姓は「矢代」で固定
第10話 その先へ
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慶応元年八月七日
陽が傾きだして影が長くなる。涼しい柔らかな風に吹かれて、畔道に咲いた真っ赤な花の群れが揺れていた。
弥月は一瞬だけ目を輝かせてすぐに収めたが、烝の方が口を開いた。
「彼岸か」
「! 綺麗ですね」
烝さんの表情が穏やかだったので、ホッとして笑いかける。
菊芋の花の件があった日、しばらく無言は続いていたのだけれど、次の日には普段通りに戻っていた。彼から似た話をふってくれるのだから、あまり気にしない方が良いだろう。
「彼岸花って毒があるんでしたっけ?」
「ああ。触るくらいなら問題ないが、触ったその手で物を食べると腹を下す」
「ほう。田んぼの近くによく生えてる気がするんですけど、まあまあ危険ですね」
「その毒で、田んぼへのネズミや土竜の侵入を防ぐからな。あと、手間はかかるが毒抜きをすれば食べられるらしい」
「そこまでして…人間ってホント変なもの食べたがりますよね。河豚(ふぐ)の卵巣漬けとか」
「それは死ぬな…」
「確か福井の方の食べ物だったので、八十八さんにでも聞いてみましょう。命かけるほど美味しいのかって」
草津宿が目の前に来ていた。ここが最後の宿泊で、明日には屯所に辿り着く。
長かった―!!
捜索隊に非番なんてないから、この一カ月ずっと歩き続けていた。煎餅布団でも、臭い枕でも、屋根と食料があるんだからまだましな任務だ諦めるしかなかった。歩き疲れてよく眠れた。
「今日くらい脇本陣でも許される! 空いてたら泊まりましょう?」
早足になって振り返ると、烝さんと遠くなった。
「弥月君」
「ん?」
なぜか烝さんの脚が止まる。
首を傾げて数歩戻ると、烝さんは懐から何かを出した。
「これを」
「なんですか?」
握り拳の中にある布。受け取るとそれは袋で、中に細い箱があるようだった。
「開けてくれ」
「はい」
木箱を開けた。さらに中には布が入ってて、何かが包まれていた。
そして、白布の中から出てきたのは、金工製の平打ち簪。飾り気は少ないが、銀色の素地に透かし彫りで花が咲いていて、花びらが所々金色になっている。
「これは?」
「君に」
私に?
この時代の男性は当たり前に髪が長い、けれど、簪を使っているのは見たことがないし、花柄ならば女性用だろう。
そっか…気を遣わせたかな…
名古屋のお風呂屋さんでは、微妙な色合いの着物で装飾品の一つもなく見栄えが悪いと、お姉様方から散々な言われようだった。そして数日前の断髪の騒ぎた。ついに可哀そうに思われたのかもしれない。
苦く笑って「ありがとうございます」と返す。
「…君の好みではなかっただろうか?」
「いいえ? 可愛いし綺麗だし好きですよ。どうしたんですか、これ?」
っていうか、もしかしてこれ超高いんじゃ…?
ふと気づいて、手の中のそれをじっと見る。鉄製か銀製の簪。花街の女の子達が付けているような一目で分かる豪奢さはないが、彫りの細工はとても細やかで、ともすればこの金色部分は真鍮じゃなくて金だ。金属の見分けなんてできないが、どの素材であっても絶対に安くはない。
だって、布の袋に箱が入ってて、また布が入ってた
それを察してしまえば、こんな高級品どうお礼をしたら良いのかと、弥月は受け取った姿勢のまま困惑する。すると、手からそっと烝に拾い上げられた。
「華やかさには欠けるが、普段の恰好でもこれなら合うだろうと思った。唐変木の俺と違って、弥月君なら使っていても伊達者と思われるだろう」
「え? 普段使いのつもりで買ったんですか?」
「ああ。勿論、気になるようなら女髪のときに使ってくれたら良い。弥月君がこの手の物で喜ぶとは今まで思いもしなかったから、好みが分からなくて困ったが…広くは使えるだろう」
「こんな良い物…」
「君に何かをあげたいと思ったんだ」
私の顔の横に彼の手が伸びて、詰めた髪の間にゆっくりと差し込まれる。簪が皮膚を優しく滑っていく感触がした。
「受け取ってくれるだろうか?」
烝さんは面映ゆい表情で、少し満足そうに微笑む。黄昏の茜空の中、斜陽に照らされて彼の白い肌の縁が透明に輝いていた。
その姿があまりに綺麗で、私の心臓がドキリと音を立てる。
好きだから?
