姓は「矢代」で固定
第4話 欠けているもの
混沌夢主用・名前のみ変更可能
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***
長屋に着き、忍装束に着替え終えた頃、トントンと戸を叩く音がした。
…誰?
咄嗟に、火を焚いていないこと…つまり、中に人が居るとは分からない状況であることを確認する。
人が去る気配はない。弥月は息を殺し、視線を鋭くしてその戸の方を見つづける。
少なくとも元監察方の面子ではない。戸を叩かない決まりだ。
隊士でここを知っているのは極わずか。近所の人という可能性は無いこともないが、ほぼゼロに近いと言って差し支えない。
格子窓から姿を確認すべきか、声を駆けるべきか、否か
「弥月」
ぞわぁと、悪寒がした。
南雲 薫
「居ることは分かってる。話がしたいから出て来てくれない?」
生きた心地がしないとはこのことか。生唾を飲み下してから、意を決して口を開く。
「…何の用ですか」
「…だから、話がしたいって言ってるだろ」
少しムッとした様な声が返ってきた。
……
まだ箱の中に合った刀を拾いあげ、鯉口を切る。
裸足のまま土間に下り、戸を止めていたつっかえ棒を蹴って外し、そこから跳ぶように離れた。
「…開けて構いません」
「…斬りかかったりするなよ」
南雲の嫌そうな声が聞こえて、それからゆっくりと戸が開く。
「…やっぱりあんた、弥月か…」
どうして南雲が私の顔を確認してから、疑わし気に眉を顰めるのか分からない。
弥月は何も応えず、ただ彼のわずかな動作にも細心の注意を払う。
「あんたに確認したいことがある」
「…なんですか。千鶴ちゃんの件なら、彼女には何も話してません」
「違う。今、それは関係ない…けど」
南雲はそこで言葉を切る。
何を言おうとしてか、落ちつかない様子で、視線を泳がせた後。意を決したように視線をこちらへ戻した。
「…さ、くら、さくら、弥生の空は」
え…
…さくら?
千鶴ちゃんのようには高くない、少し落ち着いた声。歌い出しに、それがほんの少し震えていたのが印象的だった。
ただ、さっき私が歌っていた曲。それを南雲が歌う意図を全く読めず、呆然と、それによって何が起こるのかを見ていた。
そして、ゆっくりと歌っていた彼女が「霞か雲か」と言った瞬間に、スッと私に視線を合わせる。
「…続き、歌って」
「え…?」
たじろく弥月に、「早く」と南雲は急かす。
続きを歌えと予想外のことを言われて、一瞬頭が真っ白になった弥月は、歌い出しがピンと来ず、最初から歌い始める。
「…さくら…」
さくら、さくら
弥生の空は
見渡す限り
霞みか雲か
朝日に匂う
さくらさくら
「花盛り…」
歌いおわる瞬間に、彼女が一歩こちらに近づいたのを見て、柄を握った手に力を入れる。
けれど、彼女は私の間合いには入らず、脚を止めて俯いた。
そして、何も起こらない時が流れる。
表情を見せない南雲が、何を考えているか分からず、弥月は声をかけるべきかを迷った。
「弥月」
呼ばれた名前は、今まで聞いた中で、一番澄んだ声だった。ゆっくりと顔をあげた南雲は、今にも泣いて壊れそうな表情をしていて。
それは千鶴ちゃんが救いを求めて、泣いていた時と同じ表情だった。
***
南雲side
猫も杓子も三味線が流行る中、物珍しい琵琶の音が聞こえて、通る人が脚を緩めているのが見えた。けれど、ポロン、ピン、ポロロロン…と掻き鳴らされる琵琶は、お世辞にも上手とは言えず、道行く人の笑いさえ誘う。
『弥生の空の』
…さくら、か
季節柄仕方ないとはいえ、この曲は嫌いだ。人生最大の悪夢の日の記憶が蘇る。
それでも、この歌を聞くと、その詞を確認せずにはいられない。
