姓は「矢代」で固定
第三話 救われるもの
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文久三年十月十八日
カスカス、コツ…カスカスカスカス…
「…」
コツ、カスカス…カスカスカス……
弥月は無心で固形墨を擦る。途中で、もう出来たかな?と紙に垂らしてみて、墨と水が分離して滲むのにがっかりしてから、再び硯に固形墨を擦りつける。
私が字の練習するときは「これでいいや」と思うが、今はこれが仕事だ。完璧な墨を山南さんにお届けする。
「……しっかし、ねぇ」
紙にものを書く時、この作業をしている時間が長過ぎて、実際字を書いてる時間は半分以下じゃないかと思う。なんて不便な時代。
「絶対、墨滴作ったらボロ儲け」
脱走後の転職を見つけた。墨滴を作って一山当てよう。
カスカスカスカス……
カスカス……
カスカスカスカスカスカスカスカスカスカス……
ポタッ
「――っ、できた!!」
とろりと滑らかな墨滴が完成。これを乾かぬ内に、山南さんの元へ宅配するまでが、本日最初の任務。
場所は普段は立ち入り禁止の区画、蔵の一角。その蔵の横の部屋に、山南さんは居るとのことである。
弥月はその部屋の戸より、少し遠くの位置から「山南さん、できましたー!」と声を張って伝える。
ガコッ…ガラッ
「ご苦労様です、君……何故そんなに離れているのですか?」
…突っ張り棒してるよ
「お運びしたいのは山々ですが、室内を見ても問題ないという保証がないので、絶対にそこに近づきませんという、とてもとても深い事情です」
今まで、ここに近づいただけで咎められた平隊士もいたのに、敢えて「こちらに居ますので」と墨を運びに来さされた。
この状況、ハンパなく怖い
「なるほど……少々お待ちなさい」
そう言うと、山南さんは室内に引き返した。そして、バサリバサリカチャカチャと何かを動かす音がする。
彼が再び部屋から出てきて、今度は外鍵を閉める。因みに、屯所内で鍵がついているのは金庫と、ここと隣の蔵のみ。
「お待たせしました、それでは私の部屋に行きましょうか」
先を行く山南さんの後ろに付いて、やっぱり戸に近づかなくて良かったと思った。
「次は、この本の整理を頼みたいと思います」
この方見かけによらず、本の扱いが大雑把である。
読んだ時に分類分けはするものの、使えると思ったら机の片隅に積んでいく。この時代には本に背表紙など無いが、令和の世なら『どこにあるか分かるように、方向は揃える』とか言いながら、延々山を高くしていく類の人間だろう。
よく言えば研究肌っぽいが、それが五山もあったら、流石に散らかっているとしか言い様がない。
「これ、重要な機密書類とか挟まってたりしませんか?」
その一山を指差しながら弥月がそう言うと、山南は少し苦笑いする。
「それは流石にありません。一般の書物ばかりです。必要と思った個所には印を打ってあるので、書き写しをお願いしても宜しいでしょうか」
「了解でーす」
山南さんと背中合わせに、小姓用に用意された文机の前に座って、薬学書、蘭学書等が主だと思われる本の、題目と内容を黙々と書き写す。滅多に使わない筆に、墨がのり過ぎて字が潰れたりするが……まあ、読めたら良い。
そうして一刻足らずだろうか、二山目を片づけるための、最後の一冊を手に取った。
「ん…豊玉発句集?」
見たことがある題名の冊子を発掘した。
パラパラと捲ると、間違いなく、監禁されている時に開いたものだ。沖田さんが持って来て、字を読めないことを馬鹿にされた記憶がある。
「…こんな所に」
肩越しに私の手元を見ていた山南さんに気付いて、それを軽く持ち上げながら振り返る。
「これ、山南さんのだったんですか?」
「いえ…」
それだけ言って、何が可笑しいのか、スッと目を細めた彼に、弥月は首を傾げる。
「土方君の所へ返してあげて下さい」
「土方さんのですか?」
「ええ。丁度良いので、休憩にしましょう。土方君にそれを届けた帰りに、お茶を煎れて来て貰えますか?」
「はーい」
弥月はそれを手にもって出かける。歩きながら、何となくそれをパラパラと捲った。
前は首を捻ってカタコトで読んだが、今なら五七五調で読みやすく、分かりやすい字だと思える。そういえば、土方さんの字は綺麗だと左之さん達が言っていた。
ということは、土方さんが書いたもの?
