姓は「矢代」で固定
第九話 それぞれの一歩
混沌夢主用・名前のみ変更可能
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
また会いに行くと約束して、手を振って彼女と別れた。
「沖田さん、ありがとうございました」
「…べつに君のためじゃないから」
予想に反せず、つっけんどんな返事が返って来るが。
それなら、彼女のためだと言うのだろうか……どちらにしても良い人じゃないか、と可笑しくなる。
「良かったですね、お母さんも赤ちゃんも元気そうで」
「…」
「可愛かったですねー。重さはもう生まれたときの倍とか言ってましたけど-、でもお母さんに似てまだまだ小さいくらいで…でも案外持つとずっしり重くて。赤ちゃんってなんであんなに瑞々しいんでしょう、不思議ですよね」
「…」
「元気に育ってほしいですね。あ、今度何かお祝いもって行こうかなー」
「……」
「この時代、何を持っていくのが普通なんでしょうね…服とか? んー、でも私そこまで裁縫得意じゃないし…あ、ちょっと変わったものあげたいような気もしますし、卵とか砂糖とか高級食材も良いかもですよね。親子でしっかり栄養とってもらわなきゃいけないし」
「…あのさ」
弥月はずっと一人で喋り続けるつもりだったのだが。沖田からの待望の返事が-来て、ピタッと口を閉ざす。
どんな返事がくるのか、ちょっとワクワクしてる自分は変態じゃないだろうか
「なんで話しかけるわけ。僕ずっと無視してるんだけど、それが煩いとか、迷惑してるとか考えないの」
それは、質問。
苦情よりも先に、質問がくるとは思いも寄らなかった。
…らしくない。けど…
「そう思ってるなら、沖田さん絶対言うでしょ。じゃなきゃ私の喉、とっくに切られてるかなと思います」
ついでに言うなら、少し前までの彼ならば、私がこうして隣なり後ろなりを歩いていることすら、まず拒否するだろう。「いつ襲われてもおかしくない」と…それは私もだけれど。
だからきっと、私たちの関係はちゃんと変わってる
それはきっと良い方向に
「…煩いと思ったなら、切ってもいいってことだよね」
「それとこれとは話が別です」
真顔になった弥月は、顔の前で人差し指のバッテンを作る。
「それに、私がなんで話しかけてるかって言われたら、沖田さんが同じこと思ってると、思ってるからですよ」
今度は弥月が二カッと笑って言うと、沖田は分からないという風に眉を顰める。
「何考えてるか分からない人に話しかけるのは躊躇いますけど、今なら沖田さんと絶対同じこと思ってる自信ありますから!
沖田さんが私を嫌いでも、猫も子どもも嫌いじゃないのは知ってますから。共通する好きなものについてだけなら、楽しく話せる気がしません?」
「…別に話したくないんだけど」
「知ってますよ~。でも食わず嫌いなのは、私の性に合わないんです。今の沖田さんなら私嫌いじゃないかもしれないんで、試しに喋らさせてください」
「却下、鬱陶しい」
「あっはっは! じゃあ、ちょっと分量減らしますね」
「…そういう問題じゃないんだけど」
辟易するように言われたけれど、私はまだ口を閉じるつもりはなかった。
彼が本当に私を嫌いだとしても……ひたすらにウザがられても……斬るとか殺すとか言わない、猫と妊婦と赤ん坊に優しい沖田さんとならば、ちょっとだけ気をつけてさえいれば、普通に仲良くなれる気がしたから。
***
沖田side
あぁ。うるさい
煩い
うるさい
…いや、ちょっと、本当、かなり五月蝿いんだけど
正直、その口を上と下で割ってあげたい所だが、僕だってそれなりにこの事態を予想して、ここまで説明も無しに彼女を連れてきたわけで。一時の感情で怒るのは、少し大人気ないと思った。
「沖田さーん、どこ行くんですかー…この質問も飽きたー…」
説明すると、ついて来ないだろうと思ったから。
弥月君は悪い事をしたときに、謝るか逃げるかの二者択一で……どうやらこの件に関しては後者なことは、母親からの話を聞いていて分かった。
そして僕が手を貸す義理はないけれど、あの母親が青い顔をしながらも巡察中の僕を捕まえた勇気に、少しくらい見返りがあっても良いんじゃないかと思ったから、少しだけ手間をとってあげることにした。
「あははっ! じゃあちょっと分量減らしますね!!」
“女三人姦(かしま)しい”と言うれけど、この子一人で三人分は優にあると思う。
彼女は相手がはじめ君でも賑やかなそうな空気を作るから、どれだけ煩いのかは承知していたけれど。
