姓は「矢代」で固定
第四話 歩ける道 歩きたい道
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***
夜も深い時間だからか、目が腫れぼったいからか、まぶたが重たすぎて、ともすれば歩きながらでも意識を飛ばせそうだった。
近藤さんが『また帰ってきた時に返してくれれば良いから』と言って、貸してくれた半纏にくるまりながら、トロトロと足を進める。
「寝坊しかねないし……とりあえず行くかー…」
借家へ戻ろう、そうしよう
そう決めて、なにも考えずに草履のある裏口の方へ歩いていた。歩くのにあわせて、キシキシと小さくきしむ床板が、これまたすごく眠りを誘う。
ねむー…
「...ん? だ、わっ!?」
「はわっ!!」
すぐ横から声がしたかと思えば、既にそれにつまづいていた。
この寝ぼけた頭でも、身体が前に傾いた瞬間に手は出たものの、宙で何か......柔らかい棒のようなものを掴んでしまった。それは体重を支えてくれるものではなく、私は全力で前方に倒れていった。
人間の歩く速度は案外速いもので、「ヤバい」とは思ったのだが、もう転ぶ自分を止められなかった。
ダッドタンッ
……え?
けれど、下側から私を包むようなものがあり、勢いよく倒れたはずの私の身体は、硬い床に直接当たることはなく。床と接触する前に、その間に滑り込んできたものが緩衝材になってくれた。
だが、この、私の下敷きにされたもの。何であるかなど考えるまでもなく、形と弾力が人間だった。間違いなく、私がつまづいた人。
「すわっ...すみませっ」
眠さなど吹っ飛んだ。
慌てて腕をついて、上体を起こして気付いた事には。
恐らく、相手の足に引っかかっただけであろうに、どうしてこうなったのか。丁度よく、見事なまでに完璧に、腹や胸の面が、相手を下敷きにしていた。
!? ……ん!?
転んで下敷きにしたことは、もう済んだことだから仕方ない、仕方ないとしよう。仕方ないとして。
弥月は自分の状況を理解して、続けて出るべき謝罪の言葉までもが吹っ飛んだ。
なぜなら、すぐに腕で起き上がって退こうとした私の腰を、上側から支えるようにした…おそらく回された手に、クッと力が入って、この態勢に固定するとの相手からの意思表示があったから。
な、なに!? 何が誰で!?
「すまない、大丈夫か?」
元々目を白黒させてはいたが、自分のすぐ下から掛けられた声を理解して、思考以上に身体が固まった。
烝さん
腹ばいの弥月が、腕で上半身のみを浮かせる下...というよりも、ほぼ真横には山崎の顔があった。暗くてよくは見えないが、声のした位置から、そこに顔があることは間違いない。
その時、私のほどいたままで重力に流れる髪が、私の動作とは関係なく動いて、顔に外気が触れた。視界の中を動く黒い陰に、彼が髪を避けるために触ったのだと理解する。
手を...
「弥月君?」
手を、放して、欲しいんです、けれども…
決して強く抑えつけられている訳ではないのに、上から押さえる手が妙に気になって、腰が持ち上がらなかった。密着するお互いの身体に、唯一距離を保っている頼みの綱は、上半身を支える弥月の腕だけ。
微動だに出来ず、喉を上下させることすら躊躇われた。
馬乗りなど鍛練中ならば希にあること。
だけど、近い……です!!
「大丈夫か?」
気づかわしげな声に、彼に問われていたのだと気付いた。
「あ、はい。おかげさまで…」
「よかった。すまない、寝ないよう立っていたのに、不覚にもうとうとしていた」
「私も寝ながら歩いてたので……あの、手を…」
「手?」
「…手をお放し頂けるととても助かるのですけれども…」
近すぎる距離に、平静を装いながらそう言ったものの、なぜか放してもらえるどころか、がっちりと固定されてしまった。
――っ!? どうして、なぜ、何ゆえ、WHY!?
