姓は「矢代」で固定
第7話 無軌道な優しさ
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***
そう言って出てきたものの、弥月君はどこに行ったのか。
前なら納戸の自室か、監察方の部屋だったんだろうけど…
屯所が西本願寺になって、どちらもなくなっている。治療室は数人在室中と聞いているから、そこに行く可能性は低い。
泣きつくとしたら…山南さんか、山崎君か、近藤さんか…
はじめ君と土方さんが不在だから、想定されるのはこの三人。少し考えて、時間的にも可能性が高い山南さんのところへ向かうことにする。
「今日は誰も来ていませんが?」
「そうですか。なら、いいんです」
隠している様子でもない。
当然、「どうしましたか?」と聞かれたが、彼女の名前を出すのは得策ではない気がした。軽い意地悪のつもりでうっかり泣かせただなんて、逆鱗に触れかねない。
不審な顔をする山南さんを置いて、そそくさと後にする。
次に訪ねた近藤さんも似たような反応で、全く心当たりはないようだった。
一応と思って副長室も覗いたが、押入れの中にもその姿はなく。ついでに治療室と勝手場を覗くがいない。門番に聞いても、少なくとも門から出てはいない。
ちょっと面倒くさくなってきた
嫌々ながら足を向けたのは、まだ明かりの点いている小荷駄雑具方の部屋。
いない、とは、思うんだけど…
コンコンと障子の枠を叩くと、近くにいた平隊士が向こう側から開けて、驚いた顔で「沖田組長!」と。
「総司、どうした?」
自分に用だと思った左之助が、立ち上がろうとしたけれど、沖田は誰とも視線を合わせずに、部屋を一瞥する。
「分かった」
「は?」
何事もなかったかのように、障子を閉める。
中に山崎君がいたし、何も知らなさそうだった。
溜息を吐く。ある意味ではここが一番面倒くさい事態になりそうだから、ここにいなくてよかった。
かと言って、あとは…
広い境内を濡れ縁からさっと見渡す。片隅でシクシク泣いている彼女は、いまひとつ想像がつかない。
門以外から出たなら、見つけようがないな…
壬生寺か、河原か、監察方の長屋か……アテはあるけれど、外したときの徒労が大きすぎる。
さて、どう言い訳をして自室に戻ったらいいかと考えだして。ふと、目に留まったのは灯りのない道場。
…
…
…いた
真っ暗の中、門番にもらった提灯を掲げて、その薄い色の髪を見つけた。
「沖田さん」
「…うん」
声をかける前にかけられて。けれど、弥月はこちらを振り返らなかった。誰が来たのか確認しただけなのだろう。それ以上彼女から話しかけてくる様子はない。
…嫌だな
「八十八さんらが捜してこいって…」
黙って背を向けられていて、どうして自分がこんなに緊張したのかはすぐに分かった。
彼女の手元に刀はない。道場の中も、刃引きしたものしかないはずだ。
だから、一言だけ、早く、言い損ねる前に
「…ごめん、言い過ぎた」
「…事実でしたから、謝らなくていいですよ」
返事は間も空けずにあって、声はわずかにこちらを向いていた。拒絶ではなく、本当にそう思っているのだろう。
けれど、どうしようもなく辛いときに、孤独に完結させたこの背を知っていた。僕はそれが取り返しのつかない事だと、もう知っていた。
なぜかそれほどの事が起きている
ここに来るまでの沖田の想像どおり、泣くか喚くかしていたら、少しは動きようもあった。けれど、言うべきことはもうないと黙る彼女に、沖田はどう声をかけて良いか分からずに立ち尽くす。
放って帰ってはいけない気がしたけれど、何もせずに、ここにいることもできなかった。
「なにを…」
何を考えているの?
