姓は「矢代」で固定
第3話 暗示
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***
…――っ、やっぱり速い…!
烝さんと別れ、走ってなんとか対象の姿を見つけた。
その薄紅梅色の着物を着た女性の、行先が気になり尾行すると。彼女は軽装のまま街を出てしまった。
そして、京への街道では普通に歩いていたが、彼女はスイッと本筋を外れ、山道へ入って行った瞬間に、常人とは思えない勢いで山道を駆けだした。
しかし、弥月は以前に山中で見かけた時も、油断していて、すぐに見失ってしまった経緯から、今回は絶対について行くと決めていた。最初から本気で追いかける。
この際、跡を着けられていることがバレても仕方がない。どこに行くのかを知ることが最優先で、話しかけられても構わない。
…でも、これ…道じゃなくない!?
彼女は脚の裏にバネでも付いているのか……かろうじて分かる程度の獣道を時々外れては、道なき森をひょいひょいと駆け上がる。そんな足元が悪い中、彼女を見失わないように追って行くのはかなり難しい。
着物もキチンと来ているのに、どうしてあの姿のまま登っていけるのか。
そうか、これがガチの山ガールか。ふわふわ飛んでるな…
ツッコみ不在のため、ボケっぱなしが辛い。
しかし、半刻も過ぎたころからは、心のボケすらも出なくなってくる。
…ちょ、待って、まじキツ…
どういうことか…私が本気を出しても追いつけないなんて、微塵も思っていなかった。
山を上がったり、下りたり。岩を上がったり、上がったり。高い段差を降りたり、滑る道を飛んだり。
…いや、待って。これワザとだよね…私が付いて来てるの知ってて、絶対この道…道じゃないけど、走ってるよね!?
彼女は一度も振り返らないけれど、気付いていないはずが無い。私は何度も木々や落ち葉をガサガサと踏み鳴らしている。それに、山道で分かり辛いけれど、ぐるりと一つの山の周りを回っているような気がする。
そうして一刻近く、山道を高速で移動しているのに、前を行く彼女が全く速度を落とす気配はない。
マジで、きつい
脚がキツイ。瞬発力を以て走るのは得意だけれど、山道の段差とは勝手が違う。
世の中には私より運動のできる女子だって、いくらでも居るのだろうと、自尊心をポッキリと折られる。けれど、まだ歩けるから、まだ諦めない。ここまで来て、今さら諦められない。
それに、ここで置いて行かれたら遭難するかも…という恐怖もあった。
上がらない太ももに鞭打ち、笑う膝を叱咤して、跳ぶように進む彼女の後ろをついて行く。
森の中は木々に覆われて、日中なのにやや薄暗さがある。足場の悪い所で転ばないように、集中する必要があった。
そのため、弥月は脇目も降らず必死に前を追っていたのだが、ある時、ふっと集中力の途切れる瞬間があった。下手(しもて)にある木々の間に目を向けると、人通りのある道が見える。
人の気配……だいぶ下りて来てたんだ……うん! また登るよね、知ってた!
いい加減にしてくれ、と思ったが。こちらから声をかけるのは、流石に憚(はばか)られる。
「…いい加減にしてくれる」
…!
明らかに苛立った声が、前方から聞こえて来た。
そこで彼女が足を止めたのに倣って、弥月も一歩だけ前へ進んでから足を止めた。
「あんたが体力無尽蔵の化け物なことはよく分かったから、もう殺して良いかな」
おおっと…!?
