姓は「矢代」で固定
第六話 新たな出会い
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***
弥月side
おトキさんに牛乳を搾らせてもらう約束をとりつけたり、すき焼き屋の破格の値段にがっくりと肩を落としたり、京を駆けまわっていた。
そして次へと向かうために、急いで髪を黒に染める。
最初は今から何をしようか、どこへ行こうかと考えてもあまり思いつかなかったのだが。
動き出してみるとあれもしたい、これもしたいと次々と浮かんできて。時間が惜しくて、駆け回るように足早に歩いていた。
「ごめんください、香乃はんは居てはります?」
弥月が刀を隠して些か緊張した面持ちで、反物屋の暖簾を押し上げて控えめに声をかけると、出てきたのは弥月の苦手な香乃の母親だった。けれど、彼が新選組の一員とは気付かなかったようで、見目の良い少年に驚きながらも、羊羹を受け取って快く娘を呼ぶ。
上り口に座って待っていると、彼女が慌てたように「ななしはん!?」と言うので。「元気?」とヒラヒラと手を振ってみせると、なんだか呆れられたような表情で、「ちょっと待っとって」と言われた。
そうして、この前のお礼と挨拶をしに来ただけのつもりだったのだが。香乃に連れられるように、少し先の呉服屋へと移動する。
いや……なんか、ココ来た時点で予想はしてたけどさ…
大きい着物も用意してみたからと、着せ替え人形にされること半刻。
香乃は「腕がなるわ~」なんて言いながら、ああでもない、こうでもないと、着物と帯を取っ替え引っ替え、弥月の身体にあてがっていく。
時々「こっちはどう?」なんて聞かれても、好きな色柄の方を答えるしかできなくて、似合う云々は任せるしかない。正直、どっちでも良いと思わないでもないが、私のために用意したと言われては断ることもできずに……結果、 されるがまま脱いだり着たり。
「ほら、真っ直ぐ立って!…うん、やっぱりこれがええ!」
納得した彼女の様子に、自分で姿見を確認すると、鴬色の着物に深緑色の帯の組み合わせで仕上がっていた。誰かの着古し馴れた着物を、自分で適当に着たときの様ではなく、ピシッとした新しいものと分かる一重。横を向いて身体を捻ってみると、きっちりとした福羅すずめが結ばれている。
久しぶりに綺麗な着物に身を包むと、どうしてか気恥ずかしさがあり、鏡越しに嬉しそうしている香乃へ、笑って応じる。
「ありがとう。自分で言うのもなんだけど、すっごい良いと思う」
「ふふ、喜んでもらえて良かった……さ、出かけましょう!」
そうして昼過ぎから連れだって出かけていたのだが、あちらこちらへと連れ回され、気付けばすっかり夕方になっていた。
巡察中に外から物珍し気に見るだけだった歌舞伎座に入ったり、チラリと見ることも憚られた小間物屋で可愛らしい物に囲まれてみたりと、今日一日貴重な体験をしたと思う。なんやかんやと買い物もして、風呂敷に入りきらなくなった読本や瓦版は手にもったままだ。
そんな風にして、この時代へ来てからずっと隔離された世界だったことを思い知り、非日常を感じながら半日過ごしたのだが。
まだ、新選組の隊士だからね…
そこへ帰らなきゃいけないと分かっているから、観光して感動して、のほほんとしてられるのは今だけだと時折思い出して、切ないような辛いような気持ちになる。
「…自分で選んだもんね」
独りの家路は、ふとした瞬間に溜め息をつきそうになるけれど、「まだ大丈夫」と自分を鼓舞して、空を見上げてニイッと笑う。 天気が良い日は、それだけで幸せになれる気がする。
だけどそうすると、もう山の端に日がかかっていることに気付いた。日暮れまでにはと言われていたから、急いで帰らなければ。
「とと…しまった、コレ着てきちゃった」
走り出そうとして、自分の今の格好を思い出す。少しばかり値の張りそうな着物を着たままである。
うっかりしてた…香乃ちゃんも何も言わないから、さっき角でバイバイしてしまったぞ