言いかけてやめる。あまりに稚拙な気がした。
代わりに、彼女の頭があがり、「沖田さん」と淡々とした声が響く。
「私は強いですか?」
質問の意図が分からなかった。
「…強い、と思うよ」
思ったままに答える。
仮に新選組内で一対一で勝負をして順位付けをするなら、弥月君は相当に勝ち上がってくるはずだ。
スッと彼女は音もなく立ち上がる。そして、乱雑に立ててある竹刀と、初心者向けに用意している防具をつかむと「はい」と僕に差し出す。
彼女も自分の分を掴むと、道場の真ん中へと移動する。察して、云われるがまま僕も久しぶりにそれを身に付けた。向かい合って立ち、礼をした彼女に倣って一礼する。
「胸お借りします」
「…わかった」
みんなの前で泣かせた時点で、こちらに借りができているから、これで相殺だ。
言葉で何かを紡ぐよりも、僕にはこれが一等向いている。
…蹲踞(そんきょ)?
膝を折って腰を落とした姿勢。流派によっては試合のときにきちんとする隊士もいるが、新選組では基本的に誰も気に留めていない。彼女がするのを見たのは、初めてな気がする。
これもまた北辰一刀流での稽古以来で、沖田も同じように屈んでから、竹刀を持って立ち上がる。
そうしてようやく、いつも通り斬りかかってきたかと思えば、また動きがおかしい。
間合いもなく、打たれるのも承知で、前に前に来る。そうすると、すぐに苦手な鍔迫り合いになるのは分かりきってるのに、肝心な競り合うより前に離れる。それを繰り返す。
これは…子どもの遊び、かな
竹刀と防具を付けていてしかできない動きだ。真剣ならば、間合いも取らずに前に出てきた時点で、とっくに死んでいる。刃引きの刀ですら身に当たればかなり痛いだろう。
そして、跳ばない
回らない
走って逃げない
不要なほどに威勢のいい声を出す
何がしたいんだろう…?
理由も分からず、ただ向かってくる彼女の相手をする。子どもに型通りの剣術を教えるように。
けれど、それでは彼女にとって愚にもつかない攻撃のようで、何度斬っても迫ってきてキリがない。良いところで面を突いて、胴を蹴飛ばした。
ドタンと背で床を打ち鳴らして、ようやく彼女は止まった。
「…今のは、反則です」
「…」
本当に子どもの剣術稽古をしているらしい。そんなもの、自分たちにはもう不要な決まりだ。
弥月は面を取って、張り付いた前髪を分ける。フウと息を吐いて、くぐもっていた声が伸びやかになった。
「…足払いはダメ。身を引いて時間を浪費してはダメ。長時間鍔迫り合いしていてはダメ。相手の刀を触ってはダメ。打っていいのは小手と面と胴のみ。突いていいのは胴のここだけ。威嚇する声は出さなければならない……勿論、砂掛けも、目潰しも、他の道具を使ってもダメです。
これが私の世界の、試合の規則です。まあこの時代でも、道場稽古なら変わらないかもですけど」
太平の剣術
胴を脱いで抱えて。まっすぐに僕を見て、弥月君は首を傾げて困った顔をした。
「沖田さん、今のは…私は強かったですか?」
彼女が何をしたかったのかを理解して、分かりきった答えに窮する。
「いや…」
「私もそう思います。沖田さんに相手をしてもらっても、心底つまんなかった」
そうせせら笑って、もう一度「つまらない」と呟き、彼女は『規則』を蔑んだ。
弥月はポイポイと道具を放るように片付けるので、自然と沖田もそれに従う。
「私、親が4歳で死んでて」
「え…?」
突然に始まった身の上話。しかも、かなり重そうな語り出しだった。
「そこから育ててくれた従兄弟の家が道場で。剣道…剣術は、子どもなりにそこに馴染みたくて始めた手段だったんです」
仲の良い兄が数人いるのは知っていたし、いつも平和ボケした信条だから、大切に大切に育てられたのだろうと思っていた。だから、言うこと成すこと甘ったるくて大嫌いだった。
なのに、同じ…?