「局長に話したのか?」
「なにがですか!?」
「君のことだ」
そして声を潜めて「女性だと話したのか」と。
それは元々必要最小限の声で話していたところを、更に小声で話すためか、彼の頭が床から持ち上がって、囁くように言われた。
「話しました、話しましたけど! すいません、それよりも放してください!」
現在進行形で気まずい相手NO1だったのを差し引いても。
所謂、『抱きしめられる』態勢に行き着いているのだと気付いて、恥ずかしさに脚が震える。動けない身体に「離れたい」という思いで頭がいっぱいになって、小声で叫ぶように言った。
訳分かんない、助けて!
「君がここに居たいと言ったのを聞いていた......それがどういう決心だったのか、俺は君のことを分かっていたつもりで、全然分かって無かったんだ...すまない、俺ともきちんと話をさせてくれ」
「放してくれないと無理! お願い放して!!」
彼の話など八割方耳に入ってこなかったが、話をしたい云々のところだけ理解して。耐えきれず、声を大きくして叫んだ。
そうすると、やっと伝わったのか、彼は腰を押さえていた手を放してくれる。
けれど、弥月が転ぶときに掴んだ、棒だと思った彼の腕は、しっかりと彼女の手首を取った。
そうして弥月が膝を支点に尻もちを付くように、足側へズルズルと退くと。当然、掴んでいる腕に引かれて、山崎も膝を突き合わせるようにして座る。
掴まれた手を力なく差し出すような恰好で、弥月は項垂れる。今の一瞬で、残っていた気力を全部持っていかれたような気がした。
何なんですか…
「すまない、俺が間違っていた。
君が“矢代弥月”なことには変わりないのに、俺は君そのものが変わったような気がしていたんだ。
君の思う通り、ここで務めようと思うのなら、君が何者であろうと腕を磨くに越したことはない。それなのに俺は、君が『自分も仲間も守りたいから』と本気で言っていたことすらも忘れて、君との約束を破ろうとしていた。
いつも俺達を気遣いながら関わる君に、とても失礼なことを言ったと思っている......本当にすまない」
山崎は空いている方の拳を膝に当てて、深く頭を垂れる。
彼が話す間に、大方落ち着いた弥月は、頭を下げる彼を困った風に見て、伏し目がちにゆっくりと応えた。
「...ん、と...烝さんが本当にそう思ってくれて、謝ってくれるのは......嬉しいというよりも、申し訳ないですし...
そんな...約束を破るとか...まあ、ちょっと近いのかもしれない、けど......そこまで大それた反省をするほどのことでは...仕方ないっちゃ仕方ないと言いますか...ねぇ?」
同意を求めて小首を傾げたのだが。キュッと私の手首を掴む力が強くなって。
顔を上げて悲しげな表情をする彼と、真っ暗な中で視線が交わる。
「本当にそうだろうか。君にとっては、『仕方がないこと』で終わらせたくなかったのだろう?」
「...えっと、そうとも言いますが......まあ、まあ、ねぇ?あの、私も意味不明に怒ってすみませんでした」
「意味は不明じゃない。君は理由があるから怒ったのだし、俺も自分の言い分があって好き勝手言ってしまった。誤魔化さないでくれ、きちんと話し合いたいんだ。
俺は君の信頼を失ってしまっただろうか」
「え? いえ、そんな事はないですけど......烝さんは、まあ烝さんですし...」
勿論、あの時には怒りも苛立ちも、悲しさもあった。けれど今は彼と向き合っても、自分でも驚くくらいに心は凪いでいる。
なんだかよく分からない状況ではあったが、異常に脈を打った心臓も、なんとか正常になろうとしていた。
そして、いつでも私を気遣いながら、真っ直ぐに向き合おうとしてくれる彼は、間違いなく私の知っている烝さんだ。
お互い意見が食い違って言い合いになったことは、私は自分が、優しい烝さん一人に頼り過ぎていた事に気付いて。彼は自分が過保護になっていたと気付くのに、良い機会だったのだろう。
彼が頼りない私を支えようとしてくれるならば、少しでも早く自立して、支え合えるようになれば良い。
だけど、烝さんに頼り過ぎてはいけない......彼は縋るものに対して、優しすぎるから。
弥月は自分を律するように、一度きつく瞼を閉じる。
自分で歩く
「―――から指南役として、事情を知ってしまった俺より、斎藤さんのような人の方が良いのではないだろうかと思うのだが」
...ん? 最初の方聞き逃したっぽいんだけど、なんでそんな考えに?
