姓は「矢代」で固定
第四話 歩ける道 歩きたい道
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***
近藤さんが視線だけで私に了解を得て、声の主である山南さんに入るよう促す。
「あちらに呼びに来てくれた方がいたのですが……矢代君、私に用事だったのでしょう?」
「さ、なっさん…」
涙でぐしゃぐしゃに濡れた弥月の顔を見て、山南は少し驚いたような表情をしてから、やれやれという風に一つ息をつく。弥月の近くに膝を着をつく。
「いずれこうなるだろうと思っていましたよ。…この早さは意外でしたが、ならば今回の任務は効果覿面(てきめん)と言えますね」
「さっなんさんも……い、要らないって、思ってたんですか…」
「そうなら仕事を任せる訳がないでしょう。…それにしてもひどい顔ですね、そのみっともない涙をお拭きなさい」
喋る度にまたポロポロと零れる涙を、山南は懐から出した紙で優しく拭ってやる。
「まだ、あの事は近藤さんに話していないのですね?」
どうしても言えなかった事。絶望に陥るだろうと知っていて、どうして自ら言えようか。
山南さんの手が頬から離れた時に、スンと鼻を啜ってから一言「はい」と答えると、彼は「話しても良いですね?」と、弥月に確認するように尋ねた。
これを話さなくては、私が吐露した言葉の意味を何一つ、近藤さんは理解できない。なのに、近藤さんはそれでも黙って聞いてくれていた。
いつかは話さなければないから……私が泣いて、近藤さんを困らせているから……山南さんは私の意思を尊重した上で、解決へと導こうとしてくれている。
「近藤さん、少々耳を…」
「ん…?」
山南が近藤の傍へ寄って耳打ちをするのを、弥月は伏し目がちに見ていた。
「――――な、お!?」
「お静かに……人払いはしてありますが、一応……それで、誰が貴女を『要らない』と言ったのですか?」
「…」
要らないと言われた訳では無かった。ただ、認めてほしいままの私を、彼らが受け入れてはくれないと知っただけだ。
「任務は順調と聞いていますが、山崎君ですか?」
近藤さんが困惑顔で、私と山南さんのやり取りを見ている。
「島田君……斎藤君にも会いましたが、彼ですか?」
そう問いが重ねられても、私は答えるべきか否かに迷っていた。
「……まあ誰かは貴女が言わないのならば、それはそれで良しとしましょう。
それで、貴女は自分のことを要らない者だと思うのですか? 何の役にも立たない人間だと?」
「…」
弥月は縮こまって小さく首を振る。
本当は必要とされているかどうかなんて分からない。私の代わりを務められる人がここにはいる。
ただ、自分が役に立たない人間だと思いたくなかった。
それでも口を閉ざしたままの私に、思いがけず口を開いたのは、ずっと様子を見ていた近藤さんだった。
「…矢代君、君が少し前にここを飛び出した理由は、それと関係があるのかな?」
弥月は与えられた話の糸口が分からず、説明を求めるように近藤を見ると、彼は変わらず優しげな眼をしていた。
「平助と喧嘩になったと聞いているが、その時に走ってきた君と、そこの角でぶつかりかけたのを覚えていないか?
