姓は「矢代」で固定
第十二章 歪な情誼
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弥月side
大坂を出た後は京の市中へ赴き、千姫がよく使っているという上七軒の揚屋で一泊した。
女二人連れで揚屋で一泊だなんて、訳の分からない客だろうと思うことなかれ。女将達には、どこの大名様かと思うくらいに丁重に持て成された。
そして次の日の朝、千姫は思いついたように「今日は帝に会いに行こうかしら」なんて言うから、約束もなしに天子様に会いに行ける、改めて彼女の身分の高さと、その大胆さに感心する。
「千姫って、“思いついたら即行動”って感じですね」
「善は急げってことよ。このご時世、ぼやぼやしてたら期を逃すわ」
そうして今日は、千姫は煌びやかな駕籠で御所に乗りつけた後、千姫が拝謁している間、私は禁裏の内門の外で待機していた。
先日の【蛤御門の変】の際に、このあたりまでならば大体把握しているから、そこまで目新しい物はないが、すでに門は全て修理が終わっているというから、流石だなあと思ったりしていた。
そうして時間を持て余して、昨日の事を思い出す。
今でもずっと毎朝、朝日に向かって顕明連を三度は振ってみているけれど、さっぱり何も起こらなくて、やっぱり叩き折ってやろうかと日々思うことは言わずもがな。
けれど、昨日の坂本さんの話を聞いてから、考えていることがある。
彼の妻の名前が、やはり『梢さん』だった。そして、寺田屋に『お竜さん』という女性は別にいて、彼と知り合いではあったが、そういう関係ではなかった。
このようにして、私が知っている歴史との差に、世界を見分ける手がかりが散りばめられているのではないかと。
思い出せ
新選組はできてから五年程で終わりを迎える。もう一年以上は経った。
坂本龍馬は明治を見なかったはずだ。その前に暗殺されるはずだ。
二、三年の内に、彼が『梢さん』と別れて、『お竜さん』と再婚する可能性は……限りなく低いのではないだろうか
だけど…
この僅かな矛盾に…確かじゃない情報に、私は全てを委ねるのか…?
これだけで別の世界だと、決めつけてしまうのか。都合の良いように解釈し、高を括って、未来の大切なものを失ってしまうのではないか。
…これじゃ足りない。まだ、賭けられない…
未来に帰りたい、それは変わらない。
だけど、ここはもう別の世界であってほしい。そうしたら、私は“私が生きてきた未来”に縛られず、私が“今”を自由に生きることを許されるはずだ。
『もっと自由にすれば良いと言ったでしょう』
ずっと“未来”に怯えて、手さぐりで進んでいた。
けれど、もう少しで“今の私が生きていきたい未来”を望んでいける気がした。
不意にキィと門にある小窓が空いて、門の内側と外側で門兵がやりとりをすると、徐に内側の錠が外れる音がして、勝手口がゆっくりと開く。
弥月は気付かぬうちに固く握っていた拳を解いて、衛兵に伴われて内門から出て来た千姫に、ニコリと笑いかけた。
「ななしちゃん、お待たせ」
「おかえりなさい。特に問題はなさそうですね」
「それはそうよ。ここでは血は不浄だから御法度よ? 何かする人なんてそうそう居ないわ。
だから荷物置いて、一緒に来ればよかったのに。滅多に会えるものじゃないわよ?」
「興味はありましたけど、手荷物検査はされたくなかったので」
千姫は無条件で帝を御拝顔できるらしいが、私はそうはいかない。