唐突に浮かんだ心の声に、胸が苦しくなり指先が熱くなった。奥底に抱いたままの小さな疑問は不用意に顔を出す。
喉に何かがつっかえた。
「――りがとうございます」
まるで光を見ていた
弥月は耳の上あたりにあるそれに触れる。照れくさいような温かな気持ちがここに詰まっていて、大切にしようと思った。
そして、お礼に何を渡そうかと烝さんを見る。
けれど彼と視線が合って、言うべき言葉が消えた。彼の瞳は私しか映していないのに、さきほどの柔らかな表情はなくなっていた。
彼がまっすぐに私を見ている。私達の間には思いがけない静寂が訪れたのに、視線だけは外れない。外すことを許さないと云うように、菫色の双玉に視線を強く絡め取られた。
獣のように
心臓が震える。
まるで映像のように彼の唇がゆっくりと動いて、言の葉を紡ぐ。
「君のことが好きだ」
耳鳴りのような感覚がした。
「部下や仲間としてだけじゃなく、女性として君のことを大切にしたいと思っている」
知らず息が止まる。
私を好き?
無垢な驚きと、ほのかな得心、ドロリとした懐疑的な気持ちが同時に溢れ出る。
私を 女性として 好き
どうして?
不可解に思うけれど、目の前にいるのは疑うべきもない緊張した表情の烝さん。いつもの彼の包みこむような優しい声音はない。それが積み重ねつづけて抱えきれなくなった重さなのだと、私に訴えかけていた。
好き
好きって 好きってこと
女性として 好き
それを受け取って欲しいと望まれていた。
「…君のことだから、言わないと伝わらないかもしれないな。
俺は君がたまたま近くにいた女性だから好きになったんじゃない。弥月君を好きになったんだ。これは伝わっているか?」
「…分かり、ます」
「そうか、良かった」
烝さんはホッと胸を撫で下ろす。
そんなに鈍く見えているのかと場違いな自虐が浮かぶと、歪に固まった思考が少しほぐれたけれど。「だから」と続く彼の言葉にまた緊張して耳を傾ける。
「一番組の部屋にいるのも気が気ではなかった。彼らと着替えも寝起きもするなんて…」
「…それはまあ…もう二年もやりくりしてますから、なんとか…」
「それだけじゃない。君は親しい人へ童のように手を差し出せるから、勘違いさせかねない」
「手…は、私から出すのは…烝さんくらいですよ」
「そういう所も憎らしくて仕方なかった。あまりに無邪気で…俺は一人の男として君に触れたいのに」
あまりに直接的な言葉に、カカカ…と顔が熱くなる。注がれる熱っぽい視線を受け止め耐えきれずに、思わず眼を逸らした。
この…女らしさとは縁のない私を?
「どうして…?」
「理由、は難しいが……クルクルと変わる表情は可愛いと思っている。隠しきれていない真面目なところも、誰にでも分け隔てなく公平であろうするところも尊敬している。好奇心が強すぎるのと、なんでも自分で解決しようとして一々心配をかけるが……嫌いじゃない。
本音を言うと、綺麗な女性なのだと誰にも知られたくないから、屯所内で女装はやめて欲しい。あと…白い肌を晒して、無自覚に男の目を惹かないでくれ」
「…」
聞いたのが間違いだった。並べられるとは思わなかった。そんなことを訊いた自分が恥ずかしい。耳が壊れる。
「ほんとに…」
「本当だ。弥月君のことが好きだ」
そうじゃない
まるで望んで言わせてしまった。独り言が口から出ただけだ。
居た堪れなさすぎて、思わず両手で顔を隠す。血液が沸騰したのか、頭がぼぅっとしてきた。
どうしよう
万が一そうだったらと、何度か一瞬考えて、毎回ある訳ないとすぐに投げ出した。答えを持っていないのに、今、頭が働かない。
烝さんのことは好き、だけど、この好きって、それとは違う気がするのに、違うとは思えないのはなんで?
好きって、もっとどうしようもなく溢れ出るような感覚じゃないの?
好きだけど、嬉しいけど、これは違うよね? 好きってなに? 好きじゃないけど、好きと違うくない?
