姓は「矢代」で固定
第八話 届かない距離
混沌夢主用・名前のみ変更可能
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
升市というのは両替商の屋号のことで、“金貸しの鴻池”と言えば誰にでも話が通った。そのあたりは両替商や大店が軒を連ねているらしい。
「升市ならあっちの橋渡った方やで」
「また、橋…」
急ぎ足でひたすら東へ向かったのだが、途中、何度も川に行き当たる。
屯所には近づいてるみたいだけど…
大坂城が近くになったことでそれを実感しているが、自分がどこにいるのか正直分からない。大体の地図は頭に入れていたが、川をどの橋で渡ったのか自信がなかった。
とは言え、私一人では屯所へ行くにも時間がかかり過ぎるので、私と山崎さんのどちらかが増援を呼んでくるならば、この役割配分の方がまだましと言える。
「私が屯所に着いても、土方さんか山南さんがいなかったら、もはや門前払いされかねないし…」
自分は大坂組とは一切面識がない。この恰好で行ったところで、山南さんらがいなければ、増援を依頼することすら不可能だろう。
そうして四半時足らずの後に“鴻池”と書かれた店に至って、その様相に眉を顰める。暖簾や看板は落ち、戸は蹴破られ、中で誰かが泣いていた。
不躾に入れる状況ではとてもなく、周囲で同じく様子を窺っていた人に「あの」と声をかける。
「賊はどこへ行ったか知りませんか?」
男に視線と指で“あっち”と示されたので、会釈をしてその場を離れようとしたのだが。
「嬢ちゃん、物見で行ったらあかん。死人が出とるんや」
「…ありがとうございます。気を付けます」
「おい、新選組が来とるで!!岩城桝屋の方!」
!!
「流石、お役人よりは鼻が利いてるみたいで助かるわ」
「それだけが取り柄やからな」
「すいません! それ!岩木桝屋ってどこですか!?」
「お嬢ちゃん、そない焦ってどないした?」
「あぁ、それにそこは今近づいたらあかんで」
「それっ! どこですか!?」
気づかわしげに忠告をしてくれた男達だったが、喰らいつくように再度同じ質問をした弥月に、気圧されるようにして答える。
「そこの角を右に曲がって、二つ目を左に曲がって、五件目くらいんとこや」
「ありがとうございます!」
礼もそこそこに、着物の裾を膝まで引き上げて、道行く人が振り返るのも構わずに通りを駆ける。
右に曲がってから、一、二……あっ!
行き過ぎそうになって、勢いよく角を折れると、少し先に人だかりがあるのが見えた。
そこ!?
さらに速度を速めて、その中心へ向かって人を押し分けるように進む。人混みの向こうから段々と大きくなる怒鳴り声のようなものを聞いた。
そして、「きゃあぁぁ」と誰かの悲鳴が上がるのを皮切りに、群衆の動揺とざわつきが増して、皆が一歩後方へと退く。
「――っ、通して!」
「おっと」
「すいません、通ります!」
ギィィン
高くて重い、金属がぶつかり音が聞こえる。
「危ないよ、お嬢ちゃん」
「ちょっ、いいから退いて!!」
一番先頭にいた腕っぷしの強そうな男が、親切にも止めようとする手をかいくぐって、弥月はポッカリと空いた空間へ抜け出る。すると、開けた造りの門戸の傍らに掲げていたのだろう店の暖簾は地に落ち、中に入らずとも店の中の様子が外から見えた。
そして、目に飛び込んだのは、見慣れた浅葱色の羽織。
!!? なんで、二人!?
浅葱色の羽織姿は二つ……しかもあろうことか、土方さんと山南さん。彼らは背中合わせになるよう立って、敵と刃を交えている。対する敵の数は六、七。すでに二人ほど絶命しているようだった。
烝さんは…!?
これは一体どういうことか。
彼らが烝さんが呼んだ増援ならば、この戦況で加わらないはずがない。二人とも多少の戦力差はものともしない実力の持ち主ではあるが、長刀では戦いづらい屋内で囲まれてしまって、戦況は芳しくないようだった。
敵と切り結んでいる山南に、横から切りつけようとする別の男が、弥月の目に映る。
「――っ!」
間に合え!!
地を蹴った。
ガギン
剣戟の中では聞きなれない、おかしな音を聞いたのと、私の刃がその男の背に届いたのは同時だった。
弥月は走った勢いのまま体当たりするように全身で、男の背に剣を沈めた。その刃が肉を貫いた手の感触に、ゾワリと背が粟立ち、顔を強張らせる。しかし、動きを止めることなくそれを引き抜き、風穴の上から横一文字に胴を切り裂く。
返り血が、深緋色の袖に染みを作る。
不意に現れた、場にそぐわない女に敵はただ驚いていた。弥月はその隙を逃すことなく、一番近くの男の腕を斬り付ける。
懐剣では骨ごと切り落とすこと叶わず、敵は動揺しながらも反撃し得物を振ったが、弥月はすぐに身を引いてそれを避けた。そして、男が大きく腕を振ったために空いた胴に一閃してから、今度は大きく後退しその場を離れる。
そして再び全体に目を走らせると、あることに気付いて驚愕し目を瞠った。
なっ…それっ、刃先は!?
山南さんの刀は、鍔の五寸程先からが無かった。そしてその折れた刀のまま、右手で敵の懐剣を受けとめている。彼の左腕からは血が流れ出し、袖の浅葱色を赤黒く染めていた。
そして先程まで彼が相対していた長刀の敵は既に絶命しているが、機を窺っていた他の男が短刀から長刀に持ち替え、山南に斬りかかろうとしている。
まずい!