今日も今日とてそこここに暗器を仕込んでいるから、調べられたら逆に不審者丸出しである。そして被衣まで被って顔を見せない不審者が、御所の門の内に入れて貰えただけでももはや奇跡。千姫様のご威光の賜物だ。
そこからまた衛兵に伴われて、御所の外門をくぐり、二人は帰路へ着く。駕籠は御所から見えなくなる鴨川の向こうで降ろしてもらった。
「これなら日暮れまでに着けるわね」
「…千姫って、健脚ハンパないですね」
「競争してみる?」
「…本気で言わないでください」
その気になれば勝てるだろうけれど、それじゃ護衛として付いて来た意味がないだろう。
「弥月ちゃんって、時々ほんとに真面目よねぇ」
「私、これ、一応仕事のつもりでいるので」
「ほら、そういうところ」
クスクスと笑われて、弥月は肩を竦める。
「私がこれ以上のお気楽極楽とんぼなら、とっくに物見遊山でペルリに会いに行ってますよ。折角だから黒船とか見てみたい」
「あら、ペルリさんはもうお亡くなりよ」
「あ、そうなの?」
「ええ。でも、昨日、坂本さん達が言っていた神戸の海軍操練所って言うのも、前々から一回見に行かなきゃって、私も思ってたから……今から行く?」
「…一回帰って、お菊さんに相談してからにしましょうか」
「二度手間だわ」
千姫はムゥと可愛らしく頬を膨らませるが。
昨日からの外出だって、お菊さんとの相談なく出て来たというのに。今頃、里にいない千姫をきっと心配している。
そうして北大路を通りすぎ、人気も民家もすっかりなくなった頃。
私たちの行く先を遮るように立ちはだかる、帯刀した男達が現れる。気付けば挟まれるようにして、後ろにも男が二人いた。
こういう場面は何度遭遇しても、その不穏な空気に慣れることなどなく、弥月はピリと気を鋭くして、千姫へと目配せする。
「危害は加えぬ。一緒に来てもらおう」
…なに?
危害を加えない宣言をする敵など、未だ聞いた事がないので、すごく違和感を覚えた。
「よくあるのよ、誘拐」
「…よく遭ったら駄目でしょうが」
なにを呑気な
狙われている本人がこの調子では、お菊さんもさぞ苦労したことだろう。そりゃ大人しくしていろとも言いたくなる。
だが、彼女が冷静なおかげで、状況把握はできた。これは、先見の力をもつ千姫を狙った誘拐なのだろう。
「弥月ちゃん、お任せして大丈夫かしら?」
「ええまあ…」
被衣の中で、隠し持っていた小太刀を握る。
ただ、おそらく敵の数は五人……私一人ならまだしも、千姫を庇いながら戦うには分が悪い。いくら彼女の能力を狙った誘拐とはいえ、本当に危害がないとも限らない。
「…あっちの神社か…遠いですが、人の居る御所の方にでも走ってもらって良いですか?」
「お安い御用よ。応援も頼んでくるわね」
「ふふっ…頼もしい姫様ですね。んじゃあ、左開きますよっ!」
勢いよく背後を振り返り、左手前にいる男の柄にある手を押さえて、顎を拳で突き上げ、もう一人の方へと蹴り飛ばす。そうして空いた左側を、千姫が駆けて行く足音を聞いた。
「追え!!」
「おっと!」
私を無視して千姫を追いかけようとする面々に、被衣をバサリと大仰に取って、目を向けさせる……ついでに、ひどく動き辛いので、(恥ずかしげもなく)着物の裾をカッ開いた。
そして、被衣の中に隠し持っていた小太刀を抜き、男達の前に走り出(い)でる。
すると、女の私が太刀を構えるなど思っても見なかったのか、男達は二の足を踏んだが、指揮官であるらしい男が「構うな」と言ってのけた。
「あの女さえ無事であれば、そっちは斬っても構わん!」
「はっ、マジで!?」
『危害は加えぬ』とか格好いいこと言ってたじゃないか、そこの禿げ!
