姓は「矢代」で固定
第九話 それぞれの一歩
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元治元年五月上旬
これをおかしいと思ったのは、今日に始まったことじゃない。ただ不便を感じる訳でもないから、殆どのときは忘れていられた。
だから何度も思い出しては、気のせいだと自分に言い聞かせていた。
「爪が伸びない」
最初に気付いたのは、それこそ私の監禁が解かれてすぐの頃だった。先が割れた薬指の爪を切った後。短くなったその爪が、伸びて元に戻るころ。
私の指にある20枚の爪は、どれだけ経っても、その短くなった部分が元に戻っただけだった。
百歩譲って、多少擦り減っていたとしよう。しかし、こちらに来てもう十ヵ月、私は爪を切ったことがない。
それをオカシイと思ったけれど、それでも無視し続けた。
「…だって、なんか怖いってか……キモいじゃん」
それと、たぶん髪の毛も伸びていない。梳いたりして抜けることはあっても、全体の長さは伸びた感じがない。
「…でもこれ、ゆくゆくは禿げるしかなくない? 月代にするとか、バーコードとか、選択の予知なく、丸禿げ一択じゃない?」
土方さんに「禿げるハゲる」って、好き放題言ってた報いか。
「ええぇ、この年齢で禿げは嫌だよぉ……ゴメン、土方さん」
ホントは、そのサラツヤ鉄壁のキューティクルな髪が羨ましかったんです。
はあぁ…と、溜息を溢す。一人で愚痴ったって、ボケたって、何も変わらないのだ。
十七年も付き合っているのに、本当に意味が分からない、この身体。
…? あれ、17年か?
こちらへ来て十ヵ月ならば、1歳上がったんじゃないだろうか。
元々居た月から数えると、やはり誕生日は超えていた。
…てか、十ヶ月って…
久々に考えて、帰れる見通しも希望も何もないことに憂鬱になるが、今日は非番でないので、悠長にそれで落ち込んでも居られず。
とりあえず今日の仕事に勤しむことに決めて、一つだけ特大の溜息を吐いてから監察の仕事に戻った。
***
将軍が年始に上洛して四ヵ月足らず。公務合体は未だ成し得ていない。
そして去る三月、東国にて水戸天狗党なる尊攘派の挙兵があり、その鎮撫を幕閣は水戸藩へ要請するものの、水戸藩も激派が実権を掌握しており、それを排斥することはなかった。しかし、彼らの軍資金集めのための恐喝・殺人などにより、北関東の治安は悪化しており、それを追討することは必須事項となっている。
そのため、「元治国是」という勅(みことのり)が発せられ、横浜の鎖港が決定した折を見て、徳川家茂は帰東せざるを得なかった。
そして、将軍が江戸へ帰路につくため、再び新選組は護衛の任務を課せられた。
その件について、出張を命じられていた弥月は、個別で山南から呼び出されていた。
「どうせならば路について詳しい者が良いだろうと、前回同行している君を私が推薦しました。近藤局長に付き従い、身形を整え悪目立ちせず、しっかりとお役目を果たしておいでなさい」
「承知いたしました」
「くれぐれも藩士達と揉め事など起こさないように」
「…分かりましたって」
「沖田君も行くようですから、内輪揉めなど見苦しい事態もないように」
「…はーい」
ということで、近藤局長、土方組と谷組で将軍護衛のために大坂へ赴いていた。
かくいう私は、沖田さんとともに近藤側付きの役に就いていて。それに不満はないのだが、この出張における大きな疑問が一つあった。
「なんで、近藤さんの次に先頭にいるのが、土方さんじゃなくて、谷さんの組なんですか?」
弥月はボソボソと小声で、隣を歩く沖田に尋ねる。彼らのすぐ後ろでは、近藤と谷が楽しげに話をしていた。
土方さんは近藤さんと色々相談したりするし、どう考えてもその位置は彼がいるべきだ。それに、沖田さんと私を護衛につけているからとて、前回の二の舞を恐れて、土方さんは絶対に近藤さんの近くにいたいと思うはず。
なのに、なぜ近藤さんの横でベラベラと話をしているのが谷三十郎助勤なのか。
「…色々あるんだよ」
「その色々を訊いてるつもりなんですけど…」
「…今日はやけに首突っ込むね」
…そういう事になるか?