洗ってから返すべきだろうかと考えるも、屯所内で干すわけにもいかない。ならば監察方の借家で…と思ったが、そもそも次会えるのはいつになるだろうか。
…着たままで申し訳ないけど、今日返しといた方が無難か…
そう思って、パッと来た方向へ踵を返した時、目の端に編笠が動くのが映った。
「きゃっ!?」
「えあ!?わわっ!」
カランカラン
編笠を目深にかぶった人物が角を曲がってきたのは、丁度弥月が足を前に踏み出したのと同時だった。
弥月は咄嗟にその人と衝突するのを避けようと、思いっきり後ろへ仰け反ってしまい、重心が傾いて尻餅をついてしまう。
先に手が地面に着いていたから、「尾骨骨折セーフ」と思ったが、こんなことで骨折するような骨密度ではな……一刻も早く牛乳。
「痛たたた…」
けれど、その声にハッとして見ると、相手も転んでしまっていて。
私はこのくらいでは大したことないのだが、相手が自分より体格の小さい女の子だと気づき、慌てて落とした読本やらを片手でかき集めてから、彼女の元へ駆け寄る。
「すいません! 大丈夫ですか!?」
「あ、いいえ! 私も余所見していて、すみませんでした」
弥月が手を差し出すより早く、 その少女は慌てて自力で立ち上がる。そしてぶつかったことでズレたらしい編笠を外して、ぺこりと頭を下げた。
「あなたも、お怪我はありませんか?」
「全然! 私は大丈夫です。…あ、すいません! この杖落とされませんでした?」
「え? あぁ、ありがとうございます!」
彼女が手に持っていたのだろう、転がって行った杖のようなものを、弥月が拾って差し出すと。少女は落としたことに気付いていなかったのか、一瞬キョトンとした顔で、杖と自分の空の掌を見てから、驚いた様にしてそれを受け取った。
そして失敗に照れた表情で、こちらを見て微笑む。
真っ正面から彼女と向かい合い、弥月は目を見開いた。
「…か…」
「……か?」
半ば無意識に、少女の顔の細部までを一つ一つ凝視する。パチクリとする大きな黒目がちの瞳は、不思議そうに弥月を見ていたが、弥月はそれでもお構い無しに彼女を二度見した。
口から「わあ」と漏れそうになるのを、口元に手を添えることで防いだ。
可愛い。すこぶる可愛い
だからどうって訳ではないが、誰かにその出逢いを語らすにはいられない程、可愛い。
勿論、ただ顔が可愛いだけではない。見かけで人を判断してはいけないが、六七割は自然と立ち居振舞いに出るものである。出会い頭の一件で、彼女の柔和な性格や礼儀正しさを垣間見て、少なからず好印象を与える少女だった。
しかも角を曲がってぶつかるとか、もはや少女漫画の運命的出会いで……これは間違いなく恋のフラグ。食パンくわえれば100点満点
「あの…?」
「お、わ、え、いや、何でもないでぇす…」
…危ない。自ら禁断の道を見た自分が恐い。男所帯が長くなってきて、女に飢えているなんて言い訳にもならない。それ以上は進んでくれるな、私
「あの…どこかお怪我されましたか?」
心配そうな表情で訊いてくる少女に、弥月は心底謝りたい気持ちを笑顔に代えて「大丈夫」と答え、同じ問いを彼女に返した。
「ありがとうございます、私も大丈夫です」
彼女は黒い大きな瞳と、色艶の良い唇を三日月にしてニコッと笑う。
うわ、かわいー…
なんだか彼女の笑顔が眩しい、キラキラして見える。
そして違和感がないから、すぐには気にならなかったが、桃色の着物に白袴。これを着こなせる人がそうそういるだろうか。少なくとも私はキャラじゃない、女子力高ぇ…
眼福に満足したところで、「それじゃあ」と会釈して去ろうと思ったのだが、意外にも彼女の方から「あの…」と声をかけられる。
「少々お尋ねしたいのですが、この辺りの方ですか?」
「え? あ、はい。まあ?」
それは非常に難しい問いの気がするが、四ヶ月暮らしているのだから、間違いではないだろう。
「付かぬ事をお伺いしますが、松本良順先生のお宅をご存知ではありませんか?」
「松本良順……先生?」
…聞いたことが有るような、無いような?
