姓は「矢代」で固定
第2話 誰知らず点された火
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***
弥月が深々と頭を下げ、お礼を言って帰ってから少しして、再び除痘館の戸が開いた。
訪れたその男は、コツと靴音を鳴らして、ゆっくりと敷居をまたぐ。
「こんにちはー、どなたか居ますか?」
「はいはーい…って、え!? わぁ、先生!お久しぶりです!! 急にどうされたんですか?」
「久しぶり、元気そうだね。薩摩に開成所ができただろう? 一度見に来てくれと、小松君や町田君に言われたからね、夏頃から行っていたんだ。その帰りの途中、というところかな」
「適塾の方には?」
「行ってきたよ。君はこっちに居ると聞いたからね。はい、これお土産」
蘭医はそれを受け取りながら礼を言って、男を中へと促す。
「どうだい? 特には変わりはないかい?」
「はい、特には……あ」
「?」
蘭医は何かを思いついたらしく、「どうでも良いことなんですけど」と前置きしつつも、どこか可笑しそうに話し始める。
「さっきまで金髪の男がいたんですよ。除痘しに来てて」
「異人かい? それは珍しい」
「いえ、異人じゃなくて…先生はご存じですか? 新選組に金髪の男がいるの」
「いや…新選組は聞いたことがあるが…」
「こっちじゃ有名なんですよ。守護職の私兵みたいなもんなんですけどね、そこそこ腕の立つ集団で、難癖つけて金も巻き上げるし、断れば血も涙もないって嫌われ者です」
「そんな人がこんな所に…」
物騒な話なのかと思いきや、それをどうして、蘭医はこんなに可笑しそうに話すのか、男は疑問に思って問うた。
「それが噂と違って変な男でね。我々のすることに一々興味深々なんですよ。当然、嫌悪する塾生もいたんですけど、本人は攘夷なんてどこ吹く風って様子で、塾にも出入りしていて。
しかも、種痘したってのに元気そのもので、毎日これは何だあれは何だって楽しそうに……我々の想像してた新選組と違いすぎて、拍子抜けしたというか何というか…」
「へえ…確かにそれは、私としても興味深いね」
「はい。先生も会う事があれば、是非話してみて下さい。人斬りでさえなければ、面白い男です」
男が頷きながら「覚えておくよ」と答えた時、再び玄関の開く音がして、バタバタと誰かが駆けこんでくる。
「ごめんやでー…あ、良かった、まだおった。大鳥先生、大事なん忘れもんしとったでー」
「あれ? 本当かい、ありがとう」
大鳥は懐を探って、それが無いのに気付き、照れ笑いしながら、塾生から自分の財布を受け取った。
「先生、泊まっていかはるんですか?」
「いいや、舟が出る時間までと思って寄っただけなんだ。舟に人を待たせているし、偉い人に呼ばれてるから、早めに行かなきゃならない」
「そう言えば、四、五日前に福沢先生が、江戸から帰る途中にここに寄ったので、丁度行き違いになりましたね」
「そうなのかい!?それは惜しい事をしたなぁ」
大鳥が大袈裟にそう言ったところ、塾生は不快を露わにして、吐き捨てるように言う。
「福沢先生はなんであの男を庇ったのか…」
「ん? あの男って誰のことだい?」
「あぁ、さっき言ってた新選組の男ですよ。決して手は出さないように、塾生たちに言い包めて行かれたんです」
「へえ…福沢先生が、ねぇ」
どうやら新選組に因縁があったらしい塾生が憤慨するのを、蘭医とともに、大鳥はなだめすかしながら、改めて考えていた。
神奈川の開成所、それに次ぐ、薩摩の開成所。
そして、西郷殿が参謀格になったことで、おそらく近日中に行われるだろう、長州の恭順。
幕府の権威を絶対としている、攘夷を譲らない会津藩。
西洋化を早々に受け入れ、軍備に徹している薩摩が、会津と手を組んで動いていることは、牙を研ぐ時間を稼いでいるためにしか見えなかった。
新選組、か…
それは大きな流れに抗う力になるだろうか
激変の時が迫り来るのを、日々肌で感じている。
