姓は「矢代」で固定
第5話 変若水
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元治二年二月二十七日
千鶴side
昨朝は幹部の皆さんの食思が進まず。とりとめのない雑談の一つも交わされることがなくて、誰にも迂闊に話しかけられる雰囲気ではなかった。後からそれとなく原田さんに声をかけてみても、「ちょっとな」とはぐらかされるだけで。
そして、ついに夕餉の頃には「悪いが、俺らは後で食べるから」と、配膳すらも断られた。
その理由を、私は明朝知ることになる。
「さ、んなん、さんが…?」
早朝、日も昇る前に、斎藤さんが部屋を尋ねてきた。最初は寝ぼけまなこのまま前置きを聞いていたが、すぐに目が覚めた。
山南さんが咋朝に自害したのが発見され、さきほど深夜のうちに亡くなったと。
「…どうして…?」
「誰も理由は誰も聞いてはいない。だが…」
心当たりならあるだろう
言外に彼はそう言った。
「そんな…」
私はそうなる可能性があることを知っていた。知っていたことを、認めたくはなかった。
脳裏に映るのは、「お役ご免のようです」と悲しげな眼差しをしていた彼の姿 。
どうして…
臓腑がキリキリと絞られるような感覚がする。
そうするしか、山南さんにとって救いはなかったの…?
「山南さんに、会えますか…?」
「…今は駄目だ。昼までに全て整えて葬儀をすることになっている」
「じゃあ、そのお手伝いを…」
湯灌や着替えのお手伝いをしたい、そう思って千鶴は言ったのだが。斎藤はそれをふるりと首を振って断る。
「山南さんがあんたにその姿を見られたいとは思わない。俺達で執り行う故、雪村は夕方の葬儀から参列してくれ」
「そう、ですか…」
千鶴はそれをさみしく思いながらも、今はただ頷いて、いつものように勝手場に立つことしかできないのだと悟った。
それからすぐに各隊士へは組長から事の次第、葬儀の時刻の報せがった。
千鶴には昼前に、土方から「支度が整った」と知らされると同時に、玄関で弔問客の記録をつけるよう指示が出て。
山南敬助の死は急な報せではあったが、昼過ぎからでも弔問に訪れる者が多く、一人一人のお別れの時間はあまりなかった。
わずかに読経が聞こえる場所で、かすかな香の香りを感じながら、土方さんがお客様に挨拶をする横で記録を認(したた)めている。
本当に…亡くなったんだ…
あまりに突然で、実感が湧かない……まだ彼の姿を見ていないせいなのかもしれない。
それでも、お帰りになる方が泣きながら頭を垂れていくので、尊い方が逝去されたという事実をわたしは飲み込むしかなかった。
そうして客が途切れ、終わりの時間が来るころに、千鶴はようやくその部屋に足を運んだ。
「…失礼します」
いつも通り、山南さん達の部屋の障子の前に坐して挨拶をすると、中からあった返事は斎藤さんの声で。それすらも胸が苦しくなったが、促されて室内に入る。
「どうぞ、千鶴ちゃん」
彼の近くに控えていたのは沖田さんだった。疲労の色が浮かんでいる。喪主の近藤さんは隣の部屋でお客さまと話をしているようだった。
焼香をあげて、手を揃える。その形式的な動作では、ひどく波打ちつづけている心を静めることはできなかった。
「お顔を合わせることはできますか?」
彼は肩口までしっかりと布団をかぶり、顔には打ち覆い布がかけられている。傍らにある丸い眼鏡と、床に流れるうねりのない真っ直ぐな髪しか、彼の姿を見ることができない。
「いいよ、大丈夫」
沖田さんは小さく頷いて、山南さんに「千鶴ちゃんが会いたいってさ」と声をかけながら、そっと顔の白布を開ける。
山南さん
露わになる横顔。力のない表情。
厳しいけれど、優しい人だった。
弥月さんらと剣の稽古をしているときは、いつも険のある声で指導が飛んでいた。新選組の一員として務めるならと、私にも身を守るための指導をくださった。始めて包帯を交換させてもらったとき、「手際がよい。とても器用なんですね」と、要らない緊張をしないよう優しく微笑んでくれた。
腕を怪我してからも、彼にはできる事たくさんがあった。前線に立たなくても、彼は新選組を支える基盤だった。