「…私も、体力の限り女の尻を追い回す男と思われてるのは辛いので、そろそろ話し合いたかった所なんです」
彼女の『殺す』の部分を無視して、話し合いを促す。
『それ』を黙殺する能力を身に付けさせてくれた事を、沖田さんに感謝する日が来るとは思わなかった。
振り返った彼女は、私がよく知る少女と、同じ造りの容貌をしていた。ただ、あの少女とは違い、この女性は感情を表に出さないことができるらしい、
しかし、私が頭巾を外すと、彼女の殺気が、驚きにわずかに負けたのを見る。
「新選組の矢代弥月と言います。土佐の方ですか?」
状況から考えて、彼女が土佐の関係者である可能性は、決して低くないはずだ。
今大坂に居たこと、新選組の動向を見ていたこと、私を撒こうとしたこと…撒けないなら私を殺そうと思ったこと。
しかし、そう質問したとはいえ、答えてくれるとも思っていないので、無表情でこちらをただ見ている彼女に、弥月は「もうひとつ」と続ける。
「あなたに確認したいことがあります。昨年の八月、蛤御門での衝突の日、伏見の陣営近くにいましたよね?」
「……」
彼女は答えない。これも答えるとは思っていないけれど。
「それで、あなたを今どうこうしようとは思ってません。上司の指示もありませんし、興味半分で訊いています。
伏見陣営の大将・福原越後を闇討ちしたのは、あなたじゃないかと私は思ってるんですけど……はずれですか?」
この女性が土佐の関係者であるとすると、長州勢と同じ、勤王派である土佐が、敢えて長州の挙兵の邪魔をした意味は分からないが。
状況から考えると、この女性が暗殺に関わっている事は十二分に有り得た。
そのまま待っていると、相変わらず彼女は無表情であったが、ふと視線が横に動いた。
時間は限界か…
「答えないなら、雪村千鶴を拷問にかける」
…かかった!
女性の表情がほんのわずかに変わった。それはすぐに元に戻り、彼女は何事もなかったかのように振る舞っている。
けれど、一度逸れたはずの視線はこちらを注視し、彼女の意識は、間違いなく私の話の続きを待っている。
「雪村千鶴の、姉か妹ではありませんか?」
姉妹というには、顔も背格好もあまりに似すぎている。
そして、双子はこの時代『忌み子』とされ、一緒に育てられることは少ないと聞いた。ならば、本人たちが知らないこともあるかと思う。だから、千鶴はもしかしたら知らないだけなのかもしれないと思った。
けれど、どうやら彼女の方には何か覚えがあるらしい。
「雪村千鶴は相当強情で我慢強いようですから、きっと何も吐かないかな、と……しかも、あの華奢さでは、ちょっとキツメに拷問すれば、すぐに死んでしまうのは目に見えてますから、新選組としては扱いにくくて困ってます。
不審人物である、あなたの事を知ってると思って捕まえたのに、何の役にも立たない」
…怒った、にしては…その顔は…?
私が『拷問』と言ったとき、彼女の嫌悪や怒気といった…負の表情を一瞬見たが、それはすぐに色を変えた。彼のわずかに緩んだ口元から、私が読み取った彼の思いは…悲しみと哀れみ。そして、愉悦。
喜ぶ要素がどこにあった…?
「だからこうして、改めて、あなたに話を聞きに来た訳なんですけど。
土佐浪士の目的は、ひとまず長州と同じかと思っていたのですが、あなたの福原殺しについて考察するに、開国派と鎖国派で手は組みきれないということですか?」
「話はそれだけ?」
その冷えた声に、ドキリと私の心臓が鳴る。
千鶴ちゃんと同じ造形の顔なのに、発せられる声は一段低く、無機質で。それが違和感とともに、不気味に感じた。
「その女は、煮るなり焼くなり好きにすれば良い……けど、お前らが勝手に殺すのだけは許さない」
「それは…」
「これ以上話すことはない。お前はそれを伝えるために、生きて帰してあげるよ。ただ…」
――ッな……速…っ!?