名前からすると知り合いの人ではないが、聞いたことがある気がする。
だけど、おそらく最近ではないこの手の記憶は、令和で見聞きしたことも多い。知っているとおかしい事が多々存在して、無闇に「知ってる」と言わない方が身のためだろう。
「すいません、知らなくて…」
「そうですか…」
しょんぼりした様子の彼女に、すごく申し訳なくなってしまう。だって、知っているかもしれないのだ。
「…あの、宜しければ、一緒に探しましょうか?」
「え!? いいですよ!」
ブンブンと身ぶり手振りで「悪いです」と断る彼女だったが、弥月が一度陽を確認しようとすれば、丁度よく五つの鐘が鳴る。
一瞬、土方さんの怒り顔が頭を過ったが、それよりも目の前の困ってる少女を優先すべきだと結論をだすのに時間は要らなかった。
「暗くなるから、早く着いた方がいいと思うんですけど」
「いえ…あ、ほら、もう宿を探さきゃいけないので、明日にしますから!」
「あ、宿探します?」
言われてみれば、彼女は編笠に外套、そして杖を持っていて、まるでおむすびマンのような格好だ。これが旅装だとは何となく知っている。
「宿だったら、何個か教えれますけど…」
「本当ですか!?」
パアッと耀くような笑顔で嬉しそうに言うので、釣られてへらりと笑ってしまう。やっべえ、超癒される。
幾つか候補を挙げた結果、路銀にも限りがあるそうなので、安すぎず高くない宿へ案内することになった。
そうして横並びに歩いていて思うことには、なんだかアンバランスな組み合わせだという事。
いやー…なんか男装女子と、女装男子みたいで……笑えないわぁあっはっは
「京って怖いところって聞いてたから、親切な方がいて良かったです」
「ハハ…まあ、たぶん私に害はないけど。夜とかフラフラしない方が良いのは間違いないかな。
あと、浅葱色のダンダラ模様の羽織を着た集団には近づかないこと。いつ斬り合いを始めるか分からないからね」
「もしかして、『壬生狼』って方達ですか?」
「それそれ、今は『新選組』って言うんだけどね。悪い人達じゃないんだけど、長州の人とか色々と、そこここで斬り合いするからさ。避けて通った方が無難」
「そうなんですか…」
頷きながら「分かりました」と、胸の前で拳を握った彼女は、少し肩をいからせていて。怯えさせてしまったかなと思ったけれど、用心に越したことはないだろう。
「遠くから一人で来たの?」
「はい、江戸から」
「江戸ぉ!?」
突然の弥月の裏返った声に、彼女はビクッと肩を震わせる。
「江戸から女の子が一人で!?」
「は、はい…」
「凄い! どんくらいかかるん? どこ通って来たん?」
「えっと、普通に東海道を……今日で十七日目ですね」
「はー…やっぱ、そんくらいかかるかぁ…」
「速い方なら十日前後で来られるみたいですよ? 馬とか駕籠を使ったら、もっと速く着けますし」
「へぇ…すごい、やっぱり歩くんだ…」
「……え!? あの、女の子って言いました!?」
少し後ろで足を止めて、悲壮感漂う表情をした彼女。
え?