ただ、
『嫌いとか、気持ち悪いとか、私はそこまでじゃありませんから』
『沖田さんが私を嫌いでも、今更なので構いませんけど』
彼女がそう当たり前のように言ったことには、流石に少し驚いた。
同じ空間にいることすらも嫌がっていたはずだ。彼はいつも僕を気にしてピリピリとしていた。嫌味や揚げ足取りの応酬はあれど、会話らしい会話なんてしたことなかった。
『お前らがどこ行くんでも構わねぇけどな、死体が出るときには、その理由と証拠を持ってこい』
それがさっき弥月君の外出許可を、土方さんに取りにいったときの、彼の言葉。僕もそれが、僕と彼女の関係についての正しい認識だと思っているのだが。
…それが、どういう心境の変化で、僕の横で気楽にペラペラとしゃべり続けてるのか…
「それとも、千鶴ちゃんの手を借りて、何か着物作ったりしたら良いんでしょうかね? あ、でも千鶴ちゃんにしてみたら、なんで私が裁縫するのかって話に…」
また返事をしなくなった僕を隣に、あっけらかんとして再びしゃべり続ける、彼女の面の皮の厚さに呆れる。
「…とっとと着替えて来てくれる。その頭は屯所でなんとかして」
「はーい」
監察方の借家に着いて、今度は建物の外で待つ。勿論、彼女がこれ以上喧(やかま)しく話しかけてこないように、だ。
…っていうかさ、彼女の女装がアレってことはさ、前に新八さんとか左之さんの見たのはアレってことで…
「や、ちょっ、ま……おっ、沖田さん!助けて!!」
……
「…は?」
理解するのに少しの時間がかかったが、思わず何もないに宙に向かって疑問をぶつけてしまった。
彼女が僕に助けを求めるなんて、ありえなくない?
僕がそう考えてる間にも、中で何が起こっているというのか、再び奇声があがる。
「あ、ちょ!あぁぁ早くヘルプヘルプヘルプ!!」
なんかまた意味不明な言葉使ってるし…
「うわ…やややっ、待って待って! 沖田さ―――ん!!」
「いったい何なのさ…」
めんどうくさいと心底思うが、これだけ騒がれては無視もできず。それにしても「居るんでしょ、早く!!」と催促する彼女は、何を僕に期待しているというのか。
少なくとも、彼女が助けを求めているのは、不審者とか敵の類ではないと断言できる。
そうして沖田が、弥月のためにこれ以上何かをする気はないと思いながらも、一部屋しかない家の中を覗けば、
「…何やってるの」
「助けてください!!」
弥月は抜刀してそれを両手に握りこみ、部屋の角に目をやっていて。その顔は必死の形相なので、本気で救いを求めていることは明らかなのだが。
助けろって言われてもさ…
そこには誰もいない。何もない。
「…前からどっかおかしいんじゃないかとは思ってたんだけどさ、ついに普通の人は見えないものがとか言っ」
「あ゛あ゛無理、むりっ!!ちょ、あ゛ぁぁ動かないでえぇ!」
「!?」
ここ大一番の奇声をあげて、目にも留まらぬ速さで、背後に近づいていた僕の更に後ろへと回った彼女。僕の服を掴んで、怖がっているのか何なのか、バタバタと床を踏み鳴らす。
「…何なの、油虫か何か?」
勝手場に出現しやすい、長い触覚の生えた虫。
彼女の言動が、ミツ姉がそれに対峙して狂乱したときの反応に似ていたし、ついこの前、源さんも退治していたから、すぐにそれを思い至る。
「違う!ヤモリヤモリヤモリ!!」
「は……家守?」
「わかんない、トカゲかもしれない! イモリかもしれない!! なんでも嫌だぁぁぁ!!!」
「……」
とりあえず、そういうものの類いがいるらしい。
それを理解すると妙な疲労感を覚えて、背中を引かれるままに、仰け反るように宙を仰ぐ。
あまりにしょうもない事態に、彼女を放置して去りたい気もしたが、この背を強く掴む手は、僕が辞退することを絶対に許さないだろう。
そうして半ば諦めの気持ちで、「ほら、あそこ!!」と指を指された先へよくよく目を凝らして床を見れば、確かに隅っこに、黒っぽい手のひら半分程の長さの何かが動いた。
「…ちっさいじゃない」
「小さいなら許されると思うなぁ! 中途半端に存在するなら、いっそゴジラの方が可愛いわ!!」
だいぶ余裕そうに見えるが、一応半狂乱の状態のようで、弥月君はバタバタとまた足を踏み鳴らした。
もしかしたら、彼女の足踏みで、トカゲが怯えて此方にこないように意図しているのかもしれない。
「虫が嫌なんて、どうやって生きていくつもり」
「あれは虫じゃない!虫なら平気なの!ゴキちゃんの方が全然マシ!!