禿げじゃなくて月代だと、源さんが怒りそうだが、それはまあいい。
指揮官にそう言われても、女の私を斬ることに多少の躊躇があるらしい男達は、抜刀したりしていなかったりして、私の横を通りぬける隙を伺っているらしい。そして満を持してとでもいうように、一斉に飛び出してきたのは良いが。
「行かせるわけ、ないっ、でしょうが!」
最初に手を出した二人共が、当然復活していて。
次の一人目の迫る手を避けて、その腕に一太刀入れたのは良いが、二人目と刃を交えると、他の奴らが通り過ぎようとしているのが目の端に移る。
「――ぁあもうっ!」
いつものように、全員が私を殺すことを目標にしている訳ではないから面倒だ。五人同時に足止めすることのなんと難しいことか。
あと、脇差ほどの長さしかない小太刀では、圧倒的に分が悪い。やはりどうせ隠し持つなら、いつもの太刀にしておけば良かった。
だが、そんな後悔は先に立たず、交わった刃がギリギリと音を立てず哭いていた。
「ん゛ん…っ」
押されてググッと刃が顔に近づき、弥月は表情を歪める。すると、男はにやりと下卑た笑いを見せ、舌をなめずったその瞬間に、弥月は右膝を屈伸させ…股間を、情け容赦なく膝で蹴り上げた。
「――」
声も出ないらしい蹲る男の、両足の踵の腱を斬る。
「演技だよ、ば―――か」
たとえ得物が不利でも、あの程度の剣圧に押し負けるわけがない。副長助勤なめんな。
そして袂から苦無を抜きだして、前を走る男の背に向かって投げた。
シュッ
カラン
――ッあ゛ああぁぁぁ!こんな時にノーコンな自分っ、マジで呪う!!!
走った方が早いし、確実
そう思って全力疾走。腹が立つことに……いや、平等に吹いてるから問題はないのだが…向かい風が吹いていた。あ、苦無当たらないのこれのせいかも!
一番後ろの男に追いつくと、斜め後ろから体当たりして、その辺に転がした…つもりだったが、予定より勢いよく飛んで行ってしまい、そこには川があった。「わ、ああぁぁ」と聞こえた悲鳴に、思いがけずゾッとした。
一昨日の雨のせいで高野川は増水していて、いつもより随分と轟々と流れているが……彼が助かることを祈る。
すぐに身体を起こして、更に追いかけ、遠くの先を走る千姫の後姿を目に捉えたが、まだ十分に距離があって、「流石だ」ちょっと感心した。
後ろの男の悲鳴にわずかに足が緩んでいたらしい四人目は、追い抜きざまに、苦無を大振りに振って胴に刺す。すでに戦闘が始まっているというのに抜刀していないとは、なんと呑気な男だろうか。
そして最後の男は真後ろにいたはずの仲間の悲鳴を聞いて、抜刀して立ち止まったので、私も間合いをとって足を止めた。
今更ながら、誰かの太刀を奪ってこなかったことを後悔するが、ここで背を向けるべきではない。後はこの男さえ止めれば、千姫はどこかへ逃げ込んでいてくれるはずだから。
「―――う゛っ!?」
痛…っ
不意に脚に痛みが走り、右のふくらはぎを庇うように体勢が崩れる。
カラン
「…っ」
しかし、膝を着くことなく立ち続け、敵との距離を取りながらわずかに体の向きを変え、後ろに目を遣る。
すると、苦無で腹を刺したはずの男が近くにいて、憎々しげな表情をして太刀を抜いた。
視線を動かして地面を見ると、足元には苦無が一つ落ちている。
私の…!
ギリッと歯を食いしばり、睨み返す。
しかし、先頭の男が動く気配にハッとして、振り返りながら防ぐように小太刀を構える。
「死ねええぇぇぇ!!!」
ガキンッ
―――しまった…っ!!
完全に受け止めてしまった。受け流すべきところだったのに。
どうにかして交わそうにも、相手は放してはくれず、「殺れ!」ともう一人へ叫んだ。
「よくも、このアマ…っ!死ね!!!」
「―――くそっ!!」
背後から上段に振り上げる男の太刀を睨み、自分の詰めの甘さを心底嫌になりながら、頭から真っ二つに斬られることを覚悟する。
千姫…逃げて!!