俺はあの後、不思議で不思議で仕方がなかったんだ。事の顛末はトシから聞いたが、どうにも納得がいかなかった。どうしてあんなに愁(うれえ)いた表情をしていたのかと」
それは一月ほど前になるだろうか、脱走未遂騒ぎのことだと思い至る。
「あれは…」
また酷く情けない声が出て、鼻を啜ってから一度唾液を飲み下す。それから私が鼻をかむまで、二人は待っていてくれた。
「…あれは違うんです。私が死にたくなくて、殺したくなくて……逃げ回ってたから…」
こんな時ばかり上手く説明できない。片棒を担いでくれた彼等に迷惑をかけたくないのに、近藤さん達に言い訳もしたくなくて、いったいどうしたら良いのだろう。
唇を浅く噛んでから、弥月は再び口を開く。
「駄目なんです……本当は居ないはずの私が、役に立ったら駄目だから…」
なのに「要らない」ことに傷ついている自分が居て。
どんなに綺麗ごとを言っても、結局自分のことしか考えれていない自分に反吐が出る。
独りでは寂しいと、必要とされていたいと、培ってきたものを認めてほしいと……愛が足りないと嘆く子どものように喚き散らす。
誰かのためだけに尽くせる、自分を投げ棄てられる大人になりたかった。
「未来のためなら死んでも良い」なんて、「生きたい」と思っている私が言うにはあまりに脆い決心で。そんなに自分が可愛いのかと、責めてくるのはいつも私。
それは仕方のない事と開き直るには、未来を壊すという代償は大き過ぎる。
「それでも」
居汚い
「それでも、生きたいんです」
それでも死にたくなかった
またハラハラと流れる滴を紙で押さえながら、嗚咽になりそうな籠もる吐息をなんとか逃がす。叫びたい衝動はあるけれど、それは彼らをまた困らせるだけだと分かっていた。
俯く弥月を見ながら、近藤は自分の両膝に拳を当てた。そしてゆっくりと息を吸う。
「君が刀を抜かないのを、俺は悪い事とは思わない。人の命とは須らく尊いものだ。敵味方問わずに人間の命は大切であることを……君が必死に鍛錬を積んで、その木刀一本で示そうとしているように俺は感じている。
思想が対立する争いで、先陣を斬るためにいるこの組織の中では、それを甘いと考える者は多いと思うが………新選組に、大樹公に命を捧げる覚悟のある者でも、生きた人間だ。
皆には自分にも間違いなく貴ばれるべき命があるのだと、俺は分かっていて欲しい」
近藤はそう彼女に語り掛けていたけれど、僅かに畳へと視線を落としていた。そして、顔を上げて弥月を見る。「矢代君」と前に置き、視線を上げた彼女と真っ直ぐに見合った。
「みんなの声の中に、君の明るい声が聞こえると安心するのは俺だけじゃないはずだ。君のような人が笑顔で声をかける、それだけで、人として、人らしく生きていて良いんだと思える者がここには大勢いる」
弥月は驚き、自分はそんなに凄い人間ではないと首を振ろうとしたけれど。
そこで言葉を切った近藤が、その目尻をハの字に下げ、淡く口元に笑みを描くのが、どうしてか痛々しく見えた。
「…だが、力を貸して欲しいと言ったのは、君にとって酷な事だったのだろうな。ここには偶然足止めを食らってしまっただけの君に、俺は無茶なことを言った」
「そっ…」
弥月は思わず声をあげて、違うのだと、貴方は悪くないのだと必死に首を振った。
「違うんです! 本当に、本当に初めてここに来た時に助けてもらったことに感謝してます!
それに私は剣術が好きで、だからここにいるとすごく勉強になるし…みんな厳しいけど、優しくて…」
みんな馬鹿みたいに優しいんだ。
私がいつしか居なくなる存在だと知ってても。
「…そりゃ辛い時もあるけど、誰かが慰めてくれて、元気をくれて……みんなが温かくて、笑って…」
中途半端だと知っていても、仲間だと信じようとしてくれた。
いつだって真っ直ぐに目の前にいる“私”を見ていて。
「…もっと…」
また目頭が熱くなる。
「もっと…」
戦慄いた唇から吐いた呼気で、空気が震える。
「…もっと嫌な所だったら良かったのに…っ」
またボロボロとまた思いの欠片が溢れだした。
みんなが嫌な人間で、一分一秒も一緒に居たくないくらいに大嫌いだったら良かった。ここが大嫌いで、喜んで出て行けるような所だったら良かった。