「いや、まあ...容赦ないって点では、そうかもしれないけど......烝さんが前みたいに接してくれるなら、全然問題ないんですよ?」
そんなに私は彼に気を遣わせることをしてしまっただろうか。
喧嘩した後に、こんなに下手に出る友達もいなかったものだから、どう関わるべきかに困る。
でもまあ、烝さんは「それなら良いんだが…」と、なにやら逡巡していたあと、一人で何かを納得してくれたので、まあ放っておいても良いだろう。たぶん。
手首をとられたままであったし、特に促されるでもないので、弥月は何とはなしに彼に従うべく、そのまま居座っていると。山崎の話が唐突に変わるものだから、いったい彼はどうしたのだろうと、再び眠気に襲われてきた頭でぼんやりと思う。
「君は幼い頃から、ずっと剣術ばかりしていたのか? 君のいた時代は平穏だと言っていたな。それなのにそこまで剣を究めても、実力が足りないとずっと思っていたのか?」
「…まあ、4歳そこそこからしてましたので、芸歴はそれなりにありますね。
んで、長男が兄達の中では天才的だったので、色々思うところもあったんですけど......それが羨ましくもあり、まあ仕方ないと言いますか...」
「あぁ、待ってくれ。そもそも何人兄弟だったか。家が道場だと言っていたな」
「5人ですよ。全員上で、次男と三男は双子で、末兄は一歳上です。長男は...烝さんと同い年...かな?」
「そうなのか......いや、だがいくら長兄が天才的とはいえ、兄妹で道場を誰が次ぐのかと競い合っていたのか」
「そんなことはなくって......三男は頭の出来が良かったので、早々に引きましたし、次男は遊び半分感がありますし......末席はね、年の差があり過ぎてって感じでですね...」
なぜこんな話題になったのか、頭の隅で疑問に思ったのだが。そのような質問にのらりくらりと答えつつ、彼の話にこくんと時折頷くのは、話への相槌ばかりではなくて。
この眠たすぎる頭では、途中から烝さんの話がところどころ右から左へ流れていた。
「...寝てるのか?」
「...ん、すいません。割と...聞いてはいるけど...」
聞いてはいるけど、ハッキリと聞こえないと言いますか。
それすらも最後まで言えずに、すぐにゆらゆらと船を漕ぎそうになる。昨日も夜番だったから、二日連続で完徹はさすがにできない。瞬きする度に頭の霞が濃くなっていくし、世界が揺れるように、意識が揺れる。
それは烝さんも同じはずなんだけど...