剣に人生を賭けたのは同じだった。僕にとってもそれが生きる手段だった。
「道場は兄が継ぐし、私は好きにしていい立場だったんですけど。色々考えても、結局これが一番好きで。でも、というか、しかもというか…女だから望まれてはなくて。私は自分が何がしたいのか分からなかったんです」
僕は選択肢がなかったから早くて、彼女は選べるものが多すぎて、選択できなくて遅かった。
そして今、ここに共に立っている。
「この時代に来て、たまたま浪士組に拾わ…捕まって。悩み悩んで紆余曲折して……気づいたら、どっぷり浸かってて…
…私は私のために、ここで新選組として生きることにした所だったんです。なんか最近できること増えてきて、何してても楽しいってなってて…」
「…良かったじゃない。したいこと見つかったんでしょ」
僕は近藤さんのために剣として生きることにした
弥月君は自分のために新選組として生きることにした
けど、僕は彼女を自分本位だとは思わない。人は誰だって自分勝手だから。全ては自分のためだと言える彼女は、見惚れるほどに潔ぎよい。
「でも、家族には会いたいなぁって思ってて……矛盾してますよね、まだ帰りたいって思ってるんですよ。どちらか選ぶってなったら、帰りたいんですよ、私」
「…それは」
仕方のないことと思う。大切な人が別の場所にいて、気が向いて会いに行けるわけでもない、どちらかしか選べない状況が酷なんだ。
「だから、もう偽善でいいやって。自分のしたことに私が納得したくて……自分の赦しが欲しいだけだから」
意味が分からなくて、少し首を傾けて弥月君を見ると、それに気づいて視線を合わせ、わずかに口の端を上げる。
「未来に帰ったときには、誰も私の汚いところを見てないんですよ。何十人、何百人、ここで人を殺して楽しんでても、家族が知ってる矢代弥月に戻ればいいだけだから、楽なもんです。
職業は…看護師とかが良いかも……たくさん殺した分だけ、たくさん助けたら赦せるかもしれない」
へへへと笑った。
何百人
これから進む先にそれがあると、彼女は覚悟をしていた。
心の内に汚れを隠して、綺麗な人とともに、綺麗なふりをして生きていけばいいと
想像してゾッとした。
平和な世で独り、殺した人々の顔を思い出して、罪の意識に苛まれ続け、贖罪に捧げる一生。誰とも共有しないその世界。
彼女が自分を赦す日は来ない
その汚れは落ちないから
あまりに業が深い
「…ごめん」
「?」
「思ってない…思わない。ただの言葉の綾だった」
「…そうですか。いいですよ、怒ってないですから。様子見に来てくださってありがとうございます」
なぜかその言葉に心が痛む。
彼女は優しいんだ。僕を「優しくて怖い」って揶揄ったけど、いつでも誰にでも優しくあろうとしてるのは彼女だった。戯れに投げた言葉を、同じ重さで、いくらでも投げ返してくれる。
それに甘えて、加減を知らずに、言葉をぶつけ続けて傷つけた。
だから
「僕、君のことが嫌いだったんだ。苦労知らずのくせに、偉そうなことばかり言って」
「ハハッ…知ってますよ。ちょっとは苦労したつもりです」
「知ってる……でも、君の剣は濁ってない。真っ直ぐなままで…僕は嫌いだ。ずっと綺麗なまま変わらない君のことが嫌いだ」
「…」
浅く笑った表情のままで固まった彼女。その拳は強く握られて、感情の行き場がなくて、カタカタと震えていた。
「帰れるよ。帰っていいんだよ。君はここに来たときから何も変わらない。汚れてなんかない」
その拳を包む。
濁りのない瞳から、一粒の涙が零れた。
「僕は君が嫌いだよ。明るくて煩くて、一生懸命でワガママで、負けず嫌いで強がりですぐ泣く」
綺麗な人
何か言い返したそうな顔をしているのに、返事ができなくて口を歪めている、彼女の頭をサラリと撫でる。またポロリと大粒の涙を流した。
自分を認めてほしいと、子どものように乞い
