姓は「矢代」で固定
第5話 変若水
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元治二年二月二十六日
ん゛ぬああああぁぁぁぁ
「…――っ、もう!」
そう意味もなく、一言叫んで。
「あ゛ぁ、もういい!」
正気を保つために気合いを入れるのも何度目か。
通りすがりの町人が不審気に振り返るが、口から滑り出るのを止められない。
「大丈夫、なんでもない。犬に舐められたようなもん。もーまんたい!」
大したことじゃない!
誰に言うでもない。すべて独り言だ。
あの後、沖田さんと二人で山南さんを縛り上げた。しばらく苦しげに唸ってはいたが、私が土方さんと近藤さんを呼んで戻る頃には、彼の髪色が白から黒へと変わり、穏やかに息をしていた。
一通りの経緯については、沖田から二人へ説明があった。
弥月は自分と同じく、山南の傍らに膝をついた近藤と沖田をそれぞれ見る。土方は扉の前に佇んでいた。
「脈は七十……たぶん髪の毛の色が戻ったってことは、そのうち起きるはずです」
「…それは正気で?」
「…山南さん曰く、五分五分…ですね。仮に、一旦正気で目を覚ましたとしても、狂気に落ちるのは今日か明日かも分からないそうです」
「その…そのうちとは、いつ頃起きるんだい?」
「短くて半日、長くて二日…」
事前に教わっていたことを静かに伝える。
即死しなかっただけだ。期待しすぎるのは良くない。
「いつ起きるか分からないなら、ひとまず布団に寝かせてあげないか? どうにも死人のようで見るに忍びない...」
きつく縛られた肢体と、土気色の肌があまりに憐れで。
近藤さんの提案で、そこに布団が運び込まれて、縛られたままの山南さんが寝かされる。
その頃にようやく土方さんは口を開いた。
「二人一組で見張りをする。齋藤、新八、左之、源さんも起こしてこい。今日は島田と山崎は屯所内にいるか?」
「烝さんは出てます」
「分かった。とりあえず集まったら状況を説明する。他のやつらに気づかれないよう、静かに呼んでこい」
***
私が一刻ほど仮眠をしている間に、山南さんの意識は一度戻ったらしい。少しの間だけ普段通りに話ができたが、すぐに再び眠りに就いてしまったという。
一つ山は越えたとしても…どうなるか…
私の「目撃者」としての報告は済んでいる。同じく報告を終えた沖田さんの落ち着き様からも、すぐに処断することはないだろう。夜に再び目を覚ましたときには、少し先の話ができることを期待するしかない。
そう腹を括って、一つ頷く。
色々と逡巡しながらも、山南さんのことについて、実はさほど心配していない。複雑な心境ではあるが、私と沖田さんにとっては、この状況は予想の範囲内のこと。山南さんらしい選択をして、見届け人として、沖田さんがいる。
非常事態ではあるが、私が屯所を出て、気持ちを落ち着かせるくらい問題ないはずだ。
どうしても今は独りになった方が良かった。
なぜなら、否応なしに不意にあの状況と出来事が思い起こされて、勝手に口から「もういい」「大丈夫」が出てくる。
気にするなって方が無理
なんせ 、犬に噛まれた
なんせ、ふぁーすと、きす
「ぬおぉぉぉ...」
ベシリと自分のおでこを叩く。
この私の動揺を、らしくないなどと言ってくれるな。私だって18歳のJKだ。多少は気にする。
ファーストキスを大事にしていたわけではない。恋愛に憧れも羨望もあったが、機会がなかっただけだ。なぜか今日、突然に、前触れもなく、降って湧いた。
「…気にするな。あれは事故。そう、事故。もはや、もらい事故」
「兄はん、買うん? 買わんなら、後ろ待ってはるから避けてもうてもええ?」
「あ、はい。すいません」
思わず、並んだ列から横へ一歩身を引く。いつの間にか行列の先頭だったらしい。
私を邪魔そうにして詰めてくる後ろの客に、謝って間に入れてもらう気にもならず。買い損なったことに肩を落とし、気を取り直して、後ろへ並びなおした。
そして、草餅とみたらし団子を十個ずつ買って、帰路へつく。
「はあぁぁぁ...」
なんで、くち?
