姓は「矢代」で固定
第九話 それぞれの一歩
混沌夢主用・名前のみ変更可能
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文久四年二月二十日
朝餉の時。
平助から伸びる魔の箸を、弥月は箸で受け止めつつ、原田と千鶴の会話を小耳に挟んで、疑問を口にした。
「改元?」
「おう。今日から、文久から元治になるんだそうだ」
「天皇さん、死んだの?」
弥月の質問に、その場にいた全員がギョッとして、次にとんでもない発言をされる前に、弥月の口をどうやって塞ぐべきか一瞬考える。
しかし、やんわりと説明を買ってでたのは、やはり山南だった。
「改元は天子様交代のときだけでなく、祝い事のときや、厄災を断ち切るために行われたりもします。今年は【甲子の年】…まあ簡単に言うと、変乱の多い年なので改元しとこう、という感じでしょうか」
「じゃあ天子様の名前は、元治天皇になるんですか?」
「…いえ、孝明天皇のままです」
「へぇ、なんか面倒くさいですね。そんな名前一つで飢饉がなくなるなら、誰も苦労しないって思いますけど」
「…まぁ、元号を変えたところで、厄災が必ずしも生じないかと訊かれたら難しいところなので……形式的なものですから、何ともいえませんね」
「なるほどー…でも、次の名前考える間に、政策の一つでも考えりゃいいのにですね」
「……」
ということで、やりなおし。
元治元年二月二十日
春。
…と言っても、ようやく「寒い寒い」と連呼しなくても良くなる頃。まだまだ三寒四温の途中で、冬用の夜着も、火鉢も片づけられない頃。
「なんちゃら かんちゃら 梅は梅」
そんな感じだったと思う。梅が咲いたから思い出しただけで、決して沖田さんのように彼のポエムを盗ってきた訳ではない。
「…? 梅がどうかしましたか、弥月さん」
「ううん、春だなぁ。と思っただけ」
「そうですね」
ふと気付けば、冬を越えていた。つまり、千鶴ちゃんは捕まってから二ケ月間、殆どをこの部屋で過ごしている。
そして今日も、彼女は本を読み、私は習字をしたりゴロゴロしている。山南さんと約束している時間までは、できるだけ室内で過ごしているのだ。
「暇だねぇ」
「え…あ、はい。そうですね?」
その返事を聞いて、思わず破顔する。
以前、同じこと呟いたら、小声で「すみません」と謝られたことがある。それは、“貴重な時間を割かせて申し訳ない”という意味だったらしいけれど、今は“自分も暇”だと彼女は言った。
些細なことかもしれないが、これも積み重ねた信頼関係だろう。
「ちょっと厠でも行く?」
「…さっきも行ったばかりですけど、大丈夫でしょうか?」
「ですよねー。やたら厠近いって思われるのも、なんか嫌だしねー」
千鶴は手元の書物を広げたまま、不思議そうに弥月を見る。
最初の頃の弥月は時々「暇」と口にしていたが、近頃は全く聞かなかったのに、一体どうしたのだろうかと。
すると、弥月は突然に大声で「そうだ!」と言い、立ち上がる。
「そうそう! 私、今日、刀の手入れしたかったんだよね! あっ、でも道具は私の部屋だなぁ、困ったなぁ。千鶴ちゃんの監視を放り出して行くわけにもいかないし! うーん、困ったなぁ!!」
「…」
千鶴はそれにパチクリと目を瞬かせた。
千鶴にしてみれば、「今更いったい何を言っているのだろう」と。弥月が監視の担当をしているときは、彼が厠や茶を淹れるために居なくなることなんて、日常茶飯事である。ひどいときは一刻ほど不在にしている。
そして弥月は何故か楽しそうに、「あーあ、困ったなぁ」と大仰に言って……もはや、大声で叫んでいた。
「……すみません?」
困惑しながらも、一応、千鶴が伏し目がちに小さく言うと。
パンッ
「ごめん! 悪いんだけど、千鶴ちゃん、私の部屋に一緒に来てくれない?」
千鶴が音に釣られて反射的に視線を上げた先で、弥月は顔の前で手を合わせてそう言った。
「え…?」
「打ち粉とか部屋に取りに行きたいんだけど、でも目離したら怒られちゃうからさ、一緒に来てくれない?」
「でも、私」
「そう! 千鶴ちゃんは出ちゃ駄目って分かってるんだよね! でも私が我がままでどうしても譲らないから困ってる!!」
「え…っと」
「誰がどう見たって、千鶴ちゃんが弱者で、私が強者な立場なのは事実!」
その弥月の声の大きさに、つい千鶴は彼から遠ざかるように仰け反る。
「そして、引きずられるように出て行く!!!」