みんなに優しくありたいと……大人になりたいと願う人
「…ッふ、私は優しい沖田さん、好きですよ…」
「最近だね」
「…当たり前っ、じゃないです、か…!」
それからボロボロと子どものように泣き続ける姿に、沖田は小さく笑う。
近くで向き合ってみれば、弥月君は幼い女の子のようだった。
「…思ったより生きるの下手で困ったね」
そう揶揄うと、彼女はフルフルと首を横に振る。この状況で否定できるはずがないのに、負けず嫌いにもほどがある。
ひとしきり泣いて涙が収まったころに、「帰ろう」と、立ち上がって手を引く。
目を真っ赤に腫らしていて、彼女は嫌がったが、一番組に連れて帰った。
布団は誰かがきちんと敷いてくれていて。それを見て嬉しそうにする弥月君を見て、やっぱり戻らせて良かったと思う。みんな布団に入ってはいるけれど、そこここで起きている気配がしていた。
それぞれに背を向けて着物をゆるめて、布団に入る。沖田が明かりを消そうと手を伸ばしたところで、弥月の動く気配がした。
「…沖田さん」
間に置いた明かりに照らされて、彼女の顔ははっきりと見えていた。
身体ごとこちらを向いて、口元に片手を当てて僕にだけ聞こえるように。息を吐く大きさで、彼女が言った。
「ありがとうございます……お休みなさい」
三日月形に細められた瞼。幸せそうに緩んだ唇。疲れたのか、蕩けそうな表情をしていた。
その柔らかな表情に気を取られて返事をしそこなうと。
弥月君は聞こえなかったのだろうかと不思議そうにして、もう一度、今度は口パクで「ありがとう」と言って微笑む。
彼女から目を逸らせなくて、声をだそうとしたら思いがけず、喉が上下した音が出る。慌てて息を詰めた。
少ししてからそっと横を窺うと、僕が上を向いたからか、彼女もすでに上を向いて目を閉じていた。いつもは前髪で見えない額の形と、長い睫毛に一瞬気を取られて……気のせいだと、すぐに目を閉じる。
真っ暗な瞼の裏で、ドクンドクンとやけに胸の音が響く。
そんなまさか
形のないうちに否定をして。否定をするほどに、自分がそう意識をしたのだと気付いた。突然に湧き出でた言葉が、勝手に頭の中で反芻される。その感覚は異常なんだとまた否定をしたが、脈動は正直で、カカカと顔が熱くなる。
隣にいる人の息遣いを聞き取ってしまい、反対向きに身体を捩った。耳を塞ぎたくなる。
嘘でしょ…
可愛いなんて、彼女には一番似合わない。
そう言って出てきたものの、弥月君はどこに行ったのか。
前なら納戸の自室か、監察方の部屋だったんだろうけど…
屯所が西本願寺になって、どちらもなくなっている。治療室は数人在室中と聞いているから、そこに行く可能性は低い。
泣きつくとしたら…山南さんか、山崎君か、近藤さんか…
はじめ君と土方さんが不在だから、想定されるのはこの三人。少し考えて、時間的にも可能性が高い山南さんのところへ向かうことにする。
「今日は誰も来ていませんが?」
「そうですか。なら、いいんです」
隠している様子でもない。
当然、「どうしましたか?」と聞かれたが、彼女の名前を出すのは得策ではない気がした。軽い意地悪のつもりでうっかり泣かせただなんて、逆鱗に触れかねない。
不審な顔をする山南さんを置いて、そそくさと後にする。
次に訪ねた近藤さんも似たような反応で、全く心当たりはないようだった。
一応と思って副長室も覗いたが、押入れの中にもその姿はなく。ついでに治療室と勝手場を覗くがいない。門番に聞いても、少なくとも門から出てはいない。
ちょっと面倒くさくなってきた
嫌々ながら足を向けたのは、まだ明かりの点いている小荷駄雑具方の部屋。
いない、とは、思うんだけど…
コンコンと障子の枠を叩くと、近くにいた平隊士が向こう側から開けて、驚いた顔で「沖田組長!」と。
「総司、どうした?」
自分に用だと思った左之助が、立ち上がろうとしたけれど、沖田は誰とも視線を合わせずに、部屋を一瞥する。