眼を開けているのすら億劫で、それでもなんとか瞼をこすると、彼が笑ったような気配がした。
「...いや、なら明日にしよう。明日聞いてくれるか?」
「はいー…全然聞きますよー…」
眠たいあまりに間延びした声を返す。
彼が「そうか」と、今度は息を吐くように笑って立ち上がると、掴まれていた手が持ち上がる。
「朝、起こしに行くから、今日は屯所で寝よう」
「それ、助かりますー...」
弥月は腕を引かれて立ち上がる。そして当たり前のように手を引いて、納戸の方へ連れていってくれる彼に、これを最後にしようと甘えて、瞼を閉じたまま足を動かした。
そして、少しの不安と、物悲しい気持ちを胸に閉じ込める。
夜も深い時間だからか、目が腫れぼったいからか、まぶたが重たすぎて、ともすれば歩きながらでも意識を飛ばせそうだった。
近藤さんが『また帰ってきた時に返してくれれば良いから』と言って、貸してくれた半纏にくるまりながら、トロトロと足を進める。
「寝坊しかねないし……とりあえず行くかー…」
借家へ戻ろう、そうしよう
そう決めて、なにも考えずに草履のある裏口の方へ歩いていた。歩くのにあわせて、キシキシと小さくきしむ床板が、これまたすごく眠りを誘う。
ねむー…
「...ん? だ、わっ!?」
「はわっ!!」
すぐ横から声がしたかと思えば、既にそれにつまづいていた。
この寝ぼけた頭でも、身体が前に傾いた瞬間に手は出たものの、宙で何か......柔らかい棒のようなものを掴んでしまった。それは体重を支えてくれるものではなく、私は全力で前方に倒れていった。
人間の歩く速度は案外速いもので、「ヤバい」とは思ったのだが、もう転ぶ自分を止められなかった。
ダッドタンッ
……え?
けれど、下側から私を包むようなものがあり、勢いよく倒れたはずの私の身体は、硬い床に直接当たることはなく。床と接触する前に、その間に滑り込んできたものが緩衝材になってくれた。
だが、この、私の下敷きにされたもの。何であるかなど考えるまでもなく、形と弾力が人間だった。間違いなく、私がつまづいた人。
「すわっ...すみませっ」
眠さなど吹っ飛んだ。
慌てて腕をついて、上体を起こして気付いた事には。
恐らく、相手の足に引っかかっただけであろうに、どうしてこうなったのか。丁度よく、見事なまでに完璧に、腹や胸の面が、相手を下敷きにしていた。
!? ……ん!?
転んで下敷きにしたことは、もう済んだことだから仕方ない、仕方ないとしよう。仕方ないとして。
弥月は自分の状況を理解して、続けて出るべき謝罪の言葉までもが吹っ飛んだ。
なぜなら、すぐに腕で起き上がって退こうとした私の腰を、上側から支えるようにした…おそらく回された手に、クッと力が入って、この態勢に固定するとの相手からの意思表示があったから。
な、なに!? 何が誰で!?
「すまない、大丈夫か?」
元々目を白黒させてはいたが、自分のすぐ下から掛けられた声を理解して、思考以上に身体が固まった。
烝さん
腹ばいの弥月が、腕で上半身のみを浮かせる下...というよりも、ほぼ真横には山崎の顔があった。暗くてよくは見えないが、声のした位置から、そこに顔があることは間違いない。
その時、私のほどいたままで重力に流れる髪が、私の動作とは関係なく動いて、顔に外気が触れた。視界の中を動く黒い陰に、彼が髪を避けるために触ったのだと理解する。
手を...
「弥月君?」
手を、放して、欲しいんです、けれども…
決して強く抑えつけられている訳ではないのに、上から押さえる手が妙に気になって、腰が持ち上がらなかった。密着するお互いの身体に、唯一距離を保っている頼みの綱は、上半身を支える弥月の腕だけ。
微動だに出来ず、喉を上下させることすら躊躇われた。
馬乗りなど鍛練中ならば希にあること。
だけど、近い……です!!
「大丈夫か?」
気づかわしげな声に、彼に問われていたのだと気付いた。
「あ、はい。おかげさまで…」
「よかった。すまない、寝ないよう立っていたのに、不覚にもうとうとしていた」
「私も寝ながら歩いてたので……あの、手を…」
「手?」
「…手をお放し頂けるととても助かるのですけれども…」
近すぎる距離に、平静を装いながらそう言ったものの、なぜか放してもらえるどころか、がっちりと固定されてしまった。
――っ!? どうして、なぜ、何ゆえ、WHY!?