キンッ
振り下ろされた刀は、私の頭上で止まった……否、止められていた。間に入った一本の刀によって。
ビュウゥ...
強い風が吹き、衣服がはためく音がした。
不穏な曇り空の中、弥月の眼に映ったのは、浅葱色の羽織。
見慣れた、浅葱色のダンダラ模様
あぁ
それは一瞬のことだったが、随分と長い時間に感じられた。
重苦しい曇が覆う空の下、ここにだけ光が差したような気がした。
そして悟る……私はずっと、これが見たかったのだと。
私は好きなんだ
彼らのことが好きなんだ
どうしようもなく、心が震えた。
その剣の主が誰であるか、確かめるべく顔を向ける前に、その男の声がする。
「君、邪魔だからその辺の隅にでも退いててくれる。事情は後で訊かせてもらうから」
沖田さん
声ですぐに分かったけれど、返事をするべきか、しても良いものか判断がつかなかった。ここにいるのが、矢代弥月だと彼は分かっているのだろうか。
それら全てを考えて、声を出さなかった理由をつけたのは、寧ろずっと後の事。
にわかに「新選組…っ!」と慄いた男の剣を押し返し、私は脚の痛みを堪えて、沖田さんと背中合わせに小太刀を構えていた。
思いがけず、口元に笑みを浮かぶ。
あぁ、どうしよう…
私、抜刀してるのに、こんなにワクワクしてる
「…何」
沖田さんは、背後に立つ私にそう問うた。
彼は「退いてて」と言ったのだから、協力は要らないという意味だと知っていたが。
私は無言で、それを拒否した。
「――っアアァッ!!」
けれど、どうしても気分が高揚していて、咆哮とともに、対峙している相手へと突進する。
得物が短いだけ軽い分、容易に振り回すことが出来るが。長さが無い分、いつもより間を詰めて攻めなければならず。しかし、大太刀とまともに交わったら押し負けるため、なんとか受け流して、気を窺った。
そのギリギリの応酬に、沖田さんに任せとけばよかった…と、思わないでもなかった。
***
弥月side
大坂を出た後は京の市中へ赴き、千姫がよく使っているという上七軒の揚屋で一泊した。
女二人連れで揚屋で一泊だなんて、訳の分からない客だろうと思うことなかれ。女将達には、どこの大名様かと思うくらいに丁重に持て成された。
そして次の日の朝、千姫は思いついたように「今日は帝に会いに行こうかしら」なんて言うから、約束もなしに天子様に会いに行ける、改めて彼女の身分の高さと、その大胆さに感心する。
「千姫って、“思いついたら即行動”って感じですね」
「善は急げってことよ。このご時世、ぼやぼやしてたら期を逃すわ」
そうして今日は、千姫は煌びやかな駕籠で御所に乗りつけた後、千姫が拝謁している間、私は禁裏の内門の外で待機していた。
先日の【蛤御門の変】の際に、このあたりまでならば大体把握しているから、そこまで目新しい物はないが、すでに門は全て修理が終わっているというから、流石だなあと思ったりしていた。
そうして時間を持て余して、昨日の事を思い出す。
今でもずっと毎朝、朝日に向かって顕明連を三度は振ってみているけれど、さっぱり何も起こらなくて、やっぱり叩き折ってやろうかと日々思うことは言わずもがな。
けれど、昨日の坂本さんの話を聞いてから、考えていることがある。
彼の妻の名前が、やはり『梢さん』だった。そして、寺田屋に『お竜さん』という女性は別にいて、彼と知り合いではあったが、そういう関係ではなかった。
このようにして、私が知っている歴史との差に、世界を見分ける手がかりが散りばめられているのではないかと。
思い出せ
新選組はできてから五年程で終わりを迎える。もう一年以上は経った。
坂本龍馬は明治を見なかったはずだ。その前に暗殺されるはずだ。
二、三年の内に、彼が『梢さん』と別れて、『お竜さん』と再婚する可能性は……限りなく低いのではないだろうか
だけど…
この僅かな矛盾に…確かじゃない情報に、私は全てを委ねるのか…?