「分かった」
「は?」
何事もなかったかのように、障子を閉める。
中に山崎君がいたし、何も知らなさそうだった。
溜息を吐く。ある意味ではここが一番面倒くさい事態になりそうだから、ここにいなくてよかった。
かと言って、あとは…
広い境内を濡れ縁からさっと見渡す。片隅でシクシク泣いている彼女は、いまひとつ想像がつかない。
門以外から出たなら、見つけようがないな…
壬生寺か、河原か、監察方の長屋か……アテはあるけれど、外したときの徒労が大きすぎる。
さて、どう言い訳をして自室に戻ったらいいかと考えだして。ふと、目に留まったのは灯りのない道場。
…
…
…いた
真っ暗の中、門番にもらった提灯を掲げて、その薄い色の髪を見つけた。
「沖田さん」
「…うん」
声をかける前にかけられて。けれど、弥月はこちらを振り返らなかった。誰が来たのか確認しただけなのだろう。それ以上彼女から話しかけてくる様子はない。
…嫌だな
「八十八さんらが捜してこいって…」
黙って背を向けられていて、どうして自分がこんなに緊張したのかはすぐに分かった。
彼女の手元に刀はない。道場の中も、刃引きしたものしかないはずだ。
だから、一言だけ、早く、言い損ねる前に
「…ごめん、言い過ぎた」
「…事実でしたから、謝らなくていいですよ」
返事は間も空けずにあって、声はわずかにこちらを向いていた。拒絶ではなく、本当にそう思っているのだろう。
けれど、どうしようもなく辛いときに、孤独に完結させたこの背を知っていた。僕はそれが取り返しのつかない事だと、もう知っていた。
なぜかそれほどの事が起きている
ここに来るまでの沖田の想像どおり、泣くか喚くかしていたら、少しは動きようもあった。けれど、言うべきことはもうないと黙る彼女に、沖田はどう声をかけて良いか分からずに立ち尽くす。
放って帰ってはいけない気がしたけれど、何もせずに、ここにいることもできなかった。
「なにを…」
何を考えているの?
言いかけてやめる。あまりに稚拙な気がした。
代わりに、彼女の頭があがり、「沖田さん」と淡々とした声が響く。
「私は強いですか?」
質問の意図が分からなかった。
「…強い、と思うよ」
思ったままに答える。
仮に新選組内で一対一で勝負をして順位付けをするなら、弥月君は相当に勝ち上がってくるはずだ。
スッと彼女は音もなく立ち上がる。そして、乱雑に立ててある竹刀と、初心者向けに用意している防具をつかむと「はい」と僕に差し出す。
彼女も自分の分を掴むと、道場の真ん中へと移動する。察して、云われるがまま僕も久しぶりにそれを身に付けた。向かい合って立ち、礼をした彼女に倣って一礼する。
「胸お借りします」
「…わかった」
みんなの前で泣かせた時点で、こちらに借りができているから、これで相殺だ。
言葉で何かを紡ぐよりも、僕にはこれが一等向いている。
…蹲踞(そんきょ)?
膝を折って腰を落とした姿勢。流派によっては試合のときにきちんとする隊士もいるが、新選組では基本的に誰も気に留めていない。彼女がするのを見たのは、初めてな気がする。
これもまた北辰一刀流での稽古以来で、沖田も同じように屈んでから、竹刀を持って立ち上がる。
そうしてようやく、いつも通り斬りかかってきたかと思えば、また動きがおかしい。
間合いもなく、打たれるのも承知で、前に前に来る。そうすると、すぐに苦手な鍔迫り合いになるのは分かりきってるのに、肝心な競り合うより前に離れる。それを繰り返す。
これは…子どもの遊び、かな
竹刀と防具を付けていてしかできない動きだ。真剣ならば、間合いも取らずに前に出てきた時点で、とっくに死んでいる。刃引きの刀ですら身に当たればかなり痛いだろう。
そして、跳ばない
回らない
走って逃げない
不要なほどに威勢のいい声を出す
何がしたいんだろう…?
