姓は「矢代」で固定
第八話 届かない距離
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***
斎藤side
「総長、夕餉を持ってきましたが…」
「…わざわざありがとうございます。切りの良い所で頂きますので、適当に置いておいて下さい」
大坂出張組が帰ってきてから五日ほど経つが、山南さんが俺達とともに膳を囲むことはなかった。食事当番が数日前から俺と総司に変わっているが、頼まれて運んだ膳は、いつも殆どそのまま手付かずである。
そして一日の時間の多くを自室や研究室で過ごしているようで、時々夜間に右腕だけを使って鍛錬している姿を見るが、俺達と一緒に稽古をすることはなかった。
そうやって相見(まみ)える時間が減っているのもあり、「あまり口を効かなくなった」と皆が思うほどに、山南さんは俺達と接することを拒んでいる。
一体どうしたものか…
斎藤はその足で、千鶴を呼びに向かう。
「雪村、夕餉の準備が整った」
「え、あ、えっと……はい」
…?
明らかに動揺した返事が聞こえたあとに、ゆっくりと障子が開く。そして現れた千鶴は、上目遣いに斎藤を見上げて、ゴクリと唾を飲んだ。
「…居ないのか」
「はい…」
「どこに」
「…厠へ行くからと……あ!いえ、弥月さんは本当にさっき出たばっかりです!!ちゃんとすぐに帰ってきます!」
…粗雑すぎる
雪村は『弥月が咎められることはしない』とでも言うように、凛々しい顔をしているが……そういう問題なのかは甚だ疑問であるし、虜囚に庇われているあいつも、どうかと思う。
けれど、見張りが手水で少し空けるくらいで、雪村が逃げはしないだろうことは俺も分かっていたから、見て見ぬふりをすることにする。
「了解した。しかし、皆を待たせるのも恐縮ゆえ、書付だけ残して行くといい」
雪村がそれに返事をして、いそいそと認(したた)めるのを何とはなしに見ていたのだが。彼女がピタリと筆を止めて、こちらを振り返ったので、何事かと少し身構える。
「あのっ、齋藤さん!」
「なんだ」
「弥月さんのことなんですけど…」
矢代…?
そこで千鶴が区切りをつけたのは、初日の失言を気にしていてのことだった。斎藤とあまり話すことのない千鶴は、少し怖気づきながらも、「今しかない」と意を決して声をかけたのだった。
そのまま齋藤は黙っていたのだが、千鶴は話を続けるよう促されているのを覚り、今度はゆっくりと話し出す。
「…顔色、日に日に悪くなっていくんです。心なし痩せてるような気もしますし……ここに居る時もずっとボウッとされていて…ご飯とか食べてらっしゃらないんじゃないでしょうか…」
専ら食事を摂らなくて問題になっているのは、山南さんの方なのだが…
…言われてみれば、矢代も見ていないな
最近の矢代は監察として出かけていることが多くなったため、稽古にいないのを誰も気に止めていなかった。けれど、矢代が雪村の監視をして屯所内にいるのなら、全く顔を出さないのは気がかりである。
俺は矢代と毎日ここで顔を合わせてはいたが、彼は逃げる様にすぐに他所へ行ってしまうので、不調には気が付かなかった。
そんな彼に俺から言いたい事は無くもないが……未だに自責の念と、俺達への謝意の、気持ちの整理がつかないのだろうと思っていたから、様子を見ていたのだが。
…そうか。今度ばかりは総長と山崎も…
いつも矢代を扶助していた彼らが、今回は事件の当事者に含まれることを、もっと早くに配慮すべきだったかもしれない。
「……広間まで、一人で行けるか?」
「…! 大丈夫です!」
ホッとした彼女の表情に陽が差す。よっぽど心配していたのだろう。彼女に「迷わぬようにな」と言い置いて、俺は雪村とは別の方へ歩いていった。
そうして斎藤が手水へ向かうと、矢代は井戸に手をついて前のめりに立っていた。
「矢代」
後ろから声をかけると、彼はビクッと肩を跳ねさせてから、腰を起こして、緩慢な動作でこちらを向く。
…確かに顔色が悪い
少し乱れた髪がそう思わせるのか、その覇気のなさは、彼にあるまじき姿だった。
「稽古に来ないのは何ゆえだ」
矢代が俺を目で確認したのを見て、話やすいように一歩進んだのだが。無意識なのか、同じように一歩脇に動かれ、距離を取られた。そして、俺から視線がスイと逸れる。
「…あまり、体調が優れなかったので」
「一日鍛練を怠ると、取り戻すのに三日かかる」
「はい…すみません…」
「久方ぶりに俺が稽古を見よう。夕餉のあと道場へ来い」
「…」