これだけで別の世界だと、決めつけてしまうのか。都合の良いように解釈し、高を括って、未来の大切なものを失ってしまうのではないか。
…これじゃ足りない。まだ、賭けられない…
未来に帰りたい、それは変わらない。
だけど、ここはもう別の世界であってほしい。そうしたら、私は“私が生きてきた未来”に縛られず、私が“今”を自由に生きることを許されるはずだ。
『もっと自由にすれば良いと言ったでしょう』
ずっと“未来”に怯えて、手さぐりで進んでいた。
けれど、もう少しで“今の私が生きていきたい未来”を望んでいける気がした。
不意にキィと門にある小窓が空いて、門の内側と外側で門兵がやりとりをすると、徐に内側の錠が外れる音がして、勝手口がゆっくりと開く。
弥月は気付かぬうちに固く握っていた拳を解いて、衛兵に伴われて内門から出て来た千姫に、ニコリと笑いかけた。
「ななしちゃん、お待たせ」
「おかえりなさい。特に問題はなさそうですね」
「それはそうよ。ここでは血は不浄だから御法度よ? 何かする人なんてそうそう居ないわ。
だから荷物置いて、一緒に来ればよかったのに。滅多に会えるものじゃないわよ?」
「興味はありましたけど、手荷物検査はされたくなかったので」
千姫は無条件で帝を御拝顔できるらしいが、私はそうはいかない。
今日も今日とてそこここに暗器を仕込んでいるから、調べられたら逆に不審者丸出しである。そして被衣まで被って顔を見せない不審者が、御所の門の内に入れて貰えただけでももはや奇跡。千姫様のご威光の賜物だ。
そこからまた衛兵に伴われて、御所の外門をくぐり、二人は帰路へ着く。駕籠は御所から見えなくなる鴨川の向こうで降ろしてもらった。
「これなら日暮れまでに着けるわね」
「…千姫って、健脚ハンパないですね」
「競争してみる?」
「…本気で言わないでください」
その気になれば勝てるだろうけれど、それじゃ護衛として付いて来た意味がないだろう。
「弥月ちゃんって、時々ほんとに真面目よねぇ」
「私、これ、一応仕事のつもりでいるので」
「ほら、そういうところ」
クスクスと笑われて、弥月は肩を竦める。
「私がこれ以上のお気楽極楽とんぼなら、とっくに物見遊山でペルリに会いに行ってますよ。折角だから黒船とか見てみたい」
「あら、ペルリさんはもうお亡くなりよ」
「あ、そうなの?」
「ええ。でも、昨日、坂本さん達が言っていた神戸の海軍操練所って言うのも、前々から一回見に行かなきゃって、私も思ってたから……今から行く?」
「…一回帰って、お菊さんに相談してからにしましょうか」
「二度手間だわ」
千姫はムゥと可愛らしく頬を膨らませるが。
昨日からの外出だって、お菊さんとの相談なく出て来たというのに。今頃、里にいない千姫をきっと心配している。
そうして北大路を通りすぎ、人気も民家もすっかりなくなった頃。
私たちの行く先を遮るように立ちはだかる、帯刀した男達が現れる。気付けば挟まれるようにして、後ろにも男が二人いた。
こういう場面は何度遭遇しても、その不穏な空気に慣れることなどなく、弥月はピリと気を鋭くして、千姫へと目配せする。
「危害は加えぬ。一緒に来てもらおう」
…なに?