「…えっ!? 男の娘……男の子なの!? うわっ、ごめんなさい! すんません!!」
ペコペコと平に謝る。なんなら土下座だってします、最近の特技です。気持ち的には「詐欺だ!」だったけど。
「いえ、そうではなくて! 違いますから、間違ってないですから、頭上げて下さい!」
「どっち!?」
「あああ、女です! 一人旅の用心を思って、こんな恰好をしています!!」
「ああ、そうだよね! 良かった、また失礼極まったかと思った!」
二人ともが身振り手振りで、アワアワと「すみません」とお互い言い合っているから、なんだなんだと通り行く人がチラリと見ていたが。二人は顔を見合わせてクスクスと笑って、また歩き出した。
歩き始めてから四半時ほどかけて、ようやく辿りついた宿屋。
弥月は先に暖簾を押し上げて、「こんばんは」と挨拶をする。
「お泊まりどすか? 二人で一部屋?」
「すんまへん、うちは泊まらへんくて、この子を……えっと、何日居る?」
「あ、はい、とりあえず今日だけで!」
「了解。今日泊めたってほしいんやけど、お部屋空いてはる?」
「ええ、空いとりますよ! お一人様どすな」
きな臭くない宿を選んだ。宿は人拐いとかそういう類いがいる所だから、使うときは気を付けた方が良いと、烝さんが以前言っていた。
それを私に言うとは、本気か、冗談か嫌味かどれだろうと思ったけど、笑ってスルー。
だけどいくら男装してるとはいえ、見目の良い、しかも見るからに旅装の彼女が危険なことくらい想像するのは容易で。
脱走したら使うことになるだろうと思って、個人的に集めていた情報だが、自分のためだけじゃなくて、他人の役に立てるものになって良かった。
「んじゃ、私はこれで。気を付けてね」
「ありがとうございました。あの、お名前を…」
やっばい、この子。やっぱり性格も花丸付きの百点満点
「大したことじゃないし、いいよ名前とか。むしろ、人探しに付き合えなくてごめんって感じだし」
「いえ、でも…」
眉をハの字にして、困ったような表情をする彼女。これくらいの事で縋るような眼をされては、彼女のお人好しさに、弥月からは呆れ交じりの微笑みが漏れる。
「分かった、ななしって言うんだ、私」
「お住まいは…」
「…ちょっとそれは教えらんないけど、まあ、また会うことがあったら声かけてね。えっと、名前…、私も訊いて良い?」
「はい! 私、雪村千鶴と申します」
「千鶴ちゃんね。旅の話聞かせてもらって楽しかった。またね」
「…! はい、また!」
また会うことがあればと、二人は笑顔で別れを告げた。
***
弥月side
おトキさんに牛乳を搾らせてもらう約束をとりつけたり、すき焼き屋の破格の値段にがっくりと肩を落としたり、京を駆けまわっていた。
そして次へと向かうために、急いで髪を黒に染める。
最初は今から何をしようか、どこへ行こうかと考えてもあまり思いつかなかったのだが。
動き出してみるとあれもしたい、これもしたいと次々と浮かんできて。時間が惜しくて、駆け回るように足早に歩いていた。
「ごめんください、香乃はんは居てはります?」
弥月が刀を隠して些か緊張した面持ちで、反物屋の暖簾を押し上げて控えめに声をかけると、出てきたのは弥月の苦手な香乃の母親だった。けれど、彼が新選組の一員とは気付かなかったようで、見目の良い少年に驚きながらも、羊羹を受け取って快く娘を呼ぶ。
上り口に座って待っていると、彼女が慌てたように「ななしはん!?」と言うので。「元気?」とヒラヒラと手を振ってみせると、なんだか呆れられたような表情で、「ちょっと待っとって」と言われた。
そうして、この前のお礼と挨拶をしに来ただけのつもりだったのだが。香乃に連れられるように、少し先の呉服屋へと移動する。
いや……なんか、ココ来た時点で予想はしてたけどさ…
大きい着物も用意してみたからと、着せ替え人形にされること半刻。
香乃は「腕がなるわ~」なんて言いながら、ああでもない、こうでもないと、着物と帯を取っ替え引っ替え、弥月の身体にあてがっていく。
