姓は「矢代」で固定
第一話 大切なものの守り方
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***
宵も半ば。
夜になっても、屯所の敷地内ならば月明かりのみで動くことが多い。幸いなことに視力は良い方だ。多少心許ないが、慣れれば薄暗いのも何とかなる。
向かうは、屯所の片隅にある厠(かわや)。
厠の度に、馬乗り袴と六尺褌を着脱するという、面倒くさいことにも大分慣れてきた。
流石の弥月も江戸時代のトイレ事情には閉口せざるを得なかった。 個室とは到底言えない前川邸の仮設トイレは、羞恥から泣きたくなったし、そこを堪えた自分を誉めてあげたいと本気で思った。
最初は袴を脱ぐのだって躊躇した。
けれど日が経つにつれ、色々と面倒になってくるのは、弥月の良いところなのか、悪いところなのか。
袴を脱いだところで膝上までは隠れているから、私が気にしなければ誰も気にしない。
女子力? なにそれ、もはや助死力☆
外に置いていた袴を拾い上げて、そう思わずにはいられない。図太さとは、どんな時でも生き残る力に違いない。私、ゴ○ブリ並みの生・命・力☆
吐きだす気も起きない溜息を吐きながら、用を足して井戸で手を洗っていると、ふと人が通る気配がして振り向く。
「…」
「…よう」
左之助がそう言う前の一瞬、彼を凝視した弥月と左之助の間に、果てしなく気まずい空気が流れた。
けれども、明らかに言葉に詰まった弥月に気付いていない風に、左之助は厠へと歩いていく。
「…さ」
「あ!いたいた、弥月!!」
躊躇った言葉は、その元気な声に見事にかき消された。
弥月は鼻っ柱をへし折られた気分で、ガクゥと頭を垂れる。
――っ謝ろうと思ってたのに…!
訪れた好機を逃して、悔いている弥月に、縁側から「おーい」と声がかかる。
「…なんですかね、平助」
「土方さんが一緒に来いって!」
「…あー……」
「まぁ、しゃーねぇよな。さっさと片付けちまおうぜ?」
困り眉でコテンと首を傾げる平助に、自分が文句を言う立場ではないわけで。
結局、夕方に『急な要件』ではないからと、土方に後回しにされた“脱走未遂事件”は、昨日から続く“芹沢暗殺容疑の取調べ”が終わった後に、詳細を報告された。
それは既に、夕餉も終わった時間となってからのことだった。
***
「失礼しましたー…」
土方の部屋の障子を開けながら、弥月は「ここは職員室か」と思う。
まあ、似たようなもんか
今日のお説教は、生活指導の先生が朝礼台にいるのと似た気分だった。
とりあえず殊勝な顔をして、「はいはい」とその場を収めておくが、内容は右から左。まあ事実確認だけだったせいもある。
林さん達と予定していた口裏とは、違う内容で事実確認をされた時は動揺したが、ひっかけの可能性を考慮して答えたら、やはりそうだった。
手を変え品を変え、なんとか私の無い尻尾を掴もうとしているらしい。
今日も土方さんが鋭い空気をしていたから、あまり反抗するつもりはなくて。弥月も平助も、何か抗議をしたくなっても、明日にしようと眼で合意した。
そんな訳で、一方的に説教をくらった二人。
平助が後ろ手に閉めた障子がタンッと音を立てたので、部屋の中の主は眉を潜めたのだが、出て行った二人は気にしてもいなかった。
彼らはそのまま恙(つつが)なく縁側を歩いていたが、八歩ほど行ったところで、各々その場で大きく伸びをする。
「「ふお―――!」」
自由になった身体を振り回し、思う存分に身体を伸ばす。
土方の説教は、時間にすれば四半時足らずであったが、二人とも心身ともに凝り固まってしまった気分だった。
「お疲れ様……ありがとう、平助」
「もう良いって。じゃ、オレ巡察行ってくっわ」
「うん、いってらー」
既に「ごめん」と「ありがとう」は言い過ぎて、夕方に二三度指摘されている。だから私は笑いながら、ヒラヒラと手を振って彼を見送った。
「…さて。じゃあ、寝るか」
最近、夜の時間が長いが、油も勿体ないので、あまり夜更かしはしないことにしている。
そうは言っても、いつもならこの時間は竹刀を振っていたり、書き物の練習をしたり、身体を拭いたり、身体拭きをしているが。今日はどうにも疲れた。当然、気疲れ。