動いた陰が、真っ直ぐにこちらに迫るのを捉えて、弥月は刀を抜こうとした。しかし、抜刀しきる前に、敵の刃は顔を庇う弥月の左腕を突いた。
「二度と追って来ないよう、躾は要るかな!」
「――っ!!」
弥月は目の前に居る彼女に、一閃振るが。彼女はその斬撃を避けつつ、弥月の骨に当たった短刀を抜き去る。
顔を顰めて舌打ちをした弥月は、正眼に剣を構えると、肘から止めどなく流れ落ちる赤い液体が目に写った。
痛い
叫びそうになるのを、歯を食い縛り、唇を食んで、喉元で堪える。
左腕が痛みを訴えてブルブルと震える。耐えようと両腕に力を入れると、痛みが一瞬強くなり、震えも全く止まらなかったが……この腕が使えるものであることは分かった。
勝てるか、勝てないか
迷わず即断した。
逃げるしかない
『怪我をするな』と憂慮してくれた山崎さんの姿が頭を過ぎる。
約束したから…今日中に、帰らなきゃ駄目だ
「!? 貴様、鬼か!?」
相手の動きを見ながらも、ジリジリと後退しようとしていた弥月の意識がそちらへ戻る。
カッと目を見開いた彼女の、悲鳴に似た声がゆっくりと耳に響いた。
鬼…?
それが質問だったらしいことに気付くが、答えに窮して口を閉じる。
鬼って、鬼…?
鬼子と言われたことも数知れないが、今さら彼女がそれを質問するとは思えない。
を、に?
私が質問を理解できずに困っていることに気付いていないのか。彼女はボソリと、私に聞こえない大きさで何かを呟いた。
…なに……えっ!?
今度は弥月の眼が驚きに見開かれる。
白…く、なった…!?
彼女はいったい何をしたのだろうか。僅かな間で、頭の根元から髪先へと、艶やかな黒色が白色へ変化した。そして、猫が毛を逆立てた時のように、私を威嚇する彼の鋭い瞳は、光輝く金色をしている。
綺麗
「おまえが雪村の血を狙ってるなら話は別だ。あれは僕のものだ!」
「え…」
「死ね!」
えええええぇあええぇぇぇ!?
彼のどこに殺る気スイッチがあったのだろう。千鶴ちゃんに関する事なのは間違いないが、意図せずに、私はそれを押してしまったらしい。
嘘! ごめん、嘘!
懐へ飛び込んでくる彼女の陰を、かろうじて目で捉えて、構えていた剣を反射的に動かすと、彼女が振り下ろした短剣を防ぎ止めた。
そして、間もなく続く二撃目を、咄嗟に後ろへ転げるようにして避ける。しかし、体勢を整える前に、振り返って追撃を防ごうと振り上げた刀が、敵の刃に当たることはなかった。
片脚に何かが押し付けられた。
「――っ、あ゛」
痛…ッ
イタイ
「あ゛っ、ア゛ああぁぁぁァァ!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い…ッ!!!
地に膝をつけたまま、弥月は得物を半ば無意識に振り回して、敵を遠ざけようとする。
――斬られた…っ
一瞬遅れてきた激痛と、消えぬ異物感の原因を、痛みにのたうち回りそうになりながら、歯を食い縛って確認すると、短刀が右大腿に刺さっていた。
傷を見て、気が遠くなりそうになるのを自制し、痛みで掻き消えそうになる思考で、何をすべきか必死に考える。
止血…っ、抜けないように…動いたら抜ける…!
痛みと恐怖でカタカタと全身が震える。震える手で胸元をまさぐるが、止血する用の道具など持っていない。
違うっ!
そんなことより、敵はまだ目の前にいる。立ち上がらなければ殺される。
脚を斬られたら、腹を…っ!!
上体を起こし、視線を上げた瞬間に、今度は頭の横から衝撃が走った。
何かで強打されたのだと気付いたのは、地面に顔を擦り付けてから。脳が揺れるような感覚がして、目を白黒させている間に、腹を蹴られて「ゥエ゛ッ」と、ひしゃげた声が出る。
「千鶴はどうしてる? もう自分の母親と同じように、犬畜生を孕んだ後かな?