「局長に話したのか?」
「なにがですか!?」
「君のことだ」
そして声を潜めて「女性だと話したのか」と。
それは元々必要最小限の声で話していたところを、更に小声で話すためか、彼の頭が床から持ち上がって、囁くように言われた。
「話しました、話しましたけど! すいません、それよりも放してください!」
現在進行形で気まずい相手NO1だったのを差し引いても。
所謂、『抱きしめられる』態勢に行き着いているのだと気付いて、恥ずかしさに脚が震える。動けない身体に「離れたい」という思いで頭がいっぱいになって、小声で叫ぶように言った。
訳分かんない、助けて!
「君がここに居たいと言ったのを聞いていた......それがどういう決心だったのか、俺は君のことを分かっていたつもりで、全然分かって無かったんだ...すまない、俺ともきちんと話をさせてくれ」
「放してくれないと無理! お願い放して!!」
彼の話など八割方耳に入ってこなかったが、話をしたい云々のところだけ理解して。耐えきれず、声を大きくして叫んだ。
そうすると、やっと伝わったのか、彼は腰を押さえていた手を放してくれる。
けれど、弥月が転ぶときに掴んだ、棒だと思った彼の腕は、しっかりと彼女の手首を取った。
そうして弥月が膝を支点に尻もちを付くように、足側へズルズルと退くと。当然、掴んでいる腕に引かれて、山崎も膝を突き合わせるようにして座る。
掴まれた手を力なく差し出すような恰好で、弥月は項垂れる。今の一瞬で、残っていた気力を全部持っていかれたような気がした。
何なんですか…
「すまない、俺が間違っていた。
君が“矢代弥月”なことには変わりないのに、俺は君そのものが変わったような気がしていたんだ。
君の思う通り、ここで務めようと思うのなら、君が何者であろうと腕を磨くに越したことはない。それなのに俺は、君が『自分も仲間も守りたいから』と本気で言っていたことすらも忘れて、君との約束を破ろうとしていた。
いつも俺達を気遣いながら関わる君に、とても失礼なことを言ったと思っている......本当にすまない」
山崎は空いている方の拳を膝に当てて、深く頭を垂れる。
彼が話す間に、大方落ち着いた弥月は、頭を下げる彼を困った風に見て、伏し目がちにゆっくりと応えた。
「...ん、と...烝さんが本当にそう思ってくれて、謝ってくれるのは......嬉しいというよりも、申し訳ないですし...
そんな...約束を破るとか...まあ、ちょっと近いのかもしれない、けど......そこまで大それた反省をするほどのことでは...仕方ないっちゃ仕方ないと言いますか...ねぇ?」
同意を求めて小首を傾げたのだが。キュッと私の手首を掴む力が強くなって。
顔を上げて悲しげな表情をする彼と、真っ暗な中で視線が交わる。
「本当にそうだろうか。君にとっては、『仕方がないこと』で終わらせたくなかったのだろう?」
「...えっと、そうとも言いますが......まあ、まあ、ねぇ?あの、私も意味不明に怒ってすみませんでした」
「意味は不明じゃない。君は理由があるから怒ったのだし、俺も自分の言い分があって好き勝手言ってしまった。誤魔化さないでくれ、きちんと話し合いたいんだ。
俺は君の信頼を失ってしまっただろうか」
「え? いえ、そんな事はないですけど......烝さんは、まあ烝さんですし...」
勿論、あの時には怒りも苛立ちも、悲しさもあった。けれど今は彼と向き合っても、自分でも驚くくらいに心は凪いでいる。
なんだかよく分からない状況ではあったが、異常に脈を打った心臓も、なんとか正常になろうとしていた。
そして、いつでも私を気遣いながら、真っ直ぐに向き合おうとしてくれる彼は、間違いなく私の知っている烝さんだ。
お互い意見が食い違って言い合いになったことは、私は自分が、優しい烝さん一人に頼り過ぎていた事に気付いて。彼は自分が過保護になっていたと気付くのに、良い機会だったのだろう。
彼が頼りない私を支えようとしてくれるならば、少しでも早く自立して、支え合えるようになれば良い。
だけど、烝さんに頼り過ぎてはいけない......彼は縋るものに対して、優しすぎるから。
弥月は自分を律するように、一度きつく瞼を閉じる。
自分で歩く
「―――から指南役として、事情を知ってしまった俺より、斎藤さんのような人の方が良いのではないだろうかと思うのだが」
...ん? 最初の方聞き逃したっぽいんだけど、なんでそんな考えに?