もういいや、今日はこのまま寝よう…
そのまま部屋に戻ろうとしたのだが、明日の予定を考えて、異動の指示を思い出す。
何かしら変更があるのではと思ったが、さっきの土方さんの所でも淡々と『原田の組に同行』が伝えられるのみだった。
やはり“脱走未遂事件”は“鬼ごっこ事件”へ挿し替わり、さして処遇に影響していないようだ。
掲示されている巡察表を確認すると、明日から原田隊と安藤隊は深夜巡察。つまりお仕事は朝稽古と昼稽古、夜まで休憩で、亥の刻から巡察。
「…朝稽古の時かな」
次に左之さんに会うのは何時かと考えて、巡察表と睨めっこ。
さっきみたいな不意打ちは止めて欲しい。
全然関係ないことを考えてて、すっかり頭が馬鹿になってしまっていた。
それに、左之さんの顔を見た瞬間、なんで自分が怒ったのかとか、謝るのが遅くなったとか……色々言い訳が一度に頭を駆け巡って、最初の言葉を飲み込んでしまった。それがいけなかった。
本当なら、出会い頭に「ごめん」の一言で済むはずだった。左之さんのことだから、口が過ぎたことくらい謝れば許してくれるだろうと。
「…明日、朝一…かな」
次はどんなに寝ぼけていても失敗しないように
うん、と一人で頷いて、部屋へと大きな歩幅で歩き出す。
…
……
すぐにピタリと足を止めた。
…いや、だめだ
「みんながいたら絶対謝んない」
こんな事こそ、自信がある。
さっき左之さんとの間に流れた空気は、兄妹喧嘩の時と同じだ。「お互い様じゃん」と思ってる時と似た何か。
そういう場合、気まずいままで過ごしたり、必要だったら適当に話したりしているうちに、いつの間にかなあなあになっていく。別にそれでギクシャクするのなんて2、3日のことだ。
家族だから
でも左之さんは他人。一緒に暮らしてはいても、家族じゃない。
なあなあには出来ずに、モヤモヤしたまま、いつまでもあんな濁った空気を作り出してしまうかもしれない。
「…今しかない」
もはや好機が来るのを待つなんて、不確実で無責任。そもそも彼は私に謝っていて、謝りたいのは自分だけだ。
好機は自分で創るべし
うんと大きく頷いて顔を上げる。さっきの歩幅より大きく、跳ねるように駆けだす。
気が乗らないことは、勢いが大事
タタタ………スパンッ
「入ります! 左之さんごめん!!」
「は?」
「八つ当たりしました!!」
腹の底から声を出す。彼が室内にいることだけを素早く目で確認して、開け放った障子の敷居の上で、完璧な垂直に腰を折った。
これだけ大声で謝ったのに、本人が部屋に居なかったら、それはそれで恥ずかしかったのだが。幸いにも彼は着替えの最中のようで、夜着に袖を通した状態で、こちらに背を向けて立っていた。
「…おいおい、弥月。何の話か俺には見えねえんだけどな」
シュッと布が擦れる音がする。溜息か笑いか、小さく息を吐く気配がした。
「昼間、仮にも上司に向かって嘗めた口利きまくりました。すいませんっした」
…そういや随分前に、沖田さんに「誰がてめえの部下だ、この駄目男が」的なことを言った気はするが…
…まあ、左之さんの部下なら良いや
明日から原田組で巡察に出ることが決まっているし、実質、部下同然だろうと納得する。
そんなことを考えていると、いつ近づいたのか、肩をポンポンと叩かれる。
「な。言いたいことは言っちまった方が、楽なんじゃないか?」
…言いたいこと?
頭に疑問符を浮かべるも、彼が何を言いたいのか分からなくて、そのまま肩に手があるのを感じながら、ただじっとしていた。
また、溜息のような息が漏れ聞こえる。
「そりゃあ、言えないこともあるんだろうけどな。でも文句の一つや二つ聞けないほど、ここにいる奴等の心は狭くないと、俺は思うぜ。
…まあ、気が短い俺に言われても説得力ねぇけどな」
少しだけ首を起こして、チラリと視線を上げると、左之助のとりあえず縛っただけの帯と、肌けた胸元が目の前に見えた。
「…んなに気ばっか張ってると疲れるだろ。なんか最近お前、疲れた顔してるぜ」
「……そんなことは…」
何となく彼の言いたいことが分かって。そうとも、違うとも言えずに、弥月が困って顔を上げると、左之さんはギョッとした顔をした。
え?