首に噛みつくならまだ分かる。ネズミ達がそうしたように、血を欲してのことだろう。
けど、舐められた。しかも口の中を
再び口が「への字」に歪み、変な顔になる。やはり背中のあたりがモヤモヤして、身をよじらせた。そして、両手で頬をぐっと押し上げる。
あっちょんぷりけー
「ぬぅ…」
「弥月」
「ぬ?」
軽くタコ唇のまま振り返ってみると、見たことのある人
「…―――っ!!?」
「おー…まあ、落ち着けって。何もしねぇから」
反射的に二歩ほど飛び退いて、相手との間合いを取る。咄嗟に餅を落として、刀の柄に手をかけた。
間合いもへったくれも無いな
この男の武器は銃。むしろ近距離の方が、自分にも利がある。
青みがかって波うつ長髪。鋭い眼光。長州の…不知火と言ったか。
「何もしねぇから、その物騒なもんから手ェ離せって」
「信用しろと?」
男は「そうだなぁ」と視線を明後日へ向けてから、少し面倒そうに言った 。
「その気なら、こんな往来で声かけないんじゃねぇか?」
「……なるほど」
至極真っ当な答えであった。敵意が先立つなら、声をかけずに殺るべきだ。
とはいえ、弥月は左手を鞘から手を離さずにいた。それを見て、男は鋭い眼をさらに細くしてクツクツと笑う。
「それ、拾えよ」
「…」
気になってはいたから、視線はそらさず、地に落ちた餅の包みを拾う。土をはたいて胸元にしまった。
「でしたら、何の用ですか?」
「ん? あー…」
不知火は考える間もなく「用、は、ねえなぁ」と呟く。
なら、なんで、声をかけた
「現状知り合いでもなく、友達になる立場でもないので、気安く声かけないでもらえますか?」
名実ともに敵同士だ。
しかも、銃で撃った撃たれたの関係で、こいつの存在自体に恐怖を感じる。個人的にも、傷跡を恨みこそすれ、面白おかしく喋ることはできない間柄だ。
「なんてーか…意外だったからな」
「意外…?」
「屋根裏に隠れるのは兎も角、そのまま寝てやがる剛服なやつが、まさか女とは思わねぇだろ」
「あぁ…それね」
最初の潜伏の任務で、がっつり待ち伏せされて、撃たれた件だ。
「あんときは敵だと思って撃っちまったが、悪かったな。女なら傷つけるつもりはなかった。すまねぇ」
「ちょっ!」
腰を折ろうとする彼にギョッとして、咄嗟に続きを止める。こんな公衆で女だ女だと繰り返されては色々と困る。
「ちょっと待って!こっち…!」
誰かに見られて密会をしているとも思われたくないが、仕方なく路地裏に引っ張りこむ。
「大きい声で、女だ云々言わないで下さい!」
「あ? なんでだ?」
「色々事情があるんです! 男の格好してるんだから、ちょっとは察してもらえませんか!?」
不知火は上から下へと視線を動かして、私の格好を確認した。だが、軽く首をひねったあたり、納得はいかなかったようだ。さも不思議そうな顔をしている彼に、苛立ちが募る。
「謝罪の用だけなら、もういいですか!?」
そもそもが敵同士なのだ。このやり取りは、今後しんどくなる。
あからさまに不快を示したのだが、それでも伝わらないのか。「いやな」と、まだ話を続けるつもりらしい。何が可笑しいのか、彼の少し口の端が上がっている。
「会津側にも鬼がいるなんて風間が言うから、どいつのことかと思ってわざわざ見に来たんだけどよ。それがそもそもの用っちゃ用なんだが…
しかも、金髪で女装してる瘦せぽっちなんて聞いたから、面白半分、面拝むだけのつもりが…顔見たら思わず、なんだ、ななしのことかってな」
その意味を理解するのに、少しだけ時間がかかった。
鬼、ね
「…千姫と知り合いでしたね」
鬼、という単語にまだ馴染みがない。
けれど、風間といい、先日の南雲薫といい、次から次に「あんたは鬼」と言われては、多少は受け止めざるをえない。まだ鬼が何かはよく分からないが、その枠の中に私はいるらしい。
「あー…千、つったら、八瀬のか。まあ知り合いっちゃ、知り合いだな」