弥月は深い意図はなく問うたのだが、沖田の指摘に「確かに」と思って口を閉じた。
沖田の云う「首を突っ込む」とは、弥月の思うところとは別にあったのだが、彼女がそれを知る由もない。
予想外に押し黙った弥月へ、チラリと視線だけ寄越した沖田だったが。
弥月は視線を前へ向けたまま、ムスッとした声でつぶやく。
「…あの人ちょっと苦手」
「…君って結構好き嫌いするよね」
誰のせいだ
私がじろりと視線を向けると、腹の立つことに、彼はまるでどこ吹く風で。
「ハァ…じゃあ、ちょっとついでに愚痴らせて下さい」
苦手なのは、当然それなりの理由がある。
岩城桝谷騒動の後、山南を医学所まで連れて行ったのは谷万太郎(弟)で、谷三十郎(兄)は事後処理のために現場に残った。
谷兄は凄惨な店に足を踏み入れて、奥で腰をぬかしている男よりも先に、血溜まりに膝をつく乱れ髪の女にまず目を止めた。女の足元には賊の腕だったり、死体そのものだったりが転がっており、女が居るにはあまりに異様な光景だった。
彼は鯉口を切ってから、女へ問うた。
「女、なぜ貴様がこの場にいる。何者だ」
「…谷さん、私、矢代です。総長補佐、矢代弥月です」
「は…」
「お見苦しい恰好で申し訳ありません、山南総長に同行して下阪しておりました。賊の噂を聞き、加勢に来た次第です」
驚いた表情をみせた谷だったが、みるみるそれは嫌悪を示すものに変わる。
「貴様…っ、新選組とあろう者が、そのような形で…」
「今回は監察の仕事を兼ねてますので…乞食のふりをすることもあれば、女装だって致します」
「…――っ開き直るでない!! 貴様、自らが穢れの根源だと自覚せよ!
局長たちに巣食う夷敵の胤裔(いんえい)が…貴様のような輩がいる故に、斯様(かよう)な厄災に見(まみ)えるのだ! 元より、貴様が我ら志士と名を連ねるなど、恥を知れ!」
そう言って、谷さんは私が抱えていた山南さんの隊服をもぎ取った。
言われたい放題だと思ったが、言葉を返す気力もなかった。
私を忌むべきものと思っているのは彼だけでは無い。ただ、私が役職付きだから、それを口にして言えるものが少ないだけだ。
「谷さんに嫌われてるのは知ってましたけど、その言い方ないわーと思いました」
「…彼は根っからの武士だから、君みたいな出自を明らかにできない人は受け付けないみたいだね」
「…なんてか、新選組向いてませんよ、彼」
「他人(ひと)の事言えた口じゃないでしょ」
再び沖田さんをじろりと見るが、やはり彼はこちらなど見向きもしない。
「養子の件で、色々あるんだよ」
「…?」
養子?
「谷さんの真ん中の人、近藤さんの養子になるんだよ。だから必死って話」
「近藤さん、江戸に子どもいるんじゃなかったですっけ?」
「それ、女の子」
「…あぁ、なるほど。跡継ぎ……でも、跡目もあるなら内弟子じゃなくていいんですか?」
「…谷さんは、お家断絶されたとはいっても、元備中松山藩の近習役の家柄だからね」
「ふぅん…」
お家柄だからねと言われても、断絶されれば“こっち側”なんじゃないだろうかと思うが。武家の出ってのは、それだけで貴いらしい。
「沖田さんも武士の子なんじゃなかったですっけ? …って、あ、そっか。沖田さんは沖田家の跡継ぎだから、近藤さんの跡継ぐわけにはいかないのか」
「……誰かさんに色々聞いたみたいだね」
一瞬、ピリとした空気が流れて、弥月は咄嗟に作り笑いを浮かべる。
「ただの茶飲み話ですよ。沖田さんも山南さんたちとの稽古、混ざりませんか?」
私が監察に復帰してからも、不定期ではあるが山南さんと稽古している。
どこからか聞きつけた斎藤さんやら平助やら、時々は局長たちも寄って来て、自主稽古の割になかなか賑やかなのだ。
…ん?
「…なんでそんな間の抜けたような顔してるんです?」
沖田さんがキョトンとしているのでそう問えば、
「…君のその変面には負けるよ」
「いやいや、これ真顔ですけど」
こちらも、やはり失礼極まりない男だと思った。
勅書により、庶政や長州の処分も未だ幕府に委任されることが確実となった。そして弥月ら監察の耳は、昨年京を追われたはずの長州の攘夷派が、今日へ戻ってきているらしき動きを捉えていた。
そんな中での将軍の移動が滞りなく終わったことが、逆に弥月を不安にさせた。