朝霧に消えた少女の背を、未だに僕は覚えていた
『朝日に、匂う』
え…
通り過ぎようとしていた脚を止め、勢いよく振り返る。
拙い手で唄っているのは、十七、八の女だった。それを、どこかで見た顔だと思う。
『花盛り…っ、はい!できた!』
撥を止めて、パッと上げた顔に見覚えがあった。
『弥月…?』
その女太夫は反応を見せなかったが、去り際に目が合って、確信した。彼女はつい先日、半死半生の目に合わせた弥月である、と。
「…あんたじゃないかもしれない」
頭の中が混沌としていた。
昔会った、名前しか分からない、顔も思い出せない少女がいる。彼女と同じ名前の弥月が、同一人物であってほしいのか、そうでないのかさえ、自分の中で結論が出ない。
「十三年前、東の里で、双子の子どもに会った覚えはない?」
不可解な顔をしているあんたは、僕と違って、その日の事は記憶に残るような大したことではなかったのだろう。
けど、僕は忘れもしない…忘れられない。あの日の朝に、『弥月』は消えた。
「十三年前、あんたと同じ名前の『弥月』と僕が出会ったのは、春…桜が散ってた。母様が弾いた琴の音に合わせて『弥月』はそう歌った。
…それから何度も春が来て、何度もこの歌を聞いたけど、その詞で歌ったのはあんただけだ」
繰り替えし聞く、同じ旋律。
誰とも一致しない、春の詞。
その手がかりを持って現れた、同じ年頃の女鬼が、全く同じ名前だなんて……別人だと思い込む方が難しい。
あまりに遠い記憶。
もう期待もせずに……でも、ずっとその唄を追いかけていた僕は、そうであってほしいと願っているのかもしれない
「突然里に現れて、突然消えた『弥月』はきっと人間じゃなかった」
里の人々は、余所者である『弥月』を歓待していた。それは彼女が鬼だったから、のはずだ。
彼女は里の子にはない、異質な空気をもった女の子だった。
「あんたは僕の知ってる『弥月』?」
***
長屋に着き、忍装束に着替え終えた頃、トントンと戸を叩く音がした。
…誰?
咄嗟に、火を焚いていないこと…つまり、中に人が居るとは分からない状況であることを確認する。
人が去る気配はない。弥月は息を殺し、視線を鋭くしてその戸の方を見つづける。
少なくとも元監察方の面子ではない。戸を叩かない決まりだ。
隊士でここを知っているのは極わずか。近所の人という可能性は無いこともないが、ほぼゼロに近いと言って差し支えない。
格子窓から姿を確認すべきか、声を駆けるべきか、否か
「弥月」
ぞわぁと、悪寒がした。
南雲 薫
「居ることは分かってる。話がしたいから出て来てくれない?」
生きた心地がしないとはこのことか。生唾を飲み下してから、意を決して口を開く。
「…何の用ですか」
「…だから、話がしたいって言ってるだろ」
少しムッとした様な声が返ってきた。
……
まだ箱の中に合った刀を拾いあげ、鯉口を切る。
裸足のまま土間に下り、戸を止めていたつっかえ棒を蹴って外し、そこから跳ぶように離れた。
「…開けて構いません」
「…斬りかかったりするなよ」
南雲の嫌そうな声が聞こえて、それからゆっくりと戸が開く。
「…やっぱりあんた、弥月か…」
どうして南雲が私の顔を確認してから、疑わし気に眉を顰めるのか分からない。
弥月は何も応えず、ただ彼のわずかな動作にも細心の注意を払う。
「あんたに確認したいことがある」
「…なんですか。千鶴ちゃんの件なら、彼女には何も話してません」
「違う。今、それは関係ない…けど」
南雲はそこで言葉を切る。
何を言おうとしてか、落ちつかない様子で、視線を泳がせた後。意を決したように視線をこちらへ戻した。
「…さ、くら、さくら、弥生の空は」
え…
…さくら?