訝しげな顔をした弥月に、不知火は首をコキと鳴らしながら答える。
「オレは寄り合いには出ねぇから、八瀬の姫と話したことはねえけど。一応、十鬼衆として顔合わせくらいは、昔な」
「十鬼衆?」
「知らねえのか? 古くてデケェ家柄のことだよ。お前は八瀬に属してんのか? 」
「いや…」
「里はどこだ?」
何をどこまで話して良いのか。
敵であるこの男は、「同族の仲間として」接触してきたようだ。
千姫は「隠れ里」のことを「鬼の里」とは言わなかった。自分のこと、ひいては私のことを「鬼」とは言わなかった。「神子」という呼び名で、「鬼」を隠そうとしていたと思われる。
風間らが私と接触するならば、私は自分が鬼であることを、いつか知ることになるのは明らかなのに、先んじてそれを知らせる気は、千姫にはなかった。
それだけ、「鬼」は隠されるべき存在ということなのだろう。
まずは「鬼」が何なのか知りたい
「なんだ。今どき珍しく、かなり力のある鬼って聞いたけど、はぐれ鬼か」
はぐれ鬼
なるほど、里に所属しない鬼は「はぐれ鬼」と言うのか
「はぐれ鬼だと、なにか駄目なんですか?」
「いーや、野良なら丁度良いな。嫁に来い」
その言葉を処理するのに、先程よりもかなりの時間が必要だった。
…
.
…….
.
・・・・・・・・・・
「は?」
「『は?』は、ねぇだろ」
「ヨメって、嫁ですか? 」
「嫁は嫁だろ」
「嫁姑の嫁ですか?」
「夫婦(めおと)の嫁だな」
「嫁は義父母からの呼び方で、夫にとっては妻だと思いますが、嫁ですか?」
「……細けぇな」
「あなたの息子さんの妻ですか」
「……俺だ。俺にガキはいねぇ」
俺の妻ということは。つまり、嫁に来いとは…
ほぼ初対面の男にプロポーズされたということか?
ん―――……???
「…すみません、意味が分かんないんですけど。つまり、結婚の申込みということですか?」
言葉にしてみて、間の抜けた質問だと思った。
「風間が目ェつける前に、先手打っとくのも悪かねえだろ。あいつ、お前が女鬼ってたぶん気付いてねぇしな」
「…いや、マジで、何言ってるか分かんないんですけど」
「力のある女鬼、しかもイイ女なら、唾付けとくのも有りって話だ」
伸びてきた手を避ける隙がなかった。突に顎を掴まれ、強制的に上を向かされる。そのこと自体も不愉快なのに、男は私の歪んだ顔を見て、愉快そうに笑んだ。
「風間は見る目がねぇな。歳は十七、八ってとこか」
「止めてください」
グッとその手首を掴むが、不知火は停まった虫ほどにも思っていない風で。
「強気な女、嫌いじゃないぜ」
「私は嫌いです。マジで放せ」
ググッと力一杯の握力を込めて男の手首を握るが、不知火はそれをチラリと見て、フッと鼻で笑う。
「怖ェな…けど、鬼化せずに風間に両手を使わせてんなら、もっと抵抗してみろよ」
腰に回された男の手が、無理矢理に体を引き寄せる。
不知火の指が私の唇に触れた瞬間、ぞわりと寒気がして全身が粟立った。
「は、な―――せっ!!!」
「ッてぇ!!!」
ガバリと口を開けた瞬間、滑り落ちてきた指に歯をたてた。
「は!? マジかよ!? 噛むか、普通!!」
「るっさい! キショい!キモい!! 気持ち悪い!」
堰を切ったように、罵詈雑言が飛び出した。
「きも…っ」
「いや、もうキモい、キモすぎる! まじでルナティックキモい!!」
自分の語彙力低下を感じるが、それ以外の言葉が見つからない。
「なんなん!? まじでありえへんねんけど!?」
叫びながら、唇が戦慄く。
言い様のない、底から沸き上がる嫌悪感のやり場がなくて、地団駄を踏む。
「大人しとったら好き勝手触って、人のことなんや思ってんの! ほんま、ない!無い!! イケメンでも許されん!!」
元からイライラしていたところに、これだ。今日は厄日か。
「癇癪もちかよ……めんどくせぇな」
「はあぁぁぁ!!!?」
この状況、あんたに怒って何が悪い!