…あ
「あ、はははははー…」
なんとも言えない左之さんの表情に、思わず半笑い。
「……男前な顔だな」
「やっばい、イケメンに褒められた。テンション上がるー…」
流石の彼も、思案顔。さっきの井戸の時は分からなかったようだが、行燈の灯りでも十分分かるらしい。
「…傷は男の勲章っていうからな。ちと腫れすぎだけど、十日もすれば馴染むだろ…」
いやー…乙女が傷物にされてしまいましたー…とは流石に言えず、引き攣り笑い。…引き攣るのは、実際問題、痛いから引き攣るのだが。
散々あちこちで理由を説明しまくった、しっかりと脹れあがた頬。喋ると痛むくらいなので、あれで歯が無事だったのは奇跡かもしれない。
見た目以上に辛いのは、ご飯を噛めなくて、ほぼ流し込んだこと。
あぁ、辛い
すると前触れもなく、グッと顎を掴まれ、横を向かされる。
「ててっ」
「山崎には見てもらったか?」
「いえ、会ってないですけど……がっつり井戸水で冷やしてるので大丈夫かと。ヒリヒリ引いたら温めとくし」
「確かに、まだ熱いな」
ぺとっと患部に当てられる手の甲。熱を持った頬には、そのひんやりとした指と、当たる肌の感覚が気持ち良く、少しうっとりとしてしまう。
だが、ふと気付けば、目の前にある整った鼻梁がだいぶ近くて、本能的に腰が引けた。それを「痛かったか?」と勘違いした彼が、自ら離れてくれたのは助かった。
前から思ってたけど……この人、距離が近い
特段、嫌なわけではないが、なんとなく居心地が悪いと言うか、どこに目線をやって良いのか分からないというか……居たたまれない。
たぶん『男同士だから平気』とかじゃなく、人と話すときの癖なんだとは思うが。
…『男同士だから近い』って言われたら、もはやどうして良いか分かんない……ってか、絶対これが平隊士に人気の理由でしょ……惚れてまうやろー…
皆は気にならないのか、今度訊いてみよう。
離れていく手を目で追っていると、その手は私の頭上に持ち上げられて、わしゃわしゃと私の頭を撫でた。
「斎藤んところに居た方が良いだろ?」
「…へ?」
「折角、慣れてきたころに異動じゃ、お前も相談相手なんかできねえだろ。戻してもらった方が良いよな?」
「いやいや、別に困ったらいつも誰かに助けてもらってますし、そんなに心配されるほどでは…」
「いいから、聞けって。傍から見たらそう見えるってことだ。
偉そうに言うつもりも、別に俺に相談しろって言うつもりもねぇけどな。斎藤じゃなくても、平助とも仲良いだろ? 歳だって近いし、あいつらなら話しやすいんじゃないか?