まさかこいつらが家に侵入してくるなんて反則やんか!って、 あ゛あ゛ぁ!? それに乗らないでマイ袴! いいから早く何とかして下さいぃぃ!お願いしますぅぅ!!」
「…とりあえず、その手、離してくれるかな」
渾身の力で服を掴まれていたので、何とかしようにもそれ以上進むこともできなかった。
やっとのことで手を離してもらった沖田は、弥月への嫌がらせにそのまま見過ごしたり、わざと目の前に持っていくこともできたが……心底怯えた様子のヤモリの方が可哀想になった。このままじゃ、何もしていないのに殺されかねない。
僕が近付くとヤモリが逃げようとするから、また奇声があがったが、なんとか両手で捕まえて外へと逃がしてやる。
「あ、あ、ありがとうございます! 手、洗って下さいね!!」
よくよく見れば弥月君は涙目になっていて、歓喜にうち震えるような表情で、僕にお礼を言った。
君のためじゃないんだけどね…と思いながらも、悪い気はしなかった。
「君に嫌いなものがあるなんて意外だね」
「ど――してもっ、あれは無理です!!だって変な歩き方するのにニョロニョロして、ヌメヌメだけじゃなくツヤツヤもしてる意味が分からない! しかも千切れてもパタパタしてるとか気持ち悪すぎ! せめてどれか一個にして!!」
「でも君、この前、虻なら潰してたじゃない」
「ヤモリを潰せって言うんですか!? 後片付けしなきゃいけないんですよ!?」
「…そうだね」
確かに虫と違って、それが潰れてるのは気持ち悪いかもしれない。
人間の死体を平気でまたぐ生活をしていて、おかしな話だとは思うが。
「…今度こそ、さっさと着替えてくれる」
「はい!すいませんでした、ありがとうございます!」
……
沖田は弥月が頭を上げるのを見終えずに、建物から出ていく。
深々と頭を下げた彼女。その開いた衿元から見えた胸元の白さを、一瞬だけ凝視した僕に他意はない。
***
また会いに行くと約束して、手を振って彼女と別れた。
「沖田さん、ありがとうございました」
「…べつに君のためじゃないから」
予想に反せず、つっけんどんな返事が返って来るが。
それなら、彼女のためだと言うのだろうか……どちらにしても良い人じゃないか、と可笑しくなる。
「良かったですね、お母さんも赤ちゃんも元気そうで」
「…」
「可愛かったですねー。重さはもう生まれたときの倍とか言ってましたけど-、でもお母さんに似てまだまだ小さいくらいで…でも案外持つとずっしり重くて。赤ちゃんってなんであんなに瑞々しいんでしょう、不思議ですよね」
「…」
「元気に育ってほしいですね。あ、今度何かお祝いもって行こうかなー」
「……」
「この時代、何を持っていくのが普通なんでしょうね…服とか? んー、でも私そこまで裁縫得意じゃないし…あ、ちょっと変わったものあげたいような気もしますし、卵とか砂糖とか高級食材も良いかもですよね。親子でしっかり栄養とってもらわなきゃいけないし」
「…あのさ」
弥月はずっと一人で喋り続けるつもりだったのだが。沖田からの待望の返事が-来て、ピタッと口を閉ざす。
どんな返事がくるのか、ちょっとワクワクしてる自分は変態じゃないだろうか
「なんで話しかけるわけ。僕ずっと無視してるんだけど、それが煩いとか、迷惑してるとか考えないの」
それは、質問。
苦情よりも先に、質問がくるとは思いも寄らなかった。
…らしくない。けど…
「そう思ってるなら、沖田さん絶対言うでしょ。じゃなきゃ私の喉、とっくに切られてるかなと思います」
ついでに言うなら、少し前までの彼ならば、私がこうして隣なり後ろなりを歩いていることすら、まず拒否するだろう。「いつ襲われてもおかしくない」と…それは私もだけれど。
だからきっと、私たちの関係はちゃんと変わってる
それはきっと良い方向に
「…煩いと思ったなら、切ってもいいってことだよね」
「それとこれとは話が別です」
真顔になった弥月は、顔の前で人差し指のバッテンを作る。
「それに、私がなんで話しかけてるかって言われたら、沖田さんが同じこと思ってると、思ってるからですよ」
今度は弥月が二カッと笑って言うと、沖田は分からないという風に眉を顰める。
「何考えてるか分からない人に話しかけるのは躊躇いますけど、今なら沖田さんと絶対同じこと思ってる自信ありますから!