立場が不利になればいつでも逃げだすつもりでいた。ここを出た後に路銀に困らないようにと、少しの間、居続けることを決めただけだった。
ただ、それを見破られたら困るから、その場しのぎで、自分を仲間だと思い込む。そうして発した言葉は、彼らを信じ込ませるには十分だった。
だけど
だけど、彼らを騙すための絆を示す言葉は、口にする度に私の中で存在を主張していて。自分の言葉に感化されているのは私の方で、どこまでが嘘なのかと。みんなを好きだと思っているのは、嘘じゃないだろうと。
信頼は麻薬のように知らず内に心に入り込んで、いつの間にか、私はそれに応えたいと本当に思っていた。
嫌な任務を続けられたのも、『仕事だと割り切っているから』なんて口では言えても、本心はそんな単純なものじゃなくて…
…私がそうすることで、みんなが助かるのだと知っていたからできる。彼らの役に立てることが嬉しい。
義に報いているなんて高尚なものではなくて、ただ感情でそうしたかった。
顔を覆って嗚咽を漏らしながら涙を流す弥月に、山南は彼女ではなく、どこか遠くを見ながら言った。
「嘘を吐いて、嘘を塗り重ねて、それでも平気な人間がこの世にはいます。その方々はきっと大切にしたい人からも、本当の信頼を得られることはないのでしょう」
それが自分の事だと気付いて、掌の中で顔を歪めた弥月に、山南はスッと顔を向ける。
「貴女はそのような人間ではなかったというだけの事ではありませんか? 人が支え合うことを知っていたのでしょう」
弥月は反射的に顔を上げて山南を見るも、彼は浅く頷くだけで何も言い続けることは無かった。
そして彼の言葉を引き継いだのは近藤だった。
「俺はあの時、君の剣技のことばかりを思っていた……即戦力として、君の力を期待していたんだ。
だけどそうではない、君がこの新選組にもたらしてくれるものに今の俺は期待している。それは俺が、君の本当のあるべき姿を知っても変わらない。
…本来ならばそれを理由に離隊を命じることができるが、もし君がそれを隠して今まで通りここに居たいと望むなら、無茶をしないで欲しいと願うだけだ」
女性として離隊するか、男性として居続けるか
いつだって、選びながら人は生きている。
女であることを主張したいならば、どうしたって今までの通りには務められないのだと。
けれど、それを棄てさえすれば、この剣を、矢代弥月を必要としてもらえるのだと。
ただ、それだけで…これまでと何も変わらないというのに
何が私をここに引き留めるのか……必要なのは逃げる勇気ではないと、最初に思ったのはどうしてだったのだろう。
まだ
そんなこと思ってはいけないとのだと戒めて、気付かなかったふりをして、自分は未来の人間だからと言い訳をして、他人の振りをしてきた。
けれど、目を背けるなと、この気持ちは私を掻き立てる。
「――まだここに居たい…っ」
ごめんなさい
吐露した言葉の重さを、私は知っていた。
「もっと自由にすれば良いと言ったでしょう?」
不意に山南さんから投げられたのは、聞き覚えのある言葉だった。
今再びそれを聞いても、はっきりと意味は分からないが、私がする選択を許すものなのだと感じる。
けれど山南さんから続く言葉は、重い声に乗っていた。
「酷なことを言うようですが、いつ帰れるか見当もない日々に、貴女は生きてさえいれば良いのですか」
「――っ」
言葉に詰まった弥月には気にも留めない様に、山南は「違うのでしょう」と淡々と発した。その鋭い見通すような眼に、弥月はわずかに震撼する。
「ここでも嬉しさや悲しさを感じて生きているはずです。どこで生きても、感じたそれは全て貴女のもので、貴女の一度きりの人生の内の出来事です。
それを知っているから、貴女は生きたいと願い、得た信頼を棄てられない」
それらは全て図星だった。私が自らは口にできない事を、彼は全て知ったように代弁する。
「確かに、人一人が他人の人生を左右することは十分に有り得ますが、それも人間の天命だと私は思います。原因ではありますが、要因足り得ません。
ならば、貴女自身がここに生きる意味を見出しなさい。貴女が元いた世界は未来であると同時に、貴女にとっては過去のことです。貴女自身の未来を望みなさい」