こういうのって、こう芭蕉さんの蛙ポチャ的な、情景が思い浮かんでしみじみとしたらいいんだよね、たぶん。
立ち止まってサッと目を通す。
んー………
…
………んー?
正直に言おう、しみじみできない。寧ろ、なんか男臭いというか、庶民の男の暮らし的なものが多々存在する。
まあ短歌も「ナゾナゾみたいだな」と思うくらいの実力だから、そういう才は無いだろうとは思うが。
これはあれかな、お茶のペットボトルの裏で募集してるやつ…
にしては、シュールな笑いを取っているようにも思えなくて、また弥月は首を傾げた。
『さしむかふ心は清き水かゞみ』
「…ん。これはなんかカッコ良い」
一番最初にどどんと書かれているから、たぶん彼にとって別格なのだろう。うん、良いと思います。
「……あ、これが良い」
『三日月の水の底照る春の雨』
綺麗な風景を想像した。雨が降っているのに月があるのが少し不思議で、幻想的。『梅は梅』とか言ってる人と同じとは思えない。他の『菜の花』とか『白牡丹』なんかも綺麗で良いかも…
「…あと、これね。もはやこっちが照れるわ」
『しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道』
美しく踊った字をじっと見て、少しずつ込み上げる笑い。笑ってはいけないと思いつつ、声を殺して肩を震わせる。
ごめん、土方さん……これちょっと笑える。乙女か。あんた乙女だ
いったいどんな顔をしてこれを書いたのか。いや、きっと恋に悩んで、傷心で書いたのだろうから、笑ってはいけないのだ…ぶくく。
ひとしきり笑いを納めてから、ちょっと時間を使い過ぎたと、パタンとそれを閉じる。すると、本の裏に『豊玉』と端に書かれてあるのに気付いた。
「これは……あれだな。小学生が持ち物に名前書くやつ」
そう呟いてみてから、違うか、と思う。
これはあれだろう、なんでも鑑定される番組で、壺とか掛け軸に書いてある奴だ。つまり土方さんのペンネーム、もとい……もとい何て言うんだろう。
「ほーぎょっくさん! あっそびまっしょ!!」
ゴッガタタッ……スパンッ
「てめぇっ何で…!」
「はいっ、山南さんからのお届け物です!」
両手で差し出す。すると彼はこれ以上ない程に目を剥いて、目にも留まらぬ速さで、それを私から取り上げた。
「――っこれ何処にあった!?」
「山南さんの部屋です」
「総司の奴…!!」
なんで沖田さん?と思ったものの、そういえば最初に私にこれを見せたのも沖田さん。彼が勝手に持って行ったのかもしれない。
「…てめえ、中見たか?」
「見てませんよ」
彼が『見てないよな』の同意を求めているのは明白で、咄嗟にそう言った。
しかし、キュッと締めた口だったのが、一瞬笑いがぶり返したために、鼻から笑いそうになって、頬がつり上がる。
「…見たんだな?」
「ぶはっ!すいません、良かったです!」
笑いながら言ったら、怒られるのかと思ったのだが。存外、雷が落ちることもなく。
土方さんは何故かどうにも返答に困っているようだったので、ついでに二、三の句に着いて感想を言ってみたりした。主にお世辞。
そうして「以上です!」と私が感想を言い終えた後も、しばらく土方さんは歯にものが挟まったような顔をしていて。
えーっと…
「豊玉さーん」
「………他言すれば、容赦しない」
そんな事言われても、やっとこさ決まり悪そうな顔で吐き出した言葉がそれで。気恥ずかしそうに視線を合わせずに、その色白の頬を染められたら、全く怖くは無いわけで。
弥月は感想を言わなかった『恋の道』についての、思い出し笑いを堪えながら、「了解です」と敬礼をして踵を返したのだった。