万一、犬の子を生んだら、じっくり千鶴に見せつけながら殺せば良いと思ったけど。お前の子どもなら、すぐにでも腹から出さなきゃ気が済まないなぁ」
「ゥエ゛…ゴホ…ッ」
咳き込む弥月を見下ろし、女性はクスリと笑って、顔を愉快そうに歪めた。そして、弥月の血の流れる腕を、擦るように踏みつぶす。
「イ゛ッ…やめ…っ」
「どこの混ざり者か知らないけど、角もないくせに、純血の僕に敵うと思ったなら、思い上がりも良いところだね。その頭の下品な色からして、風間のとこのかな……ほら、さっさと答えなよ!!」
「ヴぁッ!!」
腹をもう一度蹴られる。
ヤバ…い、これ…
痛くて、熱くて…体を捩って、それを少しでも和らげる方法以外、何も考えられない。体の内側のものが潰れたような感覚がする。手足が冷たくなって、冷汗が止まらない。
このままだと、嬲(なぶ)り殺される
彼女が何に怒っているのか……私たちが千鶴ちゃんに暴漢を働いたか、か…
「待っ…誰も、千鶴ちゃんに、何もっ…してなぃ…」
「…それ、誰が信じると思うの? と言うか、別に、あれが輪姦されようと何されようと、別に子どもかできてさえ無ければ、どうでも良いんだけど」
…子どもさえ、なければ…?
「…私、が……それだけは、無いように…貴方に約束するから…」
「はぁ?」
「これ…」
動く方の腕で胸元をグッと拡げて、着込んでいるものを避け、一番下のサラシを曝す。そして、袖に仕込んでいたクナイで、それを切ろうとしたが、力が入らず上手くできなかった。
「これ、切って…」
「……」
彼女は弥月の指示には従わなかった。弥月の胸元と顔とを、何度か訝しむように見た。
弥月は自力でサラシを切ろうとした手を下して、目を開いて、彼女を見る。
「…見なきゃ、信じない、から、上でも下でも確認すればいい……私は同じ女として、千鶴ちゃんがそういう風に扱われるのは嫌だ、から…止めると約束する」
***
…――っ、やっぱり速い…!
烝さんと別れ、走ってなんとか対象の姿を見つけた。
その薄紅梅色の着物を着た女性の、行先が気になり尾行すると。彼女は軽装のまま街を出てしまった。
そして、京への街道では普通に歩いていたが、彼女はスイッと本筋を外れ、山道へ入って行った瞬間に、常人とは思えない勢いで山道を駆けだした。
しかし、弥月は以前に山中で見かけた時も、油断していて、すぐに見失ってしまった経緯から、今回は絶対について行くと決めていた。最初から本気で追いかける。
この際、跡を着けられていることがバレても仕方がない。どこに行くのかを知ることが最優先で、話しかけられても構わない。
…でも、これ…道じゃなくない!?
彼女は脚の裏にバネでも付いているのか……かろうじて分かる程度の獣道を時々外れては、道なき森をひょいひょいと駆け上がる。そんな足元が悪い中、彼女を見失わないように追って行くのはかなり難しい。
着物もキチンと来ているのに、どうしてあの姿のまま登っていけるのか。
そうか、これがガチの山ガールか。ふわふわ飛んでるな…
ツッコみ不在のため、ボケっぱなしが辛い。
しかし、半刻も過ぎたころからは、心のボケすらも出なくなってくる。
…ちょ、待って、まじキツ…
どういうことか…私が本気を出しても追いつけないなんて、微塵も思っていなかった。
山を上がったり、下りたり。岩を上がったり、上がったり。高い段差を降りたり、滑る道を飛んだり。
…いや、待って。これワザとだよね…私が付いて来てるの知ってて、絶対この道…道じゃないけど、走ってるよね!?