新八だって滅多に居ないくらい良い奴だし、あいつ自分で言うから説得力はないけどな、本当に懐広いから、もっと頼っても大丈夫だ。寧ろ舎弟に頼られたら、喜ぶような男だろ」
「…えっと…」
…どうやら、すっごく、す――っごく心配されてるらしい。理由は不明だが、この心配ぷりは、山崎さんに匹敵するのではないか…
…いつの間にそんなことに…
「えっと…斎藤さんの所はすごく剣について勉強になるけど、槍は交えたこともないから、寧ろ好い機会かなーと思ってるんですが…」
「…辛くないか?」
「はい、全然」
言ってから、若干、斎藤さんに申し訳ない気もしたが、まあ仕事だから仕方ない。
そこまで言うと、左之さんも言い重ねるのは諦めたようで、
「あと最初のことだけどな、俺は、謝られるようなことされた覚えはないから、謝られても困るからな」
「……心広すぎて吃驚しますよ」
「男はいつまでもウダウダ言わねえもんだ」
おどけたように肩を竦めてから、カラリと笑う彼。
あまりにそれが様になっていて、弥月は釣られてへらりと笑った。
「ははは……やっぱ左之さん、頼れる兄さんって感じ」
「ハハッ…そりゃ光栄だな。お、そうだ。今からコレ、付き合わねえか?」
左之助は部屋の中を指さした後、親指と人差し指を輪っかにして、口の高さでクイと傾ける。
それが家の誰かさんにそっくりで、クスリと笑いながら頷いた。
「明日起きれなくなるから飲みはしないけど、お茶で良ければつきあいます。明日からの上司にお酌くらいはしますよ」
***
原田side
「左之、起きているか?」
「あ? 斎藤か? いいぞ、入って」
スラリと開けられた障子の向こうには、すでに夜着姿の斎藤が居た。肩から羽織った彼の半纏姿が見慣れず、澄ました顔にモコモコとしたそれが、なんとなく可笑しくて、俺の口の端が少し上がる。
斎藤としては、原田の陽気は酒に酔っているためであろうと、彼の思いなど露程にも気付いていなかったため、それを追及することもなく。そして、彼の横にある塊を見やる。
「…はぁ……戻って来ぬと思ったら、やはり未だここだったか」
「ああ、弥月探してたのか」
原田の部屋の真ん中で、ゴロンと横になって、原田の布団をかけられた弥月。規則的な寝息が穏やかにスースーと、静かな部屋に聞こえていた。
斎藤はそれを見て、肩をすくめる。
「明日からそちらの深夜巡察故、朝餉の当番は構わんと伝えたかったのだが…」
「そういや、朝起きれないって言ってな…そういう意味だったのか。…クク…そりゃあ、もう伝えるのは無理だな」
「…のようだな」
弥月が『普通』に寝たら、ちょっとのことじゃ起きないことは有名で。本人からも『一刻半、或は三刻で声をかけて下さい』と謎の指示があった。
こんなのでこれから大丈夫か、と左之助は少々心配になるものの、彼の緊張が解れているからこそ、こうして子どものような顔して寝ているのは分かっていて。
自分のすぐ横にある、起きている時よりかは幾分あどけない寝顔を見ながら笑う。
「このまま寝かしとくから、起きたら言っといてやるよ」
そう伝えれば、斎藤は「頼む」と頷いた。
そのまま部屋に戻るのかと思ったのだが、何故か斎藤はそこで時が止まったように固まっている。その視線はしっかりと弥月を映していて、いつも通りの寡黙さに、俺は少し様子を見ていた。
今の杯を空けた頃、いつまでも動かない斎藤に、「どうした」声をかけようと思ったら、ようやく彼は口を開いた。
「武士としての生き方を教えてやってくれ」
斎藤の元々大きくない声で、さらに小さく呟く様に言われたのだが。俺の酒で酔った頭にも、それはきちんと届いていた。
「? まあ、普通に稽古して、指南するつもりはあるけどな?
でも俺とこいつ、剣の技だけならとんとんだろ。槍との訓練にならなるけどよ」
「…構わぬ。槍との立ち回り方や、手の早さから学ぶこともあるだろう」
「…は?」
それは俺を貶(けな)しているのか、斎藤の正直な感想なのか。
沈鬱な表情の彼からは、後者の方であるとしか思えなくて、問い返すことも出来ない。
「よく分かんねぇけど……喧嘩の仕方なら、平助の方が先に名乗り出たみたいだぜ」
「…なんのことだ?」
訝しげな顔をした斎藤に、ちょいちょいと手を振り、弥月の頬を指さしながら「見ろよこれ」と笑う。
斎藤が近づいて上から覗き込むと、横向きに寝ていた左頬の腫れが見えたようで、彼の眉間にしわが寄った。