そこに倒れている浪士の刀を拾い、構えてもいないままに飛び出す。敵は私の様子も窺っていたのだろう、気付いて刃の向きを私に向けた。
そして男と切り結んでから、弥月は最初に不意を突いて倒す相手を間違ったことに気付く。
この人、強い…!
「――ッ土方さん! 山南さんのとこのそれ、ちょっとどうにかして!」
「はぁ!? 無茶言うな!」
「喧嘩強いんでしょ!? ガキ大将なんでしょ!?」
最後に頼りになるのはジャイアン。その心は歌が好き……とか言ってる場合ではない。
土方さんの方も他の残る二人共を、山南さんへ近づけさせないように立ちまわっているために、勝敗を決するのに時間がかかっているようだった。
グッと得物に力を入れ直すと、先日の近藤さん護衛の任務の際に負傷した左腕が、些か不調を訴えた。
「てめぇら、余裕こきやがって…!」
気も漫(そぞ)ろな風に刃を受けていた弥月へ、相対する男は忌々し気にそう吐くが、弥月は返事をしなかった。
これから殺す人間と、言葉を交わしたくないと思った。
余裕があれば……殺さないだけの実力があれば良かった
得物は自分のものよりも少し間合いが長く、重さがあることを理解する。
切り結んでいたところから一旦退き、中段に型を整える。ジリと刹那のにらみ合いの後、弥月から仕掛けた。相手との身体の距離を詰める瞬間、腰をきって剣筋に速度を乗せる。
狙うは、頸動脈のみ
「――」
…っ!
全く自分と同じ狙いに敵の刃が走ったのを、上体を捻ってギリギリの所で回避した。
浅い…!?
手応えはあったが、敵の突きを避けたせいで踏み込みが不十分だった。しかし、男の首からは鮮血のしぶきがあがる。
いつもとは違う剣のわずかな間合いが、思いがけず功を奏した。
そしてその男の絶命を確認することなく、山南と未だ絡みつづけていた男の背を袈裟に斬る。
「山南さん!」
土方が最後の一人と切り結んでいるのを横目に、弥月は山南に駆け寄る。
「止血します、脱がせますよ!」
力尽きるようにしゃがみ込んだ山南は、血の気のない顔で苦々しく「すみません」と呟く。
「…――っ刀、放して大丈夫ですから!」
そう弥月に言われるまで、山南は自分が折れた刀の柄を握ったままであることに気付いていなかった様子で、その手は色を失って真っ白だった。
「山南さん!」
自身も片をつけたらしい土方は、山南の横に膝を着いた。
「…それほど大声出さずとも、聞こえていますよ、土方君。そちらは怪我はありませんか」
「俺のことなんか…! 傷の具合は!?」
額から脂汗を浮かせて、苦痛に耐える表情で、山南は目を閉じたまま答える。
「どうでしょうか……痛みしか感覚がないものですから…」
「縛ります」
肘より根元側をグッときつく締めるが、それが全く気にならないほどに傷の痛みが酷いようだ。悶えもせずにいることが、正気ではないと思えるくらいに。
「…土方さん、傷をなるべく心臓より高く持っててください」
支えていた山南の腕を土方へ託し、弥月は店の奥へ声をかける。
「店のご主人!医者……蘭方医はどこにいますか!?」
それから随分と間が空いてから、そろそろと奥の部屋から顔を出した男がいた。
「お…終わったんか…?」
「はい。深手を負った者がいるので、すぐに蘭方医のところへ案内してください」
店番か店の主人かは知らないが、気の弱そうな男は、青い顔をしてコクリと頷いた。しかし、こちらへ出てきた男は、その場で動かなくなってしまった。
「――っぅあぁ……あ…あ……ヴッ…」
だから生首なんか作らないで欲しいんだってば…!
店の惨状を見た男が腰を抜かして嘔吐する様子に、すぐに彼に案内を頼むことを諦める。土方さんへのそんな愚痴を溢している時間すら惜しい。だから店の外へ出ようと歩みを進めると。
「あれが新選組…」
「…あ、あの娘もなんか…?」
……
深緋色の着物はどこまでが血に汚れたかハッキリとせず、弥月の頬や手を色づける鮮やかな赤は、まるで彼女の髪の先から足の先までが、返り血で染められているかのように見せた。
「すみません!どなたか近くの蘭方医を知りませんか!?」
外へ出て野次馬に声をかけるも、彼らは自分には関係ないと言うように目配せをしあうばかりで返答は得られない。弥月が些か苛ついて、再度声を張ろうとすると。遠くの方がざわつき、威勢のよい声が聞こえるとともに、人垣に隙間ができた。
駆け足で現れたのは、数名の浅葱の羽織を着た男達。彼らは弥月に気付かなかった風に、店に駆け込んだ。
「副長、総長!ご無事ですか!?」
「――谷!医者はどこだ!」
彼らは状況を即座に理解し、蘭方医のいる診療所へと案内する、と。
「すまないが谷はここの後始末を頼む。俺は山南さんに付き添う」
「私も…!」
手負いの所を狙われるわけにはいかないと、他数名の同行と共に弥月は付いていこうとしたが、土方に嗜めるように首を横に振られた。
――でもっ!
食い下がろうと喉元まで声は出てきたのだが。確かに、急を要する今、他の隊士が私へ不審な顔を向けている以上、それは得策ではないと分かった。
でも、私は……私が山南さんと並走して……護衛をしてここに来たんだ…
弥月は血に汚れた山南の浅葱色の羽織を掻き抱いて、歯噛みして彼らの背を見送った。
***