姓は「矢代」で固定
第5話 変若水
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元治二年二月二十四日
千鶴side
「今のはどういう意味だ、伊東さん!」
幹部が会議をしている、近藤さんの部屋から、土方さんの怒鳴り声が聞こえた。今まさにそこにお茶を運び入れようとしていた、私の脚が止まる。
「あんたの言うように、山南さんは優秀な論客だ。けどな、剣客としてもこの新選組に必要な人なんだよ!」
優秀な剣客…
議題が何かは知らないが、山南が今この部屋に居ることを、千鶴は知っていた。その土方の言葉が、ざわりと千鶴の心を波立たせる。
経緯は分からないけれど、それは慎重に扱うべき話題で……土方さんの怒声は、あまりに配慮のないものに聞こえた。
誰かが…たぶん、山南さんが小さな声で何かを呟いた。すると、「あら」と場にそぐわない、伊東さんの明るい相槌が飛ぶ。
「私としたことが失礼致しました。その腕が治るのであれば何よりですわ」
…―――っ!
盆を取り落としそうになって、乗せていた湯呑みがカタカタと震える。
伊東さんは、なんて酷い事を言うのか。
この一年で、山南さんの左手の指は多少動くようにはなっていたが、親指の感覚は全く戻らないままだった。人差し指と中指の感覚も鈍い。それを察していてすら、伊東さんは「治れば」なんて言ったのだろう。
以前、山南さんが『生活にそれほど支障はない』と話すのに、弥月さんや近藤さんは納得するフリをしていたけれど……その実、彼らが失ったものの大きさと、心の傷は測り知れない。
『治るのであれば何より』だなんて、軽々しく他人が言って良いことではない。
室内からの声は途切れたが、キシキシと鳴る不協和音がここまで聞こえるようだった。
「…色々意見は出たが、ここはひとつ、西本願寺で進めてみよう」
近藤さんが話題を変えたその時、私の目の前の障子がスッと開く。そして、出て来た山南さんは、部屋の手前で立ち尽くしていた私に気付いて、逡巡するように私を見た。
けれど、山南さんは立ち聞きをしていた私を叱ることなく、悲し気に眦を下げたまま、それでも口の端を穏やかに上げる。
「秀でた参謀の加入で、ついに総長はお役御免というわけです」
そう言いながら去って行く、彼の背は孤独で、足取りは力のないもので。
千鶴は彼に何か声をかけたいのに、安易に口を開くと傷つけてしまいそうで、喉元で詰まった言葉は何も出て来なかった。
***
夕暮れ、なんとはなしに皆が壬生寺に集まっていた。
最初は千鶴、原田と永倉だけだったが、鬱積したものを抱えて屯所内をさ迷っていた沖田、斎藤と土方が、彼らに目を止めていつの間にかそこに加わった。
彼らの話は、今日急に発表された移転計画が、あくまで議題ではなく、すでに土方にとって決定事項であった事に始まった。
永倉や沖田から、自分達に先に相談がなかった云々と文句を受けた土方は、仕方なくこの計画の準備状況について、彼らに詳細に説明をする。
「…なんだ。じゃあ山南さんはああ言ってたけど、元々西本願寺で決まりだって知ってたのか」
山南の“僧侶を武力で抑えつけたくない”という意志を汲んでいた永倉は、拍子抜けする。
「そういうこった。一応、伊東さんへの体裁もあるからな。あくまで『幹部全員で会議をして決定した』って体(てい)が必要だった……近藤さんは恐らく分かって無いけどな」
「土方さんと山南さんで一芝居うったってことですか。まあ、そんな事だろうとは思ったけど」
沖田が肩を竦めて宙を仰ぐ。
千鶴も永倉たちの説明で、会議中の話の流れを理解はした。けれど、今の皆が気になっているはずの部分を、皆が避けていることが気にかかっていた。
山南さんが傷ついた顔をしてたのは、演技じゃなかった
千鶴は意を決して恐るおそる口を開く。
「…でも、ということは……山南さんの左腕の話は…」
「…んなこと打合せしてる訳ねぇだろ」
土方は長い溜息を吐く。
土方達が芝居をうったという話で、ほんのわずかにそれを期待した面々は、再び落胆の色を表情に浮かべた。
「山南さんも可愛そうだよな。最近は隊士達からも避けられてる」
「避けられてる…?」
原田からの意外な言葉を、千鶴は問い返す。それに答えたのは、隣にいた永倉だった。
「誰に対してもあの調子だからなぁ。隊士も怯えちまって、近寄りたがらんねぇんだ」
「昔はあぁじゃなかったんだけどな……親切で面倒見が良くて」
「穏やかで、優しくて…」
永倉さんと原田さんは遠くを見て、昔を懐かしんでいるようだった。
私にとっては、山南さんはトゲトゲした印象が強い。新選組に来て一ッ月経たないうちに、すでに今の状態になってしまったから。
けれど、山南さんが厳しいことを言う時は、いつも相手のためであった。そして、特に弥月さんと一緒にいるときの山南さんは、決して厳しいだけではなくて……慈しむような優しさがあった。
きっとあれが本当の山南さん
「…表面的には」
……
…表面的には?
「表面的には、な」
原田さんには通じたらしいその意味を、私は分かりかねて、交互に二人を見るけれど。彼らは至って真面目な表情のまま、当然の事実を話す様に続けた。
「でも、腹の中は真っ黒で」
「そうそう、真っ黒」
永倉がそう言い終えて、クシャリと二人同時に表情を崩す。吹き出して、ハハハッと声をたてて笑った。
「…冗談でも言わないと、やりきれませんよね」
裏が表に
表が裏に
彼の根本的な何かが変わったわけではないのだと分かっていた。それでもこんな変化は望んでいなかった。
変わってしまったことが……それを避けられなかった事が、やりきれない
どうしたら良かったのだろう、どうすれば良いのだろう
そう考えているのは皆同じで、当座の悩みの元凶に行き着いていた。
「それにしても伊東の野郎、弁が立つだけに腹が立つ」
「気取ってるっつーか、人を見下してるっつーか」
「僕も好きじゃないなぁ…相当な剣の使い手であることは認めるけどね」
永倉、原田、沖田に便乗するように、苛々とした口調で「…気に食わねぇ」と、土方さんが溢したことに、千鶴は少し驚く。
土方さんの言う事はいつも理由があって、自分に自信を持って発言している風なのに。今の言葉はただ気持ちだけを吐露した風に聞こえた。
逆に今、言いたいことがそれだけなのは、その一点しか伊東さんに非が無くて、打ちどころがないという事なのかもしれない。
「じゃあ、土方さんが返品して来て下さいよ。新撰組にこんなの要りません、って」
「近藤さんが許可する訳ねぇだろ。すっかり伊東さんに心酔してるみてぇだしな」
「なになに、悪口大会?」
聞き覚えのある声に、全員が右手を振り向くと。
「お、弥月」
弥月はいつもの黒装束で、原田の横にひょいと現れた。そして口々に「お帰り」という彼らを見回して、弥月は「ただいまです」と、ニカッと笑った。
***