沖田さんが私を嫌いでも、猫も子どもも嫌いじゃないのは知ってますから。共通する好きなものについてだけなら、楽しく話せる気がしません?」
「…別に話したくないんだけど」
「知ってますよ~。でも食わず嫌いなのは、私の性に合わないんです。今の沖田さんなら私嫌いじゃないかもしれないんで、試しに喋らさせてください」
「却下、鬱陶しい」
「あっはっは! じゃあ、ちょっと分量減らしますね」
「…そういう問題じゃないんだけど」
辟易するように言われたけれど、私はまだ口を閉じるつもりはなかった。
彼が本当に私を嫌いだとしても……ひたすらにウザがられても……斬るとか殺すとか言わない、猫と妊婦と赤ん坊に優しい沖田さんとならば、ちょっとだけ気をつけてさえいれば、普通に仲良くなれる気がしたから。
***
沖田side
あぁ。うるさい
煩い
うるさい
…いや、ちょっと、本当、かなり五月蝿いんだけど
正直、その口を上と下で割ってあげたい所だが、僕だってそれなりにこの事態を予想して、ここまで説明も無しに彼女を連れてきたわけで。一時の感情で怒るのは、少し大人気ないと思った。
「沖田さーん、どこ行くんですかー…この質問も飽きたー…」
説明すると、ついて来ないだろうと思ったから。
弥月君は悪い事をしたときに、謝るか逃げるかの二者択一で……どうやらこの件に関しては後者なことは、母親からの話を聞いていて分かった。
そして僕が手を貸す義理はないけれど、あの母親が青い顔をしながらも巡察中の僕を捕まえた勇気に、少しくらい見返りがあっても良いんじゃないかと思ったから、少しだけ手間をとってあげることにした。
「あははっ! じゃあちょっと分量減らしますね!!」
“女三人姦(かしま)しい”と言うれけど、この子一人で三人分は優にあると思う。
彼女は相手がはじめ君でも賑やかなそうな空気を作るから、どれだけ煩いのかは承知していたけれど。
ただ、
『嫌いとか、気持ち悪いとか、私はそこまでじゃありませんから』
『沖田さんが私を嫌いでも、今更なので構いませんけど』
彼女がそう当たり前のように言ったことには、流石に少し驚いた。
同じ空間にいることすらも嫌がっていたはずだ。彼はいつも僕を気にしてピリピリとしていた。嫌味や揚げ足取りの応酬はあれど、会話らしい会話なんてしたことなかった。
『お前らがどこ行くんでも構わねぇけどな、死体が出るときには、その理由と証拠を持ってこい』
それがさっき弥月君の外出許可を、土方さんに取りにいったときの、彼の言葉。僕もそれが、僕と彼女の関係についての正しい認識だと思っているのだが。
…それが、どういう心境の変化で、僕の横で気楽にペラペラとしゃべり続けてるのか…
「それとも、千鶴ちゃんの手を借りて、何か着物作ったりしたら良いんでしょうかね? あ、でも千鶴ちゃんにしてみたら、なんで私が裁縫するのかって話に…」
また返事をしなくなった僕を隣に、あっけらかんとして再びしゃべり続ける、彼女の面の皮の厚さに呆れる。
「…とっとと着替えて来てくれる。その頭は屯所でなんとかして」
「はーい」
監察方の借家に着いて、今度は建物の外で待つ。勿論、彼女がこれ以上喧(やかま)しく話しかけてこないように、だ。
…っていうかさ、彼女の女装がアレってことはさ、前に新八さんとか左之さんの見たのはアレってことで…
「や、ちょっ、ま……おっ、沖田さん!助けて!!」
……
「…は?」
理解するのに少しの時間がかかったが、思わず何もないに宙に向かって疑問をぶつけてしまった。
彼女が僕に助けを求めるなんて、ありえなくない?