彼女は一度も振り返らないけれど、気付いていないはずが無い。私は何度も木々や落ち葉をガサガサと踏み鳴らしている。それに、山道で分かり辛いけれど、ぐるりと一つの山の周りを回っているような気がする。
そうして一刻近く、山道を高速で移動しているのに、前を行く彼女が全く速度を落とす気配はない。
マジで、きつい
脚がキツイ。瞬発力を以て走るのは得意だけれど、山道の段差とは勝手が違う。
世の中には私より運動のできる女子だって、いくらでも居るのだろうと、自尊心をポッキリと折られる。けれど、まだ歩けるから、まだ諦めない。ここまで来て、今さら諦められない。
それに、ここで置いて行かれたら遭難するかも…という恐怖もあった。
上がらない太ももに鞭打ち、笑う膝を叱咤して、跳ぶように進む彼女の後ろをついて行く。
森の中は木々に覆われて、日中なのにやや薄暗さがある。足場の悪い所で転ばないように、集中する必要があった。
そのため、弥月は脇目も降らず必死に前を追っていたのだが、ある時、ふっと集中力の途切れる瞬間があった。下手(しもて)にある木々の間に目を向けると、人通りのある道が見える。
人の気配……だいぶ下りて来てたんだ……うん! また登るよね、知ってた!
いい加減にしてくれ、と思ったが。こちらから声をかけるのは、流石に憚(はばか)られる。
「…いい加減にしてくれる」
…!
明らかに苛立った声が、前方から聞こえて来た。
そこで彼女が足を止めたのに倣って、弥月も一歩だけ前へ進んでから足を止めた。
「あんたが体力無尽蔵の化け物なことはよく分かったから、もう殺して良いかな」
おおっと…!?
「…私も、体力の限り女の尻を追い回す男と思われてるのは辛いので、そろそろ話し合いたかった所なんです」
彼女の『殺す』の部分を無視して、話し合いを促す。
『それ』を黙殺する能力を身に付けさせてくれた事を、沖田さんに感謝する日が来るとは思わなかった。
振り返った彼女は、私がよく知る少女と、同じ造りの容貌をしていた。ただ、あの少女とは違い、この女性は感情を表に出さないことができるらしい、
しかし、私が頭巾を外すと、彼女の殺気が、驚きにわずかに負けたのを見る。
「新選組の矢代弥月と言います。土佐の方ですか?」
状況から考えて、彼女が土佐の関係者である可能性は、決して低くないはずだ。
今大坂に居たこと、新選組の動向を見ていたこと、私を撒こうとしたこと…撒けないなら私を殺そうと思ったこと。
しかし、そう質問したとはいえ、答えてくれるとも思っていないので、無表情でこちらをただ見ている彼女に、弥月は「もうひとつ」と続ける。
「あなたに確認したいことがあります。昨年の八月、蛤御門での衝突の日、伏見の陣営近くにいましたよね?」
「……」
彼女は答えない。これも答えるとは思っていないけれど。
「それで、あなたを今どうこうしようとは思ってません。上司の指示もありませんし、興味半分で訊いています。
伏見陣営の大将・福原越後を闇討ちしたのは、あなたじゃないかと私は思ってるんですけど……はずれですか?」
この女性が土佐の関係者であるとすると、長州勢と同じ、勤王派である土佐が、敢えて長州の挙兵の邪魔をした意味は分からないが。
状況から考えると、この女性が暗殺に関わっている事は十二分に有り得た。
そのまま待っていると、相変わらず彼女は無表情であったが、ふと視線が横に動いた。
時間は限界か…
「答えないなら、雪村千鶴を拷問にかける」
…かかった!
女性の表情がほんのわずかに変わった。それはすぐに元に戻り、彼女は何事もなかったかのように振る舞っている。
けれど、一度逸れたはずの視線はこちらを注視し、彼女の意識は、間違いなく私の話の続きを待っている。
「雪村千鶴の、姉か妹ではありませんか?」
姉妹というには、顔も背格好もあまりに似すぎている。
そして、双子はこの時代『忌み子』とされ、一緒に育てられることは少ないと聞いた。ならば、本人たちが知らないこともあるかと思う。だから、千鶴はもしかしたら知らないだけなのかもしれないと思った。
けれど、どうやら彼女の方には何か覚えがあるらしい。
「雪村千鶴は相当強情で我慢強いようですから、きっと何も吐かないかな、と……しかも、あの華奢さでは、ちょっとキツメに拷問すれば、すぐに死んでしまうのは目に見えてますから、新選組としては扱いにくくて困ってます。
不審人物である、あなたの事を知ってると思って捕まえたのに、何の役にも立たない」
…怒った、にしては…その顔は…?
