 けれど、弥月は気にすることなく、そのまま自分のお茶に人差し指を浸けた。


「オランダってどの辺ですか?」


 松本と自分が座る間の板間に、お茶で小さな丸を描く。そして、次に巨大な楕円を。水分を吸った木の板は、そこだけ色が濃くなった。


「ここが日本として、ここが中国、ロシア」

「…あんたの世界の解像度は低いのか高いのか分からんな。それに、変な位置から書き出す…」

「京都から出たことほぼないので。ここがアメリカ、ロシア、この辺ヨーロッパ、イギリス、アフリカ、オーストラリア」

「…なら、オランダはこの辺りだ。この地図ではゼルマンもフランスもここだがな」

「この辺の島とは別?」

「別だ。オランダは大陸にある」

「…ですよね。オランダってキリスト教ですか?」

「…そうだ」


 ということは、オランダは北欧ではなく、信仰する神様は一人。
 北欧神話は自然系の神様の話のはず。世界樹もぼんやりとした概念的な存在でしか知らないが、美術かなんかの本で見た、地球に生えてるでっかい樹だ。



  なんだ、これ



 単語は読めたが、新しい謎が増えた。

 刀につながる情報が何もないということが分かって、困った弥月に対して。松本はいいかげんな地図を見ながら、「ふむ」とどこか合点がいったような声を出す。


「日本が真ん中の地図とは…意外だな」


 きょとんとする弥月

 それを見てきょとんとする松本。


「…あ、なるほど」

「なにが、なるほどなんだ」

「大好きですから、日本。真ん中がいい」

「うむ! 確かに、欧州のは端になって気に食わん。儂もこれから真ん中に描くとしよう!」


 松本はハハハッと豪快に笑う。

 弥月は刀を鞘に納めて立ち上がる。


「ありがとうございました。では、今日はこれで失礼いたします」

「…勝手な奴だな」

「まあ、追々ですね。知識の整合性が取れるといいな、とは思ってます」

「…そうか。あんたは知識よりも経験が足らんようだがな。まあ、楽しみにしていよう」


 この人は諦めも良いらしい。


  
  …というより、人が本気で嫌がることはしない感じかな


 
 近藤さんらを巻き込めば、沖田さんを離隊させることはできたはずなのに、そうしなかった。

 とても偉い医官のはずなのに、農民出も武家出も分け隔てなく、隊士一人一人をきちんと診てくれていた。


 
  最後まで…居てくれたらいいな…


 
 救いのない未来でも、患者が生き急がない事を願い、志に寄り添い、支えてくれるお医者さん。


 きっと私達には彼が必要となるだろう。


 未来で、戦場で共に走る姿が見えた気がした。

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