答えを出さなければと思うのに、きちんと考えられてるのかどうかも分からない。
「だが、弥月君がそういう気持ちを俺に持ってないことも分かっている」
その声音が変わったことに、弥月はすぐに気付いた。顔を覆う手から、ゆっくりと視線を上げる。
「だから、君にどうこうしてほしい訳じゃない」
再びが視線絡んで、烝さんは今度は淡く笑んだ。
諦めたように
冷や水を浴びた。
烝さんの視線が段々と降りていく。何かに耐えるように、彼は体の横で拳を強く握っていた。
私に何も期待していない
今、自分は何も決める必要はない。
けれど、彼からの無償の穏やかで慈愛に満ちた視線は、二度と返ってくることはない。そして、これから自分も今までと同じように接してはいけないのだと。
それを惜しむ私は、都合が良すぎるだろうか。
いつから…
どこまでが彼の「人として」の優しさで、いつからその思いを礎に、私と一緒にいたのか。もう諦めたのなら、どうして今そんなことを言うのか。
「困らせてすまない」
おわり
終わってしまう
そんなの さみしい
寂しいと思うのはズルいだろうか。同じだけの思いを持っていないのに、変わらず隣にいてほしいと思うのは酷いだろうか。
ゆっくりと烝さんの頭が上がる。悲しい顔をしていた。
「ありがとう、聞いてくれて」
ざわりと心が波打つ。
終わる
いやだ
「――っ、分からないんです」
嘘じゃない。どうしたら良いのか分からない、けれど、彼の眼を見ていられなくて、足元に視線を落として首を横に振った。
「この前から烝さんがちょっと変だなって思ってて」
「ああ…」
「そんな訳ないと思いながら、もしそうだったらどうしようって思ったりもして」
何が言いたいのだろうと自分で思う。話している時間はここに繋ぎ止めておけるのだと気付いた。
「ごめんなさい。分からないです」
笑い返してくれたら、その笑顔をもっと見たくなる。
大事にされてるなって感じたら嬉しい。
一緒にいて安心できる。
でも、それ以上を求めたことがない
同じことを、斎藤さんや山南さんにも思う
きっと、これは恋じゃない
「もし…もし、それでも良いなら…恋人とは言えなくても…今まで通りにはいられませんか?」
卑怯だと、誰かが頭の中で呟いた。そしてすぐに、自分が言った事の意味を理解して後悔した。
怖い
間違った
自分に都合の良い事思いつきで、もっと彼を傷つけた。同じ気持ちになれないのなら、応えられないと断る方が誠実に決まっている。
それでも、大事過ぎて捨てられない
「…そんな怯えた顔で」
絞り出すような声でそう言われて、彼を苦しみ悲しませているのだと自覚する。助けを求められる人はどこにもいない。
間違った
半端な気持ちで、酷いことを言った……取り返しのつかない傷付け方をした。
泣きそうになるけれど、自分が泣くのはそれこそ卑怯だと分かっていた。
「ごめんなさい…」
「弥月君…」
彼が動く気配がして、視界を少し上げると手を差し出されていて、何かを求められているのだと理解した。それが友情の握手なのか、それ以外なのか分からずに見上げると、烝さんは困った顔で微笑んだ。
キュッと胸が苦しくなって、その手に手を重ねることができなかった。
けれど、彼は動かずに待っている。
「…手を繋ぐのは嫌ではないな?」
考える間もなく弥月はコクンと頷く。すると、山崎は落ちている彼女の右手を拾い上げた。
「これでいい」
繋いだ手から、彼へと視線を上げる。烝さんは眦を下げて穏やかに笑んでいた。いつも隣にいるより半歩だけ距離が近い。
「君が嫌なことはしたくない。これまで通り居てくれたら良い。何か嫌なときは嫌だと教えてくれ」
それは私の提案を了承する言葉だと気付いた。
「良いんですか…?」
「…今すぐに、関係に新しい名前が無くてもいい。ただ、そういう俺の気持ちを知って欲しかった」
彼の空いている方の手が上がる。それは私の頭の上に乗っかった。
「君こそ…今まで通りで良いんだな? 俺が触れても…」
触れること自体に意味があるのだと
私に触れたいと
そこには男女の好意があるのだと
「弥月君?」
繋いだ手と頭を撫でる彼の動きに、全ての意識が持っていかれる。まだ頭が働かない。
「弥月君?」
「はい…」
「…大丈夫か?」
「…いっぱいいっぱいです」
全然大丈夫じゃない
この場をどうしたらいいか、何を考えたらいいのかも分からない。ただ、繋いだ烝さんの手が温かい。
「…嫌じゃないんだな?」
その問いに、ぎこちなく頤を引く。
男として私に触れたいと言った、彼の手の動きが気になるだけ。どういう反応をしたら良いのか分からないだけ。感触はいつも通りで、嫌な気持ちはしない。
けれど、岩のように動けなくて、そのまま大人しく頭を撫でられている。
どうしたら…撫で返せばいいの…か?
「フッ…」
いつの間にか段々と俯いていた頭上に落ちてきた、彼の大きな息継ぎ。顔を上げると、烝さんは横を向いて、クックッと笑っていた。
「すまない…ッ、可愛くてな…」
???
「…どこが?」
思わず返事ができた。
烝さんはクシャリと顔を綻ばせて、「分からなくていい」と嬉しそうに私を見た。
―――第三章 終