私が『拷問』と言ったとき、彼女の嫌悪や怒気といった…負の表情を一瞬見たが、それはすぐに色を変えた。彼のわずかに緩んだ口元から、私が読み取った彼の思いは…悲しみと哀れみ。そして、愉悦。
喜ぶ要素がどこにあった…?
「だからこうして、改めて、あなたに話を聞きに来た訳なんですけど。
土佐浪士の目的は、ひとまず長州と同じかと思っていたのですが、あなたの福原殺しについて考察するに、開国派と鎖国派で手は組みきれないということですか?」
「話はそれだけ?」
その冷えた声に、ドキリと私の心臓が鳴る。
千鶴ちゃんと同じ造形の顔なのに、発せられる声は一段低く、無機質で。それが違和感とともに、不気味に感じた。
「その女は、煮るなり焼くなり好きにすれば良い……けど、お前らが勝手に殺すのだけは許さない」
「それは…」
「これ以上話すことはない。お前はそれを伝えるために、生きて帰してあげるよ。ただ…」
――ッな……速…っ!?
動いた陰が、真っ直ぐにこちらに迫るのを捉えて、弥月は刀を抜こうとした。しかし、抜刀しきる前に、敵の刃は顔を庇う弥月の左腕を突いた。
「二度と追って来ないよう、躾は要るかな!」
「――っ!!」
弥月は目の前に居る彼女に、一閃振るが。彼女はその斬撃を避けつつ、弥月の骨に当たった短刀を抜き去る。
顔を顰めて舌打ちをした弥月は、正眼に剣を構えると、肘から止めどなく流れ落ちる赤い液体が目に写った。
痛い
叫びそうになるのを、歯を食い縛り、唇を食んで、喉元で堪える。
左腕が痛みを訴えてブルブルと震える。耐えようと両腕に力を入れると、痛みが一瞬強くなり、震えも全く止まらなかったが……この腕が使えるものであることは分かった。
勝てるか、勝てないか
迷わず即断した。
逃げるしかない
『怪我をするな』と憂慮してくれた山崎さんの姿が頭を過ぎる。
約束したから…今日中に、帰らなきゃ駄目だ
「!? 貴様、鬼か!?」
相手の動きを見ながらも、ジリジリと後退しようとしていた弥月の意識がそちらへ戻る。
カッと目を見開いた彼女の、悲鳴に似た声がゆっくりと耳に響いた。
鬼…?
それが質問だったらしいことに気付くが、答えに窮して口を閉じる。
鬼って、鬼…?
鬼子と言われたことも数知れないが、今さら彼女がそれを質問するとは思えない。
を、に?
私が質問を理解できずに困っていることに気付いていないのか。彼女はボソリと、私に聞こえない大きさで何かを呟いた。
…なに……えっ!?
今度は弥月の眼が驚きに見開かれる。
白…く、なった…!?
彼女はいったい何をしたのだろうか。僅かな間で、頭の根元から髪先へと、艶やかな黒色が白色へ変化した。そして、猫が毛を逆立てた時のように、私を威嚇する彼の鋭い瞳は、光輝く金色をしている。
綺麗
「おまえが雪村の血を狙ってるなら話は別だ。あれは僕のものだ!」
「え…」
「死ね!」
えええええぇあええぇぇぇ!?
彼のどこに殺る気スイッチがあったのだろう。千鶴ちゃんに関する事なのは間違いないが、意図せずに、私はそれを押してしまったらしい。
嘘! ごめん、嘘!