理由も分からず、ただ向かってくる彼女の相手をする。子どもに型通りの剣術を教えるように。
けれど、それでは彼女にとって愚にもつかない攻撃のようで、何度斬っても迫ってきてキリがない。良いところで面を突いて、胴を蹴飛ばした。
ドタンと背で床を打ち鳴らして、ようやく彼女は止まった。
「…今のは、反則です」
「…」
本当に子どもの剣術稽古をしているらしい。そんなもの、自分たちにはもう不要な決まりだ。
弥月は面を取って、張り付いた前髪を分ける。フウと息を吐いて、くぐもっていた声が伸びやかになった。
「…足払いはダメ。身を引いて時間を浪費してはダメ。長時間鍔迫り合いしていてはダメ。相手の刀を触ってはダメ。打っていいのは小手と面と胴のみ。突いていいのは胴のここだけ。威嚇する声は出さなければならない……勿論、砂掛けも、目潰しも、他の道具を使ってもダメです。
これが私の世界の、試合の規則です。まあこの時代でも、道場稽古なら変わらないかもですけど」
太平の剣術
胴を脱いで抱えて。まっすぐに僕を見て、弥月君は首を傾げて困った顔をした。
「沖田さん、今のは…私は強かったですか?」
彼女が何をしたかったのかを理解して、分かりきった答えに窮する。
「いや…」
「私もそう思います。沖田さんに相手をしてもらっても、心底つまんなかった」
そうせせら笑って、もう一度「つまらない」と呟き、彼女は『規則』を蔑んだ。
弥月はポイポイと道具を放るように片付けるので、自然と沖田もそれに従う。
「私、親が4歳で死んでて」
「え…?」
突然に始まった身の上話。しかも、かなり重そうな語り出しだった。
「そこから育ててくれた従兄弟の家が道場で。剣道…剣術は、子どもなりにそこに馴染みたくて始めた手段だったんです」
仲の良い兄が数人いるのは知っていたし、いつも平和ボケした信条だから、大切に大切に育てられたのだろうと思っていた。だから、言うこと成すこと甘ったるくて大嫌いだった。
なのに、同じ…?
剣に人生を賭けたのは同じだった。僕にとってもそれが生きる手段だった。
「道場は兄が継ぐし、私は好きにしていい立場だったんですけど。色々考えても、結局これが一番好きで。でも、というか、しかもというか…女だから望まれてはなくて。私は自分が何がしたいのか分からなかったんです」
僕は選択肢がなかったから早くて、彼女は選べるものが多すぎて、選択できなくて遅かった。
そして今、ここに共に立っている。
「この時代に来て、たまたま浪士組に拾わ…捕まって。悩み悩んで紆余曲折して……気づいたら、どっぷり浸かってて…
…私は私のために、ここで新選組として生きることにした所だったんです。なんか最近できること増えてきて、何してても楽しいってなってて…」
「…良かったじゃない。したいこと見つかったんでしょ」
僕は近藤さんのために剣として生きることにした
弥月君は自分のために新選組として生きることにした
けど、僕は彼女を自分本位だとは思わない。人は誰だって自分勝手だから。全ては自分のためだと言える彼女は、見惚れるほどに潔ぎよい。
「でも、家族には会いたいなぁって思ってて……矛盾してますよね、まだ帰りたいって思ってるんですよ。どちらか選ぶってなったら、帰りたいんですよ、私」
「…それは」
仕方のないことと思う。大切な人が別の場所にいて、気が向いて会いに行けるわけでもない、どちらかしか選べない状況が酷なんだ。
「だから、もう偽善でいいやって。自分のしたことに私が納得したくて……自分の赦しが欲しいだけだから」
意味が分からなくて、少し首を傾けて弥月君を見ると、それに気づいて視線を合わせ、わずかに口の端を上げる。
「未来に帰ったときには、誰も私の汚いところを見てないんですよ。何十人、何百人、ここで人を殺して楽しんでても、家族が知ってる矢代弥月に戻ればいいだけだから、楽なもんです。
職業は…看護師とかが良いかも……たくさん殺した分だけ、たくさん助けたら赦せるかもしれない」
へへへと笑った。
何百人
これから進む先にそれがあると、彼女は覚悟をしていた。
心の内に汚れを隠して、綺麗な人とともに、綺麗なふりをして生きていけばいいと