「玉の肌に傷作っちゃ、いくら男でも母親は嘆くだろうになあ」
俺がクツクツと笑いながら言うと、心配そうな顔ではあるものの、「まあ、これくらいの方が良いのかもしれぬな」と何やら納得した様子で。この一ッ月、上司をしていた彼の気苦労が窺えた。
けれども、そこには弥月が手元を離れる寂しさのようなものが垣間見えた。
放っておけないのは、なんでだろうな
左之助が持っていた杯を持ち上げて、「飲むか?」と問えば、斎藤は少しの間じっと考えてから、小さく頷いて「貰おう」と、淡い笑みを浮かべて言うのだった。
宵も半ば。
夜になっても、屯所の敷地内ならば月明かりのみで動くことが多い。幸いなことに視力は良い方だ。多少心許ないが、慣れれば薄暗いのも何とかなる。
向かうは、屯所の片隅にある厠(かわや)。
厠の度に、馬乗り袴と六尺褌を着脱するという、面倒くさいことにも大分慣れてきた。
流石の弥月も江戸時代のトイレ事情には閉口せざるを得なかった。 個室とは到底言えない前川邸の仮設トイレは、羞恥から泣きたくなったし、そこを堪えた自分を誉めてあげたいと本気で思った。
最初は袴を脱ぐのだって躊躇した。
けれど日が経つにつれ、色々と面倒になってくるのは、弥月の良いところなのか、悪いところなのか。
袴を脱いだところで膝上までは隠れているから、私が気にしなければ誰も気にしない。
女子力? なにそれ、もはや助死力☆
外に置いていた袴を拾い上げて、そう思わずにはいられない。図太さとは、どんな時でも生き残る力に違いない。私、ゴ○ブリ並みの生・命・力☆
吐きだす気も起きない溜息を吐きながら、用を足して井戸で手を洗っていると、ふと人が通る気配がして振り向く。
「…」
「…よう」
左之助がそう言う前の一瞬、彼を凝視した弥月と左之助の間に、果てしなく気まずい空気が流れた。
けれども、明らかに言葉に詰まった弥月に気付いていない風に、左之助は厠へと歩いていく。
「…さ」
「あ!いたいた、弥月!!」
躊躇った言葉は、その元気な声に見事にかき消された。
弥月は鼻っ柱をへし折られた気分で、ガクゥと頭を垂れる。
――っ謝ろうと思ってたのに…!
訪れた好機を逃して、悔いている弥月に、縁側から「おーい」と声がかかる。
「…なんですかね、平助」
「土方さんが一緒に来いって!」
「…あー……」
「まぁ、しゃーねぇよな。さっさと片付けちまおうぜ?」
困り眉でコテンと首を傾げる平助に、自分が文句を言う立場ではないわけで。
結局、夕方に『急な要件』ではないからと、土方に後回しにされた“脱走未遂事件”は、昨日から続く“芹沢暗殺容疑の取調べ”が終わった後に、詳細を報告された。
それは既に、夕餉も終わった時間となってからのことだった。
***
「失礼しましたー…」
土方の部屋の障子を開けながら、弥月は「ここは職員室か」と思う。
まあ、似たようなもんか
今日のお説教は、生活指導の先生が朝礼台にいるのと似た気分だった。
とりあえず殊勝な顔をして、「はいはい」とその場を収めておくが、内容は右から左。まあ事実確認だけだったせいもある。
林さん達と予定していた口裏とは、違う内容で事実確認をされた時は動揺したが、ひっかけの可能性を考慮して答えたら、やはりそうだった。
手を変え品を変え、なんとか私の無い尻尾を掴もうとしているらしい。
今日も土方さんが鋭い空気をしていたから、あまり反抗するつもりはなくて。弥月も平助も、何か抗議をしたくなっても、明日にしようと眼で合意した。
そんな訳で、一方的に説教をくらった二人。
平助が後ろ手に閉めた障子がタンッと音を立てたので、部屋の中の主は眉を潜めたのだが、出て行った二人は気にしてもいなかった。
彼らはそのまま恙(つつが)なく縁側を歩いていたが、八歩ほど行ったところで、各々その場で大きく伸びをする。
「「ふお―――!」」
自由になった身体を振り回し、思う存分に身体を伸ばす。
土方の説教は、時間にすれば四半時足らずであったが、二人とも心身ともに凝り固まってしまった気分だった。
「お疲れ様……ありがとう、平助」
「もう良いって。じゃ、オレ巡察行ってくっわ」
「うん、いってらー」
既に「ごめん」と「ありがとう」は言い過ぎて、夕方に二三度指摘されている。だから私は笑いながら、ヒラヒラと手を振って彼を見送った。
「…さて。じゃあ、寝るか」
最近、夜の時間が長いが、油も勿体ないので、あまり夜更かしはしないことにしている。