それでも、山南さんの生きがいは、剣一つだった
気持ちをこらえられず、手をついて深々と頭を下げる。
何もできなくて ごめんなさい
閉じた目からぽたぽたと涙がこぼれた。
「…治療室、弥月さん達の力をお借りて、きちんと続けていきます」
わたしには 遺されたものがある
「――っ、ありがとう、ございました…」
千鶴の涙が収まるころに、土方は彼の元に戻って来て。「見られんの好きじゃねぇよな」と、そっと白布で顔を覆った。
隊士さんのほとんどは葬儀に参加していたため、焼香も終わっているらしい。予定通り、間もなく出棺する予定だという。
そのとき、パッと沖田さんが顔を上げたのにつられて、入口を見ると、伊東さんが立っていた。そして、その後ろには数名の隊士さん達。
「よろしいかしら? さきほどは人が多くてきちんとお別れできなかったので、最期にお顔を見ても?」
手にはどこからか手折ってきたのだろう、花を咲かせた水仙を一輪を携えていた。
伊東を先頭に男たちは室内に坐する。介添えの沖田はゆっくりと顔の上の覆い布を取った。
山南のもともと白かった肌は土気色をして、水の巡りを失った唇は荒れて乾いていた。死化粧を施して色を乗せようとしたのが痛ましいほどに。
千鶴はその姿を見てまた瞼に涙が溢れるのを感じる。
伊東さんはゆっくりと瞬きをして、触れるかどうかの距離で、そっと彼の頬を一撫でした。
伊東の滑らかな頬を、涙がほろりと流れる。
「千葉に山南の名あり。貴方のことは決して忘れません」
水仙をそっと亡骸に添えた。そして両手を合わせる。
そうして、しめやかにお別れをしていた場に、突然ドタドタと騒がしい足音が聞こえた。
…! もしかして…
彼が間に合ったのだと、千鶴は迎え入れようと腰を上げる。
けれど、それよりも先に開けたままの障子を押し広げたのは、荒い息をした弥月さんだった。額には汗がにじんでいた。
「さん、なん...さん?」
千鶴は声をかけようと思った自分が浅はかだったと知る。
弥月は室内の真ん中をまっすぐに見て、死人を見つけて頬を引きつらせる。そしてゆっくりと首を振った。
「…嘘...や、だ...いや...」
伊東さんは「弥月さん」と涙を拭きながら、身体をずらして、彼が入れるようにと空間を開けた。すると、弥月さんは一瞬、室内へ導かれることに恐れをなしたように一歩下がる。
けれど、意を決したように室内に一歩足を踏み入れると、転げるように彼の傍らに膝をついて、山南さんの生気のない顔を見て、くしゃくしゃに表情をゆがめた、
「…―――っ嫌だ、山南さん、なんで...起きてよ 」
弥月はかかった布団の脇から手を握って、哀願した。
「…――っう……山南さん……死んじゃやだよぉ…」
隠しもできない悲哀の声に、つられたように男達が涙ぐむ。その小さくなった背を見ていられないと、隊士たちは泣きながら部屋を後にした。
「着いてきなさいって言ったじゃん!!…フッ、なんでこんなーーー...っ!」
間もなく泣き出した弥月を見た斎藤さんに「二人にしてやってくれ」と促されて、みんながその場を辞した。背にした部屋からは、「嘘つき!」と繰り返す叫声が聞こえていた。
四半刻後、鐘の音が鳴り、出棺の予定時刻となる。
わたしも隊服を着た皆さんに交じって、山南さんが部屋から運び出されるのを待っていたのだが、なかなか出てこない。
「あなた、ちょっと見てきてくださる?」
「はい…」
伊東さんから滅多に声をかけられることはないのだけれど。今ここに居ないのは、試衛館時代からの人たちと弥月さん。伊東さんも自分は行きづらいと思ったのだろう。
あまり音を立てないように、その部屋へまた赴いたのだけれど…
「弥月君、そろそろ…出棺が…」
山崎さんがその肩を撫でている。弥月さんは既に閉じられた棺桶に抱き着くように伏せったまま首を横に振った。
「弥月君…」
「嫌だ、置いていかないで!」
弥月は棺桶にすがりつき、声を出して泣きじゃくっていた。
けれど、幹部のみなさんは彼を押しとどめ、台車に棺桶を乗せた。そこには浅葱色の羽織がかけられる。
ゴトゴトと台車の車輪が重たい音を立てる。
山崎さんと、彼にしがみついて泣く弥月さんをそこに残して、山南さんは最後の出立した。
***