姓は「矢代」で固定
第10話 その先へ
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慶応元年七月二十五日
人の失敗で落ち込んでいても仕方ない。
気を取り直して、お世話になった奉行所に礼をしてから、今度は比較的ゆっくりと街道を進むことになった。各奉行所や木戸番に再度男の特徴を伝えて通報を依頼しなおしていき、今日は一旦名古屋に延泊する。
「烝さん、お願いがあります」
布団を敷いていた彼の手が止まり、正座する私を見て「なんだ?」と聞いてくれる。改まって声をかけたせいで、彼から妙な緊張感を受けとった。
「風呂を許可してください」
「…許可制にした覚えはないんだが」
「分かってます。分かってますけど、一応言わなきゃいけない気持ちになりました」
「…風呂桶のある宿にするか、湯屋に行ける格好をするか、どちらでも構わない」
「神!」
ありがとうございます!と勢いよく土下座すると、墨を落としたばかりの濡れた髪がベシリと畳を叩いて、「きちんと拭け」と手ぬぐいでわしゃわしゃされた。
古着屋で急場しのぎに買ったのは、女物とも思えない微妙な色合いの対丈の服。
というよりも、対丈なんじゃなくて、私がデカすぎるんだけどさ…
おはしょり分を身長が使ってしまうのはいつものことで、着方的な男物との違いは帯だけだ。帯もどれだけ野暮ったい結び方でも、女結びで解けなかったらヨシ。
そして昨日頭を洗ったので、風呂場の湯気で頭が痒くなることもなくて完璧無敵な状態。ただし今日はがっつり化粧をしてきた。顔なんて後で洗えばヨシ。
「あらぁ、お姉さん。異人さん?」
「Hi」
Hiだって。ウケる(笑)
自分で言ってて鼻で笑いそうになるのを、微笑みに替えて誤魔化す。
「ほんま、でら黄いな髪。そんな初めて見たがね」
「どこから来たん?」
「ソーリー、ワタシ日本語アマリワカリマセン。スローでゆっくり話すとハッピーです」
「そらぁ大変だなも」
「今日は一人だがや?」
「ここの湯はちんちんなもんだで、ちょこっと冷やかした方がええか?」
おばちゃん強い
首を傾げたり、分からないと応じたり一々伝わらない振りをするのだが、お姉様方はそれでもなんやかんや話かけて世話を焼こうとしてくれる。湯から上がっても、「ぼっさい色の服だなも」「異人はこんな可愛くないものが好きだがや?」等と悪口も言いながらも、帯結びを綺麗に整えてくれる。
この色なのは、袴を着たら男物に見えるからだって言い訳もしたくなったが、分からないフリをして心で泣いた。
「おみゃー家分かるか? どこに帰る?」
「ダイジョーブ。アッチ」
「反対だがね」
「ほいじゃーね」
「アリガト、ゴザイマース」
弥月が深々と頭を下げると、お姉様方は嬉しそうにして手を振って去っていった。
「…楽しそうだったな」
「はい。終始爆笑でした」
男湯から同時に出てきた烝さんが、ククッと「確かに」と笑う。男湯とは会話は筒抜けだった。
「お願いきいて下さって、ありがとうございました。ちょっとそこの厠で袴穿いてきますね」
「…帯を整えてもらっていたのに、勿体ないだろう」
「また反物屋の友達に着せてもらいますよ。それに、刀持たせてるの申し訳ないですし」
今、すぐに出せる得物が何一つない。刀は烝さんが無理矢理三本を腰に差してくれている。
「構わない。今日の宿まではそのままでいい」
「…刀ね、仕事中は大なり小なり持ってないと不安です。預けといて何ですけど」
その理由をわざわざ説明するのもどうかと迷ったが、見ると烝さんは懐疑的な顔をしていた。木刀だけを長く使っていた私が、そう言ったのが信じられないのだろう。
「…山南さんの腕もそうですし、他の時もですけど……女装して小刀を持ってても、碌な目にあった試しがないので。初めての場所に行く時ほどちゃんと備えていたいです」