時々「こっちはどう?」なんて聞かれても、好きな色柄の方を答えるしかできなくて、似合う云々は任せるしかない。正直、どっちでも良いと思わないでもないが、私のために用意したと言われては断ることもできずに……結果、 されるがまま脱いだり着たり。
「ほら、真っ直ぐ立って!…うん、やっぱりこれがええ!」
納得した彼女の様子に、自分で姿見を確認すると、鴬色の着物に深緑色の帯の組み合わせで仕上がっていた。誰かの着古し馴れた着物を、自分で適当に着たときの様ではなく、ピシッとした新しいものと分かる一重。横を向いて身体を捻ってみると、きっちりとした福羅すずめが結ばれている。
久しぶりに綺麗な着物に身を包むと、どうしてか気恥ずかしさがあり、鏡越しに嬉しそうしている香乃へ、笑って応じる。
「ありがとう。自分で言うのもなんだけど、すっごい良いと思う」
「ふふ、喜んでもらえて良かった……さ、出かけましょう!」
そうして昼過ぎから連れだって出かけていたのだが、あちらこちらへと連れ回され、気付けばすっかり夕方になっていた。
巡察中に外から物珍し気に見るだけだった歌舞伎座に入ったり、チラリと見ることも憚られた小間物屋で可愛らしい物に囲まれてみたりと、今日一日貴重な体験をしたと思う。なんやかんやと買い物もして、風呂敷に入りきらなくなった読本や瓦版は手にもったままだ。
そんな風にして、この時代へ来てからずっと隔離された世界だったことを思い知り、非日常を感じながら半日過ごしたのだが。
まだ、新選組の隊士だからね…
そこへ帰らなきゃいけないと分かっているから、観光して感動して、のほほんとしてられるのは今だけだと時折思い出して、切ないような辛いような気持ちになる。
「…自分で選んだもんね」
独りの家路は、ふとした瞬間に溜め息をつきそうになるけれど、「まだ大丈夫」と自分を鼓舞して、空を見上げてニイッと笑う。 天気が良い日は、それだけで幸せになれる気がする。
だけどそうすると、もう山の端に日がかかっていることに気付いた。日暮れまでにはと言われていたから、急いで帰らなければ。
「とと…しまった、コレ着てきちゃった」
走り出そうとして、自分の今の格好を思い出す。少しばかり値の張りそうな着物を着たままである。
うっかりしてた…香乃ちゃんも何も言わないから、さっき角でバイバイしてしまったぞ
洗ってから返すべきだろうかと考えるも、屯所内で干すわけにもいかない。ならば監察方の借家で…と思ったが、そもそも次会えるのはいつになるだろうか。
…着たままで申し訳ないけど、今日返しといた方が無難か…
そう思って、パッと来た方向へ踵を返した時、目の端に編笠が動くのが映った。
「きゃっ!?」
「えあ!?わわっ!」
カランカラン
編笠を目深にかぶった人物が角を曲がってきたのは、丁度弥月が足を前に踏み出したのと同時だった。
弥月は咄嗟にその人と衝突するのを避けようと、思いっきり後ろへ仰け反ってしまい、重心が傾いて尻餅をついてしまう。
先に手が地面に着いていたから、「尾骨骨折セーフ」と思ったが、こんなことで骨折するような骨密度ではな……一刻も早く牛乳。
「痛たたた…」
けれど、その声にハッとして見ると、相手も転んでしまっていて。
私はこのくらいでは大したことないのだが、相手が自分より体格の小さい女の子だと気づき、慌てて落とした読本やらを片手でかき集めてから、彼女の元へ駆け寄る。
「すいません! 大丈夫ですか!?」
「あ、いいえ! 私も余所見していて、すみませんでした」
弥月が手を差し出すより早く、 その少女は慌てて自力で立ち上がる。そしてぶつかったことでズレたらしい編笠を外して、ぺこりと頭を下げた。
「あなたも、お怪我はありませんか?」
「全然! 私は大丈夫です。…あ、すいません! この杖落とされませんでした?」
「え? あぁ、ありがとうございます!」
彼女が手に持っていたのだろう、転がって行った杖のようなものを、弥月が拾って差し出すと。少女は落としたことに気付いていなかったのか、一瞬キョトンとした顔で、杖と自分の空の掌を見てから、驚いた様にしてそれを受け取った。