僕がそう考えてる間にも、中で何が起こっているというのか、再び奇声があがる。
「あ、ちょ!あぁぁ早くヘルプヘルプヘルプ!!」
なんかまた意味不明な言葉使ってるし…
「うわ…やややっ、待って待って! 沖田さ―――ん!!」
「いったい何なのさ…」
めんどうくさいと心底思うが、これだけ騒がれては無視もできず。それにしても「居るんでしょ、早く!!」と催促する彼女は、何を僕に期待しているというのか。
少なくとも、彼女が助けを求めているのは、不審者とか敵の類ではないと断言できる。
そうして沖田が、弥月のためにこれ以上何かをする気はないと思いながらも、一部屋しかない家の中を覗けば、
「…何やってるの」
「助けてください!!」
弥月は抜刀してそれを両手に握りこみ、部屋の角に目をやっていて。その顔は必死の形相なので、本気で救いを求めていることは明らかなのだが。
助けろって言われてもさ…
そこには誰もいない。何もない。
「…前からどっかおかしいんじゃないかとは思ってたんだけどさ、ついに普通の人は見えないものがとか言っ」
「あ゛あ゛無理、むりっ!!ちょ、あ゛ぁぁ動かないでえぇ!」
「!?」
ここ大一番の奇声をあげて、目にも留まらぬ速さで、背後に近づいていた僕の更に後ろへと回った彼女。僕の服を掴んで、怖がっているのか何なのか、バタバタと床を踏み鳴らす。
「…何なの、油虫か何か?」
勝手場に出現しやすい、長い触覚の生えた虫。
彼女の言動が、ミツ姉がそれに対峙して狂乱したときの反応に似ていたし、ついこの前、源さんも退治していたから、すぐにそれを思い至る。
「違う!ヤモリヤモリヤモリ!!」
「は……家守?」
「わかんない、トカゲかもしれない! イモリかもしれない!! なんでも嫌だぁぁぁ!!!」
「……」
とりあえず、そういうものの類いがいるらしい。
それを理解すると妙な疲労感を覚えて、背中を引かれるままに、仰け反るように宙を仰ぐ。
あまりにしょうもない事態に、彼女を放置して去りたい気もしたが、この背を強く掴む手は、僕が辞退することを絶対に許さないだろう。
そうして半ば諦めの気持ちで、「ほら、あそこ!!」と指を指された先へよくよく目を凝らして床を見れば、確かに隅っこに、黒っぽい手のひら半分程の長さの何かが動いた。
「…ちっさいじゃない」
「小さいなら許されると思うなぁ! 中途半端に存在するなら、いっそゴジラの方が可愛いわ!!」
だいぶ余裕そうに見えるが、一応半狂乱の状態のようで、弥月君はバタバタとまた足を踏み鳴らした。
もしかしたら、彼女の足踏みで、トカゲが怯えて此方にこないように意図しているのかもしれない。
「虫が嫌なんて、どうやって生きていくつもり」
「あれは虫じゃない!虫なら平気なの!ゴキちゃんの方が全然マシ!!
まさかこいつらが家に侵入してくるなんて反則やんか!って、 あ゛あ゛ぁ!? それに乗らないでマイ袴! いいから早く何とかして下さいぃぃ!お願いしますぅぅ!!」
「…とりあえず、その手、離してくれるかな」
渾身の力で服を掴まれていたので、何とかしようにもそれ以上進むこともできなかった。
やっとのことで手を離してもらった沖田は、弥月への嫌がらせにそのまま見過ごしたり、わざと目の前に持っていくこともできたが……心底怯えた様子のヤモリの方が可哀想になった。このままじゃ、何もしていないのに殺されかねない。
僕が近付くとヤモリが逃げようとするから、また奇声があがったが、なんとか両手で捕まえて外へと逃がしてやる。
「あ、あ、ありがとうございます! 手、洗って下さいね!!」
よくよく見れば弥月君は涙目になっていて、歓喜にうち震えるような表情で、僕にお礼を言った。
君のためじゃないんだけどね…と思いながらも、悪い気はしなかった。
「君に嫌いなものがあるなんて意外だね」
「ど――してもっ、あれは無理です!!だって変な歩き方するのにニョロニョロして、ヌメヌメだけじゃなくツヤツヤもしてる意味が分からない! しかも千切れてもパタパタしてるとか気持ち悪すぎ! せめてどれか一個にして!!」
「でも君、この前、虻なら潰してたじゃない」
「ヤモリを潰せって言うんですか!? 後片付けしなきゃいけないんですよ!?」
「…そうだね」
確かに虫と違って、それが潰れてるのは気持ち悪いかもしれない。
人間の死体を平気でまたぐ生活をしていて、おかしな話だとは思うが。
「…今度こそ、さっさと着替えてくれる」
「はい!すいませんでした、ありがとうございます!」
……
沖田は弥月が頭を上げるのを見終えずに、建物から出ていく。
深々と頭を下げた彼女。その開いた衿元から見えた胸元の白さを、一瞬だけ凝視した僕に他意はない。
***