人を斬るなら、斬られる覚悟をしなければならない。昨日、私は一人の脚を躊躇いなく斬った。それが仕事であり、自分の身を守るためにも必要なことだった。
今からはその続きだ
首元で緩く結んでいた元結を解き、ゴムで高く上げて、腕に通していた笠を深くかぶる。
「袴穿くだけなので直ぐです。ちょっと待っててください」
今度は烝さんは止めなかった。
宮宿から名古屋城下を通り、名古屋宿を過ぎた。美濃路自体は平坦な道で、歩くだけなら二日あれば十分に辿り着くそうだ。
「都会は終わりですか?」
「いや、大垣や岐阜は城下町が栄えていると聞く。中山道を東に行けば大きな宿場がいくつかあって、信濃に松本城がある」
「へー」
自分で聞いておいて愛想のない返事になった。烝さんも行ったことはないと言うし、私も日本地図を思い浮かべては、岐阜県や長野県が山岳地帯で歩きで行けるとは思えないほど遠いことしか分からない。たぶん松本城って有名だ。県庁所在地のクイズで間違った気がする。
今日は雲が少なく日当たりが良くて、真夏が戻ってきたように暑い。弥月と同じように道行く人も、木陰で休憩しながら街道を進んでいた。
それでも稲は伸びやかに育ち、早い田んぼでは稲穂も黄金に色づき始めている。そんな秋の気配を感じる中、唐突に現れた道端に生えた背の高い植物が、弥月の目についた。
「ひまわり!」
背の高い色鮮やかな黄色の花の小さな群を見つけて指をさす。近づいてみると黄色いコスモスのような見た目だった。
「じゃなかった! けど、花!」
「君は花にも詳しいのか?」
「全く! ひまわりかそうじゃないかが分かるくらいです」
特に好きな花という訳でもない。でも、ひまわり畑って見つけるとなぜかめっちゃ嬉しい。
「向日葵は名前は聞いたことがある程度だな…これに似てるのか?」
「大きいんですよ! 大小色々種類はありますけど、人の頭より大きいのもあります」
「それは大きい…」
「この辺に種が密集してできるんですけど、それが食べられる」
「花の種を食べるのか。蕎麦のようなものか?」
「いえ。鼠のようにそのままボリボリ食べます」
彼にものすごく不審な顔をされて、思わず笑う。
「似たような食べ物的には…ナッツ類は見ないからなぁ。あ、でも南京の種も食べますよ」
「南京の種…俺は食べたことがないな。美味しいのか?」
「うーん。かぼちゃの種もひまわりの種も、味自体はそんなにないですね。普段は食べないかも」
「あぁ、もしかして不作のときに食べるのか」
「ううん、もっとおやつ的な感じで。むしろ高級食材」
「??? 美味しくもないのに?」
「触感と風味かな?」
やはり分からないという顔をした烝さん。あまり表情に変化のない人だけれど、今日はコロコロと変わって子どもみたいで面白い。
再びじっと花をみていた烝の視線が弥月へ移る。そして彼女の笠を上げて、見比べて確認するようにしてから笑った。
「同じ明るい色をしている。君によく似合う」
「! ありがとうございます」
花が似合うだなんて褒められると恥ずかしいが嬉しい。照れ笑いしながら、笠を上げたまま、自分と同じ高さの黄色い花を微笑ましく見た。
「コスモスに似てると思ったけど、菊にも似てますね」
「それは芋の花だよ、異人のお嬢さん」
その呼び方に俊敏に反応したのは、私よりも烝さんで。彼は私を背に隠すように立つ。私も笠を目深に直した。
「ああ、すまない。警戒する必要はないよ。僕は混血にも偏見はないし、ただ、この花を知っていたから教えてあげようと思っただけなんだ」
烝さんの後ろで、笠の下から覗くように相手を確認すると、柔らかい雰囲気の男性だった。知り合いではない。そして…
スーツだ…
初めて見た。この時代に来て初めて見た洋服。後ろが長いのは燕尾服というのだったか、変わった薄橙色をした…。
スーツ! スーツじゃん!