それは前へ進めと
歩みを止めるなと
崩れた落ちた足元が、不恰好ながらも形を取り戻していく気がした。
…否、感じることを諦めなければ、膝を着こうとしなければ、ずっとそこに立てるだけの小さな踏み場があった。それは手さぐりにしか進めない道なのだろう。
膝の拳を強く握る。
顔を上げて、真っ直ぐに山南の目を見返す。
眼鏡の奥で、彼が笑ったような気がした。
「はい…!」
震える声だったけれど、腹の底から吐きだした。
「…ならば俺から、今一度改めて言おう」
近藤は局長として令する時と同じく、力強い声で言った。
「君の信念が許す限り、生きて、俺達に力を貸して欲しい」
ぐっと唇を食んだ。
僅かに身を引いてから、畳に指を着いて深々と頭を垂れる。
誰に見えなくとも、その瞳は揺るがない。
今まで本気でこの言葉を言ったことがあっただろうか。
「…精一杯、務めさせて頂きます」
一緒に笑いあえる彼らと、もう少しここに居たいと思った。まだここに居ることを私は選んだ。
全てを知っていても、この人達が私を必要としてくれている。くじけそうになる私に叱咤をしながらも、私の未来に続きを望んで良いのだと支えてくれる。
私がこの道を歩き続けたいと願うから
近藤さんが視線だけで私に了解を得て、声の主である山南さんに入るよう促す。
「あちらに呼びに来てくれた方がいたのですが……矢代君、私に用事だったのでしょう?」
「さ、なっさん…」
涙でぐしゃぐしゃに濡れた弥月の顔を見て、山南は少し驚いたような表情をしてから、やれやれという風に一つ息をつく。弥月の近くに膝を着をつく。
「いずれこうなるだろうと思っていましたよ。…この早さは意外でしたが、ならば今回の任務は効果覿面(てきめん)と言えますね」
「さっなんさんも……い、要らないって、思ってたんですか…」
「そうなら仕事を任せる訳がないでしょう。…それにしてもひどい顔ですね、そのみっともない涙をお拭きなさい」
喋る度にまたポロポロと零れる涙を、山南は懐から出した紙で優しく拭ってやる。
「まだ、あの事は近藤さんに話していないのですね?」
どうしても言えなかった事。絶望に陥るだろうと知っていて、どうして自ら言えようか。
山南さんの手が頬から離れた時に、スンと鼻を啜ってから一言「はい」と答えると、彼は「話しても良いですね?」と、弥月に確認するように尋ねた。
これを話さなくては、私が吐露した言葉の意味を何一つ、近藤さんは理解できない。なのに、近藤さんはそれでも黙って聞いてくれていた。
いつかは話さなければないから……私が泣いて、近藤さんを困らせているから……山南さんは私の意思を尊重した上で、解決へと導こうとしてくれている。
「近藤さん、少々耳を…」
「ん…?」
山南が近藤の傍へ寄って耳打ちをするのを、弥月は伏し目がちに見ていた。
「――――な、お!?」
「お静かに……人払いはしてありますが、一応……それで、誰が貴女を『要らない』と言ったのですか?」
「…」
要らないと言われた訳では無かった。ただ、認めてほしいままの私を、彼らが受け入れてはくれないと知っただけだ。
「任務は順調と聞いていますが、山崎君ですか?」
近藤さんが困惑顔で、私と山南さんのやり取りを見ている。
「島田君……斎藤君にも会いましたが、彼ですか?」
そう問いが重ねられても、私は答えるべきか否かに迷っていた。
「……まあ誰かは貴女が言わないのならば、それはそれで良しとしましょう。
それで、貴女は自分のことを要らない者だと思うのですか? 何の役にも立たない人間だと?」
「…」
弥月は縮こまって小さく首を振る。
本当は必要とされているかどうかなんて分からない。私の代わりを務められる人がここにはいる。
ただ、自分が役に立たない人間だと思いたくなかった。
それでも口を閉ざしたままの私に、思いがけず口を開いたのは、ずっと様子を見ていた近藤さんだった。
「…矢代君、君が少し前にここを飛び出した理由は、それと関係があるのかな?」
弥月は与えられた話の糸口が分からず、説明を求めるように近藤を見ると、彼は変わらず優しげな眼をしていた。
「平助と喧嘩になったと聞いているが、その時に走ってきた君と、そこの角でぶつかりかけたのを覚えていないか?