そうは言っても、いつもならこの時間は竹刀を振っていたり、書き物の練習をしたり、身体を拭いたり、身体拭きをしているが。今日はどうにも疲れた。当然、気疲れ。
もういいや、今日はこのまま寝よう…
そのまま部屋に戻ろうとしたのだが、明日の予定を考えて、異動の指示を思い出す。
何かしら変更があるのではと思ったが、さっきの土方さんの所でも淡々と『原田の組に同行』が伝えられるのみだった。
やはり“脱走未遂事件”は“鬼ごっこ事件”へ挿し替わり、さして処遇に影響していないようだ。
掲示されている巡察表を確認すると、明日から原田隊と安藤隊は深夜巡察。つまりお仕事は朝稽古と昼稽古、夜まで休憩で、亥の刻から巡察。
「…朝稽古の時かな」
次に左之さんに会うのは何時かと考えて、巡察表と睨めっこ。
さっきみたいな不意打ちは止めて欲しい。
全然関係ないことを考えてて、すっかり頭が馬鹿になってしまっていた。
それに、左之さんの顔を見た瞬間、なんで自分が怒ったのかとか、謝るのが遅くなったとか……色々言い訳が一度に頭を駆け巡って、最初の言葉を飲み込んでしまった。それがいけなかった。
本当なら、出会い頭に「ごめん」の一言で済むはずだった。左之さんのことだから、口が過ぎたことくらい謝れば許してくれるだろうと。
「…明日、朝一…かな」
次はどんなに寝ぼけていても失敗しないように
うん、と一人で頷いて、部屋へと大きな歩幅で歩き出す。
…
……
すぐにピタリと足を止めた。
…いや、だめだ
「みんながいたら絶対謝んない」
こんな事こそ、自信がある。
さっき左之さんとの間に流れた空気は、兄妹喧嘩の時と同じだ。「お互い様じゃん」と思ってる時と似た何か。
そういう場合、気まずいままで過ごしたり、必要だったら適当に話したりしているうちに、いつの間にかなあなあになっていく。別にそれでギクシャクするのなんて2、3日のことだ。
家族だから
でも左之さんは他人。一緒に暮らしてはいても、家族じゃない。
なあなあには出来ずに、モヤモヤしたまま、いつまでもあんな濁った空気を作り出してしまうかもしれない。
「…今しかない」
もはや好機が来るのを待つなんて、不確実で無責任。そもそも彼は私に謝っていて、謝りたいのは自分だけだ。
好機は自分で創るべし
うんと大きく頷いて顔を上げる。さっきの歩幅より大きく、跳ねるように駆けだす。
気が乗らないことは、勢いが大事
タタタ………スパンッ
「入ります! 左之さんごめん!!」
「は?」
「八つ当たりしました!!」
腹の底から声を出す。彼が室内にいることだけを素早く目で確認して、開け放った障子の敷居の上で、完璧な垂直に腰を折った。
これだけ大声で謝ったのに、本人が部屋に居なかったら、それはそれで恥ずかしかったのだが。幸いにも彼は着替えの最中のようで、夜着に袖を通した状態で、こちらに背を向けて立っていた。
「…おいおい、弥月。何の話か俺には見えねえんだけどな」
シュッと布が擦れる音がする。溜息か笑いか、小さく息を吐く気配がした。
「昼間、仮にも上司に向かって嘗めた口利きまくりました。すいませんっした」
…そういや随分前に、沖田さんに「誰がてめえの部下だ、この駄目男が」的なことを言った気はするが…
…まあ、左之さんの部下なら良いや
明日から原田組で巡察に出ることが決まっているし、実質、部下同然だろうと納得する。
そんなことを考えていると、いつ近づいたのか、肩をポンポンと叩かれる。
「な。言いたいことは言っちまった方が、楽なんじゃないか?」
…言いたいこと?
頭に疑問符を浮かべるも、彼が何を言いたいのか分からなくて、そのまま肩に手があるのを感じながら、ただじっとしていた。
また、溜息のような息が漏れ聞こえる。
「そりゃあ、言えないこともあるんだろうけどな。でも文句の一つや二つ聞けないほど、ここにいる奴等の心は狭くないと、俺は思うぜ。
…まあ、気が短い俺に言われても説得力ねぇけどな」
少しだけ首を起こして、チラリと視線を上げると、左之助のとりあえず縛っただけの帯と、肌けた胸元が目の前に見えた。
「…んなに気ばっか張ってると疲れるだろ。なんか最近お前、疲れた顔してるぜ」
「……そんなことは…」
何となく彼の言いたいことが分かって。そうとも、違うとも言えずに、弥月が困って顔を上げると、左之さんはギョッとした顔をした。
え?