幕臣として今自分がすべきことは何だろうかと、大鳥は道を探し続けていた。
弥月が深々と頭を下げ、お礼を言って帰ってから少しして、再び除痘館の戸が開いた。
訪れたその男は、コツと靴音を鳴らして、ゆっくりと敷居をまたぐ。
「こんにちはー、どなたか居ますか?」
「はいはーい…って、え!? わぁ、先生!お久しぶりです!! 急にどうされたんですか?」
「久しぶり、元気そうだね。薩摩に開成所ができただろう? 一度見に来てくれと、小松君や町田君に言われたからね、夏頃から行っていたんだ。その帰りの途中、というところかな」
「適塾の方には?」
「行ってきたよ。君はこっちに居ると聞いたからね。はい、これお土産」
蘭医はそれを受け取りながら礼を言って、男を中へと促す。
「どうだい? 特には変わりはないかい?」
「はい、特には……あ」
「?」
蘭医は何かを思いついたらしく、「どうでも良いことなんですけど」と前置きしつつも、どこか可笑しそうに話し始める。
「さっきまで金髪の男がいたんですよ。除痘しに来てて」
「異人かい? それは珍しい」
「いえ、異人じゃなくて…先生はご存じですか? 新選組に金髪の男がいるの」
「いや…新選組は聞いたことがあるが…」
「こっちじゃ有名なんですよ。守護職の私兵みたいなもんなんですけどね、そこそこ腕の立つ集団で、難癖つけて金も巻き上げるし、断れば血も涙もないって嫌われ者です」
「そんな人がこんな所に…」
物騒な話なのかと思いきや、それをどうして、蘭医はこんなに可笑しそうに話すのか、男は疑問に思って問うた。
「それが噂と違って変な男でね。我々のすることに一々興味深々なんですよ。当然、嫌悪する塾生もいたんですけど、本人は攘夷なんてどこ吹く風って様子で、塾にも出入りしていて。
しかも、種痘したってのに元気そのもので、毎日これは何だあれは何だって楽しそうに……我々の想像してた新選組と違いすぎて、拍子抜けしたというか何というか…」
「へえ…確かにそれは、私としても興味深いね」
「はい。先生も会う事があれば、是非話してみて下さい。人斬りでさえなければ、面白い男です」
男が頷きながら「覚えておくよ」と答えた時、再び玄関の開く音がして、バタバタと誰かが駆けこんでくる。
「ごめんやでー…あ、良かった、まだおった。大鳥先生、大事なん忘れもんしとったでー」
「あれ? 本当かい、ありがとう」
大鳥は懐を探って、それが無いのに気付き、照れ笑いしながら、塾生から自分の財布を受け取った。
「先生、泊まっていかはるんですか?」
「いいや、舟が出る時間までと思って寄っただけなんだ。舟に人を待たせているし、偉い人に呼ばれてるから、早めに行かなきゃならない」
「そう言えば、四、五日前に福沢先生が、江戸から帰る途中にここに寄ったので、丁度行き違いになりましたね」
「そうなのかい!?それは惜しい事をしたなぁ」
大鳥が大袈裟にそう言ったところ、塾生は不快を露わにして、吐き捨てるように言う。
「福沢先生はなんであの男を庇ったのか…」
「ん? あの男って誰のことだい?」
「あぁ、さっき言ってた新選組の男ですよ。決して手は出さないように、塾生たちに言い包めて行かれたんです」
「へえ…福沢先生が、ねぇ」
どうやら新選組に因縁があったらしい塾生が憤慨するのを、蘭医とともに、大鳥はなだめすかしながら、改めて考えていた。
神奈川の開成所、それに次ぐ、薩摩の開成所。
そして、西郷殿が参謀格になったことで、おそらく近日中に行われるだろう、長州の恭順。
幕府の権威を絶対としている、攘夷を譲らない会津藩。
西洋化を早々に受け入れ、軍備に徹している薩摩が、会津と手を組んで動いていることは、牙を研ぐ時間を稼いでいるためにしか見えなかった。
新選組、か…
それは大きな流れに抗う力になるだろうか
激変の時が迫り来るのを、日々肌で感じている。
幕臣として今自分がすべきことは何だろうかと、大鳥は道を探し続けていた。