俺はあの後、不思議で不思議で仕方がなかったんだ。事の顛末はトシから聞いたが、どうにも納得がいかなかった。どうしてあんなに愁(うれえ)いた表情をしていたのかと」
それは一月ほど前になるだろうか、脱走未遂騒ぎのことだと思い至る。
「あれは…」
また酷く情けない声が出て、鼻を啜ってから一度唾液を飲み下す。それから私が鼻をかむまで、二人は待っていてくれた。
「…あれは違うんです。私が死にたくなくて、殺したくなくて……逃げ回ってたから…」
こんな時ばかり上手く説明できない。片棒を担いでくれた彼等に迷惑をかけたくないのに、近藤さん達に言い訳もしたくなくて、いったいどうしたら良いのだろう。
唇を浅く噛んでから、弥月は再び口を開く。
「駄目なんです……本当は居ないはずの私が、役に立ったら駄目だから…」
なのに「要らない」ことに傷ついている自分が居て。
どんなに綺麗ごとを言っても、結局自分のことしか考えれていない自分に反吐が出る。
独りでは寂しいと、必要とされていたいと、培ってきたものを認めてほしいと……愛が足りないと嘆く子どものように喚き散らす。
誰かのためだけに尽くせる、自分を投げ棄てられる大人になりたかった。
「未来のためなら死んでも良い」なんて、「生きたい」と思っている私が言うにはあまりに脆い決心で。そんなに自分が可愛いのかと、責めてくるのはいつも私。
それは仕方のない事と開き直るには、未来を壊すという代償は大き過ぎる。
「それでも」
居汚い
「それでも、生きたいんです」
それでも死にたくなかった
またハラハラと流れる滴を紙で押さえながら、嗚咽になりそうな籠もる吐息をなんとか逃がす。叫びたい衝動はあるけれど、それは彼らをまた困らせるだけだと分かっていた。
俯く弥月を見ながら、近藤は自分の両膝に拳を当てた。そしてゆっくりと息を吸う。
「君が刀を抜かないのを、俺は悪い事とは思わない。人の命とは須らく尊いものだ。敵味方問わずに人間の命は大切であることを……君が必死に鍛錬を積んで、その木刀一本で示そうとしているように俺は感じている。
思想が対立する争いで、先陣を斬るためにいるこの組織の中では、それを甘いと考える者は多いと思うが………新選組に、大樹公に命を捧げる覚悟のある者でも、生きた人間だ。
皆には自分にも間違いなく貴ばれるべき命があるのだと、俺は分かっていて欲しい」
近藤はそう彼女に語り掛けていたけれど、僅かに畳へと視線を落としていた。そして、顔を上げて弥月を見る。「矢代君」と前に置き、視線を上げた彼女と真っ直ぐに見合った。
「みんなの声の中に、君の明るい声が聞こえると安心するのは俺だけじゃないはずだ。君のような人が笑顔で声をかける、それだけで、人として、人らしく生きていて良いんだと思える者がここには大勢いる」
弥月は驚き、自分はそんなに凄い人間ではないと首を振ろうとしたけれど。
そこで言葉を切った近藤が、その目尻をハの字に下げ、淡く口元に笑みを描くのが、どうしてか痛々しく見えた。
「…だが、力を貸して欲しいと言ったのは、君にとって酷な事だったのだろうな。ここには偶然足止めを食らってしまっただけの君に、俺は無茶なことを言った」
「そっ…」
弥月は思わず声をあげて、違うのだと、貴方は悪くないのだと必死に首を振った。
「違うんです! 本当に、本当に初めてここに来た時に助けてもらったことに感謝してます!
それに私は剣術が好きで、だからここにいるとすごく勉強になるし…みんな厳しいけど、優しくて…」
みんな馬鹿みたいに優しいんだ。
私がいつしか居なくなる存在だと知ってても。
「…そりゃ辛い時もあるけど、誰かが慰めてくれて、元気をくれて……みんなが温かくて、笑って…」
中途半端だと知っていても、仲間だと信じようとしてくれた。
いつだって真っ直ぐに目の前にいる“私”を見ていて。
「…もっと…」
また目頭が熱くなる。
「もっと…」
戦慄いた唇から吐いた呼気で、空気が震える。
「…もっと嫌な所だったら良かったのに…っ」
またボロボロとまた思いの欠片が溢れだした。
みんなが嫌な人間で、一分一秒も一緒に居たくないくらいに大嫌いだったら良かった。ここが大嫌いで、喜んで出て行けるような所だったら良かった。
立場が不利になればいつでも逃げだすつもりでいた。ここを出た後に路銀に困らないようにと、少しの間、居続けることを決めただけだった。
ただ、それを見破られたら困るから、その場しのぎで、自分を仲間だと思い込む。そうして発した言葉は、彼らを信じ込ませるには十分だった。
だけど
だけど、彼らを騙すための絆を示す言葉は、口にする度に私の中で存在を主張していて。自分の言葉に感化されているのは私の方で、どこまでが嘘なのかと。みんなを好きだと思っているのは、嘘じゃないだろうと。