矢代の様子から、諸手を挙げて喜ばれるとは思わなかったが、ここまで無反応だとも予想していなかった。嫌悪感を滲ますわけでもなく、ただ視線を合わせないまま、ふるりと一度首を左右に振る。
「すみません、今日は夜も千鶴ちゃんの監視当番なので、また後日…」
「雪村が飯を食べていないのではないかと心配していた」
「…千鶴ちゃんが?」
そのまま逃げられるかと思ったその時、ようやっと視線がこちらに戻る。
「顔色が悪い、上の空だと、俺に相談してきたのだ」
「…そうですか、それはあかんなぁ…」
矢代は独りごちる様に「気を付けんと」と言い、「ありがとうございました」と今の話がなかったかのように、また踵を返そうとする。
「矢代、大事ないかと訊いている」
「あ、はい…大丈夫です。気を付けます」
……
見えない壁があると思った。
しかし、ペコリと会釈をして背を向ける彼に、今ならまだ、手を伸ばせば彼に届くような気がした。
斎藤の指がピクリと動く。
けれど、その手が持ち上がることは無かった。
矢代が手傷を負ったときのように、斎藤は伸ばした手を振り払われることを想像して躊躇した。
『俺は矢代君がどんな人であろうとも、矢代君が望むのなら、ここで共に生きると決めました』
山崎の問いに、俺はどう答えたか。
『俺は最初にあいつと共に任務に出たときから、その覚悟はある』
…何ゆえ、あんなことを偉そうに言えたのだろう……何も知らなくても構わないと思ったからか…
何も素性を知らなくても、“矢代弥月“という人間を信じることにした。
その思いを曲げたときに、矢代はいつも俺から遠ざかる。そして、彼の隠す“何か”を知り、“特別に”頼られる山崎に嫉妬した。
だが…俺は…
「矢代!」
叫ぶと彼は振り返った。俺が小走りで近寄ると数歩退いたが、逃げずにそこで待っている。
「なにも話さなくても構わぬ! 俺はあんたの秘密を知って満足したいわけじゃない」
驚いたような顔で、矢代は真っ直ぐに俺を見る。
俺の手は今度こそ届くだろうか
今までだって、彼の何を知っていたわけではない。ただ一番初めに、この濁りの無い眼を、屈託のない笑顔を、他人への気遣いや優しさを、信じられると思った。
たとえどんな局面にいても、あんたが築いてきた人の善さは変わらぬはずだ。
望まぬ危難にあってさえ、歯を食いしばって前へ進もうとする、あんたの強さを知っている。
「あんたの心の強さを、生き方を信じたから共にいる……俺はあんたと共に研鑚したいと思った。それは揺るぎないことだと知ってくれ」
善悪は不変ではないと語った。あんたの善は常にうつりゆくのだろう。
けれど
「矢代が、他人の不幸で得をして喜ぶ人間ではないと、俺は知っている。
だから他人の不幸を、勝手に自分のせいにするな。世界はあんたの都合で、あんたの思う通りに動いているわけじゃない。それはそいつの選んだ結果だ」
「でも、私は」
「それでも納得できぬのなら、本当に自分のせいだと思うのなら……あんたが望んだというのなら、自分が不幸みたいな顔をするな。不幸にされた相手に失礼だ」
傷に塩を塗っただけだろうか。
泣く寸前まで目に涙を溜めて、下唇を食んで矢代は俺を見ていた。
それでも俺は、今でも自分はあんたの指南役だと思っている。
支えになれないのならば、間違いを正せる者でいたい……そうでなければ、共にある意味がない。
「逃げるな、矢代。辛くても、受け入れられなくても、そこから目を逸らすな……まだ終わりじゃない」
真っ直ぐに背筋を伸ばす姿しか、あんたには似合わない
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斎藤side
「総長、夕餉を持ってきましたが…」
「…わざわざありがとうございます。切りの良い所で頂きますので、適当に置いておいて下さい」
大坂出張組が帰ってきてから五日ほど経つが、山南さんが俺達とともに膳を囲むことはなかった。食事当番が数日前から俺と総司に変わっているが、頼まれて運んだ膳は、いつも殆どそのまま手付かずである。
そして一日の時間の多くを自室や研究室で過ごしているようで、時々夜間に右腕だけを使って鍛錬している姿を見るが、俺達と一緒に稽古をすることはなかった。
そうやって相見(まみ)える時間が減っているのもあり、「あまり口を効かなくなった」と皆が思うほどに、山南さんは俺達と接することを拒んでいる。
一体どうしたものか…
斎藤はその足で、千鶴を呼びに向かう。
「雪村、夕餉の準備が整った」
「え、あ、えっと……はい」
…?