危害を加えない宣言をする敵など、未だ聞いた事がないので、すごく違和感を覚えた。
「よくあるのよ、誘拐」
「…よく遭ったら駄目でしょうが」
なにを呑気な
狙われている本人がこの調子では、お菊さんもさぞ苦労したことだろう。そりゃ大人しくしていろとも言いたくなる。
だが、彼女が冷静なおかげで、状況把握はできた。これは、先見の力をもつ千姫を狙った誘拐なのだろう。
「弥月ちゃん、お任せして大丈夫かしら?」
「ええまあ…」
被衣の中で、隠し持っていた小太刀を握る。
ただ、おそらく敵の数は五人……私一人ならまだしも、千姫を庇いながら戦うには分が悪い。いくら彼女の能力を狙った誘拐とはいえ、本当に危害がないとも限らない。
「…あっちの神社か…遠いですが、人の居る御所の方にでも走ってもらって良いですか?」
「お安い御用よ。応援も頼んでくるわね」
「ふふっ…頼もしい姫様ですね。んじゃあ、左開きますよっ!」
勢いよく背後を振り返り、左手前にいる男の柄にある手を押さえて、顎を拳で突き上げ、もう一人の方へと蹴り飛ばす。そうして空いた左側を、千姫が駆けて行く足音を聞いた。
「追え!!」
「おっと!」
私を無視して千姫を追いかけようとする面々に、被衣をバサリと大仰に取って、目を向けさせる……ついでに、ひどく動き辛いので、(恥ずかしげもなく)着物の裾をカッ開いた。
そして、被衣の中に隠し持っていた小太刀を抜き、男達の前に走り出(い)でる。
すると、女の私が太刀を構えるなど思っても見なかったのか、男達は二の足を踏んだが、指揮官であるらしい男が「構うな」と言ってのけた。
「あの女さえ無事であれば、そっちは斬っても構わん!」
「はっ、マジで!?」
『危害は加えぬ』とか格好いいこと言ってたじゃないか、そこの禿げ!
禿げじゃなくて月代だと、源さんが怒りそうだが、それはまあいい。
指揮官にそう言われても、女の私を斬ることに多少の躊躇があるらしい男達は、抜刀したりしていなかったりして、私の横を通りぬける隙を伺っているらしい。そして満を持してとでもいうように、一斉に飛び出してきたのは良いが。
「行かせるわけ、ないっ、でしょうが!」
最初に手を出した二人共が、当然復活していて。
次の一人目の迫る手を避けて、その腕に一太刀入れたのは良いが、二人目と刃を交えると、他の奴らが通り過ぎようとしているのが目の端に移る。
「――ぁあもうっ!」
いつものように、全員が私を殺すことを目標にしている訳ではないから面倒だ。五人同時に足止めすることのなんと難しいことか。
あと、脇差ほどの長さしかない小太刀では、圧倒的に分が悪い。やはりどうせ隠し持つなら、いつもの太刀にしておけば良かった。
だが、そんな後悔は先に立たず、交わった刃がギリギリと音を立てず哭いていた。
「ん゛ん…っ」
押されてググッと刃が顔に近づき、弥月は表情を歪める。すると、男はにやりと下卑た笑いを見せ、舌をなめずったその瞬間に、弥月は右膝を屈伸させ…股間を、情け容赦なく膝で蹴り上げた。
「――」
声も出ないらしい蹲る男の、両足の踵の腱を斬る。
「演技だよ、ば―――か」
たとえ得物が不利でも、あの程度の剣圧に押し負けるわけがない。副長助勤なめんな。
そして袂から苦無を抜きだして、前を走る男の背に向かって投げた。
シュッ
カラン
――ッあ゛ああぁぁぁ!こんな時にノーコンな自分っ、マジで呪う!!!
走った方が早いし、確実
そう思って全力疾走。腹が立つことに……いや、平等に吹いてるから問題はないのだが…向かい風が吹いていた。あ、苦無当たらないのこれのせいかも!