懐へ飛び込んでくる彼女の陰を、かろうじて目で捉えて、構えていた剣を反射的に動かすと、彼女が振り下ろした短剣を防ぎ止めた。
そして、間もなく続く二撃目を、咄嗟に後ろへ転げるようにして避ける。しかし、体勢を整える前に、振り返って追撃を防ごうと振り上げた刀が、敵の刃に当たることはなかった。
片脚に何かが押し付けられた。
「――っ、あ゛」
痛…ッ
イタイ
「あ゛っ、ア゛ああぁぁぁァァ!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い…ッ!!!
地に膝をつけたまま、弥月は得物を半ば無意識に振り回して、敵を遠ざけようとする。
――斬られた…っ
一瞬遅れてきた激痛と、消えぬ異物感の原因を、痛みにのたうち回りそうになりながら、歯を食い縛って確認すると、短刀が右大腿に刺さっていた。
傷を見て、気が遠くなりそうになるのを自制し、痛みで掻き消えそうになる思考で、何をすべきか必死に考える。
止血…っ、抜けないように…動いたら抜ける…!
痛みと恐怖でカタカタと全身が震える。震える手で胸元をまさぐるが、止血する用の道具など持っていない。
違うっ!
そんなことより、敵はまだ目の前にいる。立ち上がらなければ殺される。
脚を斬られたら、腹を…っ!!
上体を起こし、視線を上げた瞬間に、今度は頭の横から衝撃が走った。
何かで強打されたのだと気付いたのは、地面に顔を擦り付けてから。脳が揺れるような感覚がして、目を白黒させている間に、腹を蹴られて「ゥエ゛ッ」と、ひしゃげた声が出る。
「千鶴はどうしてる? もう自分の母親と同じように、犬畜生を孕んだ後かな?
万一、犬の子を生んだら、じっくり千鶴に見せつけながら殺せば良いと思ったけど。お前の子どもなら、すぐにでも腹から出さなきゃ気が済まないなぁ」
「ゥエ゛…ゴホ…ッ」
咳き込む弥月を見下ろし、女性はクスリと笑って、顔を愉快そうに歪めた。そして、弥月の血の流れる腕を、擦るように踏みつぶす。
「イ゛ッ…やめ…っ」
「どこの混ざり者か知らないけど、角もないくせに、純血の僕に敵うと思ったなら、思い上がりも良いところだね。その頭の下品な色からして、風間のとこのかな……ほら、さっさと答えなよ!!」
「ヴぁッ!!」
腹をもう一度蹴られる。
ヤバ…い、これ…
痛くて、熱くて…体を捩って、それを少しでも和らげる方法以外、何も考えられない。体の内側のものが潰れたような感覚がする。手足が冷たくなって、冷汗が止まらない。
このままだと、嬲(なぶ)り殺される
彼女が何に怒っているのか……私たちが千鶴ちゃんに暴漢を働いたか、か…
「待っ…誰も、千鶴ちゃんに、何もっ…してなぃ…」
「…それ、誰が信じると思うの? と言うか、別に、あれが輪姦されようと何されようと、別に子どもかできてさえ無ければ、どうでも良いんだけど」
…子どもさえ、なければ…?
「…私、が……それだけは、無いように…貴方に約束するから…」
「はぁ?」
「これ…」
動く方の腕で胸元をグッと拡げて、着込んでいるものを避け、一番下のサラシを曝す。そして、袖に仕込んでいたクナイで、それを切ろうとしたが、力が入らず上手くできなかった。
「これ、切って…」
「……」
彼女は弥月の指示には従わなかった。弥月の胸元と顔とを、何度か訝しむように見た。
弥月は自力でサラシを切ろうとした手を下して、目を開いて、彼女を見る。
「…見なきゃ、信じない、から、上でも下でも確認すればいい……私は同じ女として、千鶴ちゃんがそういう風に扱われるのは嫌だ、から…止めると約束する」
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