明らかに動揺した返事が聞こえたあとに、ゆっくりと障子が開く。そして現れた千鶴は、上目遣いに斎藤を見上げて、ゴクリと唾を飲んだ。
「…居ないのか」
「はい…」
「どこに」
「…厠へ行くからと……あ!いえ、弥月さんは本当にさっき出たばっかりです!!ちゃんとすぐに帰ってきます!」
…粗雑すぎる
雪村は『弥月が咎められることはしない』とでも言うように、凛々しい顔をしているが……そういう問題なのかは甚だ疑問であるし、虜囚に庇われているあいつも、どうかと思う。
けれど、見張りが手水で少し空けるくらいで、雪村が逃げはしないだろうことは俺も分かっていたから、見て見ぬふりをすることにする。
「了解した。しかし、皆を待たせるのも恐縮ゆえ、書付だけ残して行くといい」
雪村がそれに返事をして、いそいそと認(したた)めるのを何とはなしに見ていたのだが。彼女がピタリと筆を止めて、こちらを振り返ったので、何事かと少し身構える。
「あのっ、齋藤さん!」
「なんだ」
「弥月さんのことなんですけど…」
矢代…?
そこで千鶴が区切りをつけたのは、初日の失言を気にしていてのことだった。斎藤とあまり話すことのない千鶴は、少し怖気づきながらも、「今しかない」と意を決して声をかけたのだった。
そのまま齋藤は黙っていたのだが、千鶴は話を続けるよう促されているのを覚り、今度はゆっくりと話し出す。
「…顔色、日に日に悪くなっていくんです。心なし痩せてるような気もしますし……ここに居る時もずっとボウッとされていて…ご飯とか食べてらっしゃらないんじゃないでしょうか…」
専ら食事を摂らなくて問題になっているのは、山南さんの方なのだが…
…言われてみれば、矢代も見ていないな
最近の矢代は監察として出かけていることが多くなったため、稽古にいないのを誰も気に止めていなかった。けれど、矢代が雪村の監視をして屯所内にいるのなら、全く顔を出さないのは気がかりである。
俺は矢代と毎日ここで顔を合わせてはいたが、彼は逃げる様にすぐに他所へ行ってしまうので、不調には気が付かなかった。
そんな彼に俺から言いたい事は無くもないが……未だに自責の念と、俺達への謝意の、気持ちの整理がつかないのだろうと思っていたから、様子を見ていたのだが。
…そうか。今度ばかりは総長と山崎も…
いつも矢代を扶助していた彼らが、今回は事件の当事者に含まれることを、もっと早くに配慮すべきだったかもしれない。
「……広間まで、一人で行けるか?」
「…! 大丈夫です!」
ホッとした彼女の表情に陽が差す。よっぽど心配していたのだろう。彼女に「迷わぬようにな」と言い置いて、俺は雪村とは別の方へ歩いていった。
そうして斎藤が手水へ向かうと、矢代は井戸に手をついて前のめりに立っていた。
「矢代」
後ろから声をかけると、彼はビクッと肩を跳ねさせてから、腰を起こして、緩慢な動作でこちらを向く。
…確かに顔色が悪い
少し乱れた髪がそう思わせるのか、その覇気のなさは、彼にあるまじき姿だった。
「稽古に来ないのは何ゆえだ」
矢代が俺を目で確認したのを見て、話やすいように一歩進んだのだが。無意識なのか、同じように一歩脇に動かれ、距離を取られた。そして、俺から視線がスイと逸れる。
「…あまり、体調が優れなかったので」
「一日鍛練を怠ると、取り戻すのに三日かかる」
「はい…すみません…」
「久方ぶりに俺が稽古を見よう。夕餉のあと道場へ来い」
「…」
矢代の様子から、諸手を挙げて喜ばれるとは思わなかったが、ここまで無反応だとも予想していなかった。嫌悪感を滲ますわけでもなく、ただ視線を合わせないまま、ふるりと一度首を左右に振る。