そして失敗に照れた表情で、こちらを見て微笑む。
真っ正面から彼女と向かい合い、弥月は目を見開いた。
「…か…」
「……か?」
半ば無意識に、少女の顔の細部までを一つ一つ凝視する。パチクリとする大きな黒目がちの瞳は、不思議そうに弥月を見ていたが、弥月はそれでもお構い無しに彼女を二度見した。
口から「わあ」と漏れそうになるのを、口元に手を添えることで防いだ。
可愛い。すこぶる可愛い
だからどうって訳ではないが、誰かにその出逢いを語らすにはいられない程、可愛い。
勿論、ただ顔が可愛いだけではない。見かけで人を判断してはいけないが、六七割は自然と立ち居振舞いに出るものである。出会い頭の一件で、彼女の柔和な性格や礼儀正しさを垣間見て、少なからず好印象を与える少女だった。
しかも角を曲がってぶつかるとか、もはや少女漫画の運命的出会いで……これは間違いなく恋のフラグ。食パンくわえれば100点満点
「あの…?」
「お、わ、え、いや、何でもないでぇす…」
…危ない。自ら禁断の道を見た自分が恐い。男所帯が長くなってきて、女に飢えているなんて言い訳にもならない。それ以上は進んでくれるな、私
「あの…どこかお怪我されましたか?」
心配そうな表情で訊いてくる少女に、弥月は心底謝りたい気持ちを笑顔に代えて「大丈夫」と答え、同じ問いを彼女に返した。
「ありがとうございます、私も大丈夫です」
彼女は黒い大きな瞳と、色艶の良い唇を三日月にしてニコッと笑う。
うわ、かわいー…
なんだか彼女の笑顔が眩しい、キラキラして見える。
そして違和感がないから、すぐには気にならなかったが、桃色の着物に白袴。これを着こなせる人がそうそういるだろうか。少なくとも私はキャラじゃない、女子力高ぇ…
眼福に満足したところで、「それじゃあ」と会釈して去ろうと思ったのだが、意外にも彼女の方から「あの…」と声をかけられる。
「少々お尋ねしたいのですが、この辺りの方ですか?」
「え? あ、はい。まあ?」
それは非常に難しい問いの気がするが、四ヶ月暮らしているのだから、間違いではないだろう。
「付かぬ事をお伺いしますが、松本良順先生のお宅をご存知ではありませんか?」
「松本良順……先生?」
…聞いたことが有るような、無いような?
名前からすると知り合いの人ではないが、聞いたことがある気がする。
だけど、おそらく最近ではないこの手の記憶は、令和で見聞きしたことも多い。知っているとおかしい事が多々存在して、無闇に「知ってる」と言わない方が身のためだろう。
「すいません、知らなくて…」
「そうですか…」
しょんぼりした様子の彼女に、すごく申し訳なくなってしまう。だって、知っているかもしれないのだ。
「…あの、宜しければ、一緒に探しましょうか?」
「え!? いいですよ!」
ブンブンと身ぶり手振りで「悪いです」と断る彼女だったが、弥月が一度陽を確認しようとすれば、丁度よく五つの鐘が鳴る。
一瞬、土方さんの怒り顔が頭を過ったが、それよりも目の前の困ってる少女を優先すべきだと結論をだすのに時間は要らなかった。
「暗くなるから、早く着いた方がいいと思うんですけど」
「いえ…あ、ほら、もう宿を探さきゃいけないので、明日にしますから!」
「あ、宿探します?」
言われてみれば、彼女は編笠に外套、そして杖を持っていて、まるでおむすびマンのような格好だ。これが旅装だとは何となく知っている。
「宿だったら、何個か教えれますけど…」
「本当ですか!?」
パアッと耀くような笑顔で嬉しそうに言うので、釣られてへらりと笑ってしまう。やっべえ、超癒される。
幾つか候補を挙げた結果、路銀にも限りがあるそうなので、安すぎず高くない宿へ案内することになった。
そうして横並びに歩いていて思うことには、なんだかアンバランスな組み合わせだという事。
いやー…なんか男装女子と、女装男子みたいで……笑えないわぁあっはっは
「京って怖いところって聞いてたから、親切な方がいて良かったです」