千鶴ちゃんのようには高くない、少し落ち着いた声。歌い出しに、それがほんの少し震えていたのが印象的だった。
ただ、さっき私が歌っていた曲。それを南雲が歌う意図を全く読めず、呆然と、それによって何が起こるのかを見ていた。
そして、ゆっくりと歌っていた彼女が「霞か雲か」と言った瞬間に、スッと私に視線を合わせる。
「…続き、歌って」
「え…?」
たじろく弥月に、「早く」と南雲は急かす。
続きを歌えと予想外のことを言われて、一瞬頭が真っ白になった弥月は、歌い出しがピンと来ず、最初から歌い始める。
「…さくら…」
さくら、さくら
弥生の空は
見渡す限り
霞みか雲か
朝日に匂う
さくらさくら
「花盛り…」
歌いおわる瞬間に、彼女が一歩こちらに近づいたのを見て、柄を握った手に力を入れる。
けれど、彼女は私の間合いには入らず、脚を止めて俯いた。
そして、何も起こらない時が流れる。
表情を見せない南雲が、何を考えているか分からず、弥月は声をかけるべきかを迷った。
「弥月」
呼ばれた名前は、今まで聞いた中で、一番澄んだ声だった。ゆっくりと顔をあげた南雲は、今にも泣いて壊れそうな表情をしていて。
それは千鶴ちゃんが救いを求めて、泣いていた時と同じ表情だった。
***
南雲side
猫も杓子も三味線が流行る中、物珍しい琵琶の音が聞こえて、通る人が脚を緩めているのが見えた。けれど、ポロン、ピン、ポロロロン…と掻き鳴らされる琵琶は、お世辞にも上手とは言えず、道行く人の笑いさえ誘う。
『弥生の空の』
…さくら、か
季節柄仕方ないとはいえ、この曲は嫌いだ。人生最大の悪夢の日の記憶が蘇る。
それでも、この歌を聞くと、その詞を確認せずにはいられない。
朝霧に消えた少女の背を、未だに僕は覚えていた
『朝日に、匂う』
え…
通り過ぎようとしていた脚を止め、勢いよく振り返る。
拙い手で唄っているのは、十七、八の女だった。それを、どこかで見た顔だと思う。
『花盛り…っ、はい!できた!』
撥を止めて、パッと上げた顔に見覚えがあった。
『弥月…?』
その女太夫は反応を見せなかったが、去り際に目が合って、確信した。彼女はつい先日、半死半生の目に合わせた弥月である、と。
「…あんたじゃないかもしれない」
頭の中が混沌としていた。
昔会った、名前しか分からない、顔も思い出せない少女がいる。彼女と同じ名前の弥月が、同一人物であってほしいのか、そうでないのかさえ、自分の中で結論が出ない。
「十三年前、東の里で、双子の子どもに会った覚えはない?」
不可解な顔をしているあんたは、僕と違って、その日の事は記憶に残るような大したことではなかったのだろう。
けど、僕は忘れもしない…忘れられない。あの日の朝に、『弥月』は消えた。
「十三年前、あんたと同じ名前の『弥月』と僕が出会ったのは、春…桜が散ってた。母様が弾いた琴の音に合わせて『弥月』はそう歌った。
…それから何度も春が来て、何度もこの歌を聞いたけど、その詞で歌ったのはあんただけだ」
繰り替えし聞く、同じ旋律。
誰とも一致しない、春の詞。
その手がかりを持って現れた、同じ年頃の女鬼が、全く同じ名前だなんて……別人だと思い込む方が難しい。
あまりに遠い記憶。
もう期待もせずに……でも、ずっとその唄を追いかけていた僕は、そうであってほしいと願っているのかもしれない
「突然里に現れて、突然消えた『弥月』はきっと人間じゃなかった」
里の人々は、余所者である『弥月』を歓待していた。それは彼女が鬼だったから、のはずだ。
彼女は里の子にはない、異質な空気をもった女の子だった。
「あんたは僕の知ってる『弥月』?」
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