…あ
「あ、はははははー…」
なんとも言えない左之さんの表情に、思わず半笑い。
「……男前な顔だな」
「やっばい、イケメンに褒められた。テンション上がるー…」
流石の彼も、思案顔。さっきの井戸の時は分からなかったようだが、行燈の灯りでも十分分かるらしい。
「…傷は男の勲章っていうからな。ちと腫れすぎだけど、十日もすれば馴染むだろ…」
いやー…乙女が傷物にされてしまいましたー…とは流石に言えず、引き攣り笑い。…引き攣るのは、実際問題、痛いから引き攣るのだが。
散々あちこちで理由を説明しまくった、しっかりと脹れあがた頬。喋ると痛むくらいなので、あれで歯が無事だったのは奇跡かもしれない。
見た目以上に辛いのは、ご飯を噛めなくて、ほぼ流し込んだこと。
あぁ、辛い
すると前触れもなく、グッと顎を掴まれ、横を向かされる。
「ててっ」
「山崎には見てもらったか?」
「いえ、会ってないですけど……がっつり井戸水で冷やしてるので大丈夫かと。ヒリヒリ引いたら温めとくし」
「確かに、まだ熱いな」
ぺとっと患部に当てられる手の甲。熱を持った頬には、そのひんやりとした指と、当たる肌の感覚が気持ち良く、少しうっとりとしてしまう。
だが、ふと気付けば、目の前にある整った鼻梁がだいぶ近くて、本能的に腰が引けた。それを「痛かったか?」と勘違いした彼が、自ら離れてくれたのは助かった。
前から思ってたけど……この人、距離が近い
特段、嫌なわけではないが、なんとなく居心地が悪いと言うか、どこに目線をやって良いのか分からないというか……居たたまれない。
たぶん『男同士だから平気』とかじゃなく、人と話すときの癖なんだとは思うが。
…『男同士だから近い』って言われたら、もはやどうして良いか分かんない……ってか、絶対これが平隊士に人気の理由でしょ……惚れてまうやろー…
皆は気にならないのか、今度訊いてみよう。
離れていく手を目で追っていると、その手は私の頭上に持ち上げられて、わしゃわしゃと私の頭を撫でた。
「斎藤んところに居た方が良いだろ?」
「…へ?」
「折角、慣れてきたころに異動じゃ、お前も相談相手なんかできねえだろ。戻してもらった方が良いよな?」
「いやいや、別に困ったらいつも誰かに助けてもらってますし、そんなに心配されるほどでは…」
「いいから、聞けって。傍から見たらそう見えるってことだ。
偉そうに言うつもりも、別に俺に相談しろって言うつもりもねぇけどな。斎藤じゃなくても、平助とも仲良いだろ? 歳だって近いし、あいつらなら話しやすいんじゃないか?