信頼は麻薬のように知らず内に心に入り込んで、いつの間にか、私はそれに応えたいと本当に思っていた。
嫌な任務を続けられたのも、『仕事だと割り切っているから』なんて口では言えても、本心はそんな単純なものじゃなくて…
…私がそうすることで、みんなが助かるのだと知っていたからできる。彼らの役に立てることが嬉しい。
義に報いているなんて高尚なものではなくて、ただ感情でそうしたかった。
顔を覆って嗚咽を漏らしながら涙を流す弥月に、山南は彼女ではなく、どこか遠くを見ながら言った。
「嘘を吐いて、嘘を塗り重ねて、それでも平気な人間がこの世にはいます。その方々はきっと大切にしたい人からも、本当の信頼を得られることはないのでしょう」
それが自分の事だと気付いて、掌の中で顔を歪めた弥月に、山南はスッと顔を向ける。
「貴女はそのような人間ではなかったというだけの事ではありませんか? 人が支え合うことを知っていたのでしょう」
弥月は反射的に顔を上げて山南を見るも、彼は浅く頷くだけで何も言い続けることは無かった。
そして彼の言葉を引き継いだのは近藤だった。
「俺はあの時、君の剣技のことばかりを思っていた……即戦力として、君の力を期待していたんだ。
だけどそうではない、君がこの新選組にもたらしてくれるものに今の俺は期待している。それは俺が、君の本当のあるべき姿を知っても変わらない。
…本来ならばそれを理由に離隊を命じることができるが、もし君がそれを隠して今まで通りここに居たいと望むなら、無茶をしないで欲しいと願うだけだ」
女性として離隊するか、男性として居続けるか
いつだって、選びながら人は生きている。
女であることを主張したいならば、どうしたって今までの通りには務められないのだと。
けれど、それを棄てさえすれば、この剣を、矢代弥月を必要としてもらえるのだと。
ただ、それだけで…これまでと何も変わらないというのに
何が私をここに引き留めるのか……必要なのは逃げる勇気ではないと、最初に思ったのはどうしてだったのだろう。
まだ
そんなこと思ってはいけないとのだと戒めて、気付かなかったふりをして、自分は未来の人間だからと言い訳をして、他人の振りをしてきた。
けれど、目を背けるなと、この気持ちは私を掻き立てる。
「――まだここに居たい…っ」
ごめんなさい
吐露した言葉の重さを、私は知っていた。
「もっと自由にすれば良いと言ったでしょう?」
不意に山南さんから投げられたのは、聞き覚えのある言葉だった。
今再びそれを聞いても、はっきりと意味は分からないが、私がする選択を許すものなのだと感じる。
けれど山南さんから続く言葉は、重い声に乗っていた。
「酷なことを言うようですが、いつ帰れるか見当もない日々に、貴女は生きてさえいれば良いのですか」
「――っ」
言葉に詰まった弥月には気にも留めない様に、山南は「違うのでしょう」と淡々と発した。その鋭い見通すような眼に、弥月はわずかに震撼する。
「ここでも嬉しさや悲しさを感じて生きているはずです。どこで生きても、感じたそれは全て貴女のもので、貴女の一度きりの人生の内の出来事です。
それを知っているから、貴女は生きたいと願い、得た信頼を棄てられない」
それらは全て図星だった。私が自らは口にできない事を、彼は全て知ったように代弁する。
「確かに、人一人が他人の人生を左右することは十分に有り得ますが、それも人間の天命だと私は思います。原因ではありますが、要因足り得ません。
ならば、貴女自身がここに生きる意味を見出しなさい。貴女が元いた世界は未来であると同時に、貴女にとっては過去のことです。貴女自身の未来を望みなさい」
それは前へ進めと
歩みを止めるなと
崩れた落ちた足元が、不恰好ながらも形を取り戻していく気がした。
…否、感じることを諦めなければ、膝を着こうとしなければ、ずっとそこに立てるだけの小さな踏み場があった。それは手さぐりにしか進めない道なのだろう。
膝の拳を強く握る。
顔を上げて、真っ直ぐに山南の目を見返す。
眼鏡の奥で、彼が笑ったような気がした。
「はい…!」
震える声だったけれど、腹の底から吐きだした。
「…ならば俺から、今一度改めて言おう」
近藤は局長として令する時と同じく、力強い声で言った。
「君の信念が許す限り、生きて、俺達に力を貸して欲しい」
ぐっと唇を食んだ。
僅かに身を引いてから、畳に指を着いて深々と頭を垂れる。
誰に見えなくとも、その瞳は揺るがない。
今まで本気でこの言葉を言ったことがあっただろうか。
「…精一杯、務めさせて頂きます」
一緒に笑いあえる彼らと、もう少しここに居たいと思った。まだここに居ることを私は選んだ。
全てを知っていても、この人達が私を必要としてくれている。くじけそうになる私に叱咤をしながらも、私の未来に続きを望んで良いのだと支えてくれる。
私がこの道を歩き続けたいと願うから