「いや、まあ...容赦ないって点では、そうかもしれないけど......烝さんが前みたいに接してくれるなら、全然問題ないんですよ?」
そんなに私は彼に気を遣わせることをしてしまっただろうか。
喧嘩した後に、こんなに下手に出る友達もいなかったものだから、どう関わるべきかに困る。
でもまあ、烝さんは「それなら良いんだが…」と、なにやら逡巡していたあと、一人で何かを納得してくれたので、まあ放っておいても良いだろう。たぶん。
手首をとられたままであったし、特に促されるでもないので、弥月は何とはなしに彼に従うべく、そのまま居座っていると。山崎の話が唐突に変わるものだから、いったい彼はどうしたのだろうと、再び眠気に襲われてきた頭でぼんやりと思う。
「君は幼い頃から、ずっと剣術ばかりしていたのか? 君のいた時代は平穏だと言っていたな。それなのにそこまで剣を究めても、実力が足りないとずっと思っていたのか?」
「…まあ、4歳そこそこからしてましたので、芸歴はそれなりにありますね。
んで、長男が兄達の中では天才的だったので、色々思うところもあったんですけど......それが羨ましくもあり、まあ仕方ないと言いますか...」
「あぁ、待ってくれ。そもそも何人兄弟だったか。家が道場だと言っていたな」
「5人ですよ。全員上で、次男と三男は双子で、末兄は一歳上です。長男は...烝さんと同い年...かな?」
「そうなのか......いや、だがいくら長兄が天才的とはいえ、兄妹で道場を誰が次ぐのかと競い合っていたのか」
「そんなことはなくって......三男は頭の出来が良かったので、早々に引きましたし、次男は遊び半分感がありますし......末席はね、年の差があり過ぎてって感じでですね...」
なぜこんな話題になったのか、頭の隅で疑問に思ったのだが。そのような質問にのらりくらりと答えつつ、彼の話にこくんと時折頷くのは、話への相槌ばかりではなくて。
この眠たすぎる頭では、途中から烝さんの話がところどころ右から左へ流れていた。
「...寝てるのか?」
「...ん、すいません。割と...聞いてはいるけど...」
聞いてはいるけど、ハッキリと聞こえないと言いますか。
それすらも最後まで言えずに、すぐにゆらゆらと船を漕ぎそうになる。昨日も夜番だったから、二日連続で完徹はさすがにできない。瞬きする度に頭の霞が濃くなっていくし、世界が揺れるように、意識が揺れる。
それは烝さんも同じはずなんだけど...
眼を開けているのすら億劫で、それでもなんとか瞼をこすると、彼が笑ったような気配がした。
「...いや、なら明日にしよう。明日聞いてくれるか?」
「はいー…全然聞きますよー…」
眠たいあまりに間延びした声を返す。
彼が「そうか」と、今度は息を吐くように笑って立ち上がると、掴まれていた手が持ち上がる。
「朝、起こしに行くから、今日は屯所で寝よう」
「それ、助かりますー...」
弥月は腕を引かれて立ち上がる。そして当たり前のように手を引いて、納戸の方へ連れていってくれる彼に、これを最後にしようと甘えて、瞼を閉じたまま足を動かした。
そして、少しの不安と、物悲しい気持ちを胸に閉じ込める。