「すみません、今日は夜も千鶴ちゃんの監視当番なので、また後日…」
「雪村が飯を食べていないのではないかと心配していた」
「…千鶴ちゃんが?」
そのまま逃げられるかと思ったその時、ようやっと視線がこちらに戻る。
「顔色が悪い、上の空だと、俺に相談してきたのだ」
「…そうですか、それはあかんなぁ…」
矢代は独りごちる様に「気を付けんと」と言い、「ありがとうございました」と今の話がなかったかのように、また踵を返そうとする。
「矢代、大事ないかと訊いている」
「あ、はい…大丈夫です。気を付けます」
……
見えない壁があると思った。
しかし、ペコリと会釈をして背を向ける彼に、今ならまだ、手を伸ばせば彼に届くような気がした。
斎藤の指がピクリと動く。
けれど、その手が持ち上がることは無かった。
矢代が手傷を負ったときのように、斎藤は伸ばした手を振り払われることを想像して躊躇した。
『俺は矢代君がどんな人であろうとも、矢代君が望むのなら、ここで共に生きると決めました』
山崎の問いに、俺はどう答えたか。
『俺は最初にあいつと共に任務に出たときから、その覚悟はある』
…何ゆえ、あんなことを偉そうに言えたのだろう……何も知らなくても構わないと思ったからか…
何も素性を知らなくても、“矢代弥月“という人間を信じることにした。
その思いを曲げたときに、矢代はいつも俺から遠ざかる。そして、彼の隠す“何か”を知り、“特別に”頼られる山崎に嫉妬した。
だが…俺は…
「矢代!」
叫ぶと彼は振り返った。俺が小走りで近寄ると数歩退いたが、逃げずにそこで待っている。
「なにも話さなくても構わぬ! 俺はあんたの秘密を知って満足したいわけじゃない」
驚いたような顔で、矢代は真っ直ぐに俺を見る。
俺の手は今度こそ届くだろうか
今までだって、彼の何を知っていたわけではない。ただ一番初めに、この濁りの無い眼を、屈託のない笑顔を、他人への気遣いや優しさを、信じられると思った。
たとえどんな局面にいても、あんたが築いてきた人の善さは変わらぬはずだ。
望まぬ危難にあってさえ、歯を食いしばって前へ進もうとする、あんたの強さを知っている。
「あんたの心の強さを、生き方を信じたから共にいる……俺はあんたと共に研鑚したいと思った。それは揺るぎないことだと知ってくれ」
善悪は不変ではないと語った。あんたの善は常にうつりゆくのだろう。
けれど
「矢代が、他人の不幸で得をして喜ぶ人間ではないと、俺は知っている。
だから他人の不幸を、勝手に自分のせいにするな。世界はあんたの都合で、あんたの思う通りに動いているわけじゃない。それはそいつの選んだ結果だ」
「でも、私は」
「それでも納得できぬのなら、本当に自分のせいだと思うのなら……あんたが望んだというのなら、自分が不幸みたいな顔をするな。不幸にされた相手に失礼だ」
傷に塩を塗っただけだろうか。
泣く寸前まで目に涙を溜めて、下唇を食んで矢代は俺を見ていた。
それでも俺は、今でも自分はあんたの指南役だと思っている。
支えになれないのならば、間違いを正せる者でいたい……そうでなければ、共にある意味がない。
「逃げるな、矢代。辛くても、受け入れられなくても、そこから目を逸らすな……まだ終わりじゃない」
真っ直ぐに背筋を伸ばす姿しか、あんたには似合わない
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