「もう無理! もう怒った!」
「わーったよ。俺もいきなり悪かった」
不知火は両手を小さく上げて、無抵抗を示す。
「オレも喚く女は嫌いだ」
「誰のせいだ!」
「わーった、わーった…」
ガルルと威嚇して、再び噛みつきかねない弥月へ、不知火はパタパタと手を振る。
「それはそうと、その鬼の気配はなんだ? 風間と会ったときは、もっと普通にあったんだろ」
「…………なに。鬼の気配って」
「何って…」
お互いに理解不能といった表情をする。
「気配は気配だろ。人間と鬼とじゃ、纏う気が違う」
「……なんか、風間さんが目の前にいてもイマイチもやもや~って感じで、その人と喋ってる気がしないあの現象のこと?」
「…それと同じかは分かんねぇ。まあ確かに、あいつは気配消すのは得意だからな。風に馴染む」
よく分からん。なんだ、風に馴染むって
「今のお前だと、俺が見ても鬼かどうか確信できねぇくらいに気配ないな。人間臭すぎる。その金髪といい…風間と同じ、西の里の血が濃いんじゃねぇのか?」
不知火はスンと鼻を鳴らして、訝しげな顔をする。
「や…」
否定しかけて、口をつぐんだ。
八瀬の里の血が濃いから、刻渡りをしてきたはずだ。ただ、それをこの男に言う必要はない。
「知らないです。それに、鬼とか関係なく、私ら敵同士なので、今後一切気安く話しかけないでください。半径五尺以内に近づくな」
「関係ねぇって訳にはいかねぇな、今の状況で幕臣やってんなら。
野良には初耳かもしれねぇが、人間の戦に混じっての鬼同士の争いは禁忌だ」
「…意味が分からない」
「そのままだ。やむを得ず人間同士の戦に混じって敵味方になっても、お互いの里の不利益になるなってこった。
里に関わるような人間の政は阻止。鬼同士での殺し合いなんてもっての他だな。必要なら俺らだけで手を組むし、手を引くことも考える」
「…だから、池田屋に勢揃いだったわけですか。仲間内で」
「あー…まあな。あっちとこっちの大将が仲悪ぃから、上手いことやらねぇと、潰し合いかねねぇ。
俺らはそれぞれの大将と手ェ組んでるからな。姿晒した以上、どっちにも生き残ってもらわなきゃ困る。
十鬼としては、長年徳川についてた東の里が消えちまったから、もう徳川を立てる必要もねぇ。じゃあ勤王でも尊皇でも、とりあえずは倒幕すりゃあいいって結論になったんだ…が」
ニヤリと笑って、指を指を指される。
「そこに、お前だ。十鬼にも属さない、力のある鬼が幕府の犬やってるとなりゃ、正体確かめて、とりあえず話はつけとかなきゃだろ」
対外的に敵味方の立場でも、鬼同士はつながって助け合うのが、鬼の世界のやり方。それで私に声をかけたと言うことか。
「…理由は分かりました。でも、新選組をやめるつもりはない」
「構わねぇぜ。お前んとこに政をする力はねぇからな。ひとまずは、戦場でオレらと殺し合おうとするなってだけだ」
それは状況によっては了承しかねるが、場を納めるために「善処します」と答えておく。もうこの人と話していたくない。
不知火はまだ何か言いたそうだったが、諦めたらしい。クルリと向きを変えて大通りへ向かう。
「そんじゃあな。もうちょっと肉付けとけよ」
「は…?」
「ガチガチで、抱きごこち最悪」
そう言いながら人込みに消えた男。
それが、俺好みの女になっておけ、という意図だと理解して、弥月は再び全身で戦慄いた。