一番後ろの男に追いつくと、斜め後ろから体当たりして、その辺に転がした…つもりだったが、予定より勢いよく飛んで行ってしまい、そこには川があった。「わ、ああぁぁ」と聞こえた悲鳴に、思いがけずゾッとした。
一昨日の雨のせいで高野川は増水していて、いつもより随分と轟々と流れているが……彼が助かることを祈る。
すぐに身体を起こして、更に追いかけ、遠くの先を走る千姫の後姿を目に捉えたが、まだ十分に距離があって、「流石だ」ちょっと感心した。
後ろの男の悲鳴にわずかに足が緩んでいたらしい四人目は、追い抜きざまに、苦無を大振りに振って胴に刺す。すでに戦闘が始まっているというのに抜刀していないとは、なんと呑気な男だろうか。
そして最後の男は真後ろにいたはずの仲間の悲鳴を聞いて、抜刀して立ち止まったので、私も間合いをとって足を止めた。
今更ながら、誰かの太刀を奪ってこなかったことを後悔するが、ここで背を向けるべきではない。後はこの男さえ止めれば、千姫はどこかへ逃げ込んでいてくれるはずだから。
「―――う゛っ!?」
痛…っ
不意に脚に痛みが走り、右のふくらはぎを庇うように体勢が崩れる。
カラン
「…っ」
しかし、膝を着くことなく立ち続け、敵との距離を取りながらわずかに体の向きを変え、後ろに目を遣る。
すると、苦無で腹を刺したはずの男が近くにいて、憎々しげな表情をして太刀を抜いた。
視線を動かして地面を見ると、足元には苦無が一つ落ちている。
私の…!
ギリッと歯を食いしばり、睨み返す。
しかし、先頭の男が動く気配にハッとして、振り返りながら防ぐように小太刀を構える。
「死ねええぇぇぇ!!!」
ガキンッ
―――しまった…っ!!
完全に受け止めてしまった。受け流すべきところだったのに。
どうにかして交わそうにも、相手は放してはくれず、「殺れ!」ともう一人へ叫んだ。
「よくも、このアマ…っ!死ね!!!」
「―――くそっ!!」
背後から上段に振り上げる男の太刀を睨み、自分の詰めの甘さを心底嫌になりながら、頭から真っ二つに斬られることを覚悟する。
千姫…逃げて!!
キンッ
振り下ろされた刀は、私の頭上で止まった……否、止められていた。間に入った一本の刀によって。
ビュウゥ...
強い風が吹き、衣服がはためく音がした。
不穏な曇り空の中、弥月の眼に映ったのは、浅葱色の羽織。
見慣れた、浅葱色のダンダラ模様
あぁ
それは一瞬のことだったが、随分と長い時間に感じられた。
重苦しい曇が覆う空の下、ここにだけ光が差したような気がした。
そして悟る……私はずっと、これが見たかったのだと。
私は好きなんだ
彼らのことが好きなんだ
どうしようもなく、心が震えた。
その剣の主が誰であるか、確かめるべく顔を向ける前に、その男の声がする。
「君、邪魔だからその辺の隅にでも退いててくれる。事情は後で訊かせてもらうから」
沖田さん
声ですぐに分かったけれど、返事をするべきか、しても良いものか判断がつかなかった。ここにいるのが、矢代弥月だと彼は分かっているのだろうか。
それら全てを考えて、声を出さなかった理由をつけたのは、寧ろずっと後の事。
にわかに「新選組…っ!」と慄いた男の剣を押し返し、私は脚の痛みを堪えて、沖田さんと背中合わせに小太刀を構えていた。
思いがけず、口元に笑みを浮かぶ。
あぁ、どうしよう…
私、抜刀してるのに、こんなにワクワクしてる
「…何」
沖田さんは、背後に立つ私にそう問うた。
彼は「退いてて」と言ったのだから、協力は要らないという意味だと知っていたが。
私は無言で、それを拒否した。
「――っアアァッ!!」
けれど、どうしても気分が高揚していて、咆哮とともに、対峙している相手へと突進する。
得物が短いだけ軽い分、容易に振り回すことが出来るが。長さが無い分、いつもより間を詰めて攻めなければならず。しかし、大太刀とまともに交わったら押し負けるため、なんとか受け流して、気を窺った。
そのギリギリの応酬に、沖田さんに任せとけばよかった…と、思わないでもなかった。
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