この感動と興奮をなんと表現したら良いか分からない。サボン玉を発見したときと同じ反応をしたいのに、状況がそれを許さない。烝さんは「ご親切に」と会話を終わらせようとしている。
「芋ですか?」
烝さんが少し振り向いて「ななし君」と私を諌めるが、私はもう好奇心が勝ってしまった。
矢代弥月って、バレなきゃ平気平気
「つい数年前に、外の国から横浜に来たばかりのはずなんだけど、よほど生命力が強いんだね。こんなところで自生しているなんて」
「これが芋なんですか?」
「さつまいもやじゃが芋とは違う、メリケンの食用の芋だね。花が咲いた後に収穫するそうだ」
「なんだ、食べ物か」
いや、植物を食べ物か花かで分類するのが間違っているのだけれど。
「ははっ!君は合理的だね」
そう言いながら、男は花のついた細い枝を一本、二本と手折っていく。
「元が食べ物でも、花は綺麗だと僕は思うよ」
「そうですね。芋の花って見たことなかったけど、こんな大きい花なんですね」
「じゃが芋は白い花、さつまいもは薄桃色の花がもっと低い高さで咲くよ。これは日本には新しい植物だからね…菊芋とでも言おうか」
「菊芋…」
そのままだ
「とはいえ、これをブーケと言ったら怒られるから、抛入(なげいれ)としてもらおう」
男が手折っていた黄色に鮮やかな花は、小さな花束になっていた。スッと二人の前に差し出されるそれ。山崎は身じろいだが、弥月は横から手を出して受け取った。
「ありがとうございます」
「女の子は旅をするのも大変だね。男の格好をしなければならないなんて」
「動きやすいですし、大して苦ではありませんよ」
「彼ではなく、君の方が二本差しなのはどうしてなんだい?」
「…!」
「行くぞ」
グイッと手を烝さんに引っ張られる。軸が弱っていたらしい花がポトンと一つ落ちたが、私も烝さんも振り返らなかった。
怒ってる
そりゃ怒るわ
あれからしばらく経ったが、未だに烝さんは無言のまま、私の先を歩いていた。
せめて肯定も否定もしなければ良かったのに、自ら女と認めてしまったのだから。もしあの男に一方的に顔を知られてたのなら、矢代弥月の武士人生が終わった。
いや待てまて。私、武士目指してないし
今までのように隊士では居れなくなるかもしれないが、名目をくノ一にでも変えればいい話だ。
あとは、皆にバレて気まずいだけで……谷組長あたりを無視すれば、どうにでもなると思うのだけれど。
「呑気ですみません」
とりあえず目の前で怒っている上司に謝っておく。
返事がない
一緒にいるとたまに怒らせる事はあるので、弥月は諦めて肩を竦める。そこまで大きな失態ではないと思っているから、それ以上謝る気も無かった。
「花を…」
「はい」
「もらったら、君は嬉しいのか?」
何の話?
何と言うならば、手の中にある黄色い花束の話だろうけれど、話の趣旨が分からない。
「はい。綺麗ですし、普通に嬉しいです」
この状況でもらっても飾ることもできなくて困るっちゃ困るし、スーツの男の言う通りブーケと言うには工夫に欠けるけれど、摘んだ野花でも好意でもらったら嬉しい。
「今日の宿にでも飾ってもらいましょうか。花入れの一つくらいあるでしょうから」
切り口を湿気させることもしていないから、そこまで保たないかもしれない。かといって、萎れたからってそこらにポイと捨てるのは気が引ける。
あれ? 結構、面倒くさい物もらった?
けれど、そんな自分の思考はあまりに女子力が低いのだと気付いてしまう。
だから私は宿に着くまで、それを少し邪魔に思いつつも持って歩いた。
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