想像してゾッとした。
平和な世で独り、殺した人々の顔を思い出して、罪の意識に苛まれ続け、贖罪に捧げる一生。誰とも共有しないその世界。
彼女が自分を赦す日は来ない
その汚れは落ちないから
あまりに業が深い
「…ごめん」
「?」
「思ってない…思わない。ただの言葉の綾だった」
「…そうですか。いいですよ、怒ってないですから。様子見に来てくださってありがとうございます」
なぜかその言葉に心が痛む。
彼女は優しいんだ。僕を「優しくて怖い」って揶揄ったけど、いつでも誰にでも優しくあろうとしてるのは彼女だった。戯れに投げた言葉を、同じ重さで、いくらでも投げ返してくれる。
それに甘えて、加減を知らずに、言葉をぶつけ続けて傷つけた。
だから
「僕、君のことが嫌いだったんだ。苦労知らずのくせに、偉そうなことばかり言って」
「ハハッ…知ってますよ。ちょっとは苦労したつもりです」
「知ってる……でも、君の剣は濁ってない。真っ直ぐなままで…僕は嫌いだ。ずっと綺麗なまま変わらない君のことが嫌いだ」
「…」
浅く笑った表情のままで固まった彼女。その拳は強く握られて、感情の行き場がなくて、カタカタと震えていた。
「帰れるよ。帰っていいんだよ。君はここに来たときから何も変わらない。汚れてなんかない」
その拳を包む。
濁りのない瞳から、一粒の涙が零れた。
「僕は君が嫌いだよ。明るくて煩くて、一生懸命でワガママで、負けず嫌いで強がりですぐ泣く」
綺麗な人
何か言い返したそうな顔をしているのに、返事ができなくて口を歪めている、彼女の頭をサラリと撫でる。またポロリと大粒の涙を流した。
自分を認めてほしいと、子どものように乞い
みんなに優しくありたいと……大人になりたいと願う人
「…ッふ、私は優しい沖田さん、好きですよ…」
「最近だね」
「…当たり前っ、じゃないです、か…!」
それからボロボロと子どものように泣き続ける姿に、沖田は小さく笑う。
近くで向き合ってみれば、弥月君は幼い女の子のようだった。
「…思ったより生きるの下手で困ったね」
そう揶揄うと、彼女はフルフルと首を横に振る。この状況で否定できるはずがないのに、負けず嫌いにもほどがある。
ひとしきり泣いて涙が収まったころに、「帰ろう」と、立ち上がって手を引く。
目を真っ赤に腫らしていて、彼女は嫌がったが、一番組に連れて帰った。
布団は誰かがきちんと敷いてくれていて。それを見て嬉しそうにする弥月君を見て、やっぱり戻らせて良かったと思う。みんな布団に入ってはいるけれど、そこここで起きている気配がしていた。
それぞれに背を向けて着物をゆるめて、布団に入る。沖田が明かりを消そうと手を伸ばしたところで、弥月の動く気配がした。
「…沖田さん」
間に置いた明かりに照らされて、彼女の顔ははっきりと見えていた。
身体ごとこちらを向いて、口元に片手を当てて僕にだけ聞こえるように。息を吐く大きさで、彼女が言った。
「ありがとうございます……お休みなさい」
三日月形に細められた瞼。幸せそうに緩んだ唇。疲れたのか、蕩けそうな表情をしていた。
その柔らかな表情に気を取られて返事をしそこなうと。
弥月君は聞こえなかったのだろうかと不思議そうにして、もう一度、今度は口パクで「ありがとう」と言って微笑む。
彼女から目を逸らせなくて、声をだそうとしたら思いがけず、喉が上下した音が出る。慌てて息を詰めた。
少ししてからそっと横を窺うと、僕が上を向いたからか、彼女もすでに上を向いて目を閉じていた。いつもは前髪で見えない額の形と、長い睫毛に一瞬気を取られて……気のせいだと、すぐに目を閉じる。
真っ暗な瞼の裏で、ドクンドクンとやけに胸の音が響く。
そんなまさか
形のないうちに否定をして。否定をするほどに、自分がそう意識をしたのだと気付いた。突然に湧き出でた言葉が、勝手に頭の中で反芻される。その感覚は異常なんだとまた否定をしたが、脈動は正直で、カカカと顔が熱くなる。
隣にいる人の息遣いを聞き取ってしまい、反対向きに身体を捩った。耳を塞ぎたくなる。
嘘でしょ…
可愛いなんて、彼女には一番似合わない。