「ハハ…まあ、たぶん私に害はないけど。夜とかフラフラしない方が良いのは間違いないかな。
あと、浅葱色のダンダラ模様の羽織を着た集団には近づかないこと。いつ斬り合いを始めるか分からないからね」
「もしかして、『壬生狼』って方達ですか?」
「それそれ、今は『新選組』って言うんだけどね。悪い人達じゃないんだけど、長州の人とか色々と、そこここで斬り合いするからさ。避けて通った方が無難」
「そうなんですか…」
頷きながら「分かりました」と、胸の前で拳を握った彼女は、少し肩をいからせていて。怯えさせてしまったかなと思ったけれど、用心に越したことはないだろう。
「遠くから一人で来たの?」
「はい、江戸から」
「江戸ぉ!?」
突然の弥月の裏返った声に、彼女はビクッと肩を震わせる。
「江戸から女の子が一人で!?」
「は、はい…」
「凄い! どんくらいかかるん? どこ通って来たん?」
「えっと、普通に東海道を……今日で十七日目ですね」
「はー…やっぱ、そんくらいかかるかぁ…」
「速い方なら十日前後で来られるみたいですよ? 馬とか駕籠を使ったら、もっと速く着けますし」
「へぇ…すごい、やっぱり歩くんだ…」
「……え!? あの、女の子って言いました!?」
少し後ろで足を止めて、悲壮感漂う表情をした彼女。
え?
「…えっ!? 男の娘……男の子なの!? うわっ、ごめんなさい! すんません!!」
ペコペコと平に謝る。なんなら土下座だってします、最近の特技です。気持ち的には「詐欺だ!」だったけど。
「いえ、そうではなくて! 違いますから、間違ってないですから、頭上げて下さい!」
「どっち!?」
「あああ、女です! 一人旅の用心を思って、こんな恰好をしています!!」
「ああ、そうだよね! 良かった、また失礼極まったかと思った!」
二人ともが身振り手振りで、アワアワと「すみません」とお互い言い合っているから、なんだなんだと通り行く人がチラリと見ていたが。二人は顔を見合わせてクスクスと笑って、また歩き出した。
歩き始めてから四半時ほどかけて、ようやく辿りついた宿屋。
弥月は先に暖簾を押し上げて、「こんばんは」と挨拶をする。
「お泊まりどすか? 二人で一部屋?」
「すんまへん、うちは泊まらへんくて、この子を……えっと、何日居る?」
「あ、はい、とりあえず今日だけで!」
「了解。今日泊めたってほしいんやけど、お部屋空いてはる?」
「ええ、空いとりますよ! お一人様どすな」
きな臭くない宿を選んだ。宿は人拐いとかそういう類いがいる所だから、使うときは気を付けた方が良いと、烝さんが以前言っていた。
それを私に言うとは、本気か、冗談か嫌味かどれだろうと思ったけど、笑ってスルー。
だけどいくら男装してるとはいえ、見目の良い、しかも見るからに旅装の彼女が危険なことくらい想像するのは容易で。
脱走したら使うことになるだろうと思って、個人的に集めていた情報だが、自分のためだけじゃなくて、他人の役に立てるものになって良かった。
「んじゃ、私はこれで。気を付けてね」
「ありがとうございました。あの、お名前を…」
やっばい、この子。やっぱり性格も花丸付きの百点満点
「大したことじゃないし、いいよ名前とか。むしろ、人探しに付き合えなくてごめんって感じだし」
「いえ、でも…」
眉をハの字にして、困ったような表情をする彼女。これくらいの事で縋るような眼をされては、彼女のお人好しさに、弥月からは呆れ交じりの微笑みが漏れる。
「分かった、ななしって言うんだ、私」
「お住まいは…」
「…ちょっとそれは教えらんないけど、まあ、また会うことがあったら声かけてね。えっと、名前…、私も訊いて良い?」
「はい! 私、雪村千鶴と申します」
「千鶴ちゃんね。旅の話聞かせてもらって楽しかった。またね」
「…! はい、また!」
また会うことがあればと、二人は笑顔で別れを告げた。
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