「……えっ!?」
ガシッと力強く腕をつかまれて、千鶴は弥月に引っ張りあげられる。
「あのっ、弥月さん!?」
千鶴は立ち上がるのもままならないまま、引っ張られた。足をもつれさせながら、何とか転ばないように障子の前まで歩く。
そこで立ち止まった弥月を見上げると、彼はそれはそれは楽しげな顔をして、スパ――ンッと音を立てて障子を開け放った。
「部屋に戻りましょうって叫んで」
「え?」
「いいから叫ぶ!」
「へっ、部屋に戻りましょう!?」
「ゥうるせぇ!!ガタガタ抜かしてんじゃねエ! その使えねぇ飾りの耳、煮て焼いて食っちまわれたくなかったら、黙ってついて来いつってんだよォ!!!」
「!!?」
それはここ一番の声量だった。
突然、発せられたドスの効いた罵声に、千鶴が目を白黒させていると、今度は小さく「行くよ」と声をかけられて、手を取られる。
そして弥月は部屋を出て歩き始めたのだが、その足取りは意外にもゆったりとしていて、繋いだ手は軽やかに振られた。
「弥月さん、あのっ、これっ」
千鶴が弥月の意図を把握する前に、バタバタと廊下を走る音が鳴って。斎藤と藤堂が後方から駆けてきた。
「千鶴!大丈夫か!?」
「矢代、今のは何だ!?」
「あぁ、斎藤さん。平助も。どうかしましたか?」
クルンと振り返って、平然と弥月は彼らに応じる。
「どうかしたとは…」
「すげぇ声したろ!? なんか怖え感じの!」
不可解といった顔をする二人に、弥月は「ん?」と笑顔で首を傾げる。
「ねえ、なんか今、すっごい声したよねぇ。質(たち)悪いオッサンみたいな」
前方から沖田も現れて、瞬間、弥月の顔からにこやかさが消える。しかし、すぐにそれは張り付いたよう笑みに戻り、弥月は千鶴を背に沖田に向かい合う。
そして、ニコニコする弥月の後ろで、千鶴が不安そうに彼を見上げた。
それに察しがつかぬ沖田ではなく、ジトッとした目で弥月を見た後、そこにあった柱に上体を預けて、呆れ声で言った。
「…さっきの君の声、だよね?」
「は…?」
「……」
「そうそう、私がど――しても、今!今ですよ!刀の手入れをしたかったんですけど、自分の部屋に道具をわすれちゃってですね。
無理矢理、無理矢理ですよ!大事な事だからもう一度っ!ム、リ、ヤ、リ! 嫌がる千鶴ちゃんを引きずってここまで来たんです!」
「へぇ…」
「じゃ、そゆことで!」
「あ!?おいっ!」
「――っ待て、矢代!」
制止する男二人の声など聞こえないように、脱走者たちは沖田の横を通り抜けて駆けて行く。
千鶴は後ろを一度振り返ったが、彼らが追いかけてこないのを見て驚き、自分の手を引いて先を走る、弥月を見上げた。
「弥月さん…!」
「フフッ…大丈夫、あの沖田さんとはじめ君が見逃してくれるなら、もう絶対大丈夫だから! 最初にラスボス出てくるから、詰んだかと思ったけど!」
「でも…」
「土方さんはね、今日は不在! それに彼は鬼だけど、声がデカくて口煩いけど、そうやって偉そうにしてるのが仕事だと思ってる、人の善い鬼だからさ。既成事実には弱かったりする!」
千鶴にはまだ不安はあったが、弥月がニイッと満面の笑みで振り返って笑うので、少し考えてから「そうですね」と笑った。
二人の後姿は、同じように一つに縛った髪が揺れていた。
遠ざかっていく二人分の軽い足音を、唖然とする平助と、呆れ顔の沖田と、深い溜息を吐いた斎藤は、その場で聞いていた。
「…なあ、はじめ君、追いかけなくて良かったのか?」
「…屯所を出て行かなければ、さして問題はないだろう」
「すでに山南さんと連れ立って、屯所内うろうろしちゃってるしね」
「そういえば、総司も止めなかったな」
心底意外だと、平助からそういう目を向けられて。
沖田はしばし考えた後、彼らに背を向けて、頭の後ろで手を組んで歩きながら言った。
「だって、これであの子の見張り当番なくなるなら、僕たちも楽じゃない」
「そ」
「平助……余計なことは言うな」
沖田の答えに更に感じた違和感について、追及しようとした平助を、斎藤は小声で止める。
「なんでだよ……変じゃん」
「あぁ。だが、悪くない傾向だろう」
「…!」
「下手に突くと、またこじらせるかもしれん」
「…確かにそうだな」
すぐ後ろで始まった小声での会話を、沖田が気にかけていない訳はないのだろうが。その外野の声を無視するつもりらしい沖田に、二人は顔を見合わせて笑う。
それは冷たい冬を通り過ぎて、温かい春がやってくる頃のことだった。