新八だって滅多に居ないくらい良い奴だし、あいつ自分で言うから説得力はないけどな、本当に懐広いから、もっと頼っても大丈夫だ。寧ろ舎弟に頼られたら、喜ぶような男だろ」
「…えっと…」
…どうやら、すっごく、す――っごく心配されてるらしい。理由は不明だが、この心配ぷりは、山崎さんに匹敵するのではないか…
…いつの間にそんなことに…
「えっと…斎藤さんの所はすごく剣について勉強になるけど、槍は交えたこともないから、寧ろ好い機会かなーと思ってるんですが…」
「…辛くないか?」
「はい、全然」
言ってから、若干、斎藤さんに申し訳ない気もしたが、まあ仕事だから仕方ない。
そこまで言うと、左之さんも言い重ねるのは諦めたようで、
「あと最初のことだけどな、俺は、謝られるようなことされた覚えはないから、謝られても困るからな」
「……心広すぎて吃驚しますよ」
「男はいつまでもウダウダ言わねえもんだ」
おどけたように肩を竦めてから、カラリと笑う彼。
あまりにそれが様になっていて、弥月は釣られてへらりと笑った。
「ははは……やっぱ左之さん、頼れる兄さんって感じ」
「ハハッ…そりゃ光栄だな。お、そうだ。今からコレ、付き合わねえか?」
左之助は部屋の中を指さした後、親指と人差し指を輪っかにして、口の高さでクイと傾ける。
それが家の誰かさんにそっくりで、クスリと笑いながら頷いた。
「明日起きれなくなるから飲みはしないけど、お茶で良ければつきあいます。明日からの上司にお酌くらいはしますよ」
***
原田side
「左之、起きているか?」
「あ? 斎藤か? いいぞ、入って」
スラリと開けられた障子の向こうには、すでに夜着姿の斎藤が居た。肩から羽織った彼の半纏姿が見慣れず、澄ました顔にモコモコとしたそれが、なんとなく可笑しくて、俺の口の端が少し上がる。
斎藤としては、原田の陽気は酒に酔っているためであろうと、彼の思いなど露程にも気付いていなかったため、それを追及することもなく。そして、彼の横にある塊を見やる。
「…はぁ……戻って来ぬと思ったら、やはり未だここだったか」
「ああ、弥月探してたのか」
原田の部屋の真ん中で、ゴロンと横になって、原田の布団をかけられた弥月。規則的な寝息が穏やかにスースーと、静かな部屋に聞こえていた。
斎藤はそれを見て、肩をすくめる。
「明日からそちらの深夜巡察故、朝餉の当番は構わんと伝えたかったのだが…」
「そういや、朝起きれないって言ってな…そういう意味だったのか。…クク…そりゃあ、もう伝えるのは無理だな」
「…のようだな」
弥月が『普通』に寝たら、ちょっとのことじゃ起きないことは有名で。本人からも『一刻半、或は三刻で声をかけて下さい』と謎の指示があった。
こんなのでこれから大丈夫か、と左之助は少々心配になるものの、彼の緊張が解れているからこそ、こうして子どものような顔して寝ているのは分かっていて。
自分のすぐ横にある、起きている時よりかは幾分あどけない寝顔を見ながら笑う。
「このまま寝かしとくから、起きたら言っといてやるよ」
そう伝えれば、斎藤は「頼む」と頷いた。
そのまま部屋に戻るのかと思ったのだが、何故か斎藤はそこで時が止まったように固まっている。その視線はしっかりと弥月を映していて、いつも通りの寡黙さに、俺は少し様子を見ていた。
今の杯を空けた頃、いつまでも動かない斎藤に、「どうした」声をかけようと思ったら、ようやく彼は口を開いた。
「武士としての生き方を教えてやってくれ」
斎藤の元々大きくない声で、さらに小さく呟く様に言われたのだが。俺の酒で酔った頭にも、それはきちんと届いていた。
「? まあ、普通に稽古して、指南するつもりはあるけどな?
でも俺とこいつ、剣の技だけならとんとんだろ。槍との訓練にならなるけどよ」
「…構わぬ。槍との立ち回り方や、手の早さから学ぶこともあるだろう」
「…は?」
それは俺を貶(けな)しているのか、斎藤の正直な感想なのか。
沈鬱な表情の彼からは、後者の方であるとしか思えなくて、問い返すことも出来ない。
「よく分かんねぇけど……喧嘩の仕方なら、平助の方が先に名乗り出たみたいだぜ」
「…なんのことだ?」
訝しげな顔をした斎藤に、ちょいちょいと手を振り、弥月の頬を指さしながら「見ろよこれ」と笑う。
斎藤が近づいて上から覗き込むと、横向きに寝ていた左頬の腫れが見えたようで、彼の眉間にしわが寄った。
「玉の肌に傷作っちゃ、いくら男でも母親は嘆くだろうになあ」
俺がクツクツと笑いながら言うと、心配そうな顔ではあるものの、「まあ、これくらいの方が良いのかもしれぬな」と何やら納得した様子で。この一ッ月、上司をしていた彼の気苦労が窺えた。
けれども、そこには弥月が手元を離れる寂しさのようなものが垣間見えた。
放っておけないのは、なんでだろうな
左之助が持っていた杯を持ち上げて、「飲むか?」と問えば、斎藤は少しの間じっと考えてから、小さく頷いて「貰おう」と、淡い笑みを浮かべて言うのだった。